夏休みを利用して、念願の青ヶ島へ行った。青ヶ島は、八丈島の南方68kmに位置する伊豆諸島最南端の有人島で、二重カルデラの特徴的な地形を持つ。周囲は9km、人口は約200人である。
この島の歴史で特筆すべきは、1785年の「天明の大噴火」と、全島避難、そしてその後50年の歳月を経て達成した還住である。
きっかけ
「青ヶ島」という島の存在を知ったのは、学生時代に間宮芳生の合唱曲「でいらほん」を聴いたことに始まる。「でいらほん」は、青ヶ島の祭文をモチーフに作られた合唱曲で、死者が復活して悪霊を斬る所作を演ずる「デイラホン祭」で歌われたものらしい。「死ねおれデーラホン」で始まる曲はおどろおどろしいが、謎めいた魅力がある。
間宮芳生は青ヶ島に相当興味を持っていたらしく、彼の著書「現代音楽の冒険」(岩波新書)にもその名は何度か登場する。「オンゴ・オーニ」(合唱の為のコンポジション第十番)も、青ヶ島の祭文をモチーフにしたものらしい。

「デイラホン祭」の様子。お面をかぶって横たわった巫女に歌いかけると起き上がる。
完全に立ち上がった後は、飛び跳ねて刀で斬る所作をするらしい。(「青ヶ島島史」より)
ちなみに「デイラホン祭」は、NHKが取材に来たという昭和35年以降行われていない。
出発
青ヶ島に行くには、一旦八丈島へ行き、そこから1日1便のヘリコプターか船で行く。船は欠航が多い為、ヘリコプターで行くことにした。ヘリコプターに乗る機会は滅多にないので、楽しみであった。
しかし、ヘリコプターに乗るため八丈島空港の待合室で待っていると、どんどん人がいなくなり、不安になった。殆どの人は八丈島で遊ぶらしい。驚いたのは、飛び方である。私は、ヘリコプターは真上に飛ぶものと思っていたのだが、なんとわざわざ滑走路まで車輪で滑っていき、滑走路を助走しつつ飛び立ったのである。
島の雰囲気
私は、大自然が手付かずに残っているようなイメージを持っていたのだが、そうでもなかった。草木で埋め尽くされてしまった玉石垣、道路、タイヤ等が、そこら中にある。この島では、人間が頑張って色々作っても、圧倒的な自然の生命力によりすぐに埋め尽くされてしまうらしい。そのくせ、プランターにヒマワリを植えたりすると、ダンゴ虫に芽を食われてしまい、思い通りにならない。「自然を大切に」などと言うが、本来自然は鬱陶(うっとう)しいものなのだと思った。
島の人々
当然だが、島には色々な人がいるので、ひとことでは言えないが、確実に言えるのは、道で会うと誰であれ挨拶をする習慣があることである。そして、島の人々には色々話を聞き、助けられた。道を歩いていると、突然飼っている牛の自慢をされることもあれば、軽トラが止まって「乗ってくかい」と声をかけられ、乗ると色々な話を聞きながら宿まで送ってもらったこともあった。たった2泊なのに、島の人に聞いた話、助けられたことを挙げるときりが無いほど多い気がする。

牛飼いのオッチャン
たまたま出会った家族
丁度私と同じ日程で、東京から来たという、小学6年生の子供がいる家族と出会った。夏休みの自由研究で伊豆諸島を取り上げるらしい。宿も同じなので、行動を共にすることが多く、大変お世話になった。彼らがいなければ、青ヶ島を半分も楽しめなかった気がする。
(上に「東京から来た」と書いたが、青ヶ島も東京都であった…)

青ヶ島で出会った家族
携帯電話
島で携帯電話が通じたのには驚いた。しかし、一日目の夜に突然暴風雨があり、その後は圏外になってしまった。後で暴風雨で電波棟がやられた為と聞いたときには、再度驚いた。
大里神社
大里神社は「デイラホン祭」が行われていた神社である。
草ぼうぼうの路をどんどん進んでいくと、傾いた鳥居があり、その向こうには玉石垣が延々とかなりの急勾配で敷き詰められている。手を使わないと登れないほどである。まるで何年も人が来ていないような雰囲気である。
上まで行くと小さな社があった。私は怖くなって手を合わせて拝んだ。これまで神社に行っても拝んだことはあまりないのだが、このときばかりは必死になって拝み、急いで降りてきた。
後で島の人に出会い、大里神社に行ったことを言うと、びっくりされた。以前、本土から霊能者が来て大里神社に登ったが、途中で「霊がいる」と叫んで戻ってしまったらしい。確かに「何かいる」と思わせる空気があった。

左:大里神社の入口。ここから草ぼうぼうの玉石垣が続く。 右:玉石垣の参道
大凸部(おおとんぶ)
大凸部は、島の最高峰で、「新東京百景」というのに選ばれているらしい。
ここへの道のりも怖かった。「遊歩道」という看板が指している先には道は無く、なんとなく草が低くなっているだけであった。草や蜘蛛の巣を掻き分けて、泣きそうになりながら進んだ。
大凸部からの光景は、絶景であった。間違いなく島一番の景色である。青ヶ島の特異な二重カルデラの形状が一望できる。

大凸部からの眺望。青ヶ島は中央の内輪山の周りを外輪山が囲む二重カルデラの地形である。
東台所(とうだいしょ)神社
大凸部から下った後は、東台所神社に行った。島のパンフレットには、江戸時代、失恋の腹いせに7人殺傷したのち入水自殺した「浅の助」という男を祟り神として祀る神社と紹介されているが、「青ヶ島島史」ではより詳細な解説がある。それは、島の閉鎖性・不自由を象徴しているようで悲しい。
名主の息子である浅の助は「つな」という女性と相思相愛の中にあったが、つなにはすでに許婚があった。浅の助は親から勘当され、つなも家族から仕置きを受けていた。当時、産婦や月経の女性は「他火小屋」という隔離小屋で炊事や機織りなどをする習慣があったが、つなが他火に出るとき、食糧を持参させてもらえなかった。浅の助はつなの為に自分の弁当を与え、つなは浅の助の為に機を織った。
あるとき、浅の助がつなに何を織っているのか聞くと、「貴方の身につけるものを織っている」と答えた。浅の助は「自分のことは心配しなくていいから、自分のものを織った方がいい」と言ったところ、つなはその日首を吊って死んでしまった。浅の助の言葉を「おれにかまわないでくれ」と解釈してしまったのである。
それを知った浅の助は逆上し、自分とつなをひきはなそうとした人を斧で次々と殺傷し、入水した。一説によれば、その後、浅の助は岸まで泳ぎ着き、自ら捕らえられた。そして、名主である父・七太夫は彼を磔にし、村人全員に一槍ずつ突かせたという。
東台所神社は、大里神社以上に急勾配な玉石垣が延々と続いていた。青ヶ島の神社は、どこも鬱蒼としており、怖い。

左:東台所神社の入口。 右:延々と続く草ぼうぼうの玉石垣
ふれあいサウナ
「ふれあいサウナ」は、島の中央部にある地熱を利用したサウナである。上に書いた家族と共に行った。サウナの他に、シャワーと小さな風呂がある。
サウナは、非常に熱かった。それだけでなく、シャワーから出てくる水も熱い。地熱のせいで、お湯の蛇口をひねっても水の蛇口をひねってもお湯が出てくる為、サウナで熱くなった体を冷やすことが出来ない。それどころか、地熱のせいで床も熱い。気持ちいいが、苦しいひとときでもある。
レンタカー
2日目はレンタカーを借り、家族と共に4人で島をまわった。レンタカーは島の整備工場で借りたのだが、しばらく走っていると、アクセルを離す度にエンストした。それで断崖絶壁の道を走るのだから怖かった。車を返すときに、整備工場のオッチャンにそのことを言うと、しばらく車をいじくったのち「夏バテですな」と言って笑っていた。
三宝港
三宝港は島唯一の港である。島の周囲がすべて断崖絶壁のため、港が作りづらいのである。また、ここが島唯一の海水浴場でもある。下の写真の様に、ずいぶん波が高かったが、これでも島の人にとっては「ベタ凪」らしい。

三宝港
帰り
帰りは八丈島まで「還住丸」という定期船で帰った。還住丸は「どんなに酔いにくい人でも必ず酔う」と言われ、かなり身構えて乗ったのだが、大丈夫だった。甲板でオッチャンと海を眺めて話をしながら帰った。トビウオが10m位空を飛んでいるのを見たときには驚いた。

青ヶ島を後にする。船で一緒になったオッチャンは海に詳しい。
「昔はイルカがついてきたんだ」と語っていた。
topへ