青森旅行記
2005年5月



「北のまほろば」
 私が青森に興味を持つようになったのは、司馬遼太郎の「北のまほろば」(街道を行く41)をNHKのドキュメンタリーで見たことに始まる。この番組は、これまでの私の青森観を根底から覆した。「北のまほろば」によれば、縄文時代の青森は信じられない程、豊かだったらしい。


 山や野に木ノ実がゆたかで、三方の海の渚では魚介がとれる。走獣も多く、また季節になると、川を食べもののほうから、身をよじるようにして――サケ・マスのことだが――やってくる。こんな土地は、地球上ざらにはない。(「北のまほろば」より)


 そんな「北のまほろば」が「けかち(飢饉)の国」となったのは、16世紀の津軽藩成立そして「唯コメ主義」に始まると言う。

 この藩が明治四年(1871)に終幕するあでの三世紀近いあいだ、世間のならいに従って――あるいは幕藩体制の原理どおりに――コメのみに頼った。コメというのは、食料という以上に通貨であり、その多寡(石高制のこと)は身分をあらわした。(中略)コメが、この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず――西方の諸藩でさえ江戸中期以後、換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに――コメに偏執し、相次ぐ新田開発によって江戸中期には実高三十万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。(「北のまほろば」より)


 旅行をするにあたり、「北のまほろば」を読んだ。青森への想いがさらに募った。以下、再度「北のまほろば」より引用。

 青森県は、ふしぎな地である。
 縄文時代には、“亀ヶ岡式土器”というすぐれた土器を生みだすほどに豊かで、当時貧寒たるくらしをしていた縄文西日本人に対して優位に立ちながら、その後、西方からの力と文化に押されるにつれて――西方の体制に従うにつれて――僻陬の地になっていくという地である。
 しかもなお、地下三尺に、他地方にない感覚のゆたかさを秘めているというふしぎな地でもある。(「北のまほろば」より)


「三内丸山遺跡」
 青森に着いてすぐ、「三内丸山遺跡」に向かった。「三内丸山遺跡」は縄文時代の村の遺跡で、最も有名なのは6本の巨大なクリの柱の建造物があったと言われる「大型掘立柱建物跡」である。

 表には「大型掘立柱建物跡」から想像して作られたという巨大な櫓が立っている。これを見て私は「いくら縄文人が優れた文化を持っていたと言っても大袈裟過ぎる」と思った。あまりに巨大で精巧だからである。しかし、シェルターで保護されている本物の「大型掘立柱建物跡」を見たとき、度肝を抜かれた。あまりに穴が巨大だっただからである。しかも、支柱と思われるクリの木の破片まで穴の中に転がっている。これは想像を膨らませないわけにはいかないと思った。

 この「大型掘立柱建物跡」が何であったかについては諸説あり、櫓説やら高床倉庫説もあるし、宮崎駿は「ただの棒だ」(神の宿る木という意味らしい)と主張しており、よく分かっていない。

 土器や土偶を見たときにも驚いた。模様があまりにも精巧で魅力的だからである。こんな作品は毎日食うのに必死の人々には作れないであろう。これらを見ていると、かつてこの辺りが豊かで暮らしやすい土地だというのが分かる気がした。


左:復元された巨大櫓    右:精巧な縄文土器


「蕪島(かぶしま)」
 その後、レンタカーで八戸にある「蕪島」を目指した。「蕪島」は、ウミネコの繁殖地として有名らしく、毎年この小さな島に2万羽ものウミネコが飛来するという。

 蕪島に行くと、おびただしい数のウミネコがいた。彼らは公園のハトよりも人間を恐れない。我々が通ろうとしても面倒臭そうに退くだけである。空にはまたとんでもない数のウミネコが飛び回っており、糞をかけられないものかと恐れていた。

 と思ったら、空から糞が降ってきた。糞は私の服の袖にかかり、飛び散った。まるで空襲である。よく見たら、「糞よけ傘」まで用意されている。

 ここでは人間よりウミネコの方が偉いらしい。人間の作ったアスファルトの道路や神社の鳥居や銅像はすべて糞まみれにされ、「蕪島」を訪れる観光客はウミネコの糞に恐れ、翻弄されていた。とても人間の住める環境じゃないと思った。


左:糞だらけの道路     中:ウミネコの大群      右:翻弄される人間


「奥入瀬渓流」
 その後は奥入瀬を目指して西進した。途中の山の中は、まだ残雪が多くまるで冬景色であった。青森は、つい最近春になったばかりらしい。「奥入瀬渓流」は十和田湖を水源とする渓流で、独特の景観である。

 川の境界が定かでないのである。川の中まで土壌があり、なぜか押し流されることがない。川の中に巨木が生えていたりするのである。


左:5月の雪景色     中:奥入瀬渓流      右:十和田湖


「弘前の桜」
 その後は宿のある弘前へ向かった。弘前では丁度桜の季節で「桜まつり」の真っ最中であった。着いたら夜桜を見、朝は6時に起きて再度桜を見て弘前を後にした。


弘前城の桜


「白神山地」
 2日目は世界遺産である「白神山地」を目指したが、付近のビジターセンターで聞くと「まだ雪が多くて行けない」とのことであった。改めて青森の気候を思い知った。

「木造町の巨大土偶」
 白神山地を諦め、木造町を目指した。「木造町」は土偶の町であり、その駅舎では超巨大土偶が駅舎を踏み破っているという。このことは「北のまほろば」でも触れられており、司馬遼太郎は

「やるものですなあ」

という感想を漏らしている。そして「度肝を抜かれるような駅舎というのは、世界でもめずらしいのではないか」と冷静に感想を述べている。

 実際に見てもやはり驚きである。特に、静かな町だけにギャップが凄い。しかも、夜はライトアップされるらしい。この町は土偶が好きらしく、至る所に土偶の絵や置物があった。

 木造町の資料館「カルコ」に行くと、木造町で発掘された遮光器土偶が置いてあった。まさに我々がイメージする「土偶」そのものであった。我々の持つ「土偶」のイメージは木造町の遮光器土偶が作ったらしい。

 「ドラえもん・のび太の日本誕生」に登場する土偶も木造町の土偶であった。


木造町駅の巨大土偶


「津軽三味線」
 金木町に行くと、公民館でたまたま津軽三味線の全国大会をやっていたので、見に行った。入場無料である。私はこの旅行で是非津軽三味線を生で聴きたいと思っていたので、ラッキーであった。「全国大会」なのに、場所は小学校の体育館みたいなところであり、規模も小さかったが、会場は熱気に溢れていた。この日は「熟年の部」と「団体小中高生の部」であった。

 津軽三味線の歴史は以外に若く、まだ一世紀程度である。「津軽三味線」と呼ばれるようになったのは、戦後である。元々は「坊様(ぼさま)三味線」と呼ばれており、盲目の物乞いが糧を得る為に行った芸である。その旋律は、素朴で飾り気がなく、力強い。弦を叩くように弾く奏法は、表でしか演奏できなかった坊様達が、生きていく為に少しでも大きな音を出す為の工夫だったに違いない。

 津軽三味線は、庶民の美学だと思った。殆どがアドリブで演奏する津軽三味線は、その人の性格や人生がにじみ出る気がする。「熟年の部」では、特に北国生まれの人の演奏に感動を覚えた。旋律に風土の厳しさが込められている気がした。東京からも参加者があったが、いまいちであった。江戸の「粋」は津軽三味線には通用しないと思った。

 団体の部では、地元の小学生から九州の女子高の津軽三味線部まで幅広く参加していた。三味線くらいの背丈しかないような子供が必死になって弾いているのが、可愛らしかった。


津軽三味線全国大会
小学生7人による演奏←クリックすると演奏が聴けます(0.97MB)


「竜飛岬」
 金木町からさらに北上し、十三湖を経て竜飛岬に至った。津軽半島の北限である。風が強く、冷たい。山々も低木のみで、一見不毛である。こんなところに人は住んでいないだろうと思っていたら、下に小さな漁港が見えた。漁港からは演歌の音が風に乗って聴こえて来、小さな漁船が出港するのが見えた。

 逞しいものだと思った。


左:竜飛崎の漁港     中:竜飛崎付近の鳥瞰台より      右:日本唯一の「階段国道」(なぜか竜飛にある)


「こぎん刺し」
 竜飛からはまっすぐ青森市に帰った。もうすぐこの旅も終わる。最後に青森の民芸品「こぎん刺し」について述べたい。

 かつて、津軽の農民の衣服は紺麻のみと決められ、 綿の着物は禁じられていた。そんな中寒さをしのぐ為に麻地の粗い織目を白い綿糸で刺し塞いだのが「こぎん刺し」である。やがて「こぎん刺し」は、この地方の農村の女性により洗練され、次々と美しい紋様を生み出した。

 実際に見てみると、美しいものだと思った。例え苦しい生活を強いられても、おしゃれをしたいとか、美しいものを生み出したいという衝動は消えないらしい。「こぎん刺し」を見ていると、津軽の農民は、生活は苦しくても精神的には豊かだったのではないかという気がする。

 そんな彼らに学ぶべきところは多いと思った。


こぎん刺しストラップ



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