おわら風の盆(富山)



 おわら風の盆は、富山県婦負郡八尾町で毎年9月1〜3日に行われる、二百十日の風をやわらげる風の祭で、物悲しげな胡弓、三味線、唄の音色に合わせて夜更けまで延々と踊る、独特の雰囲気を持つ祭である。八尾は美しい坂の町であるが、その坂の両側に提灯が並んで灯され、町は幻想的な非現実の空間になる。

 私がおわらに行ったのは大学2年のときと4年のときの2回であるが、これは何度行っても心から感動できる、素晴らしい祭だと思う。とは言っても、ずっとそう思い続けていたわけではない。実は、2回目に八尾に着いてしばらくは、来るんじゃなかったと思っていたのである。

 まずは観光客の多さである。私もその中の一人とはいえ、狭い町に数万人もの人々が押し寄せてくるのである。そして、踊り手達に無数のフラッシュを向ける。踊り手たちも、確かに美しく踊ってはいるものの、とても楽しんで踊っているようには見えず、あまり魅力的には思えなかった。
 もうひとつは、物価が高いことである。観光客のほとんどは中年層なので、少々高くても我慢するのであろうか、定食屋のメニューなどは明らかに普段のメニューの上に新しい割高のメニューを貼り付けているのが分かる。年に一度の稼ぎ時とはいえ、あまりに商魂付き過ぎているのではないか。

 そんなことを考えているうちに、おわらという祭がただの商売道具のように思えてしまい、気持ちが冷めてしまったのを憶えている。その気持ちが一変したのは、夜の11時ごろ、最後のシャトルバスが発ち、観光客がほとんどいなくなってからのおわらを見たときであった。

 同じ踊りを踊っているのに、それまでの踊りと雰囲気が全く変わったような気がした。それまでアカの他人のために踊っていた踊りが、自分が楽しむために踊る踊りになった気がした。自分が大切に思っている身近な人のために踊っているようにも見えた。そして、それまで顔を隠すように深くかぶっていた編み笠を脱いで踊る人が多くなっていった。それはまるでそれまで閉ざしていた心を開いたかのように思えた。

 そして、テレビなどでしか見たことのない人にとっては信じられないかも知れないが、一通り踊った後、踊り手たちが大声でおわらの唄を大合唱しながら歩くのである。その声はどちらかというと下品で、イメージ的にはいわゆる「一気コール」のようなノリを連想してくれればだいたい合っていると思う。その後突然また胡弓の音色に合わせて静かに踊りだす、イメージのギャップはなんとも面白い。

 私がおわらに行って一番印象に残った思い出は、9月4日の明け方3時頃、すなわちあと少しで祭も終わるという頃に見た、八尾の紳士淑女たちによる町流しである。少し記憶が定かではないのだが、はじめに胡弓の紳士と、踊りの淑女が出会い、町流しを始めた。その胡弓の音色と踊りの素晴らしさは、これまで見たものとは違う、熟練されたもののように思えた。私達は自然と惹きつけられ、無言でついて行った。するとそこに三味線の淑女と唄の紳士が現れ、加わった。彼らが奏でる音楽とその後姿は、現実を忘れるほど美しかった。
 どのくらい歩いたであろうか、唄の紳士が

 「最後にあなた達と町流しができて、本当によかった。」

 と言った。すると、他の紳士淑女たちは無言で微笑んだ。決してカッコつけではなく、自然なやり取りであった。私達は彼らが町流しをしている間、一言もしゃべることが出来なかった。しゃべることによって彼らの作り上げた雰囲気をつぶしてしまうのを恐れたからかも知れない。

 そこから、かなり長い時間町流しを続けて、終わった。周りの人から熱い拍手を受けていたが、あまり気にかけていないようであった。私は「本当に素晴らしかったです。」と言ってみたが、無視された。彼らにとっては自分達のために町流しをしたに過ぎず、周りの目は関係ないのであろうか。しかし決して不愉快なことではなく、これこそがおわらのいいところだと思った。

 もうひとつ、印象に残ったことがある。八尾の紳士淑女による町流しが終わった後、もう日が昇ろうとしていた頃であろうか、他のところで三味線による町流しが始まった。それに合わせて友人と民研で習った踊りを踊りながらついていったところ、一人の老人に話しかけられ、大学のサークルでおわらをやっているという話題になった。友人が「おわらを教えてください。」というような意味のことを老人に言ったところ、老人は首を横に振った。友人がさらに「おわらが上手くなりたいんです。」と詰め寄ったところ、その老人は確かに、

 「あんまり上手くならんほうがええ。」

 と言った。その意味は私には理解しかねたが、踊りを楽しむということと、踊りで楽しませるということの違いを言っているのかも知れないと思った。「踊りを楽しむ」くらいが丁度いいんじゃないかと言いたかったのかも知れない。

 朝になって、越中八尾駅を発つ電車に合わせて、見送りとしてプラットホームでおわらが踊られると聞いて見に行ったのだが、そのときの踊り手の表情はあまりにひどかった。ほぼ徹夜で踊り明かしたのであろうか、その表情は疲れ果てていた。そして同時に、おわらという踊り自体が、このように人に見せるために踊るということに適していないのかもしれないということを感じた。

 私は実際に行って見てきた結論として、おわらを見るなら深夜しかないと思った。踊りの技術的な研究や、演奏会での構成を考えたいのなら必ずしもこの結論は当てはまらないが、はっきり言ってそのようなことをするのは野暮でくだらない。上手い、下手などのくだらない価値判断や、振り付けの比較などにとらわれず、八尾という坂の町と、そこに生きる人が織り成す幻想的な雰囲気に酔いつつ、八尾の町に生まれることが出来なかったことを悔やむことが、おわらを最も楽しむ術だと思う。

おわらを聴きたい



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