2月23日 「コール・みゅう First Consert」を聴いて
土曜日、ミズノさんの母親がやっている「コール・みゅう」というママさんコーラスの演奏会を聴きに行った。
演奏は予想以上に素晴らしかった。アマチュアの合唱団では、日本語を歌っていても、それが言葉として伝わってこないということが結構多いのだが、きちんときれいな日本語として伝わって来るものがあった。そしてその日本語は、どことなく庶民的で、井戸端会議を思わせるような独特の素朴さがあるような気がした。
そして、第二部の終曲である、「はるかな友に」を聴いたとき、思わず感涙し、涙が止まらなくなってしまった。この歌が「友」ではなく、自分の息子や娘に向けて歌われているように感じられたのである。その表現は決して激しくはないものの、確かな実感を持って歌われているように感じられた。ママさんコーラスでなければこの表現は出来ないであろう。高校生の合唱団ならば、もっと大げさな表現をしてしまうだろうし、男声合唱ならば、もっとぶっきらぼうになってしまう気がする。
やはり本物の母親が母の気持ちを歌うということはすごいことだと思った。上手いとか、下手とかを越えた感動である。私たちも学生時代、いくつか母親の想いを歌う歌を取り上げたことがあったが、いくら曲想を深めてもこの境地に至ることは出来なかった。ママさんコーラスのパワーを垣間見た気がした。
しかし、「夢」とか「希望」とかをテーマにした歌は私にはしっくり来ないように感じられた。どことなくうそ臭く感じてしまうのである。そういう歌はやはり以前NHKホールで聴いた高校生たちの方が新鮮さとエネルギーを感じさせてくれるように思う。
合唱は面白いと、改めて思った。合唱団によって表情がいろいろあり、その合唱団にしかない感動がある。合唱を始めた頃は全く分からなかったが、最近そういうことが少し分かるようになってきた。
コンサートが終わった後、コンサートを手伝っていたミズノさん、フルカワ、ハンベイとともに打上げに参加させてもらった。「若いっていいわねぇ」といった意味のことを何度も言われつつ、たらふくご馳走になった。ハンベイが、
「あなた素直そうでいいわねぇ。私の息子もこんな風に育って欲しいわ」
と言われ、苦笑していたのが印象的であった。
二枚のCD
ここに最近私のお気に入りの二枚のCDがある。ひとつは、間宮芳生作曲の「日本民謡集」、もうひとつはアイルランド伝統音楽を演奏する、「ヴァルティナ」の「イルマタル」というCDである。
「日本民謡集」は、ピアノとソロのために作曲されており、12のインヴェンションでお馴染みの「まいまい」「米搗まだら」「でいらほん」などもソロ・ヴァージョンで収録されている。「イルマタル」の方は、アイルランドの古い音楽を4人の女性ヴォーカルとバンドで演奏しており、変拍子と独特の和声が特徴である。
どちらも土着の古い歌であるという点では変わりないのだが、その根底に流れるものは全く違う。それを比較するために、アルバムの一曲目の歌詞をここで紹介したい。
〜さそり節(岩手県民謡)〜
雨の降るときナー
よし湿地(やじ)通たれば
ビッキンダ(蛙が)手ぶりして
せきはねた サンサヤ
びっきんだ 手ぶりして
せきはねた サンサヤ
〜イトキン(私は泣く) 日本語訳〜
私は一年間泣き続けた。次の年も、そのまた次の年も、3年、4年、5年。瞳の輝きが消えるまで泣き続けた。私の美しさはすっかり失われてしまった。今願うのは、もう一年間生き長らえることだけ。この夏をどうにか持ちこたえて秋へと、そして苦しむことなく冬を切り抜けたい。哀れな私。秋の世へと足を進め、苦悩の心を抱えてつきに向かって歩き出す。涙は置き去りにして濃密な世の抱擁に消えてしまおう。頭上には暗い雲が立ち込めている。涙があふれ、雫が頬を伝わった。この涙を誰が止めてくれるのだろう。誰が拭ってくれるのだろう。あんなことが真実だなんて信じられない。自分で行って自分の瞳で確かめようとはしないから、私は自分自身を納得させることが出来ずにいる。希望は何一つとしてかなわずに、恐れていたことだけが現実となった。ずっと待ち続けていたけれど、すべてはうそだと分かっただけだった。それでも私は人前で泣いたりはしないし、周りの人間に泣き言を言ったりもしない。この涙を知っているのは私だけ。泣くとき、私は家の中で泣く。なぜわけも無く私は泣くのだろ?なぜ嘆くのだろう?悲しみを感じるたびに私は泣き、悩むたびにため息をつく。