2003年
1・2月のつぶやき




2月23日  「コール・みゅう First Consert」を聴いて
  土曜日、ミズノさんの母親がやっている「コール・みゅう」というママさんコーラスの演奏会を聴きに行った。

 演奏は予想以上に素晴らしかった。アマチュアの合唱団では、日本語を歌っていても、それが言葉として伝わってこないということが結構多いのだが、きちんときれいな日本語として伝わって来るものがあった。そしてその日本語は、どことなく庶民的で、井戸端会議を思わせるような独特の素朴さがあるような気がした。

 そして、第二部の終曲である、「はるかな友に」を聴いたとき、思わず感涙し、涙が止まらなくなってしまった。この歌が「友」ではなく、自分の息子や娘に向けて歌われているように感じられたのである。その表現は決して激しくはないものの、確かな実感を持って歌われているように感じられた。ママさんコーラスでなければこの表現は出来ないであろう。高校生の合唱団ならば、もっと大げさな表現をしてしまうだろうし、男声合唱ならば、もっとぶっきらぼうになってしまう気がする。

 やはり本物の母親が母の気持ちを歌うということはすごいことだと思った。上手いとか、下手とかを越えた感動である。私たちも学生時代、いくつか母親の想いを歌う歌を取り上げたことがあったが、いくら曲想を深めてもこの境地に至ることは出来なかった。ママさんコーラスのパワーを垣間見た気がした。

 しかし、「夢」とか「希望」とかをテーマにした歌は私にはしっくり来ないように感じられた。どことなくうそ臭く感じてしまうのである。そういう歌はやはり以前NHKホールで聴いた高校生たちの方が新鮮さとエネルギーを感じさせてくれるように思う。

 合唱は面白いと、改めて思った。合唱団によって表情がいろいろあり、その合唱団にしかない感動がある。合唱を始めた頃は全く分からなかったが、最近そういうことが少し分かるようになってきた。

 コンサートが終わった後、コンサートを手伝っていたミズノさん、フルカワ、ハンベイとともに打上げに参加させてもらった。「若いっていいわねぇ」といった意味のことを何度も言われつつ、たらふくご馳走になった。ハンベイが、

 「あなた素直そうでいいわねぇ。私の息子もこんな風に育って欲しいわ」

 と言われ、苦笑していたのが印象的であった。


       二枚のCD
 ここに最近私のお気に入りの二枚のCDがある。ひとつは、間宮芳生作曲の「日本民謡集」、もうひとつはアイルランド伝統音楽を演奏する、「ヴァルティナ」の「イルマタル」というCDである。

 「日本民謡集」は、ピアノとソロのために作曲されており、12のインヴェンションでお馴染みの「まいまい」「米搗まだら」「でいらほん」などもソロ・ヴァージョンで収録されている。「イルマタル」の方は、アイルランドの古い音楽を4人の女性ヴォーカルとバンドで演奏しており、変拍子と独特の和声が特徴である。

 どちらも土着の古い歌であるという点では変わりないのだが、その根底に流れるものは全く違う。それを比較するために、アルバムの一曲目の歌詞をここで紹介したい。  

〜さそり節(岩手県民謡)〜

 雨の降るときナー
よし湿地(やじ)通たれば
ビッキンダ(蛙が)手ぶりして
せきはねた サンサヤ
びっきんだ 手ぶりして
せきはねた サンサヤ


〜イトキン(私は泣く) 日本語訳〜

私は一年間泣き続けた。次の年も、そのまた次の年も、3年、4年、5年。瞳の輝きが消えるまで泣き続けた。私の美しさはすっかり失われてしまった。今願うのは、もう一年間生き長らえることだけ。この夏をどうにか持ちこたえて秋へと、そして苦しむことなく冬を切り抜けたい。哀れな私。秋の世へと足を進め、苦悩の心を抱えてつきに向かって歩き出す。涙は置き去りにして濃密な世の抱擁に消えてしまおう。頭上には暗い雲が立ち込めている。涙があふれ、雫が頬を伝わった。この涙を誰が止めてくれるのだろう。誰が拭ってくれるのだろう。あんなことが真実だなんて信じられない。自分で行って自分の瞳で確かめようとはしないから、私は自分自身を納得させることが出来ずにいる。希望は何一つとしてかなわずに、恐れていたことだけが現実となった。ずっと待ち続けていたけれど、すべてはうそだと分かっただけだった。それでも私は人前で泣いたりはしないし、周りの人間に泣き言を言ったりもしない。この涙を知っているのは私だけ。泣くとき、私は家の中で泣く。なぜわけも無く私は泣くのだろ?なぜ嘆くのだろう?悲しみを感じるたびに私は泣き、悩むたびにため息をつく。



 「さそり節」の方は、「雨の時、あぜ道を歩いていたら蛙がぴょんと跳ねた」くらいの意味であろうか。別に何という程のことではないが、素朴で情緒溢れる歌詞だと思う。メロディも歌詞とマッチしており、素朴で美しい。一方「イトキン」の方はかなり強烈である。辛い気持ちが痛切なまでに伝わってくる気がする。しかし、メロディは非常に力強く、3/8、4/8拍子の複合が多用されている。メロディというよりは早口言葉のようにも感じられる。

 この二曲の大きな違いのひとつは、「説明」をしているかどうかであると思う。日本民謡では歌詞でもって何かを「説明」をすることはほとんどない。一方アイルランド民謡では「説明」こそが音楽の核をなしているように感じられる。

 民謡は、日常生活の辛さのはけ口として歌われることが多い。その点ではアイルランドも日本も変わりない。しかし、そのはけ口の形態が違う。アイルランド民謡ではその辛さを堂々と歌い上げることにより、鬱憤をはらしており、日本民謡では歌でもって辛さを飄々と楽しいものに置き換えてしまうことで、発散している。そして、私はどちらかというと、日本のやり方の方が、しっくりくるのである。しかし、こういった風土の違いが、日本の外交の下手さを物語っているような気がしなくもない。しかし、これらのCDを聴いていると、文化が違うんだから仕方ないんじゃないかとも思うのである。


2月16日  スノーボードをする
 この休日、初めてスノーボードをやった。一泊二日で蔵王に行き、一日目はスキーを、二日目はスノーボードをやったのである。正確には一日目のナイターからやった。初めてやったときは出来る気がしなく、10m進むごとに転んでいた。やがて少し滑れるようになると、今度は曲がれず、どんどん加速して、転んだ。しかし、「スノーボードはある程度加速した方がコントロールしやすい」という話を聞いていたので、あまり気にせず加速し続け、転んでいた。

 かなりの荒練習であった。この日はナイターをやる人がほとんどいなかったため、ゲレンデはほぼ貸切状態で、こころおきなく転ぶことが出来た。一番激しく転んだときは、ポケットから財布が飛び出し、中身が風に舞ってひらひらと飛んでいった。必死に拾い集め、事無きを得た。次の日の目標は「ゆっくり滑れること」と「曲がれること」と決め、ナイターを終えた。

 次の日も、かなり転んだ。スキーよりスノーボードの方が、転んだとき断然痛い。一応受身を知っているため、頭こそめったに打たないものの、手首と尻がどんどん痛くなってきた。固定された足首も痛い。

 一度、谷側に背中から激しく転んだときは、尻を強打し、その後頭を打った。さすがにしばらく立ち上がることが出来ず、しばらく大の字で寝そべっていた。今悠々と滑っている人たちも、みんなこんなひどい目にあって上手くなったんだろうなぁなどと考えながら、ぐったりしていた。

 そうこうしているうちに、転ばなくなってきた。なんとか曲がれるようにもなり、楽しくなってきた。しかし、体はかなりボロボロで、リフトを登るたびに「またやるのか」憂鬱な気分になっていたが、滑り始めるとまた楽しくなる。アドレナリン効果であろう。

 最終的には、緩やかな斜面ならば行きたいように曲がれるくらいまで上達し、終わった。周りの人たちには、かなりの急成長だと言われ、嬉しかった。次の目標は、ある程度急な斜面でも滑れるようになることである。

 帰り、先輩の車の助手席に乗り、しばらくすると尻と太ももに強烈な痛みが襲ってきた。どうやらアドレナリンが切れたらしい。尻の激しい打撲と、慣れない運動による筋肉痛である。こんなに激しい筋肉痛は、高校時代の柔道部の合宿か、大学時代の民研の舞踊部合宿くらいであろう。私は終始足がつらないことを祈っていた。車の中でつったりしたら、伸ばすことすら出来ない。時間がたつにつれ痛みは激しくなり、車の中でうめいていた。車を降りると、まともに歩くことも出来なかった。

 かなり痛かったものの、楽しかった。ウェアーは先輩のヨコハシサンに厚かましいお願いをして、お下がりをもらった。今度は自分で板と靴を買い、挑戦してみようと思っている。


2月11日  実家で4連休を過ごし、今白河に帰ってきた。ひさしぶりの更新となるので、今日は近況をいくつか書くことにする。

  「中村屋」の行列にて
 昨日は「中村屋」というラーメン屋に行ってきた。メンバーはミヤチとキシミカである。「中村屋」というのは、テレビで何度も取り上げられている非常に有名なラーメン屋で、独学でゼロからラーメンを作り上げたという24歳の若店主が店を仕切っている。

 キシミカはあまりラーメンが好きではないにもかかわらず、この若店主見たさについてきた。行きの車の中で「ラーメンはどうでもいい」と言っていたのが印象的だった。

 ラーメン屋に着くと、小さなマンションの1階の小さなラーメン屋に、恐ろしいくらい長い行列が出来ていた。行列はマンションの裏の駐車場に出来ており、その長さは30メートルくらいあった。2時間くらいは並ぶということであったが、せっかくだからと思い、並ぶことにした。

 並びながら、キシミカが「まるでディズニーランドみたいだ」と言って行列の写真を撮っていた。この長い行列が、ということらしい。こんな汚いマンションの裏の駐車場でディズニーランド気分になれる彼女は幸せ者だと思った。

 私は腹が減っていたので、煎餅を買ってきて食べていた。みんなも交代でお茶やチョコレートなどを買いに行き、食べながら並んでいた。実は、この店は前日テレビで取り上げられており、それを見たミヤチが行こうと言い出して行くことになったのである。店の人の話によると、テレビの影響で、この日はいつも以上に行列が長いらしい。火曜日が祝日ということもあり、有給を取って来た人も多いだろう。

 そんなことを言い合っているうちに、まさに自分がそういう典型であることに気付いた。まんまとメディアの戦略に引っかかり、ミーハー的な行為をして、路地裏の駐車場で並んでいる自分を情けなく思った。

 そんな話をしているうちに順番が来て店の中に入った。いろいろ話していたので待っている間もあまり苦痛ではなかった。店の中ではカウンター席に座ることになり、厨房がよく見えるいい席となった。

 中では、若店主が茹で上がったラーメンの水切りをしていた。麺を高くまで持ち上げ、まるで親のカタキのごとくすごい勢いで振り下ろすのが有名らしい。それを見てキシミカはかなり感激し、若店主をずっと見つめていた。

 ラーメンはかなりおいしかった。しかし味についていろいろ書くとつまらない内容になってしまいそうなので、割愛する。店を出てからいろいろ感想など言い合っていたが、キシミカが「食べやすかった」などと普通の感想を言っていたのが印象的であった。


  キムチをつくる
 おとといはキシミカ宅にて「キムチ部追いコン」なるものを行った。趣旨はキムチを作って、作ったキムチでキムチ鍋をしようというものである。キムチ部とは私が大学二年のときに適当に作った部で、部員はキシミカ一人である。おととしの冬に一度キムチを作った以外は特に何もしていない。

 材料は松原商店街で揃えた。八百屋、魚屋などを回ってキムチや鍋の材料を買い揃え、キムチ屋で韓国産トウガラシとアミの塩辛を買い、それでも足りないものはスーパーで買った。スーパーではいろいろ歩き回ることなくさまざまな材料が手に入り、かつ会計も一度に出来るため、なんて便利なんだと思った。今更ながらスーパーの凄さを思い知った。

 さて、材料を揃え、キムチを作ろうとしてみたが、材料表も何もなかったため、適当に作った。この前もかなり適当に作ったため、なんとかなると思ったのである。すると異常にしょっぱいキムチが出来上がった。おまけにキシミカも私も海産物が好きなため、塩辛やホタテを大量に入れたところ、かなりなまぐさいキムチとなってしまった。人は10人くらい集まったが、みんなできた鍋を食べて、「しょっぱい」とか「なまぐさい」とか言っていた。

 キムチ鍋をあらかた食べ終わったあとは、キシミカが高校までやっていたという、児童合唱団のビデオを見た。ここに来たときは毎回見ている気がする。この児童合唱団は、ウィーン世界青少年音楽祭で「特別大賞」をとった凄い合唱団で、演奏は素晴らしいのだが、たいていの演奏には振り付けがついており、その振り付けを高校生のキシミカが嫌そうな顔でやっているところがアップで映るたびにみんなで爆笑していた。


  伝えるということ
 連休中、サークル棟に顔を出し、太鼓の練習会に参加した。卒業してからこういうのに参加するのは気が引けるが、たまにはいいかと思い、参加することにした。

 久しぶりに教えてみて、伝えるということは難しいことだなあと思った。リズムやメロディを教えるのは簡単だが、その曲の持つアイデンティティーを伝えるのは本当に難しいと思った。悲観的な言い方をすれば、ほとんど不可能に近いのかもしれない。私自身のことを思ってみても、自分で現地の演奏を見て、インスピレーションを得たものは演奏出来ても、単に上から伝えられただけのものはそのリズムを再現する程度しか出来ない。

 私の感覚では、ある曲を実際に一年間かけて取り組んできた人は、情熱を持ってすればその曲のことを半分くらいは伝えられる気がする。しかし、そこで伝えられた人がさらに別の人に伝えようとすれば、伝わることはさらにその半分くらいになり、始めの4分の1くらいとなる。曲の4分の1と言えば、おそらくリズムと振り付けと笛のメロディくらいのものであろう。

 こんな事を考えていると、久しぶりに現役時代らしいものの考え方をしているなあと思った。現役時代にも同じようなことを考えていたような気がする。しかし、そのときも結局答えは見つからなかった。


  笛が増える
 実家に帰って、フルートを手に入れた。母親が知り合いからもらったものなのだが、母親はやはりギターの方が好きらしく、私にくれた。

 これで私の笛がまたひとつ増えた。これで今所有している笛は、ソプラノリコーダー、ケーナ、フルート、尺八、篠笛となる。

 私は笛が好きである。小学校の頃は、ピアニカなどには目もくれず、リコーダーばかり吹いていた。今では、初めての笛でも、どの指使いでどんな音が出るかはカンで分かる気がする。これからも空いた時間を使って練習し、いつか演奏活動を行いたいと思っている。


  「つぶやき」が流行る
 最近会社で「つぶやき」が流行っている。事の発端は、先輩のS氏と一緒に車で実家に帰ったときに、私がホームページを持っているという話になり、「ヒマだったら見てください」と言ってみたところ、非常に面白かったらしく、2時間も見てくれたことに始まる。

 その後、社内に広まり、いろいろな人が見るようになった。仙台まで行ってしまったことを書いた次の日などは、私が遅い昼飯を食べようと食堂に行くと、先に食事を済ませた人たちが、

「つぶやき見なきゃ」

と、口々に言いながら過ぎ去っていった。その後、廊下で工場長とすれ違うと、「おまえホームページ持っとるんやてなぁ」と声をかけられ、さらにびっくりした。

 さらには「毎日更新しろ」だとか、「おれの恋人募集のページを作ってくれ」だとか、いろいろ言われるようになった。

 確かに、いろいろな人がこのページを見てくれるということは嬉しいことなのだが、一方この「つぶやき」をどのように書けばいいのか悩むことが多くなった。「誰に向けて書くか」ということである。これまでも、できるだけ誰が見ても面白く見れるように心がけてきたつもりではあるが、読者のほとんどが学生時代の友人なり先輩なり後輩なりであるという前提があった。しかし、最近は感想をじかに教えてくれるのは主に会社の人となった。

 どうしようと考えた後、自己満足のために書くことにした。所詮は「つぶやき」である。もともとそういう心づもりで始めたものである。自分が書きたいと思ったことを心置きなく書けばよい。このつぶやきを読み返してみると、いくらノートに日記をつけようと思い立っても三日で飽きてしまうはずの私の、膨大な1年半の日記がそこにある。私の場合は人に見られているほうがやる気が起こるらしい。これからもいろいろな人に見てもらえることを願う。


 P・S 今日実家で小学校時代の文集を見つけ、持って帰ってきました。子供の感性というのは非常に輝いていて凄いと思いました。いつかなんらかの形でこのホームページで紹介したいと思います。お楽しみに。

 それにしても久しぶりに長々と「つぶやき」を書きました。実はここまで書くのに4時間を費やしました。おやすみなさい。


2月2日  またもやギョウザを作る
 先週に引き続き、昨日もギョウザを作った。先週皮を買いすぎたという反省があったので、今回は気をつけてバランスを考えて作った。

 すると、タネと皮のバランスは完璧であった。最後の1個を包んだ瞬間、タネもなくなったときは感動すら感じた。ギョウザは全部で50個近くできた。

 包み終わったあと、さっそく食べようかと思ったが、私には気になることがあった。白菜をゆでるのに使った茹で汁が余っているのである。普通なら捨てて差し支えないが、白菜のエキスが出ていて非常においしそうである。

 私はこの茹で汁を使ってチキンラーメンを作ることにした。ギョウザも食べたかったが、茹で汁を取っておくわけにいかないので、再沸騰させた茹で汁をチキンラーメンにかけて食べた。すると、いつもよりも気持ちまろやかな気がするチキンラーメンとなった。

 腹一杯になったあと、いよいよギョウザを食べることにした。先週よりもはるかに具たくさんのギョウザである。しかし、実際食べてみると、ちょっと野菜が多すぎた気がした。私はもともと肉ギョウザより野菜ギョウザの方が好きなのだが、ちょっとやりすぎたかなと思った。

 夜、満腹になって寝たが、明け方になって腹が痛くなって目が覚めた。その後は会社に行く時間までトイレと布団の往復を繰り返していた。どうやら腹をこわしたらしい。まさかギョウザに当たるわけはないと思うが、少し怪しい。かと言ってせっかく作ったギョウザを食べないわけにもいかないだろう。今は腹をこわしながらでも全部平らげるつもりでいる。


2月2日  新幹線を乗り過ごす
 三日前の話になるが、出張があり埼玉まで行った。仕事が終わったあと、焼き鳥をご馳走になり、かなり酔っ払ったあと、新幹線に乗り込んだ。新幹線はかなり込んでいたが、なんとか座ることができた。隣りに座っていた夫婦と話していると、どうやら彼らも新白河まで行くらしい。夫婦と他愛もない話をしているうちに、いつのまにか寝てしまった。行き先が同じだということで安心してしまったのだろう。

 起きると、仙台であった。約200kmも乗り過ごしてしまったことになる。夫婦は、起こしてくれなかったらしい。もしかしたら、起こしてみたけどどうしても起きなかったのかもしれない。乗った新幹線は終電で、もちろん帰りの電車はなかった。

 かなりへこんだ。電車で乗り過ごすなどということは、学生時代は日常茶飯事であった。三時間かけて線路を歩いて帰ったこともあったし、泣く泣くタクシーで帰ったこともある。野宿も普通だった。しかし、今回はスケールが違う。どう考えても歩いて帰れるはずないし、路面は凍りついており、野宿などしたら死んでしまう。おまけに私はスーツ用のコートを持っていなかったので、ワイシャツに背広を着ているのみで、非常に寒い。

 JRでは「終電で乗り過ごした場合は、次の日の始発に乗る場合に限って、乗り越し料はとらない」というルールがあるらしく、駅員に「6:04の始発に乗るように来て下さい」と言われていた。

 駅を出て、ホテルを探すことにした。カプセルホテルがあればよかったが、いくら探してもなかったので、普通のホテルに泊まることにした。ホテルを探す途中、凍った路面で滑って転んだ。さらに惨めな気分になった。せっかくだから牛タンでも食べてやろうかと思ったが、ホテル代のことを考えるとそんな気分になれなかった。

 次の日、朝5時に起きて駅に向かった。始発に乗って窓の外を見ると、朝焼けがこの上なくきれいだった。私はこの朝焼けを見るために仙台まで来たんだと思い込むことにした。電車賃もかからず旅行できたと思えばいいであろう。

 白河に着いて、そのまま会社に行ったが、いまいち頭が働かなかった。


1月25日  車をぶつける
 今日は朝からスキーに行くことになっていた。朝八時に近くの城の駐車場集合だったのだが、朝起きて家を出ようとするとカギが見当たらない。10分ほど探したが見つからず、すでに遅刻しそうだったのでスペアキーを持ち出して家を出た。

 私は、かなり遅刻しそうだったため、焦っていた。路面は凍りついていて危険な状態だったが、急いでいたため、急ハンドルを切ると、曲がりきれずに正面のポールに突っ込んでしまった。

 かなり激しい音がしたが、車は問題なく動いたため、そのままスキーに行って楽しんだ。

 スキーから帰ってきて、再び車を運転しようとすると、「キュルキュル」という異常な音がした。しかし、しばらく運転しているとしなくなったので、大丈夫だと思い、そのまま運転していたが、家に止める寸前にまた激しい音がした。気になってタイヤを見てみると、右前のタイヤが泥よけに接触してこすっていた。おまけにホイールが破損し、タイヤに食い込んでいる。このとき初めて、ポールがタイヤと激突し、前輪タイヤの平衡がずれてしまったことが分かった。

 これはかなりの重症だと思われたので、早速修理屋に持っていった。車はハンドルを右に切ると泥よけとこすってしまう。また、いつ食い込んだホイールでパンクしてしまうかも分からなかったので、修理屋に行くまでは非常に恐ろしいドライブとなった。

 国道をノロノロ走って修理屋に着き、見積もりを出してもらうと、事態はかなり深刻らしく、修理代は車の値段よりも高かった。仕方ないと思ったが、かなりへこんだ。いい勉強をしたと思うしかないであろう。

 その後、家に帰り、朝見つからなかったカギを必死で探した。これでカギも見つからなかったら相当酷い一日であろう。

 必死で探したが、見つからなかった。部屋を隅々までくまなく探したが見つからず、私は泣きそうになっていた。とにかく部屋にあることは間違いないため、「何で見つからないんだ!」などと叫びつつ、崩れ落ちていた。

 最後、ダメ元で「燃えるゴミ」の袋をあさっていると、なんとゴミ袋の底からカギが発見された。なんらかの原因で紛れ込みその重みで底まで行ってしまったのだろう。このゴミは、明日出そうと思っていたため、間一髪であった。そのことを思うと、安心感のあまり、またもや崩れ落ちてしまった。これでカギまで見つからないと私は立ち直れなかったであろう。

 なんとか家のカギは見つかってよかったと思った。これで今日の不幸が一応半減した。起こった不幸は仕方がない。今後起こらないように気をつければいいであろう。しかし、見つからぬカギを必死で探しながら、このめったにないエピソードをいかに「つぶやき」に書くかということを推敲している自分がいることをなんとなく切なく思った。明日には私はこの話を愉快な話題としてみなに提供していることだろう。

 私は何か不幸が起こったとき、とにかくそれを楽しい方向に持って行こうとする性格である。というか、そういう性格でありたいと思っている。これは私が民研で培われた貴重な財産であり、これからも大事にしてゆきたい大事な基本姿勢である。


1月25日  ギョウザを作る
 今日は久しぶりにギョウザを作った。大量に作って冷凍しておき、今後の保存食として役立てようと思い立ったのである。

 実は、この日は昼食もギョウザを食べていた。しかも、我が家の冷凍庫ではすでに市販の冷凍ギョウザが凍っている。要するに私はギョウザが好きなのである。作るのも食べるのも好きである。

 さて、タネを作ってみると、明らかにタネの方がが足りないことが分かった。ギョウザの皮は計64枚買ったが、どう見ても皮の方が余ってしまいそうである。具の量をセーブしながら作ったところ、皮がLサイズだったこともあり、かなりケチ臭いギョウザとなってしまった。一見ワンタンのようである。

 包みながら、冷凍庫にあった市販のギョウザをゆでて食べていた。ギョウザを包みながらギョウザを食べていたのである。作るのも食べるのも好きな私としてはこの上ない贅沢である。

 しかし、作っているうちに「もうギョウザはいいや」という気になってきた。なにせ朝起きてからギョウザばっかり食べているのである。さすがに飽きてきた。タネをすべて包むと、皮は20枚ほど余ってしまった。この時、私の興味はすでにギョウザにはなく、「この余った皮をいかにおいしく食べるか」ということに集中していた。

 とりあえず、皮を数枚二つ折りにして、たっぷりのごま油で焼き、仕上げに醤油をかけてみた。すると非常においしい。これで残った皮もおいしく消費することができると思い、満足したら眠くなってきて、つい寝てしまった。

 起きると、深夜である。すでに食欲もなく、結局作ったギョウザはひとつも食べないまますべて凍らせてしまった。


1月20日  ひよこ饅頭を食う
 今日会社でひよこ饅頭を食べた。誰のみやげ物かは忘れてしまったが、とにかくだいぶ前から私の机の上に転がっている。私はあまり甘いものを食べないので、放っておいてしまったが、今日食べた。

 包装紙を破って中を見ると、非常に可愛らしいひよこ型の饅頭が現れた。その姿は本当に可愛らしく、一瞬食べるのをためらったが、かと言って食べないわけにもいかず、ひよこの頭の部分をぱくりと食べた。するとひよこは首なしになり、非常に罪深さを感じた。

 その後、仕事をしていると、先輩のS氏が「おれのひよこ饅頭あげるよ。おれは優しい先輩だなあ。」と言ってもうひとつひよこ饅頭をくれた。

 私はこのひよこ饅頭をどうやって食べようかと考えた。また頭から食べるのは気が引ける。かと言ってしっぽから食べるのもなんとなくかわいそうである。ひよこ饅頭を見ると、さっきと同じように愛らしい顔をしてこっちを見ている。悩んだのち、結局おなかの部分から食べた。

 しかし、どこから食べてもやるせない気持ちになってしまう。困ったお菓子だと思った。  


1月18日  
「少林サッカー」を見る
 今日ビデオで「少林サッカー」という中国の映画を見た。少林寺拳法の達人が集まってサッカーチームを結成し、とてつもない戦いぶりで優勝するという、ばかばかしい内容の映画である。

 内容は予想通り、非常にばかばかしかった。最新(?)の特撮技術を駆使して少年雑誌のサッカー漫画などよりはるかに過激な内容となっていた。「ドラゴンボール」と「ストU」と「キャプテン翼」を合わせたような「実写映画」である。蹴ったボールから火が吹き出し、さらにその火が龍の姿になってキーパーに襲いかかるなどという演出は、あまりにベタ過ぎて最近の子供向けのマンガでもなかなか使わないのではないか。

 ところが気になるのは、「中国はこの映画をふざけて作ったに過ぎないのだろうか?」ということである。ふざけて作った分には大いに笑って差し支えないが、見ていると、ところどころ「もしや中国は本気じゃないか?」と思ってしまうのである。多分冗談だろうが。

 とにかくかなりのお勧めである。興味のある方は一度ごらんあれ。    


まねき猫を買う
 この日は会社の新年会があった。当初私は参加できない予定だったのだが、参加できるようになった。この新年会では、「ビンゴゲーム」なるものが用意されており、その景品として一人一品なにかを買って持ち寄らなければならない。しかし私は何も用意しておらず、新年会の始まるぎりぎりになって買いに行った。

 私は買う場所は近くのリサイクルショップに決めていた。いろいろ面白いものがあるからである。リサイクルショップに行くと、なんと店頭に目玉商品としてフォークリフトが置いてあり、さらに期待は高まった。

 中に入ると、なにに使うかも分からないようなガラクタが沢山並んでおり、私を楽しませてくれた。入り口すぐに木彫りの菩薩像があったので、安く手に入るようだったら買おうと思ったが、確かに格安だったもののとても「ビンゴゲーム」の景品にできる値段ではなく、あきらめた。最終的に候補に上がったのが、

・鮭をくわえた木彫りの熊
・金色の鷹の像
・金色の巨大な招き猫

であったが、新年にふさわしいものということで、金色の招き猫を買うことにした。

 さて、招き猫をレジに持っていって「プレゼント用に包んでください」と言うと、少し変なものを見るような顔をされた。普通はリサイクルショップでプレゼントを買わないであろう。

 包装してもらう間、店内を見ながら待っていたのだが、なかなか終わらない。ふと見ると、店員があの招き猫の曲面を上手く包むことができず、異常に四苦八苦していた。私は慌てて恐縮し、「適当でいいんです。」と言って、店員に謝って店を出た。

 結局新年会ではこの招き猫が結構話題になり、選んだ甲斐があったと思った。


1月9日  寒い
 最近福島は特に冷え込んで寒い。実家から帰ってきた時、トイレの便器に氷が張っていたのには驚いた。また、朝起きると息が白い。その白い息を見ていると布団から出るのが嫌になってしまう。多分北国生まれの人にとっては常識だろうが、寒さに弱い私にとってはとても厳しい季節である。

 また、家に保温性がない。仕事が終わって帰ると、家の中は外と同じ気温になっているし、朝起きて表に出ると、日が出ている分、外の方がいくぶん温かかったりする。古い家なので、隙間などが多いようである。

 大学時代、よく「冬を耐え忍び、春を待ちわびる人々の姿」などというテーマをつけて「むぎや」やら「まいまい」やらの合唱曲を歌ったものだが、現在身をもって体験している。曲想など、空想の世界で思う分にはとても楽しいが、実際に体験すると大変だなあと思う。

 ともあれ本当に春が待ち遠しい。


1月5日  2003年初のつぶやき
 ついに年が明けた。正月休も今日で終わり、明日から会社が始まる。「年が明けた」ということで、何かめでたいことでも書こうかと思ったが、何も思いつかない。私が年賀状を書くのが苦手な所以である。今「衝撃映像スペシャル」を見ながらこの「つぶやき」を書いている。


 今年の大晦日は、ボンサンの家で「千と千尋の神隠し」のDVDを見て過ごした。はじめに「千尋はユキに似ている」という話になり、みんなでうなずき合ったあと、「この人は誰に似ている」などという話をしながら見ていた。

 ボンサンが「カオナシはシラトだ」と言ったので、彼も呼ぼうと思い、彼に電話したところ、「おばあさんとふたりで過ごすので行けない」とのことであった。その後、カオナシはイチカワガエルを飲み込んでナオヤになった。

 オクサレ神が登場したときに「アユミが来た」と言ってみたが、一同反応は複雑であった。

 最後、千尋が龍に乗って帰るとき、カオナシは銭バアの家に残ることになり、「やはりシラトだった」とうなずき合って映画は終了した。

 その後は家で紅白歌合戦を見て過ごした。沖縄の島唄や民謡が結構多いのが意外だった。一番感動したのは北島三郎の「帰ろかな」だった。気持ちが溢れ出るような歌いっぷりに聞き惚れた。赤組最後の石川さゆりの「天城越え」もすごいと思った。歌唱力と曲想が一体となって伝わってくるようであった。しかし、終曲は五木ひろしの「おふくろの子守唄」は、あまりにねちっこい歌い方にうんざりした。家族で「なんで『天城越え』で終わらへんねや」などと言いながら、紅白は終わった。


 正月は、両親の実家である、明石と神戸でだらだらと過ごした。その時に祖父に尺八を吹かせてもらった。すると非常に面白く、今年の新たなる趣味にしようと思った。現在、以前にもらったプラスチック製の尺八を白河に持ち帰り、練習中である。

 さて、のんびり過ごし福島に帰ろうと出発すると、路面は大いに凍結しており、おまけに霧が出ていた。保土ヶ谷バイパスを通ると、わずか15分くらい走っただけで、3回くらい事故を目撃してびっくりした。おまけに首都高は凍結と事故で全線通行止めになっており、仕方なく下道で帰ってきた。

 なんだかまたもやとりとめもない話をだらだらと書いてしまった。ともあれ今年もよろしくお願いします。    

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