2011年
1月のつぶやき
1月20日 離乳食
今日、君は初めて離乳食というものを食べた。あれは、ご飯の粉末のフリーズドライを水に溶いたものだ。私たちも食べてみたが、あまり美味しくなかった。まるで文具用の糊のようだ。
君も、意識的に飲み込んでいるのか、うっかり飲み込んだのか分からないが、とにかくあまり美味しそうにはしていなかった。
まあこれが第一歩だ。これから、少しずつ美味しいものを食べようではないか。
1月16日 千と千尋の神隠し
少し前の話だが、妻と金曜ロードショーの「千と千尋の神隠し」を見た。この映画の公開は私が大学4年の頃であり、そのときも映画館で見ている。
改めて見ても、圧倒的な迫力とリアリティが凄く、妻と「すげー」を連発しつつ見た。急速に暗くなる町並み、豚にされた両親、そして船から得体の知れない生き物が現れるシーンは今見ても本当に怖い。そして、最後の水辺を走る電車に乗った時の暗がりの町並みや顔の見えない乗客の情景は、幻想的なのに体験したことがあるようで、懐かしく感じるのが不思議である。
改めて見れば、千尋の置かれた状況は会社の新入社員そのものだなぁと思った。宮崎アニメは、見るときによって感じ方が変わっていく。何年か後に、再び見ればまた楽しく見られることだろう。
以下、「折り返し点」(宮崎駿著)より引用。
この作品は、武器を振りまわしたり、超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりというべき作品である。冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないのと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。
今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し食い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。
かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供たちはひよわな自我を肥大化させるしかない。千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単にはおもしろがりませんよゥというぶちゃむくれの表情はその象徴なのだ。けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気付かなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果敢な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえていることに気づくはずだ。
<中略>
困難な世間の中で、千尋はむしろいきいきとしていく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう。世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意思であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。
1月15日 サチコへ
君はずいぶん大きくなった。ここのところミルクの量が減っているが、そろそろ飽きてきたのだろうか。もう少ししたら、世の中にはミルクよりも美味しいものが沢山あることを知るだろう。
さて、君は「かわいい」という言葉を毎日のように聞かされているであろう。君は、この言葉をどう理解しているであろうか。もしかしたら、「自分のことを褒め称えている言葉」と捉えているかもしれないし、或いは「鬱陶しいスキンシップを強いられる合図」と理解しているかもしれない。「かわいい」を「愛する」と同義だと思っている人がたまにいるが、そうではない。「かわいい」というのは、親の一方的な欲望に過ぎない。そして、そのことは私たちも理解した上で「かわいい」と発声している。
愛するということは、そういうことではないことを、私たちは知っている。抱きしめたり、頬ずりしたり、キスしたりするのは、君を愛しているからではなく、私たちの単なる利己的な欲望を満たしているに過ぎない。
君にどんな人間になって欲しいとか、何を習わせようとかは、あえて考えないようにしている。私たちの目標はただ一つ、君をひとりで生きていけるようにすることだけだ。激動の時代においても、逞しく笑って過ごせるようになって欲しい。そのことさえ達成できれば、何をしても良い。父を汚物扱いしてもよいし、もし嫌なら口を聞かなくてもいい。洗濯物を別々にするよう要求しても良い。
それが私にとって「愛する」ということだ。しかしその「愛する」は、ちょっと精神的にきついから、「かわいい」とバランスを取っているのである。
1月10日 機種変更
今日は、携帯電話の機種変更をしにドコモショップへいった。インドネシア赴任にあたり、今の携帯は全く使えなくなるため、変更しておこうと思ったのである。
インドネシアから日本に電話すると、なんと1分あたり380円かかるらしい。着信を受けた場合も1分155円かかり、とても通常使用は出来そうにない。不思議なことに、日本からインドネシアの私に電話をした場合、電話をかけた側は通常の国内通話料金で済むらしい。
普段使いの携帯電話は現地で調達するとして、とりあえず海外で使えるタイプに機種変更だけしておこうと思った。殆ど使わないだろうから、安い機種でよい。店員に選んでもらい、料金プランの説明を受けた。
説明を聞いていると、3万5千円するはずの携帯電話機が、タダ同然に思えてくるから不思議である。とりあえず最終的に支払うのは、頭金等で4935円らしい。3万5千円の携帯電話が4935円になったような気になってしまう。
しかも、4935円を支払うと、「現在5千円のキャッシュバックキャンペーン中」とのことで、5千円帰ってきた。更に、くじ引きで2GBのSDカードやディスプレイ保護フィルム等が当たり、携帯を無料手に入れた上に粗品までもらった様な錯覚に陥った。
これがドコモの手口だと分かっていながらも、得した気分になる自分が愚かだと思う。
1月4日 歯医者へ
今日は、歯医者へ行った。別段悪いところがあるわけではないのだが、海外赴任にあたり悪い歯を治しておいたほうが良いとのことであった。歯医者の場所を調べてみれば、なんと家の前の田んぼの向こうに歯医者があった。歯医者に行くのなど、何年ぶりであろうか。
歯医者によれば、私の歯は全く問題ないとのことであった。銀歯も一本もなく、これほどきれいな歯は今どき珍しいですよ、と無駄に褒められた後、でも茶渋や歯石が付着しているからせっかくなので取っておいたほうがいいですよ、と言われた。
その後、歯の磨き方指導を受け、機械を使って歯石を取り除き、最後に研磨剤のようなもので茶渋を取り除いてもらった。恐らく30分以上かかったと思われる。終わって歯を見れば、これまで見たことがないくらい白くなり、清潔になった気がした。
ところが、家に帰って夕食を食べれば、歯が妙にしみる。私は昔から知覚過敏の気があり、アイスなどは苦手だったのだが、それが酷くなった。歯石などが取り除かれたことにより、歯がより敏感になったのだろうか。だとすれば、これまでは歯石が私の歯を守ってくれていたことになる。面白い話だなぁと、われながら思った。
ともあれ、明日シュミテクトを買おうと思った。
1月3日 2011年最初のつぶやき
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
さて、下に書いたとおり、のんびりと正月を過ごしているが、のんびりなりにも目標を立てた。「竜馬が行く」全8巻を読破することである。「ドラゴンボール」全42巻読破とどちらにしようか迷ったのだが、「竜馬が行く」のほうがはるかに為になるだろうと思い、こちらにした。「竜馬が行く」は以前に読んだことがあるのだが、昨年のNHK大河ドラマ「竜馬伝」を受けてもう一度読みたくなったのである。
ところが、私は読むのが遅い。笛も吹かず、テレビも殆ど見ず、食事と睡眠以外のかなりの時間を割いて読んでいるが、一日2冊いくかどうかくらいのペースである。現在5巻の最後であり、あと一日で3冊はほぼ絶望的である。
これを読み終えなければ正月が終わった感じがしないが、次の三連休くらいまでかかるかもしれない。
1月1日 今年最後のつぶやき
2010年最後の「つぶやき」を書こうと思っていたら、新年になってしまった。旧年中に書こうと思っていたので、題名は「今年最後のつぶやき」とする。
今年の年末年始は、いつになくのんびりしている。例年は博多、明石、神戸を一泊ずつする慌しい年末年始であるが、今年はサチコがまだ小さいこともあり、福島の家で過ごすことにしたのである。来年3月に引っ越すことを思えば、大々的に大掃除をする気にもなれず、だらだらと過ごし、年越しそばを食べつつ紅白歌合戦を見て、いつものように妻と音楽性やら舞台演出について議論をし、「ゆく年くる年」を見て今に至る。
今年は、素晴らしい1年であった。何といっても待望の娘が生まれたことが大きい。私たちの生活は娘の出生を機に大きく変わった。生活の多くが、娘を中心に回るようになった。サチコの出生が、多少マンネリ化していた私たち夫婦を、人生の新しいステージに進めたと言っていい。そしてそれは、私たちにとって凄く喜ばしいことである。
例えば、なぜ私は働いているのか、という疑問がある。第一は、金を稼ぐためであろう。しかし、次になぜ金を稼ぐのか、という疑問が発生する。遊びたいから、とか、高級な家電製品を買いたいから、とかあるだろう。しかし、なぜ遊んだりそんなものを買う必要があるのか、仮に買って快楽を得たからといって何がいいのか、だからと言って使わずに貯金をしたからといって何が起こる訳でもない。目的というのは、「なぜ」を繰り返せばいつしかよく分からなくなる。
しかし今は、「サチコの幸せのため」と言えばそういった「なぜ」に終止符が打てる。この、子供を抱いた瞬間に得たこの精神的な変化は、私にとってひそかに大きい。
来年は、すでに色々な変化が予定されている。私が3月にインドネシアに赴任し、9月には妻と娘も引っ越してくる。不安の多い一年ではあるが、心配したからといって何かが変わるわけではないから、今はあまり考えずにのんびり年末年始を過ごそうと思っている。
topへ