2011年
3月のつぶやき




3月30日 ムダムダハン

 インドネシア語で「ムダムダハン」と言う言葉がある。赴任するまで知らなかったのだが、仕事では実によく登場する。「ムダムダハン」の日本語訳は、教えてくれる先輩によって異なるのだが、

「とりあえず頑張るが出来るかどうかまでは分からない」
「その結果は神のみぞ知る」

などである。何か仕事で指示をすると、この「ムダムダハン」が返ってくる。しかし、日本の「善処する」「検討する」などとは違い、どちらかというとポジティブなニュアンスを含むらしい。

 ムダムダハン。実によい言葉である。


3月28日 放射能雑記

 日本の放射能汚染について、どのくらい危険なのかがさっぱり分からない。汚染のレベルと言うのは、杞憂に過ぎないのか、それとも福島県内から直ちに脱出したほうがよいのか、或いは関東圏全体について致命的な問題があるのか。ジャカルタにいては情報が少ないのもあるが、そういった危険度のスケールが分からない。

 何となく感じるのは、「通常レベルの○倍」というのはあまり気にすべきではないだろうということである。通常、放射能は殆ど含まれていないのだから、少し増えただけであっという間に10倍、100倍という数値がはじき出される。絶対値で言うよりもインパクトがあるから、メディアはこの「○倍」という表現をして騒ぎ立てる。

 一方、注意すべきは、「国が定める基準の○倍」とか、「安全とされる基準の○倍」という数値である。これは、1倍前後でも注意すべきであろう。

 かつて高校の物理で習ったこと。「放射能」という言葉は「放射線を出す能力」という意味であり、「放射能が出る」「放射能を浴びる」という表現は正しくない。放射線を受けたのか(レントゲンなど)、放射性物質を摂取したのか(汚染された食品を食べる)、放射性物質を携行しているのか(衣服に付着するなどして)、「放射能を浴びる」という表現は曖昧である。

 ともあれ、本当に安全なのか、パニックを避けるために安全だと言っているのか、そのあたりもよく分からない。


 話は変わるが、今日工場で「無計画停電」があった。要は突然停電したのである。場内は真っ暗になり、機械は全て止まった。私はびっくりしたが、現場の人は平然としており、怒っている人も慌てている人もいない。それが数時間続いた。インドネシアでは、事前通告なしの停電はよくあることらしい。

 なんだか、きちんとグループ分けして計画的に停電する日本が不思議に思えてきた。


3月22日 日本のニュースを見て

 インドネシアでは、海外向けのNHKのみ見ることが出来る。朝の6時から朝ドラ「てっぱん」を見て、(時差2時間のため)朝食を食べてから出勤する生活となっている。今日の夜のニュースを見て思ったこと。

 原発地域周辺(とは言っても結構遠く)で生産されたほうれん草が、出荷制限をかけられたり廃棄されたりしているらしい。政府は、「冷静な対応」を呼びかけているらしい。「冷静な対応」とは、要するに「これらのほうれん草を食べろ」ということである。

 インドネシアでは、食べただけで一瞬で腹を壊す食品で溢れているし、しばしば赤痢(熱と1週間もの下痢と嘔吐)を引き起こしたりもする。それでも食べる。そのようにして、人間は200万年の間生きてきた。食べることは、常にリスクを伴う。世界の殆どは、このような状態のほうが普通で、100%安全なものなど無い。

 もちろん、危険だと分かっているものは、食べてはならない。しかし、99%安全だと思われるものは、食べるべきである。ほうれん草を食べることは、被災者を援助する手段なのではないだろうか。


 東京電力の経営陣への非難が集まる一方、原発の暴発を防ぐべく現場の第一線で働く人たちについては、一定の評価がある。経営陣への非難の内容は、現場が一生懸命働いているのに、経営陣は安全な場所で報告を待っているだけだといった内容である。私もそうだが、多くの人はこういう構図を描くのが好きである。

 しかし、経営陣にとっては、タフな記者会見の場こそが「現場」なのである。記者会見での問答をひとつ間違えるだけで、東京電力は甚大な損害を受け、多くの社員を解雇せざるを得なくなるかもしれない。これほど精神的に消耗する場はなかなかないであろう。私が彼らなら、放射能の脅威におびえながら現場の一線で働いたほうがまだましだと思うであろう。

 大体、このような未曾有の災害に対して、誰が悪いとか論ずること自体が悪だと言いたい。


3月20日 日曜日

 今日は、インドネシアで出来た初めての友人のジョセフと会った。私は、日本に行く前、福島の自宅近くでインドネシア人のハーフの先生から英語を習っていたのだが、レッスンの最終日に、ジャカルタに友人が住んでいるから連絡を取るようにと、メールアドレスを教えてくれたのである。早速、何度か連絡を取り合い、今日初めて会ったのである。

 彼は、車で地元の安くて美味しいレストランに連れて行ってくれ、色々な話をした。数年前に日本に行ったが、東京の女性は背が低くて可愛いとか、福岡の女性は背が高くて美人だとか、日本のマンガは面白いとか、ふぐを食べるのが怖かったとか、今地震で大変だけど、日本人はそんな時でも盗みなどをせず礼儀正しくて素晴らしいとか、そんな内容であった。

 インドネシア語で、「ノンクロン(nongkrong)」という言葉がある。道端でたむろして雑談することを表す言葉だが、確かに車で走っていると、ノンクロンしているインドネシア人が多く、羨ましく思いながら眺めていた。それが今日、ノンクロンをすることが出来た。ジュースを飲みつつボーっとしたり、旅の指差し会話帳を見ながら雑談したり、道行く車を眺めたりしてのんびりと過ごした。

 インドネシアに来て初めてゆっくりした日であった。またノンクロンしたい。


3月19日 取り急ぎ2

 現在、インドネシアでこのつぶやきを書いている。とりあえず、日本を出国するまでに何があったかを走り書き。

●3/11
 14:46。地震発生。地震の際、我が家ではまず緊急地震速報が届いた。その数秒後、地震があり、やはり来たなどど言っていたら、どんどん揺れが大きくなっていった。それがどんどん大きくなっていき、冷蔵庫は移動し、本棚は倒れ、地震対策をしてあったはずの食器棚も容赦なく移動した。鍵をかけてあった窓も縦揺れで外れ、窓が開いた。こちら側に倒れて来なかったのが幸いであった。家族3人に怪我は無し。

 引越しの手伝いに来る予定だった母は、大宮駅で被災し、動けなくなる。その日は、帰ることも出来ず自宅に戻れたのは次の日の午後であったとのこと。

 その日は、電気は来た。水は一瞬濁った水が出て、断水した。断水する直前に米を炊くことが出来た。引越し前で食料は殆ど食べつくしており、スーパーもコンビニも閉まっていたため、その日の夜、次の日の朝、昼はご飯に冷蔵庫にあったバターと醤油をかけただけのものとスルメだけを食べて過ごす。洗う水も無いため、茶碗はサチコのお尻拭きで拭くだけにした。

 地震の後、常に弱い揺れを感じており、しばしば中くらいの揺れも来た。寝てる間も緊急地震速報が何度も来たが、すでに中程度の地震は怖いと思わなくなり、安全な場所で寝続けた。

●3/12
 引越業者が1時間遅れくらいで到着する。海外向けの引越しは、業者が品物を確認しながら梱包するため、丸一日かかる。引越しが終わったのは夕方の7時過ぎであった。その間、テレビを受取りに後輩のコウノがやってきた。引越しが終わっても羽田まで行く交通手段が全くないため、コウノにお願いして連れて行ってもらうことになった。

 引越し中、会社の先輩のソウマさんがやってきた。洗濯機を譲る予定であったが、ソウマさん宅は家の前が陥没して車が入れなくなっているらしく、諦めることとした。

 また、粗大ごみを捨てようと車で出かけたが、ごみ処理センターは動いていなかった。道路はところどころ陥没しており、その周辺は渋滞していた。

 夜8時、神奈川にある母の家を目指して出発する。高速道路が使えず、道も混んでおり、家に着いたのは夜中の3時半であった。途中ガソリンがなくなりかけたので、スタンドに入るも殆ど売切れで、4件目でようやく割高のガソリンを入れることが出来た。そこはセルフスタンドなのだが、お札を入れるとお釣りがなぜかプリペイドカードで帰ってくるという、不思議なシステムであった。プリペイドカードを事務所に持っていくと、現金に換えてくれるのだが、そういった表示が全く無いため、周りの人も戸惑っている様子であった。平常時なら絶対に行かないであろう。だからこそ最後までガソリンが残っていたのかもしれない。

●3/13
 朝7時ごろ起きて、福島で預けることの出来なかった空港行き宅急便を送る。その後、そのまま羽田空港へ行き、午後4時ごろに福岡空港へ。空港で妻の高校時代の友人等と軽くお茶をして妻の実家へ行く。これでようやく当初の予定通りとなった。

●3/14
 朝食を食べて、新幹線で私の実家の明石を目指す。魚の棚で明石焼きを食べ、私の父、祖父に挨拶し、夕方神戸の母方の実家へ。

●3/15
 朝、長田神社でお参りをして、午後は元町で食べ歩く。日本最後の思い出にB級グルメを食べ歩きたいとの私の希望を叶えてもらった。その後、新幹線で博多に戻る。西日本は、拍子抜けするくらい平常どおりである。

●3/16
 午後、福岡空港で妻子と別れ、羽田へ。東京では、コンドウさん、シゲオ、イッチー、キエが送別会をしてくれた。こんな大変な時なのに感謝。11時ごろまで飲んで、ホテル泊。

●3/17
 朝、バスで成田空港へ。電車よりもバスのほうが確実らしい。免税店で日本酒のお土産を買い、インドネシアへ。現地時間午後5時ごろに到着。


3月11日 取り急ぎ

 21:50現在、無事です。地震はかなり強く、本棚が倒れたり、冷蔵庫が2mくらい移動したり色々なものがぐちゃぐちゃになりましたが、家族全員怪我も無く無事です。ただし、余震は常にあり油断は出来ません。

 風呂に水を貯めており、水道が出なくなる直前に米を炊きました。明日の引越しが出来るかとか、電気はいつまで来るのかなど不安はありますが家族が無事なら何でもいいです。ただ、明日引越しのため食料を殆ど食べつくしてしまいました。コンビニもスーパーもやっておらず、いつ営業するのかもわかりません。こういうとき、ミルクがあれば生きられるサチコは強い。シンプルに生きるって強い。

 まあとりあえず無事で生きていますので取り急ぎ。


3月8日 結婚式へ

 先週末は、民研の先輩、サクライさんと民研同期、カセダの結婚式であった。家族での宿泊旅行は昨年のミネムラ家に引き続き2回目である。行きは、十分な時間的余裕を見て出発したつもりだったが、首都高の渋滞にはまり、結婚式開始の寸前に滑り込みセーフであった。

 披露宴、二次会と非常に盛り上がった。サクライさんの人柄は変わっておらず、二次会の最後に酔いつぶれそうになりながらもカセダをお姫様抱っこするあたりには、妻はいたく感心し、「サクライさんかっこいい!」を連発していた。それにしても、同期は気付けば皆結婚し、子供がいる人も少なくない。時間が経つのは早いなぁと改めて実感する。

 ともあれその日は二次会まで出席してホテル泊。次の日は、ヤス、クミコ夫妻と昼食を食べてシバタ先生宅にご挨拶に向かった。シバタ先生は、サチコをひ孫のごとく可愛がってくださった。その後は、そのまま車で帰宅し、夜に家に着いた。サチコは疲れたのか、家に帰ったら異常に高いテンションでわめいていた。

 私たちも非常に疲れ、次の日は妻も私もダウンした。それにしても、旅程を通じてサチコは色々な人に可愛がってもらっていた。親としては非常に嬉しい。


3月3日 奥田さんのこと

 少し前の話だが、ニュージーランドの地震のニュースを見ていて衝撃を受けたことがある。瓦礫の中から救出された奥田さんがインタビューに答えていたのを見たときであった。奥田さんは、19歳という若さながら、救出の過程で右足を切断されるという不幸にあった。しかし、彼がインタビューで足を失ったことについて「あんまりそういうの気にしないほうなので」と語った。

 足を失いながら「気にしない」と言える強さを感じた。私もそうなりたい。先月に書いた「中庸」とはこういうのを指すのだろうか。

 そんなことを考えていると、今朝の新聞の1面に「ケント(奥田さんの名)がヒーローだった」で始まる記事を見た。彼は、足を挟まれた状態の中、携帯メールで現場の状況を冷静に伝え、救助に役立ったという。切断の際も「麻酔がなければそのまま切断してください」と言ったという。

 強い人だと思った。こういう人間になりたい。
 

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