2003年
3月のつぶやき
3月22日 イラク情勢と「羊の宇宙」
今週の木曜日は、仕事が終わってから会社の人たちと食事をし、その後カラオケに行って一時頃まで歌っていた。次の日は猪苗代までスノーボードをしに行き、温泉へ寄ってから焼肉を食いに行くという、贅沢三昧の予定である。
カラオケからの帰りの車の中のラジオでは、丁度ラムズフェルド米国防長官の記者会見が行われており、同時通訳が早口にそのやり取りを翻訳していた。この日はアメリカによるイラク攻撃が始まった日で、記者会見はなんとも言えない生々しさがあった。ラジオを聞きながら家に帰り、家でも布団にもぐりながらテレビをつけていた。
布団の中で、私はいろんなことを考えた。世界は今、大変な状態である。自分の正義に酔いしれたアメリカは、記者会見ではイラク国民に紳士的な言葉をかけつつ、一方では大量のミサイルを打ちはなち、憲法九条にて戦争を永久に放棄したはずの日本までその尻馬に乗っている。今、世界中がイラクとアメリカに注目している。
その一方で、他のチャンネルに変えると、いつもと変わらないばかばかしいバラエティ番組が放送されていた。今現在、大量のミサイルがイラクに打ち込まれているが、私は布団の中でぬくぬくとしている。そして、明日はスノーボードに行く。天気はいいだろうか、雪質はどうだろうかなどとささやかな心配をしている。
また、記者会見でのラムズフェルド国防長官のことを思った。彼は、世界に向けてアメリカを代表する言葉を述べているが、家に帰ったら風呂に入ってくつろぐだろうか。一家団欒をして寝るだろうか。果たして彼の言葉は、彼個人にとっても本心なのだろうか。心の奥底から湧き上がってきた言葉なのだろうか。それとも、建前上仕方なく言っているに過ぎないのだろうか。
また、私の会社のことを思った。イラク軍が油田を破壊したという情報も、不確かながらある。貴重な原油がそのまま二酸化炭素と化しているかもしれない。その一方で工場では日常となんら変わることなく石油由来の製品を作り続け、生産性向上のために四苦八苦している。
私は、スノーボードで転び、痛い思いをした。また、焼肉を食い過ぎ、苦しい思いをした。一方で、生きるか死ぬかの瀬戸際で苦しんでいる人もいる。
そんなことを考えているうちに、私の大好きな本の一節を思い出した。夢枕獏の「羊の宇宙」という本である。アインシュタインが人知れず生き長らえ、世界中を旅するうちにひとりの遊牧民の少年と出会い、その少年と宇宙について語り合うというストーリーである。その中で、アインシュタインやブッダが「E=mc2」や「色即是空」などで表されるような、宇宙の真理にたどり着いたのちに出た結論は、
「人間は誰に遠慮することなく、幸福になってもいいのだよということさ」
というくだりがある。私は、何度読み返してもこのくだりだけは理解できなかった。しかし、今はなんとなく分かる気がする。上手く言葉で説明はできないが、感覚的に納得できた気がする。しかし、それでも今私はこんなに幸せでいいのだろうかと疑問に思う。そして、そう思いつつも無責任に幸せを追い続ける。
なんだか非常に重いつぶやきになってしまった。まあ、たまにはいいかと思う。とここまで書いて、この考えは私が生まれて初めて作った曲、「胃腸薬」の原点であることに気付いた。あの曲は、ばかばかしい曲というイメージが強いが、実は大真面目に作った曲である。
3月18日 先週末のこと
3/16のつぶやきに書き忘れたことがあったので、今更ながら書くことにする。
・美味しいお好み焼き屋
土曜日に美味しいお好み焼き屋を見つけた。会社に行く途中、お好み焼き屋の看板を見つけたので、常々行ってみようと思っていたのだが、この日に初めて行ってみた。正直小麦文化のない福島で美味しいお好み焼きが食えるとは思っていなかったが、一応行ってみようという心づもりであった。母親に、そのことを電話で言ったところ、「そんなお好みうまいわけないやろ」と言われ、確かにそうだと思いつつ行った。
店に入ってみると、関西人のおばちゃんが一人で店を切り盛りしていた。私はメニューを見てこのおばちゃんは神戸出身だと確信した。百歩譲っても明石人である。メニューに「ソバめし」「オムソバ」「スジ焼き」「玉子焼き(明石焼き)」があったからである。大阪にこんなメニューはない。また、おばちゃんの訛もどちらかと言うと神戸風である。
お好み焼きは美味しかった。明石焼きもタコが少々小さいものの卵の味が出ていて美味しい。ダシ汁が少々濃いのは福島の味覚に合わせたからなのか。おばちゃんに神戸出身ですかと聞いてみたところ、やはり神戸人であった。ソースは長田から取り寄せているらしい。長田と言えば、母親の実家であり、阪神大震災でもっとも被害の大きかった地域である。
私は嬉しくなった。知り合いに会ったような気分である。うちの家業がお好み焼き屋であること、明石出身であることなどいろいろ話し、また来ると言う約束をして店を後にした。かなり嬉しい発見である。
・トマトは果物か野菜か
日曜日にNHK「クイズ日本人の質問」で「トマトは野菜か果物か」についてやっていた。この議論は小さい頃からずいぶんした記憶がある。「トマトは木にならないから野菜だ」という人が多く、辞書まで調べたが、その定義は曖昧で、私は「トマトは甘いから果物だ」などと反論していた。
「クイズ日本人の質問」によれば、アメリカでトマトは野菜か果物かで最高裁まで行く大裁判があったらしい。関税と関わりがあるらしく、それは真剣な問題だったらしい。そのときは「トマトは食後のデザートにならないから野菜である」という植物学的な見地とは全く関係ない視点から判決が出ている。
日本の定義では、「一年で枯れてしまう植物を野菜」としているらしい。この定義では、トマトは野菜である。しかし、スイカ、メロン、パイナップルに関しては、生活上果物的な扱いをされることが多いため、「果物的野菜」という曖昧な表現が用いられているらしい。
これで私の長年の疑問が解けた。私にとってトマトが野菜であることは納得できても、メロンやパイナップルが野菜という認識をされていないことに疑問を持っていた。「果物」か「野菜」かは、植物学的な分類のほかに、文化的な分類もあるのだということを知った。
3月16日 今日のこと
今日は久しぶりに白河で週末を過ごした。久々に家でのんびりでき、汚かった家も掃除することができた。今日はなんとなく頭が働かないので、今日あったことを箇条書きでだらだら書くこととする。
・今朝起きて温泉に行ってみた。去年閉鎖された温泉がどうなっているのか気になったのである。この温泉は脱衣所も壁も何もなく、山奥に風呂だけがあるという、知る人ぞ知る秘湯である。会社の先輩に教えてもらい、それから何度も通うようになった。ダイスケサンとミヤチとアツシが来たときにも行った。
行ってみると、去年閉鎖されたはずなのに健在であった。風呂では地元のおっさんたちが酒を飲みながら入っており、以前と全く変わりなかった。あの閉鎖の告知はなんだったんだろうと思った。
・家に帰ってからキムチを作った。今回は春も近いということでさっぱりした味にしようと思い、レモンとオレンジとりんごを入れた。そして、キムチ部追いコンで余ったアミの塩辛と韓国産トウガラシを使って仕上げた。他にイカそうめんと辛子明太子、桜えびも入れた。やはりキムチに魚介類は欠かせない。そしてこれらは酒の肴にもなるので、余った食材を食べながら酒を飲んでいた。
・それでもまだ何かしたいと思い、ギョウザを作った。アミの塩辛と辛子明太子が余ったので、それもギョウザに入れた。アミの塩辛は、キムチの味作りには最高の食材なのだが、そのまま食べてもしょっぱくて生臭くていまいちである。なんとか全部使い切りたかったが、使い切れなかった。作って食べたギョウザは若干生臭かった。
・ギョウザを食べながら「行列のできる法律相談所」を見た。この番組は面白い。この番組を見ても法律のことはあまり分からないが、「ある事例の判断は弁護士によってだいぶ違う」ということが分かる。あれだけ文書化されているから誰でも同じ判断を下すものと思っていたが、そうでもないらしい。北村弁護士が、何を言われても全く笑わないところが面白い。そして、どことなく笑いをこらえているように見えるところがまた面白い。だって、本当に面白くなかったらこんな番組に出ないであろう。
・今日は全団追いコンである。全団追いコンと言えば一年のときは民研があまり好きじゃなかったため参加しなかったこと、三年のときにダイスケサンの骨折ネタをやってウケたことなどを思い出す。参加はできなかったが、卒団生に対する祝福の気持ちはある。
3月14日 庄原旅行記
もう二ヶ月くらい前の話になるが、広島県の庄原市に旅行に行ってきた。せっかく旅行に行ったのにそのことを忘れつつある。忘れないためにも覚えているうちにここに記しておきたいと思い、筆をとることにした。
庄原市は広島県の北部に位置する町で、民研の舞踊曲「田楽」の里である。そして国さん兼さんという若姉妹が人柱となったという伝説を持つ、「関西一の池」の異名を持つ国兼池もある。そもそも広島県の北部は今でも「花田植」「囃田」といった田植の芸能が残っている珍しい場所なのだが、庄原の田楽は現在はほとんど行われていないらしく、民研は数少ない後継者のひとつである。
私が一年のときに庄原の田楽を取り上げ、大好きになった。そして、素朴で美しい「田植唄」「供養唄」や人柱伝説の話などに想いを馳せているうちに庄原に一度行ってみたいと思ったのである。そして、今年の一月、たまたま三連休明けに岡山に出張があったため、それを利用して庄原へ行こうと思い立ったのである。私にとっては念願が叶った旅行であった。
広島まで飛行機で行き、広島駅でお好み焼きを食べてからレンタカーを借りて庄原へ向かった。
庄原市に着いた頃には辺りはすでに暗く、国兼池のある「国営備北丘陵公園」はすでに閉まっていた。スケジュール的に、次の日の昼までには庄原を跡にしなければならなかったため、なんとか見れないものかと公園をぐるりと一周してみたが、池は見れなかった。どうやら池自体が一段高い場所にあり、カルデラ湖のようになっているらしい。かつて毎年のように氾濫していたという伝説も頷ける気がした。
仕方なくホテルに行き、ホテル下の郷土料理屋で夕食を食べた。地元で「わに」と呼ばれているサメ料理を食べることが出来た。「美味しんぼ」でサメ料理は山奥で発達したという話を読んだことがあったので、実際に食べることが出来てよかった。
ここで最も印象深かったのは、店員の女性の天然ボケぶりであった。とても感じのいい人だったが、案内された座敷の暖房が効きづらいとか、料理を出すのが少し遅かったとか、そんな細かいことでも非常に恐縮している様子であった。私たちは彼女が気を使わないようにするために気を使っていた。店内はかなり忙しそうだったので、食べ終わった皿を重ねて片付けやすくしておくときも、「逆に気を使わせてしまうんじゃないか」などと、かなり余計な心配をしていた。
そして、何をしに来たのか聞かれたので「国兼池を見に来ました」と言うと、非常に不思議そうな顔をしていた。「なんで?」と思っている様子であった。。確かに国兼池を見るために福島からわざわざ来る人なんていないであろう。
「庄原で何かいいところはありますか」と聞いてみたが、特にないとのことであった。少し前までは国兼池のイルミネーションとてもきれいだったらしいのだが、もう終わってしまったらしい。そして「今は春に向けて球根がたくさん埋まっています」とのことであった。
次の日、公園が開くと同時に入り、国兼池を見に行った。かなりわくわくしながら行ったが、行くと本当にただの池であった。池の真上には高速道路が走っており、景色が良いというわけでもない。伝説にまつわる何かがあるかと思ったがそれもなかった。地元の人にとってもそれほど思い入れのある池ではないらしかった。
公園にはかつて行われていたという、「たたら製鉄」のコーナーもあった。そういえばこの辺は「もののけ姫」の舞台でもある。映画で見たような民具が展示されていた。
郷土資料館にも行ってみたが、休館日で閉まっており、結局庄原を半日間ぶらぶらしただけで、終わった。唯一土産に買った「くにかね」というお菓子の中にちょっとした曲想資料が入っていたのみであった。
午前中には庄原を発ち、広島駅に向かった。広島ではまたもやお好み焼きを食べてから新幹線に乗り込んだ。行きに食べた店よりも美味しかった。
結論からいえば、本当にたいしたことのない旅行であった。しかし、庄原に行けたことと、国兼池を見ることが出来たことだけでも満足である。
3月12日 おろしそばを食う
先週の土曜日の話になるが、実家に帰る前に白河でそばを食べた。私はおろしそばが大好きなため、おろしそばを注文したところ、「普通大根にしますか、辛み大根にしますか?」と聞かれた。私は辛み大根を食べたことがなかったので、辛み大根のおろしそばを注文した。
辛み大根といえば、美味しんぼで海原雄山が「辛み大根はそばの旨みをもっとも引き出す薬味」と豪語していた程の食材である。一体どんな味なんだろうと興味津々であった。
そばが運ばれてきて、試しに少しだけ辛み大根だけを食べてみた。すると物凄い辛味がのどを走った。夏大根の一番先っちょの部分のような辛さである。頭をかきむしりたくなるような辛さである。しかし、美味しんぼによると、「そばと一緒に味わうと辛みは隠れてそばの旨みを引き出す」との事だったので、辛み大根をすべてそばつゆに入れて、そばを食べた。
そばは、美味しいどころか、痛かった。そばを食うたびに舌からのどにかけて痛みが走った。そばの旨みもへったくれもなかった。とにかく苦しい食事であった。しかし、いまさら後に引くことも出来ないため、我慢して全部食べた。
海原雄山の絶賛はなんだったんだろうと思った。彼は薬味としてねぎとワサビを使うことを「そばの風味を壊す」としてよしとしていなかったが、辛み大根よりははるかにいい思った。辛み大根を全部入れたことが良くなかったのだろうか。とにかくこれからは普通の大根のおろしそばでいいと思った。やはり食べ方が良くなかったのだろうか。何か知ってる方は辛み大根のおろしそばの食べ方を教えてください。
3月8日 職場の風土について
職場には風土がある。そしてそれは、日常生活の中でも自然と発揮されてしまうものである。私の所属する職場は言わば技術者集団であり、その風土は独特で、面白い。今日はそのことについて少し触れてみたい。
私の職場では、日常起こった現象にもすぐに技術的な専門用語を当てはめて表現したがる人が多い。例えば、あるラーメン屋を評価するときに「あそこはロットぶれが激しい」と言ったりする。ロットぶれとは、同じ製品を同じように作っても、同じ製品を作れないことを指す。「行く度に味が違う」くらいの意味である。
あるとき、先輩の車で一緒に実家に帰ったとき、宇都宮の有名餃子店「正嗣」で餃子を食べた。水餃子と焼き餃子を注文したのだが、水餃子の方は、私のは普通だったのだが、先輩の水餃子は皮が破れ、中身がはみ出していた。そのとき、先輩は、残念そうに
「耐ボイル性がないため破袋した」
と言った。「耐ボイル性」とは、内容物を熱湯で殺菌するときの包材の耐性のことであり、「破袋」とは、その熱に耐えられず、包材が破けてしまうことを指す。餃子の皮が破れたことをそんな風に表現したのである。
また、会社の人たちとコンビニなどに入ろうものなら、「これは、透明蒸着ナントカのナントカカントカ仕様だ」とか、「不良流出していないかなぁ」とか、あれこれ言ったのち、結局は最終ユーザーとして、他の客と何ら異なることなく購入するのである。一見知的な人種に見えるが、そうでもないところが面白い。
私も最近そういう傾向があり、いろいろなことを仕事と結びつけて考えてしまう。トイレに入ってトイレットペーパーを繰り出していると、「締りジワ(紙をロール状に巻き取ったときに入ってしまったシワ)がひどいな」とか、サランラップを使うときに「ブロッキング(ロール状に巻き取ったフィルムがくっついて上手く繰り出せないこと)している」とか、余計なことを考えてしまう。
しかし、役に立ったこともあった。餃子を大量に作ったとき、冷凍保存する前に、餃子に小麦粉をまぶしてから冷凍したのである。ブロッキング防止や滑り性向上のためにフィルムにふりかけるデンプン質の粉のことを思い出したのである。それによって、凍らせても餃子と餃子がくっついてしまうということを予防できた。
そういえば民研でもそういう風土はあった。音楽をなんでも理論的に評価したがる傾向である。「忍者ハットリ君」の主題歌を数人で聴いていたときに、「♪ハットリ君が〜やってきた〜」から「♪ござ〜るござるよハットリ君は〜」へ移行するときにかなり斬新な転調をするということに気付き、みんなで驚いたりしていた。この転調は同主調の転調(主音が同じで短調から長調へ移行する)なので、それほど珍しいものでもないのだが、導音もなしにいきなり変わるので強引な印象を受ける。その後、「二番に入るときにはどんな風に元の調に戻すのだろう」と興味しんしんで聴いていたところ、一番と二番の間にセリフが入り、そのスキに元の調に戻っていたため皆で「上手く誤魔化したな」などと言っていた記憶がある。
また、「ファミコンの『スーパマリオ』の音楽は凄い」と言っている人もいた。その人の話によると、「ジャズの心を理解していないと出来ない」そうである。確かにそういう観点から「スーパーマリオ」の曲を聴いてみると、かなり斬新で複雑な音楽であることが分かる。しかし、技術が進化し、画像がきれいになり、いい音色になるにつれ、その斬新さは消え失せてしまった。限られた音色と容量の中で搾り出すように作ったからこそ、いい音楽が出来たのかもしれない。
気付くとまたとりとめもなく書いてしまった。ともあれ何が言いたかったかというと、現在でも私の周りには面白いものがたくさんあるいうことである。そして、もっと面白くしていきたいということである。現在夜中の二時であり、すでに頭が働いておらず、なにを書いているのかよく分からない。
3月7日 午前四時のつぶやき
現在午前4時である。今やっと家に着いた。これだけ会社にいたのは入社して以来はじめてである。すぐに寝たいところではあるが、昨日風呂に入りそびれたため、今入りたく、風呂を沸かしているのと、久しぶりに書こうという気が起こったため、少々筆をとることにした。
最近テレビも新聞も見ないため、せめてと思い、通勤の車の中ではNHKのラジオをつけっぱなしにしているのだが、今日の会社からの帰りには古い名曲がたくさん流れていた。流れていた曲は、「卒業写真」、「心の旅」、「乾杯」、「あの素晴らしい愛をもう一度」などであった。どれも古い曲であるが、知っている曲ばかりである。「卒業写真」はしっかり聴いたのは初めてだったのだが、歌詞が拙く、素人っぽいと思った。しかし、それゆえに深く共感できる気がした。多分ユーミンは、わざと「素人っぽく」作り、聴き手との垣根を低くしようと試みたのであろうと思った。「心の旅」は想像以上に明るく歌うんだなぁと思った。民研で歌っている歌しか知らない私としては、抱いていた曲想とちょっと違うものだった。「乾杯」はついこの前「歌会」で歌ったばかりである。この歌は大好きだったので、車の中でいっしょに歌いつつ、勝手に盛り上がっていた。
そして、「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れ始めたところで、家に着いた。しかし、聴かないわけにはいかないと思い、シートを倒して聴いた。これが終曲だったから良かったものの、もっと続いていたら家についておきながら、車の中で一夜を過ごすというばかばかしい事態になっていたかもしれない。
こういう深夜番組はいいものだと思った。こんな時間帯であるが、トラックの運転手などでは聴いている人も多いであろう。なんとなくそんな人たちと想いを共有できたような、そんな気持ちに浸れた。
家に着いた後は、サトシに電話をしてみた。おそらく技術部追いコンで飲んでいるだろうと思ったので、祝福しようと思ったのである。
電話すると、飲み会はかなり荒れているようであった。サトシは一見普通に喋っているが、日本語を理解できない状態であるらしく、「おめでとう」という言葉に対して「ありがとう」と返すくらいの単純な受け答えは出来るものの、それ以外の日本語は理解不能であった。ヒアリングは駄目でも、話すことは出来るため、なにか喋ったらとりあえず「ともあれおめでとう」と何度も言っていたら、喜んでいたようであった。
そろそろ風呂が沸くので、ここらで筆を置きたい。遅くまで仕事をしていたとはいえ、学生時代に比べればよほど規則的な生活をしている。こんな時間に起きていると、「午前三時に学校で打ち合わせ」と聞いて、電車もないため、バイト後自転車で一時間以上かけて学校まで行ったことを思い出す。毎日のように日が変わるまでなんちゃら会議をしていたりもした。「それに比べればたいしたことない」と思うことにしている。
3月3日 三月初めのつぶやき
ついに三月となった。厳しい寒さも去りつつあり、肌に当たる風に温かみを感じることもある。しかし、私にとってこの温かみは、春への喜びを感じる一方、別れの切なさを連想させるものでもある。
この温かみを感じた頃、私は故郷の明石を去り、神奈川の小学校に転校した。また、この温かみを感じた頃に卒業を味わった。民研の追いコンも現在真っ盛りである。三月は一年の中で一番別れを味わう月だと思う。友人の引越し、先輩の卒業、そして自分の卒業、こういった思い出は常に春の温かみとともにある。
真冬の間は春が来ることをのみ考えて暮らしていたが、春が近づくと、そんなことを考えている。そして、そんなことを考えているうちに、去年の春合宿のことを思い出していた。
春合宿はちゃんとした卒業旅行をしていない私にとって私卒業旅行のようなものであった。芸術祭の審査員という、ばかばかしい役をまっとうするためだけにわざわざみんなで集まっていくのだが、結構強烈な思い出として残っている。「さじむ」でかなりばかばかしい夜を過ごした後、帰りの車の中ではみんな鬱気味だったのを覚えている。みんな家に着いたら後は今までとは違う日常があることを感じていたからであろう。
カオリとミヤチは車の中で親から電話が入り、「これからは一人でがんばるんだよ」といった内容の言葉をもらっていた。ミヤチは合宿では大暴れだったが、次の日からは会社の合宿研修であった。そして、横浜に着いてもみんなそのまま家に帰るのが嫌だったらしく、無駄に大勢で太鼓の皮の修理のために、海老名までドライブした。
また、入社式の前日のことを思い出す。入社式の前日は、ダケデの引越しを手伝い、その後ダイスケの引越し後の家で飲んだ。まだ三月なのに、ユキの家の真上に住んでいるという新入生が来たのを覚えている。
気付けばしみじみと書いてしまった。しかし、三月といえば、こういった思い出が多い。今年卒団する人たちは、私たちにとって初めての後輩である。心から祝福したいと思う。
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