2012年
2月のつぶやき
2月26日 日曜日
今朝は、いつも練習をしている柔道場で試合があるとのことであり、柔道場へ向かった。試合があるかどうかは分からず、もしなかったら適当に解散しましょうとのことだったので、気楽な気持ちで柔道場に行ったら、人が沢山いて盛り上がっていた。ハレの場という感じがする。
試合も非常に盛り上がっていた。日本よりも娯楽が少ないからだろう。こういう盛り上がり方はいいなぁと思った。団体戦とのことであり、私は先鋒として待っていたのだが、昼ごろまで待っても一回戦が始まらず、結局早退した。
午後からは会社の先輩の娘さんが出るというピアノ発表会へ。ヤマハ本社の会場に向かった。コンサートプロを目指しているという小6の彼女の演奏は凄かった。ちょっとあどけない印象を持っていただけに、ピアノに向かった時の表情の差が実にかっこよかった。私が笛を吹いたり柔道をしたりするのとは全く違う。プロを目指すとはこういうことなのか、と妻と話した。
観賞中にサチコが騒ぎ出さないか心配だったので後ろで立って見ていた。サチコは基本的にはおとなしくしていたのだが、あるとき突然「あんぱんまん!」と叫んだ。よく見たら、観客席に置かれている袋のひとつに小さいアンパンマンの絵があった。よくあんな小さいの見つけるなぁと思った。サチコにはアンパンマンセンサーみたいなのが付いているらしい。
帰り、買い物をして帰ったのだが、スーパーでも突然「あんぱんまん!」と叫んだ。私たちは振り返り、アンパンマン探しをしたところ、今度はお菓子のパッケージにアンパンマンを発見。サチコはアンパンマンが大好き。一日に100回くらい「あんぱんまん!」と言っている気がする。
家に帰ったら、柔道の先生から3位を獲ったというメールが入った。結局夜まで試合が続いていたらしい。
2月21日 味の素
今日の夕食はすき焼きであったが、若干味が足りないと感じた。そこで、ふと思いついて、「味の素」を振りかけてみることにした。「味の素」は先週もらった小袋があり、これを使ってみたくなったのである。
「味の素」のイメージは、良くない。化学調味料であり、自然食とか、スローライフとは対極にあるものであろう。料理の際、出来るだけ使わないほうが良いとされる。
私は、すき焼きを少量取り分け、恐る恐る味の素を振りかけて食べてみた。すると、突然味が豊かになった。何か、素材の味がより引き出されたような感じさえ受けた。それを見ていた妻も、私に習って味の素を振りかけて食べたところ、美味しいと言った。
私は、調子に乗って味噌汁にもかけてみた。やはり美味しい。「何か足りない」と思っていたところを見事に補い、味は豊かさを増し、味が立体的になる。私たちは、味の素は凄いと絶賛しながら夕食を食べた。味の素は決して自分を主張しない。自分は裏方に徹し、料理の味自体を引き立てる。だから「味の素味」などという料理はないのだ。「味の素」というネーミングセンスも素晴らしい。等々である。
そんな風にして、今日の団欒は過ぎていった。
2月20日 環境影響評価書
今日のニュースで、普天間飛行場の辺野古への移設に向けた環境影響評価書について、沖縄県の中井真知事が知事意見を提出したというのを見た。知事意見によれば、本評価書の示す措置では環境保全は不可能だとして、175件もの指摘を行ったという。
県内移設か県外移設か、という意見を述べるには、私はあまりに勉強不足であり、ここでは述べられない。私がこのニュースで感じたのは、「環境影響評価」という手法に対する幻滅である。
大学で環境問題について学んだとき、私が最も惹かれたのが環境影響評価という手法であった。当時、企業によるさまざまな環境アピールがある中、どれが本当に効果のある活動なのか見えないと感じていた。そんな中、環境影響評価は客観的で正しい選択をするための素晴らしい手法だと思った。飲料はペットボトルに入れられるべきなのか、それとも瓶に詰められるべきなのか。オムツは布にすべきか紙にすべきか。農薬は使うべきか否か。例え直感と外れる答えがあっても、それは十分なデータに裏付けられれば納得できる。よかれと思って逆効果になることもない。
今日のニュースはそれとは程遠かった。本来、環境影響評価の結果は、純粋に技術的であり、思惑が入り込む余地があってはならない。しかし、今日のニュースでは、環境影響評価が客観的であるということを逆手にとって、自分の主張を押し通すために利用されている。今回のニュースで、環境影響評価という手法が、まだまだ実用とは程遠いということを感じた。
2月19日 世界一の花
昨日は、家から少しはなれたところの果樹園に遊びに行った。果樹園と言っても、殆どテーマパークのようになっており、凄く広い。目的は、世界一大きい花「スマトラオオコンニャク」の花を見るためである。この花は、数年に一度しか咲かず、咲いても数日で枯れてしまうらし。じゃかるた新聞にそろそろ見ごろだとの記事があったので、せっかくだからと見に行くことにした。ちなみにこの花のインドネシア名は「bunga bangkai」、日本語では「死体花」と訳せる。花が咲いたとき、腐敗臭がするためらしい。実に不思議である。
テーマパークに着いたら、ドリアンやナスなどの着ぐるみを着たマスコットがいた。とりあえず、逃げようとするサチコを捕まえてドリアン君と写真を撮った。ふと見れば、ドリアン君の手には金が握られている。ここではマスコットにチップを渡すのが習慣なのか。マスコットと金、という組み合わせに違和感を覚えつつも、とりあえず2000ルピア(約20円)を握らせた。
インフォメーションで「死体花はどこですか?」と聞いたら、後ろを指差して「それです」と言われた。後ろを見れば、確かにあった。花は土からいきなり花だけが生えたようになっており、葉も茎も見当たらない。本当に花だけなのである。実に不思議である。腐敗臭がするとのことであったが、よく分からなかった。
死体花を見た後、蝶の家を見たり、「トゥクトゥク」という名前の足漕ぎの人力車のようなものに乗ったりして遊んだ。トゥクトゥクは、パンフレットで見て、「こういうのでのんびり公園を一周できたら楽しいだろう」と思っていたのだが、トゥクトゥクで遊んでいいのは、限られたコースだけであった。また、トゥクトゥクは非常に疲れる乗り物であった。乗って漕ぐよりも、後ろから押したほうがまだ楽であった。妻と汗だくになりながらトゥクトゥクを漕ぎ、すぐに返却した。
そんな感じで満喫し、帰宅した。帰りにもう一度死体花を見たところ、すでにしおれていた。私たちが見たのが最後の咲いている状態だったらしい。また咲くのは数年先である。それにしても、この果樹園の殆どをまだ見ていない。サチコがもう少し大きくなったらアスレチックとかも行ってみたい。
2月12日 未来少年コナン
会社の先輩に借りて、「未来少年コナン」を見ている。宮崎駿氏が演出した初めてのアニメで、1978年にNHKで放送された作品である。1978年はまだ私は生まれていないが、恐らく高校くらいの時、再放送でやっていたのを見ていた。今日は第二回まで見た。久しぶりに見たけど、やっぱり面白い。
「未来少年コナン」では、2008年7月、世界戦争で核兵器を超える「超磁力兵器」なるものが使用され、世界が滅亡した約20年後の世界が舞台となっている。2008年と言えばもう4年も前の話である。あの頃から見たら2008年というのは遠い未来であったらしい。
そう考えれば、私が子どもの頃は、将来人類が滅亡して云々、というストーリーが多かったような気がする。今思えば冷戦の影響であった。米ソが核兵器を持ち、いったん戦争となれば、それはいわゆる「ボタンの押し合い」であり、それが本当に行われれば地球はただでは済まない、と当時の大人から教えられた。私たちはそれを信じてどきどきしていた。それに関する漫画などについても、臨場感を持って読んだ。それ以外にも、環境汚染の拡大や人口爆発による破滅的な未来について教えられ、未来は明るくないと思っていた。宮崎駿の著書「出発点」によれば、「未来少年コナン」の原作にあたる「残された人々」(アレクサンダー・ケイ著)ではソ連とアメリカの観方が絡んでおり、それが好きではなかったとある。
結局、冷戦は回避され、ノストラダムスの大予言は外れ、原油もとりあえずは枯渇せずに現在に至る。これは本当に喜ばしいことであり、私たちの世代にとっては、改めて振り返れば「ほっと胸を撫で下ろした」感じである。
ともあれ、「未来少年コナン」少しずつ楽しもうと思っている。
2月11日 変わらないこと
NHKスペシャル「天空の棚田に生きる〜秘境 雲南〜」を見た。約1300年かけて築き上げられた棚田に住むハニ族のドキュメンタリーである。彼らの労働は極めてきつい。一年を通じて田の整備から収穫まで、働き詰めの一年を過ごす。彼らにとって尊いことは「毎年同じことをすること」である。変わらぬ一年を続けることが尊い。
また、「地球でイチバンの巨大水上集落〜カンボジア・トンレサップ湖〜」を見た。水上に家を浮かべ、学校、交番、店、カラオケまで、あらゆるものが水上にある。「なぜ水上に住んでいるのか?」という質問に対し、最も多かったのが、「生まれた時から住んでいるから」であった。「今さら陸には住めない」らしい。私たちが水上で生活していることを不思議に思うのと同じくらい、彼らにとっては陸で生活することが不思議なのかもしれない。
これらの番組を見て感じたのは、「変わらないこと」の尊さである。ある土地で生まれ、そこの慣習に従って毎年同じ生活をし、そこで成長する中で役割を持ち、その土地で死ぬ。こんな風になりたいと、強く憧れた。
私が今働いている分野では、「変革」が求められる。いつまでも同じことをやっていては生き残れず、常に成長し、常に変化し続けなければ激化する国際競争に勝てないと言われるし、私も言う。本来は、変化しなければ生き残れない世界というのは、不幸であろう。成長し続けなければ潰れてしまうというのも、組織としては異常である。最近テレビや新聞を見ていると、「新興国」という言葉が頻発する。あらゆる日本企業が「新興国で高まる需要」なるものにあやかろうとしている。国内市場だけではやっていけない、というのが理由らしい。「グローバル競争」なるものに勝つことがどれだけ意味があるのであろうか。この状況が決してよいとは思わない。
1300年前、ハニ族がこのような不便な土地に住み始めたのは、他民族に土地を追われたからだという。彼らはその後、1300年かけて、安定した生活を手に入れた。トンレサップ湖は、一年を通じて水量の増減が激しいため、湖畔に住むと毎年洪水に見舞われる。その為、いっそ湖に家を浮かべて住んだほうが安定しているらしい。
まあ、ハニ族や、トンレサップ湖で生まれたかったと憧れるのは、テレビでいいところだけを見ているからかもしれないが。
2月5日 人口について
厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所によれば、2060年の日本人口の見通しは8674万人となるという。65歳以上が5人に2人を占め、少子高齢化が加速する。
もちろん、社会保障制度等の難しい課題はあるものの、私は概ねこの傾向を悲観的に捉える必要はないと思っている。というか、かなり理想的な人口減少ではないだろうかと感じた。
これまでの歴史において、爆発的に繁栄した生物および人種がある時期において急激に減少する現象はたびたび発生している。イースター島では、かつて人口爆発により、人間が必要な資源が自然から得られる資源の量を上回り、文明は崩壊し、急激な人口減少を引き起こした。人間だけでなく、生物の歴史においても同様の個体数の爆発的増加が原因で大量死が発生することがあった。いずれにせよ、人口(個体数)が十分に減少してバランスが取れた時点でその減少は止まり、生き残った人々(個体)がそこで暮らすことになる。しかし、その過程は多大な不幸、不愉快を伴う。私たちは、これを回避しなければならないのである。
そうしないためには、人口は「微減」が望ましい。日本のこれからの人口減少は、労働人口の低下、高齢者数の増加などを引き起こす。しかし、それは突如とした衝撃的な減少ではなく、徐々に進行する軟着陸である。それは、私たちの生活にある程度の不愉快、負担をもたらすだろうが、致命的というほどではなさそうである。私たちに知恵を絞る時間はある。
また、それに伴い、経済活動、企業活動は常に成長し続けなければ存続できないという神話を見直さなければならない。もしこれが神話でなく事実であれば、そうではない成功例を示さなければならない。
こう考えるに至った出典は何であったかと考えて色々調べていたところ、「市民のための環境学入門」(安井至著・丸善ライブラリー)であったらしい。私は2005年にこれを読み、つぶやきに書いていた。本書によれば、地球環境を解決する目的を「『人口爆縮』を防ぐ為」と定義している。『爆縮』とは、ある種の生息数が突如激減することをいう。絶海の孤島等の生態系では、しばしばこういう現象が起こる。人口爆縮を回避し、世界人口を軟着陸(微減)させることが、地球環境問題を解決する目的であるという。こういった本質的なことが書かれている本はなかなかない。
もう一度読み直してみようと、本棚を調べてみたが、見当たらなかった。売ってしまったらしい。ところで、一方で世界人口は70億人を超えた。私が小学生のときは50億人と習った。ZABADAKの「遠い音楽」は「♪50億のコーラス」と歌っている。
こっちも心配である。
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