2013年
7月のつぶやき
7月29日 耳鳴り、ナシゴレンカンビン
先週の土曜日、家からすぐのところにあるサテ(串焼き)の屋台へ、夕食のおかずを買いに行った。椅子に座って、炭火で煙をもうもうと上げながら焼きあがるサテを見ながらのんびり待っていると、突然景色がぐらついた。先週も似たような症状があった。立ち上がれば、ふらふらした。
私は、焦った。家は、道路を渡ったところにある。道路の交通量は多く、突然倒れたりしたら命が危ない。隣の兄ちゃんに、一緒に付き添って道を渡ってもらおうかとも思ったが、それも怪しまれるので、サテを受け取って、車が少なくなったのを見計らって何とか道路を渡り、家に着いた。
ここのところ続く耳鳴りと言い、突然のふらつきと言い、ちょっと心配である。急遽、31日に一時帰国することにした。本来は来週に出発する予定だったのだが、時間を取って日本でじっくり検査することにしたのである。
日曜日は、柔道をした。耳鳴りの原因は、ストレス、運動不足、睡眠不足と言う。大いに体を動かして、楽しく昼食を食べれば、状態は改善した。
今日は、仕事を終えて、リコーダークラブの人、会社の人と共にナシゴレンカンビン(羊肉チャーハン)の屋台に行った。日本に帰る前に、是非食べておきたいと思っていたのである。以前、フリーペーパーで見た、豪快な写真が忘れられなかった。前回のリコーダー練習の後、食事をして、偶然ナシゴレンカンビンの話になり、行くことにしたのであった。
彼女は、ビールや野菜まで持ってきて下さり、道端の椅子に座ってそれらをつまみつつナシゴレンカンピンやサテカンビン(山羊の串焼き)を食べた。とても美味しく、楽しい時間を過ごした。有楽町のガード下で飲んでいるような錯覚に陥る。
帰国前のいい思い出となった。
7月24日 Yes,No
じゃかるた新聞の一面には、「みなみ十字」という小中学生の作文を掲載するコーナーがあるのだが、昨日の作文が考えさせられたので掲載したい。
ぼくの一番好きなもの(小学部5年)
「今日も見られないかな」と、ぼくは悲しくなりました。僕はインドネシアに来てまだ一ヶ月しかたっていませんが、星を見たことがありません。
僕はインドネシアに来る飛行機の中で、ジャカルタで星が見えるかなと考えていましたが、来てみてがっかりしました。車やバイクの排気ガスなどで空の星が全く見えません。
緑が少ないので空気があまりきれいにならないのだと思います。ジャカルタはちょうど今発展途中の国なので発展を優先して、環境のことにはあまり目を向けていないようです。そういったことが空気が汚れる大きな原因だと僕は思います。
それでも僕はインドネシアの人たちは環境に目を向けてくれると信じています。なぜなら、お父さんがインドネシア人は日本人に親しみを持っていると言っていたからです。
インドネシア人と日本人の仲のよさを活かして工場からの煙や車の排気ガスがきれいにできるようになり、たくさんの星が夜空にきれいに見られるようになってくれたらすごくうれしいと思います。なぜなら、僕の一番好きなものは「星」だからです。
少し昔は、ジャカルタも満天の星空が輝いていたに違いない。それを工場の煙や車の排気ガスで汚してしまったのは、インドネシア人が環境に目を向けていないからではなくて、私達外国人のせいであろう。環境基準が緩いことをいいことに、環境対策を怠り、安い人件費でモノを作り、現地人の物欲を刺激して大量にモノを売る。
一方で、外国企業は、現地人の雇用を生み出し、現地スタッフに技術力を伝授し、生活を豊かにしている。遅れて環境対策も徐々に行われていくことだろう。良いとか悪いとかということは、一概に言えない。
ブータンに新婚旅行に行ったとき、あちこちにゴミ箱が設置されており、「ここに捨てなさい」みたいなことが書いてあった。現地ガイドによると、ブータンではゴミは家から投げ捨てる習慣があるらしく、これを是正しようとしているらしい。
道が舗装されておらず、かつゴミが木の葉や果実の皮などであれば、いずれ土に返るから問題なかった。しかし、道路は舗装され、ゴミはプラスチック製になったらそれが問題になった。インドネシアでもゴミはその辺に投げ捨てるのが普通になってしまっているが、同じようなものなのだと思う。
私は、先日の参院選は投票しなかったが、投票するとしたらどこか、ということは、未だに答えられない。こういうとき、私は何かひとつを選ぶことをためらう。TPPは良いのか悪いのか、原発は推進すべきか廃止すべきか、靖国神社は参拝すべきか否か、こういった問題に、私は明確な自身を持って答えることが出来ない。どの問題にもいい面と悪い面がある。
実は、そういうことは明確に答えられないのが普通なのではないかとも思う。人の意見と言うのは、常に揺れ動いていて、その都度YesであったりNoであったりする。むしろ、最近の「推進派」「反対派」みたいに明確に分けてしまう風潮の方が危険なのではないか。
7月20日 最近の生活
妻子が日本に一時帰国して、一週間になる。昨年、キャベツ炒飯ばかり作って食べていたら、体調が悪くなってしまったため、気を使ってはいる。
とは言うものの、買った食材が、なかなか減らない。先週、キャベツをひとつ買ったのだが、食べても食べてもなくならない。なくならないからには、次の野菜を買う気にもなれず、足りない栄養は外食で補おうということにしている。
外食といえば、今日、リコーダークラブの練習の後、近くのインドネシアレストランで食事をした。食事をしながら、インドネシア料理は美味しいという話で盛り上がり、今度、屋台やローカルレストランなどで食べようということになった。道端のナシゴレンカンピン(羊肉チャーハン)の屋台で、ビールケースに座って食べるらしい。現地人の間でも有名で、大繁盛しているという。
こうやって、ローカルの食事を受け入れ、楽しめるのは女性の方が多い気がする。こんな話を会社でしたら、変人扱いされる。殆ど食べたことが無いのに、頑なにインドネシア料理は不味い、危ない、と主張する。インドネシアではインドネシア料理が美味しい、日本に帰ったら日本のご飯も美味しい、というほうが幸せだと思うのだが。
ところで、今日は携帯電話を買った。仕事でカメラを使うのだが、デジカメを持ち歩くのも面倒くさく、かといって現在の携帯のカメラは性能が悪いため、ちょっといいものを買おうと思ったのである。電気屋でSAMSUNGのスマホを見ていると2万円弱のもの、3.5万円程度のもの、7万円以上するものがあった。2万円弱のものは、現在持っているものと殆ど同じであり、かと言って携帯に7万円も出せないと思い、3.5万円のものを買った。かなり液晶が大きい。
家に帰っていじってみたが、とても片手では操作できない。最近の携帯は大きい。携帯の技術革新は、小型化の一途を辿っていたが、ここに来て大型化し始めたというのは、なんとなく面白い。
それにしても、携帯の買換え時というのは、ストレスがたまる。従来のと同じ機能を探すだけで一苦労だし、何となく、着信音まで従来のと同じものを探してしまう。ようやく何となく使えるようになったところで、今に至る。
携帯設定のストレスで、また耳鳴りが酷くなった気がする。もう寝よう。
7月15日 運命、考えすぎ
インドネシアは、日本以上に貧富の差が激しい。持てる者と持たざる者の差というのを嫌でも考える。仕事の場においても、現地従業員と、駐在員とでは、待遇は雲泥の差である。異国で働いているということを差し引いても余りあるのではないかと感じる。
その差は、個人の能力や努力の差とは言い難い。否、個人の能力や努力でさえ、たまたま能力がある遺伝子を持っていたり、たまたま努力をするのが好きな性格であったに過ぎない。
私は、偶然日本という国に生まれ、偶然大学まで行ける環境にあり、偶然会社に入ることが出来、なんとか結婚も出来、今に至る。私の人生は幸せで、不服は無い。それを自ら勝ち取った人生と言うには、あまりにおこがましい。偶然の環境と、周りの人に恵まれたことにより、たまたまこうなったに過ぎない。
先日のパーティで、私とある現地従業員の顔が似ているという話になった。なぜか、私に顔が似ている人はどこに行ってもいる。その時、彼は「顔は似てるけど、運命が違うんです」と冗談ぽく言った。別に彼は皮肉を言ったつもりもなく、普通の話の流れで言ったのみであった。
その通りだと思った。人として差があるとは思えない。たまたまこうなっているだけなのである。また、たまたまこうなっただけなのだからこそ、持てる者として、出来る限りの貢献をこの国でしなければならないとも思う。
話は変わるが、最近耳鳴りがして、仕事を終えて耳鼻科に行ってきた。聴力検査もしたところ、軽度の難聴が認められた。医者によれば、原因はストレスと「考えすぎ」(terlalu banyak pikiran)だそうである。これを「考えすぎ」と訳すのが適当かは分からないが、あまり頭を使いすぎてはいけないということだろう。別にストレスを感じている訳ではないので、疲れか何かであろう。いずれにせよ、考えるのが仕事みたいなものだから、考えるのを止めたら仕事にならない。
まあ、今はもう考えるのは止めて寝よう。
7月9日 宗教について
明日から、ラマダン(断食月)が始まる。ムスリムは日の出から日没まで一切の飲食を断つ。こういう行事は日本には無く、異国に来たことを改めて考える。だからと言って、全く異文化の奇習だとも思わない。ただ、「そういうものだ」と思うだけである。
宗教に対する考え方は、インドネシアで働き始めてからだいぶ変わった。私は、宗教は何かと聞かれても、うまく答えられない。とりあえず仏教と答えることにしているが、その答えに自分自身がピンと来ない。日本人は、宗教に対する意識が希薄である。しかし、それは日本がむしろ特殊で、世界の殆どの国では、殆どの人が宗教を信仰している。
世界では、宗教対立が絶えない。エジプトやミャンマーなど、民主化プロセスが進むことで、宗教の問題が露呈している。逆に、異教徒どうしが隣人で仲良く暮らしているといった内容のドキュメンタリーがテレビで流れると、あたかも世界の奇跡のような伝わり方をすることがある。
職場では、イスラム教徒、キリスト教徒、そして私達宗教感覚の無い日本人が働いている。少数だが、仏教やヒンドゥー教徒もいるだろう。当たり前だが、みんな普通に仕事をしている。宗教の壁があるとしたら、昼食の際、なんとなく同じ宗教の者どうしが集まって食べていることくらいだろう。
世界でもこれが普通なんじゃないかと思う。異教徒どうし、平和に暮らす方がむしろ普通で、ごくまれに通常と違った考え方を持った人が問題を起こしているのではないかと思う。それがニュースなどで取り上げられるから、私達日本人にとって、あたかも宗教というのはお互い相容れない強硬な壁のごとく映るのかもしれない。
先に、「宗教に対する考え方は、インドネシアで働き始めてからだいぶ変わった」と書いた。これは、「意外にみんな普通じゃないか」という点で変わったのである。
7月7日 サチコ初試合
今日は、サチコが初めて柔道の練習試合に参加した。柔道クラブでは、たまに練習後に子供達に紅白試合をさせることがあるのである。3〜4歳の子供もたくさんいるのだが、2歳児はサチコだけである。
サチコは人見知りな性格で、父とはそれなりに練習できるのだが、他の子供達はおろか、他の大人と練習させようとするだけで泣いてしまうため、試合は到底無理だろうと思い、これまで参加させていなかった。
今日は、思いきって試合に参加させてみた。来週から妻とサチコが日本に一時帰国することもあり、サチコはしばらく練習には来れない。ちょっとした記念になればと思った。
サチコの番が来た。相手は三歳の男の子、リント君である。サチコは試合場に上がるだけで、すでに涙目であった。
すぐに泣き出して試合にならないかと思いきや、サチコはとりあえずリント君と組み合い、試合らしきことをしていた。2歳と3歳であり、当然どちらも投げ技などは出来ないものの、組み合った状態で動き回り、1分の試合を終えて、引き分けとなった。あたりはチビッ子どうしの試合の愛らしさからか、拍手に包まれた。
試合後の礼をして、サチコは誇らしげな顔をして帰ってきた。「よく頑張った」と、抱きしめて褒めてあげた。サチコは自信がついたらしく、次の試合で負けて泣いて帰ってきた4歳の「先輩」に「いたいのいたいのとんでいけ」をしてあげるなど、余裕を見せていた。
こうやって少しずつ成長するのかと、しみじみ思った。
7月2日 自己紹介
先日、夕食を終えて、ソファに寝転がり、お腹の上にサチコを乗せてサチコと話をした。
サチコは最近、幼稚園で習ったのか、自己紹介が出来るようになった。非常にゆっくりで、たどたどしいところが可愛い。
「はじめまして。わたしはたどころさちこです。にさいです。よろしくおねがいします。」
私も負けまいと、自己紹介をした。
「初めまして。私は田所父ちゃんです。33歳です。よろしくお願いします。」
そして、自己紹介をいかに早口で言えるかの対決をした。そのうち、ふと思いついてサチコに以下の自己紹介をさせてみた。
「はじめまして。わたしはたどころ『さのじ』です。にさいです。よろしくおねがいします。」
「さの字」は、浅田次郎の「天切り松 闇語り」の好きな妻が呼ぶサチコのあだ名である。サチコは、この自己紹介が面白いのか、殆ど最後まで言えずに吹き出してしまう。箸が転がっても笑う年頃らしい。そのうち慣れてきて、
「はじめまして。わたしはたどころ『さのじ』です。さんじゅうさんさいです。よろしくおねがいします。」
と、年齢詐称までする始末であった。こうやってしょうもないことをサチコとしているだけで、この上無く幸せである。
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