2013年
11月のつぶやき




11月25日 耳鳴り、風景

 昨日は、耳鳴りが酷く、右耳がほとんど聴こえなくなってしまった。耳鳴りもギリギリという機械音というか、金属音に近い音がなっており、非常に不愉快であった。試しにイヤホンでリコーダーの音を聴いてみたところ、右耳はほとんど音がしなかった。

 心理的にもかなり落ち込んだ。インターネットなどで調べていても、難聴や耳鳴りは治らないと書いていたりする。あまり気にしないようにして受け容れること、反対側の耳を大切にすることが大切、などと書いている。このまま私の耳は聴こえなくなるのだろうか。そういうことを考えていると、何をやっても、何を考えても楽しいと思えなくなった。仕事もやる気が起こらず、早めに帰った。家ではとりあえずランニングをして、薬を飲んで寝た。

 そして今日、調子は少し良くなっていた。耳も昨日よりはよく聴こえる。このまま良くなるかもしれない。現金なもので、そう考えるとやる気がまた出てきた。


 ふと、昔見た文章を思い出した。「Lang8」という語学を学ぶサイトで、学びたい言語で日記を書いて母国語話者に添削してもらい、自分も他の人の日記を添削してあげるというサイトなのだが、私が添削してあげたインドネシア人女子学生の書いた文章である。

こんにちは。。。Chilviです。
今日、自分のけいけんをスピーチします。
私は大体友達とUPIの公園で遊んだり、座ったり、GOSSIPをしたりします。
それはもうしゅうかんになりますけど、公園で座ったら、道路にはしている車がよく見えます。
バスでは外国人とかよく見えますから、いつもバスを通る時、手を上げてBYE-BYEします。
ある日座っている時、遠いからバスが道路にはしていました。私もそのバスで手を上げていました。以外にバスが止めて、ぴょこんとKNEKさんが私に手を上げながら、“Hayu neng hayu neng”と呼ばれました。やっぱり旅行のバスではなくて、Indramayuのバスでした。はずかしかった。あんながあったらはいりたい。

 間違いもあるが、雰囲気はよく伝わってくる。公園でのんびりおしゃべりしながら、バスに手を振る女の子達。ごみごみしたジャカルタの風景。牧歌的な文章で、読んでいると、情景が目に浮かぶようである。

 今では普通になったが、インドネシアに赴任する前は、こういうことで色々インドネシアの風景を想像したものであった。


11月24日 有難う

 最近、サチコも「ありがとう」が言えるようになってきた。そのたびに私は「どういたしまして」と返す。こういうことを繰り返すうちに、「ありがとう」「どういたしまして」という言葉の意味を考える。要するに、こういうことであろう。

ありがとうございます→「こんなにしていただいて、有り得ないほどのことでございます」
どういたしまして→「はて、どうかいたしましたかな?」

 英語であれば、「Thank you」「Your welcome」

  「あなたに感謝します」
  「あたなへの歓待です」

 インドネシア語であれば、「Terima kasih」「Sama sama」

  「あなたの恩恵を受けます」
  「お互い様です」

 といったところか。日本語が他と大きく違うところは、感謝する側とされる側の、行為に対する認識が天と地ほどちがうことであろう。他の言語であれば、感謝される側も感謝されるべきことをしたという認識が十分にあるのに対し、日本語の場合は、「有り難いこと」に対して、「どういたしまして」(なんのことですかな?)と、まるで何もしていないといった態度を取っているのである。「親父の小言」の「恩は遠くからかへせ」に通じる気がする。

 もちろん、現在では慣用化されて「ありがとう」も「Thank you」とさして変わらないであろう。しかし、これが例えば日本にチップの習慣が無いこととか、外交が下手だということと関係があるような気がする。

 そして、こういう言葉に日本人の奥ゆかしさを感じて誇らしくもあるし、面倒臭いことだとも思うのである。


11月19日 耳鳴り

 日本では、耳鳴りを診てもらうために、「アステル心身調律院」というところに行った。「耳鳴り」「耳詰まり」などで検索すると、トップで引っかかる。若干怪しい雰囲気かとも思ったが、出来ることはやろうと思い、行った。

 そこへは、これまでの診断書やらこれまで取っていた日々のデータなどを持って行った。そして、どういった薬を飲んだら症状がどうなったとか、酒量や運動量との関係などを細かく説明した。

 すると、「あなたの症状は『とらわれの症状』ですね」と言われた。先生によると、こうして耳鳴りを「悪いもの」としてとらえ、それを消すために色々な努力をしていること自体が、耳鳴りの原因となっているという。耳鳴りを治したいという欲求が、治らない不安となって、悪循環となっているようなのであった。そして、「耳は鳴っていてもよい」「耳は詰まっていてもよい」という気持ちでいなさいとのことであった。

 ここ半年、耳鳴りに振りまわされ、色々な治療を試みた。

 耳鼻科では、多くの薬を与えられ、細かい飲み方を教わった。
 メニエールセンターでは、逆に薬は飲むなと言われ、有酸素運動を勧められた。
 そして今日は、そもそも治療をする必要は無いと言われた。

 もちろん、何が正しいかは分からないし、そもそも耳鳴りや耳詰まりというのは、治療が難しいらしい。こういうとき、私はとりあえず信じることにしている。サイモン・シンの著書「代替医療のトリック」で一番感じたのは、代替医療がいかに胡散臭いかということよりも、プラセボ(偽薬)効果がいかに凄いかということであった。こういう性質の話は、全面的に信じることから始まる。

 そして今のこれを書いている瞬間、耳鳴りの症状は割りと軽くなっている。


11月18日 しゅう君に会う

 祖母の葬儀のため日本に帰っていたとき、父に会うために妹と実家の明石に向かった。そのとき、どうせならしゅう君の父親にも会いに行こうということになり、妹が電話をしたところ、偶然にもしゅう君が来ているという。本当に偶然なのだが、彼も祖母の葬儀のため、たまたま明石にいたらしい。

 しゅう君は、幼稚園、小学校時代に恐らく最も一緒にいた時間の長い友人であろう。ファミコンをしたり、ミニ四駆をしたり、いかに高いところから飛び降りれるかを競ったり、いかに急な坂をブレーキをかけずに自転車で降りたりするかを競ったりして遊んでいた。一歩間違えば大惨事になるような遊びもしていたが、それが今の私の運動神経や危険予知能力の原点になっている。

 しゅう君は、可愛らしい奥さんと2歳の娘がいた。そして、上記のような懐かしい話で盛り上がり、別れた。

 父の家に行く前に、昔住んでいたマンションと、昔よく遊んだ「さざんか公園」を見に行った。マンションは、まだ健在であった。もう築50年くらいなのではないかと言う。その脇にある「さざんか公園」も昔のままであった。

 昔よく飛び降りて遊んでいた、ジャングルジムや、マンションの踊り場は、今見ても結構高かった。よくこんなところから飛び降りていたもんだと、我ながら思った。


11月17日 祖母を送る

 11月12日、朝起きて準備をしていたら、母から電話が入った。祖母が、息をしていないという。私は、その日の夜の便で日本に帰ることにした。

 神戸の実家は、子供のころ大好きであった。祖父母や叔母もわがままを聞いてくれ、美味しいものが食べられて、やりたい放題であった。また、家には無い餅焼き網や鰹節削りなどもあり、楽しい場所であった。

 その後、阪神大震災により家は焼けてしまったが、無事であった。我が家に避難してきている間、一緒に住めるのが嬉しかった。

 学生時代、キムチを作って祖母にあげたところ、喜んで食べてくれた。

 サチコが生まれたときは、わざわざ福島まで会いに来てくれた。

 私は、海外に住んでいることもあり、家族との繋がりが希薄になっている。それは、ある意味煩わしさからの解放でもあるのだが、一方で そういった煩わしさに積極的に関わろうとしていかないと、自分の原点を見失いそうな不安も抱いている。  祖母の顔は、穏やかであった。92歳、大往生と言っていいであろう。入院生活を終え、これから本格的な介護生活を始めようとした矢先のことであったらしい。

 祖母の冥福をお祈りします。


11月10日 近況

 昨日は、ジャカルタジャパンクラブ個人部会のイベントがあった。各サークルが部員を勧誘するイベントである。柔道部も、畳を運んで日本人学校まで行き、参加した。

 柔道部では、来た人たちに簡単な技を教えて、投げてもらうというイベントをやった。小さい子供でも、派手に投げられてあげて受身を取れば、いかにも大きな大人を投げ飛ばしたように見えるため、なかなか好評であった。これでまた人が増えるといいのだが。


 ここのところ、耳鳴りがまた酷くなってきた。ネットで色々見ていると、やはり耳鳴りの治療は難しいらしい。不安やストレスが耳鳴りを誘発し、その耳鳴りでまた不安やストレスがたまって、、、という悪循環になるようだ。耳鳴りを気にしないようにする、という時点ですでに気にしているとか、かなり哲学的な話でよく分からない。


 今日、部屋でゴロゴロしていると、妻が大声で呼んだ。行ってみると、サチコが初めてトイレでうんちをしていた。これまでおしっこはだいぶ出来るようになっていたが、うんちはできなかったのである。便器を覗くと、浅田次郎が何かのエッセイで書いていたような「見事な一本糞」という感じの、太くて立派なうんちであった。

 妻は、記念にと、うんちとその横でピースをするサチコの写真を撮っていた。


11月2日 いつか帰るところ

 最近、リコーダークラブの練習にサチコを連れて行っている。他にもお子さんを連れているお母さんがおり、その子とお菓子を食べたり、親のリコーダーの邪魔をしたりしながら練習に付き合ってくれている。

 12月の演奏会に向けて練習を始めたのだが、レパートリーの中に、ファイナルファンタジー\の「いつか帰るところ」という曲があった。私はリコーダークラブで初めて知ったのだが、古風な曲調で、原曲もリコーダーらしい。

 それを練習していると、サチコが「いつかかえってるところ、すき」と言った。たしかにサチコは、短調の曲も結構好む。こんな曲が好きとは、変わった娘だと思ったが、間違いなく私の娘だとも思った。

 せっかくサチコが気に入ったのだからと、早速多重録音した。

http://www.youtube.com/watch?v=wwng6I42T6w

 芸術の秋、である。

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