2014年
1月のつぶやき




1月29日 きゃりーぱみゅぱみゅについて

 最近、サチコがきゃりーぱみゅぱみゅにはまっている。特に「にんじゃりばんばん」という曲がお気に入りで、頻繁に歌っては、踊っている。

 YoubuteでPVを見たが、とにかくぶっ飛んでいる。どうすればこんなに訳の分からないことを思いつけるのだろうかと思う。しかし、なんとなくずっと見てしまい、歌は耳に残る。

 きゃりーぱみゅぱみゅは、元は極度の人見知りで、人前に出るのが大の苦手であったという。それでも、自分の感性だけを頼りに周囲になんと思われようと、自分のスタイルを貫いている。その姿勢は、海外でも受け容れられ、世界的な人気だという。

 以下は「にんじゃりばんばん」の歌詞。

♪飛んでけ にんじゃりばんばん 常識を変えたら 驚きが日常に
♪ふんわり煙に巻き 空をかけるのは にんにんにん 君だけだから
♪どんな色にもならないで きみは町を染めるよ
♪広がってゆくね ころがる巻物みたいな 道をつくる

 常識に挑む、自分自身に対する応援歌であろう。

 そんなことを思いながら、リコーダー4重奏に編曲してみた。

http://www.youtube.com/watch?v=4GmpLgC0UkQ


1月23日 年を取る

 遅ればせながら、先週の日曜日は私の誕生日であった。フェイスブックなどでコメントをくれた方々に感謝申しあげる。

 誕生日の夜は、家族で超高級インドネシア料理店に行った。ガイドブックを見て、高そうな店を選んだのだが、本当に高かった。味はもちろんいいのだが、そこらにあるローカルレストランの方が、ワイワイできて楽しいし、私には向いている。値段は、文字通り桁が違う。

 食事をしていると、ギターの楽団がやってきて、歌い始めた。インドネシア料理レストランでは、判を押したように、こういうのがある。私は、面倒くさくなった。こういうとき、チップはいくら渡すべきだろうかとか、しょうもないことを考えてしまう。うまくリクエストして、一緒に盛り上がれるようになれたらと思うのに、そういうことがなかなか出来ない。そして、自己嫌悪になる。

 おまけに、このとき耳鳴りが酷く、生演奏の音が耳障りであった。一通り音楽を聴いた後、耳の病気を持っているのでやめてくれと言ったが、一向に止めてくれない。しかたなく、店を後にした。

 昨年より耳鳴りが発生し、年末には火だるまになった。妻によると、私は今年「大殺界」らしい。なので、昨年以上の災厄が訪れるのではないかという。

 日露戦争において、当時最強と言われたコサック騎兵団を破った秋山好古は、部下の士気を高めるため、銃弾の飛び交う戦場において悠々と馬にのり、酒をあおったという。まるで、自分には弾が飛んでこないことを信じきっているかのように。

 かつての自分もそう考えていた。自分だけは幸運で、不幸なことは降りかからないと信じていた。しかし今は、何となく気をつけていないと危険な目に会うような気がしてならない。まあ、こういうときは、用心するに越したことはないだろう。


1月12日 今週末

 今週末は、土曜日はサチコを連れてリコーダークラブの練習に行き、日曜日はサチコを連れて柔道の練習に行った。

 リコーダークラブでは、コンサート後初めての練習でもあり、楽譜を見ながらあれをやりたい、これをやりたいと色々話をした。こういう時間はやはり楽しい。その後は、インドネシアのローカルレストランで食事をした。

 柔道の練習は、火傷の影響もありあまり体は動かさなかったが、その後の食事での楽しいひとときを過ごした。火傷については、薄く皮が張ってきたらしく、多少こすれたり、水や石鹸で濡れたりしても痛くなくなった。今夜からガーゼを使わずに過ごせそうである。

 久しぶりに普段どおりの週末を過ごした気がする。そして、こういう日常が安心できて良い。今、軍師官兵衛とNHKスペシャルを見終わり、このつぶやきを書いている。

 こういう番組を見ながら、なんとなく思うのは、私はフェミニストではないかということである。自分の名を上げるために命を捧げる武士たち、そして、そういった武士を使って領土を広げ、いずれ天下を取ることを夢見る武将たち。こういう男達が欲しているのは、権力という、目に見えない概念である。こういうのを見ても、気持ちが熱くなったりするよりは、「ばかなことをやってるなぁ」位にしか思わない。

 インドネシアで暮らしていても、地元の料理を抵抗なく食べ、現地の人とも楽しく交流できるのは、女性の方が多い気がする。一言で言えば、生活スキルが高いのである。一方男性は、現地の料理は、全く食べられない、むしろ敢えて日本食しか食べない姿勢が格好いいと思っているのではないかと思うほどである。見ていて不自由だなぁと思う。

 「軍師官兵衛」の中で、官兵衛の初恋の人、おたつは政略結婚のため浦上家に嫁いでいくが、そのときの態度が潔い。女性が権力に興味が無いわけではない。しかし、興味があるのは、権力そのものではなく、それによって得られる安定した生活であろう。だから、それほど悲しげではなかったのか。

 そんなことをぼんやり考えながら、日曜の夜は過ぎていった。


1月10日 無題

 マザー・テレサは、「インドの社会システムを変えない限り、いくら貧しい人を助けてもきりがない」という批判に対し、「今ここに苦しんでいる人がいる。私は隣にいる人から助けていくだけだ」と答えたという。

 いきなり話は変わるが、「風の谷のナウシカ」3巻で、クシャナの船にいたナウシカは、戦いを始めた船をひとりメーヴェで離れ、瘴気に襲われた村に降り立つ。そして、寺のお堂の中で生き残った、ふたりの赤ん坊を抱いて、船に戻る。その後、クシャナの部下が壊滅した上空で、クロトワは言う。「ナウシカ よく見ておけ これが戦場だ」「ひとりやふたりのガキを助けたところで 気休めにもならねぇんだ!!」

 また、6巻では、大海嘯に自ら身を置き、王蟲の心の深淵を見たナウシカは、森の人に呼び起こされる。そして、「私と共に生きて下さい」という森の人に対してナウシカは、「ありがとう とてもうれしい」「でもあなたは 生命の流れの中に身をおいておられます」「私は、ひとつひとつの生命とかかわってしまう」と答える。

 私は、ナウシカやマザー・テレサに共感する。インドネシアの情勢を語り、日本経済を語り、会社のあるべき姿を議論するなんて、私には到底無理だし、興味も無い。私の仕事は、目の前で起こっている小さな問題に全力で取り組み、それの積み重ねである。上記の話は、それでいい、と自分に言い聞かせるために引用した。


1月5日 年末年始の出来事

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年の年末年始は色々なことがありすぎた。ともあれ、時系列に書きたい。


・魚釣りに行く(12/29、12/30)

 年末は柔道部のオザキさん一家と、釣りに行った。私は、去年あたりから、釣りを新たな趣味にしたいと漠然と考えていたところであった。昔、父に釣りに連れて行ってもらった記憶もあり、釣りが出来る父になりたいということ、そして、趣味の中でも数少ない生活に貢献できる趣味であることなどが理由であった。とにかく釣りがしたいと思っていたところ、オザキさんが誘ってくれた。漁船に乗って行う、海釣りである。

 釣りにサチコを連れて行くかで、妻と議論になった。私は、小さいうちから色々な経験をさせてあげたいと主張したが、妻は船から落ちたら危ないからと、反対する。結局、サチコ用の救命胴衣を日本から送ってもらい、連れて行くことになった。

 釣りは、楽しかった。私は、あまり釣れなかったが、今度は自分で道具も揃えて、もっと釣れるようになりたいと思った。サチコは、最初は楽しそうにしていたが、しばらくすると飽きてごね始めた。やはりちょっと早かったのかもしれない。

 楽しく釣りをしていると、遠くの空が黒くなってきて、明らかに大雨が降っていた。漁師は、とにかく近くの島に避難するといって、船を移動させ始めた。すぐに大雨が降ってきて、びしょ濡れになった。

 近くの島に入ったが、小屋はカギがかかって入れず、小雨になるのを待って、そのまま出発した。しかし、また雨が降ってきて、波も高いため、出発した港には戻れないらしく、別の小さな船着場に着いた。周辺の子供達が集まってきて、私達をみている。そのうち、大雨の海に飛び込んで遊び始めた。こんな天気なのに逞しいものである。

 ここは、ただの船着場で、人が降りれるような場所はないため、更に小さなボートに乗って、ようやく帰還した。

 帰りの車の中、相当疲れたらしく、妻の機嫌は悪かった。最近のサチコは遅ればせながらの反抗期で、若干面倒くさい。やはりもう少しサチコが成長してから、来ようと思った。

 オザキさんにもおすそ分けしてもらい、10匹以上の魚が手に入った。家に帰ったら、ネットで調べながら魚の鱗取り、ワタ取りなどをして冷蔵庫に入れた。

 次の日、やはりネットで調べながら煮付けとから揚げ、そして1匹だけいたカワハギについては湯引きして、「魚尽くし」を作った。これらを食べた妻は、「悔しいけど美味しい」と言った。

 これで、釣りの趣味はまだ継続できそうである。


左:海に入って泣くサチコ。父親譲りの根性なし       右:泊まる宿。質素。


左:父と釣りをするサチコ。まだ機嫌が良い。        右:オザキ一家と。


左:釣った魚。           右:調理後

・年越し柔道稽古(12/31、1/1)

 大晦日の夜は、恒例の年越し柔道稽古であった。紅白歌合戦を夜10時に見終わり(時差2時間のため)そのまま柔道場に集合して稽古を行い、乱取りをしながら年を越して、持ち寄った食料や酒を飲み食いして新年を祝うのである。

 しかし、練習前に惨事があった。BBQ用の炭火を起こしており、その周りを囲みながら私たちオヤジ柔道家が雑談をしていた。ひとりが、「火が弱いな」と言って、着火剤をかけた。私は、危ないなと思った。次の瞬間、突然火が大きくなり、着火剤が爆発して火が飛び散った。その火は、私の柔道着のズボンに付き、いわゆる火ダルマ状態になった。火はなかなか消えず、走り回っていたら、元機動隊のハタさんが横になれというので、横になったら、ハタさんが上に乗ってくれて、火はようやく消えた。

 左右の太もも、右手を火傷した。前髪も燃えていた。特に右太ももが酷く、皮が大きく剥けていた。とりあえず、そのまま病院に行くことにした。

 病院では、私ひとりだけであり、ドクターや看護士が総出で面倒を見てくれた。消毒して、ガーゼを当ててもらった。処置をしてもらっている間に、年が明けたらしく、外では花火の音が一斉に大きくなった。看護士は、私に「Selamat tahun baru」(あけましておめでとう)と言った。

 ちょうど年が明ける頃、欧米人が2人、立て続けに運ばれてきた。恐らく酔っ払いである。病院は急に忙しくなった。

 処置を終え、感染症のチェックのため、2日後にまた来るようにと言われ、柔道場に戻った。

 柔道場で、その後、楽しく飲み食いし、朝の4時ごろ、解散した。負傷者が大人だったために、この話は笑い話となった。


左:練習を終えて写真撮影        右:サチコと。



・祖父を送る(1/3)

 大晦日、妹から祖父がなくなったとのメールが来た。葬儀は、1月3日とのことで、お通夜には間に合わないものの、葬儀にはなんとか間に合いそうである。急遽、チケットを取って帰国することにした。

 祖父は、戦後日本を支えた技術者であった。時代は少し違うが、「風立ちぬ」のような世界を生きていたのではないかと、想像している。話は論理的で、面白く、祖父の話を聞くのが大好きであった。

祖父の話(2010年1月のつぶやき)

 私が小学生の時、円の公式を習った。円周は 直径x3.14、円の面積は 半径x半径x3.14。このいきなり出てきた3.14が納得できなかった。そんなとき、どういう経緯かは覚えていないが、祖父が円周率に関する本を貸してくれた。小学生には難しい本であったが、少なくとも円周率がどういう性格のものかは漠然と分かった気がした。その後、ゆとり教育で円周率が3になったとき、祖父は「3やったら6角形やんか」と言ったらしい。

 葬儀は、家族葬で、久しぶりに従兄弟に会った。もう10年以上ぶりであろう。すでに子供も4人おり、元気であった。命はめぐる、ということを思った。

 ヴァイオリンや仏画など、多趣味であった祖父。私の親戚の中では、一番私に似ているのではないかと思う。老後、ああいう風になりたいとも思う。

 祖父のご冥福をお祈りします。


・かぐや姫の物語(1/4)

 ジャカルタに戻る日、妹に誘われて、スタジオジブリの「かぐや姫の物語」を見に行った。以前より、CM映像などは見ており、非常に惹かれていた。

 非常に素晴らしい作品であった。温かみのある線画と、水彩画タッチの色づかいが心地よい。それにもかかわらず、動きは滑らかで、文字通り「絵が動いている」ということを実感する。赤ちゃんのしぐさや、子供の何気ない動きは、スタジオジブリの真骨頂であろう。赤ちゃん時代のかぐや姫などは、まさにサチコを見ているようであり、それを見守るお爺さん、お婆さんの気持ちもそのまま伝わってくる。

 内容は、色々な解釈があるだろうが、私は、一般的な人が親元を離れるまでの物語だと受け取った。この世に生を受け、愛情豊かに育てられ、親の都合による引越し(都への移動)も経験する。何気ないことで人を傷付けてしまうこと、親子の愛のすれ違い、そういうことだって、普通の人なら多かれ少なかれ経験することであろう。そして、親からの独り立ち。別れは辛くても、それはいつかは忘れる。それでも、その愛情の記憶はいつまでも残る。かぐや姫の物語は、ファンタジーだが、私達の経験することが余すことなく描かれている。だからこそ、共感することができるのだろう。

 全体的な感想としては、久しぶりに古風なジブリを見たという感じがした。自然を愛で、高貴な暮らしよりも地に足のついた暮らしを望み、クライマックスでは空を飛ぶ。見ていて安心する映画であった。

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