2014年
7月のつぶやき
7月21日 再度運転手面談
今日は、仕事を終えて家に帰ってから、8月に帰ってくる妻子のための運転手の面接をした。下に書いたふたりとの面談は、両方とも失敗したのである。
ひとり目は、一度同意したものの、急に連絡が取れなくなり、しつこくコンタクトしたところ、後になって給料を2万円近く引き上げるよう要求してきたため、交渉決裂した。ふたり目は、すでに仕事を持っており、私の提示した給料は低すぎるようであった。しかし、その件についての迅速なレスポンスと礼儀正しさがあって、好感が持てた。
今日会った人は、そのふたり目の弟で、私が提示した条件で働きたいと言っているらしく、今夜会って話をしたのである。交渉の末、一応話はまとまり、契約書にサインしてもらった。親戚が同じアパートですでに働いているらしく、これはひとつの安心材料になる。
それでも、こうやって運転手探しをしていると、私達の暮らしは不安定だなぁと感じる。運転手やお手伝いさんは、いわゆる「どこの馬の骨とも分からない者」である。ただ、知り合いのつてを辿って出会っただけである。そういう彼らを信頼して、家に入れたり、運転してもらったりしているのである。契約書を取り交わしたところで、一方的に約束を破られても、私達には何も出来ない。たまたま良い人に出会えればラッキーくらいの感じだ。
インドネシアは、今過渡期にあると思う。外国人にとって、絶対に運転手を必要としている時期から、交通が整備され、自分で運転したり、公共交通機関で移動できる国となる時期に移行していく。現に、自分で運転している日本人も結構多い。
それにしても、こうやって色々なインドネシア人と話していると、だんだんその人の人となりがなんとなく分かるようになってくる。インドネシア人は基本的に皆人懐っこいが、話しぶりで、この人は信用しても良さそうだとか、話の内容を理解した上で頷いているかどうかなど、分かってくる。
私の感覚では、今日の面接結果はそれほど悪くない。それでも安心は出来ない。次の運転手が8月にちゃんと働いてくれるかどうか、うまくいくことを祈る。
7月20日 語学力
会社では年に一度、自己申告制度というのがあって、職歴やスキルなどを入力するのだが、その中に「語学力」というのがある。それは、確か以下の4段階ような感じだったと思う。その中からひとつを選ぶことになっている。
4.通訳、翻訳などができる
3.ビジネス上のやり取りができる
2.日常会話程度
1.全く喋れない
私は、 2 と 3 は、本来逆ではないかと思う。
仕事での会話やメールは、すでに決められたテーマやルールに従っているため、ある程度語彙も絞られているし、お互いが理解すべくゆっくり話したりする。それは、両者にとっての母国語でなければ、なおのことである。(例えば、日本人とインドネシア人が英語で会話をする等)そして、いざとなれば、図や表を描いて説明すればよい。
それに対し、雑談などの日常会話は、語彙が広範囲にわたり、かつスラングや方言なども登場する上、話すスピードも速く、話がポンポン飛ぶ。それについていくのは至難の業である。
私は、とりあえず、インドネシア語は「3」、英語は「2」を選んだが、本来は逆である。インドネシア語のほうは、仕事は全く問題ない。一方、日常会話については、最近ようやくついていけるようになったが、それでも知らない単語が頻繁に登場し、それらを尋ねながらである。
一方英語は、仕事のメールや会話であれば、アップアップしながら理解できる程度でああるが、日常会話は全く自信が無い。
7月19日 運転手面談、リコーダー編曲
今日は、8月に妻子が戻ってくるため、家庭車の運転手候補と面談した。ひとりは、帰任する業者の方が使っていた運転手、もうひとりはお手伝いさんにお願いして探してもらっていたのであった。ここでの暮らしは、こういう風に人の繋がりで成り立っているところが大きい。
ひとりは、前述の通り帰任したため仕事がない状態であった。もうひとりは、すでに会社の運転手として働いているが、もっと良い条件があればと思い、来たらしい。こういうときは、何となく仕事が無い人のほうを採用してあげたくなる。また、会社では最低賃金が適用されるため、個人宅で働くよりは、割りはいいはずである。それでも、こうして会いに来て話を聞きに来るのは、バイタリティがあるなぁと感心する。
面談の合間には、またリコーダーの編曲をしていた。今度は、「ジャカリコ」(ジャカルタリコーダークラブ)の人に依頼され、NHK朝ドラの主題歌「にじいろ」を編曲した。それほど好みの曲ではないが、ドラマのほうがかなり気に入っており、編曲のために何度も聴いているうちに、道筋が見えてきて、なんとか編曲を終えた。
今回は、ジャカリコの仲間にもらった楽譜作成ソフトを使用した。確かに、いちいち手で書き写す必要が無いので、楽といえば楽だが、機能が分からず、四苦八苦した。このソフトは、私が30日のお試し期間のみのようなので、終わったらまた手書きに戻るだろう。
7月16日 スパゲティ
月曜の話だが、夕食にスパゲティを作った。昔、外出したときに会社の人に連れて行ってもらった、銀座のスパゲティ屋の味を再現してみたのである。店の名前を「ジャポネ」という。「銀座」というと、高級でおしゃれなイメージがあるが、ここは立ち食いそば屋みたいな雰囲気で、銀座とは思えない場末感満載の店であった。
記憶は曖昧だが、たしか作り方は、豚肉と小松菜ときのこを豪快に炒めてた後、パスタを入れて更に豪快に炒める。とにかく、豪快に炒めるのである。鍋を振りまわして、パスタが宙を舞う。味付けはオイスターソースのような味だったように記憶している。
味も、イタリアンというよりは、中華風焼きソバといった感じで、美味しい。面白いのは、大盛りの呼び名が「大関」「横綱」など、相撲の格付けで呼ばれていることである。そして、一番大きなサイズは「理事長」。確かに、横綱よりも格上だと思う。
一度行ったきりだが、非常に印象的な店であった。そのときの味を思い出しながら、作った。沢山作ったら、サイズは「理事長」になってしまったので、二日に分けて食べた。(トップに写真を掲載)
7月13日 宗教について2
イスラエルとパレスチナの関係がまた悪化している。この問題は、私が小学生のときからあり、社会の授業で習った記憶がある。「イスラエル」という国名からイスラム教だと思っていたら、パレスチナの方がイスラム教であり、「直感と逆」で覚えていた。どうやったらこの問題が終わるのか、解決の糸口が全く見えない。
インドネシアで暮らしていると、宗教の共存とはどういう状態かということを、自分なりに考える。
よく、「お互いの宗教を尊重しあう」とか、「お互いに理解しあう」ということを言うが、それは宗教の共存には繋がらない。宗教が共存するために必要なのは、「あいつはあいつ、おれはおれ」という考え方である。他人の宗教に興味を持ち、より深く知りたいなどという気持ちを持つ必要は無い。むしろ時に有害ですらある。それよりも、いい意味での無関心が他宗教との共存に必要なのではないかと思う。
運転手との雑談でも宗教の話をすることはあるが、どちらも「自分の宗教によれば」と前置きして話をする。「私は自分の考えを話しており、それを自分は正しいと信じているが、あなたは信じても信じなくてもよい」という態度である。
インドネシアは、問題はあるにせよ、宗教の共存については、驚くほど上手くいっていると思う。それは、他宗教の人々が手を取り合って仲良くしているような姿ではない。スンニ派の運転手は、シーア派の教えはおかしいと言うし、ユダヤ教徒を批判したり、華僑は性格が悪いと文句を言ったりしている。それでも、この国からいなくなって欲しいとまでは思わない。思っているかもしれないが、行動に移すほどの問題ではないのかもしれない。
たぶん「あいつはあいつ、おれはおれ」と思っているから、問題にならないのである。
7月12日 宗教について
今月は、ラマダンである。イスラム教徒は日の出から日没の間、一切の飲食を断ち、心身の修行をしている。それでも普通に仕事をし、笑顔で接してくれる人たちには、敬意の念を持っている。そして、こういう習慣に出会うと、異国に住んでいることを実感する。
一方で、宗教というのは、本質は同じなのだということも感じる。以前にも書いたかもしれないが、何度でも書きたい。
断食する習慣があるとか、女性はスカーフをかぶるとか、十字架を崇拝するとか、神社にお参りにいくとか、神は唯一か、或いは大勢いるかとかは、宗教の本質ではない。これら各宗教の独特の習慣は、表面的に分かりやすいので、全く別のものだと思われやすいが、それほど重要な差ではない。あらゆる宗教は、ほぼ同じことを教えている。
人を殺してはいけない、強姦をしてはいけない、盗みを働いてはいけない、財産を独り占めしてはいけない、公共の利益のために、自己を抑制しなければならない、等々である。皆にとって住みやすい社会とするために、個々人は欲望のままに生きるのではなく、少しずつ我慢をしなさいと教えているのが、宗教なのである。要するに、宗教とは、道徳と同義語なのである。
だから、日本以外の国で、宗教は何ですかと訊かれて、無宗教などと答えると、変に思われる。「あなたの宗教はなんですか?」という質問は、「あなたの道徳観は何を基準にしていますか?」と訊かれているのと同じだからである。無宗教というのは、道徳の基本を持っていないため、平気で人を殺すかもしれないし、盗みをすることを悪いとも思っていない人ということになる。当然、日本にも道徳があるが、それが○○教という名前になっていないのだと思う。だから、仏教と答えても、神道と答えても、何となく違和感がある。
また、宗教は道徳であるということで考えれば、イスラム原理主義組織は確実に間違っているし、宗教とは言いがたい。イスラム教の一派とすべきではないだろう。「イスラム」という言葉を使うがために、イスラム教が危険な宗教であるような印象を与えてしまう。オウム真理教を「ヒンズー原理主義」とか「仏教原理主義」とか呼ばないのと同じである。イスラム原理主義についても、「イスラム」という言葉は使わず、ただ「狂信者集団○○」などとした方がよいと思う。
7月9日 音について
耳鳴りの治療として、先月のつぶやきにも書いたとおり、TRTという方法を試している。補聴器のようなものを付け、そこから「ホワイトノイズ」という雑音を流して、それを聴きながら生活をしている。今は、ウォークマンにホワイトノイズを入れて試しており、問題なさそうなので、高価なTRTの器具を買う必要はなさそうだ。
Wikipediaによれば、「ホワイトノイズ」とは、「全ての周波数が同じ強度となるノイズ」のことらしい。要するに、高い音から低い音まで、同程度の強さで鳴っているということであろう。ホワイトノイズの音を簡単に言うと、「テレビの砂嵐の音」である。しかし、それを小さな音で聴いていると、逆に心地よい感じがする。
こういうことをしていると、身の回りには、リラックスできる音と、逆にイライラする音があることに気づく。雨の音や、水の流れる音、木々が風に揺れる音などは、リラックスできる音である。それに対して、車やバイクの音は、イライラする音である。
そして、リラックスできる音とは、ホワイトノイズに近い音(高音から低音までまんべんなく鳴っている音)であり、イライラする音は、低音部に偏っている音なのだと思う。ホワイトノイズの音を小さくして聴いていると、確かにせせらぎの音に近いと感じる。
これに気づいてから、私は湯船に浸かるとき、ほんの少しだけお湯を出して音を作るようにしている。チョロチョロと音がしているだけで、リラックス効果が違う。もしかしたら、温泉の効能と言うのは、お湯にどんな成分が入っているかとかではなく、周りの自然音によるものなのかもしれない。
7月4日 花子とアン、進撃の巨人
NHKテレビ小説「花子とアン」が佳境を迎えている。印刷会社の御曹司、村岡英治との恋から結婚にいたるくだりである。原作「アンのゆりかご」では、わりとさらっと書かれているところだが、ドラマでは無視して通れないところであろう。かなり丁寧に描かれているように感じる。
普通に言えば、不倫をしている。社会的には認められない行為である。しかしそこに確かな人の心の機微があり、社会的に正しくないからと言って、行為が間違っていると決めつけることは出来ないのである。
結果は分かっているが、ドラマとしてどう描かれるのか、とても気になっている。
「進撃の巨人」のアニメを、少しずつ観ている。マンガの原作は、妻が買ってきたものを読んでおり、面白いと思った。アニメは、最近のテレビアニメにしてはクオリティが高く、見ていて引き込まれる。
マンガの原作は、特に最初のほうは絵が下手である。しかし、作者の描きたいというエネルギーがそのまま伝わってくるような、独特の迫力がある。そして、高い技術と才能を持った作者による作品と言うよりは、まるで作者に何かが取り憑いて、何か別の力によって生み出されたような、神話のような雰囲気さえ持っている。
私が漫画家を夢見た少年の頃、思い描いた風景があった。巨大な穴の底に暮らす人々。そこから見える遠景は、周りを取り囲む高い崖と、空と雲のみ。それが世界の全てだと思って暮らしている中に、ひとりの少年が崖を登って外の世界を見てみたいと思う。そして更に、穴から見える雲の上に広がる光景も見てみたい。それを決意し、大人に内緒でひっそりと行動を起こす。
進撃の巨人は、かつて私が思い描いていた他愛も無い幻想と、妙に一致する。
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