2015年
8月のつぶやき
8月26日 子育ての方針
数日前の朝イチで、「しつけのお悩み」というコーナーがあった。それによると、しつけの悩みの1位は「厳しくしすぎる」、2位は「夫と方針が合わない」、3位は「周りの目が気になる」らしい。
3位は、はっきり言ってばかばかしい。これは「しつけの悩み」ではなく、自分の悩みである。自分が他人から良く見られたいだけの話であって、子供のことを思ってやっているわけではない。子供なんだから、電車の中で大声を出すこともあるし、人ごみでフラフラ他人にぶつかることもある。些細なことで叱る必要な無い。ある程度までは、人に迷惑をかけておけばよいのである。それで文句を言う人がいたら、親として誠心誠意謝ればよい。その覚悟だけ持っておけばよいと、私は思っている。
ちなみに、「夫と方針が合わない」のは、むしろ良いことだと思う。何か一貫した方針で子育てする方が危険である。子供にとって重要なのは、周囲に色々な大人がいることである。優しい人や立派な人だけでなく、怒りっぽい人、意地悪な人、色々いた方がいいと思う。なぜなら、子供が成長して飛び込む社会は、まさにそのようなところだからである。
だから別に「厳しくしすぎる」親がいてもいいし、「周りの目が気になる」親がいてもいいのである。
8月20日 ゲーム理論
昔、ゲーム理論の本を読んだことがある。ゲーム理論とは、複数の意思決定主体が存在する状況における意思決定の理論である。すなわち、他の人がどのような行動を取るかを考慮にいれながら、自分の行動を決定するための理論である。ゲーム理論が仕事での交渉や判断の基準として使えるかもしれないと思い、入門書を買った。
本を読み始めたが、途中で諦めてしまった。内容が難しかったのもあるが、それ以上につまらなかったのである。特に、「ナッシュ均衡」がつまらない。
「ナッシュ均衡」というのは、どのプレイヤーも自分の戦略を変更することにより、高い利益を得ることができない戦略の組み合わせである。例えば、有名な「囚人のジレンマ」で、双方が黙秘していれば良かったところを、それぞれが自分の利益を最大化させようとした結果、双方が自白してしまい、より重い懲役を受ける状態のことである。また、全ての国が核兵器をなくせば、国防費が大幅に削減され平和で豊かな国づくりが出来るのに、それぞれがけん制し合うがために核兵器をなくせない状態のことである。
ゲーム理論が指し示すのは、お互いがお互いの腹を探りあい、けん制し合っている状態では、最適な解は得られないということである。せいぜい、「核兵器を何発くらい残すのがナッシュ均衡か」くらいの計算しか出来ないであろう。
近い未来、ゲーム理論を越えるモデルが生み出され、それが世界の平和のために活用される日が来るのではないかと思っている。そして、「抑止力」が平和をもたらすという、現在では当たり前の考え方が、当たり前でなくなるときが来るであろう。人類がそのことを学ぶのに、かなりの苦痛と不愉快を伴うかどうかは分からない。
日本国憲法は、それがどのような形でもたらされたものであれ、現在のゲーム理論を超越している。永久に戦争を放棄し、軍隊を持たないことを宣言した国が、魑魅魍魎に侵略されることなく、平和な独立国家として成り立ちうるのか。戦後70年、残念ながら、これを証明したと言うには但し書きが多すぎる。
ただ、他国に押し付けられたとはいえ、偶然にもゲーム理論を超越した未来の憲法が、改正されて他国と同じ従前の憲法に近づいてしまうのは、やや残念な気がする。
8月17日 三連休
今週末は三連休である。三連休だからと、どこかに行くことはせず、普通の週末のようにのんびり過ごしている。
日曜日はいつものようにサチコを連れて柔道に行った。サチコは相変わらずへなちょこだが、少しずつ成長しているのを感じる。この日は、幼稚園生も2分x8本の乱取りを行い、途中で投げ出すこともなくやり遂げた。サチコは地元の女子柔道家達に人気で、奪い合うようにサチコと乱取りをしていた。
一方、父親はどんどん体力が落ちているのを感じる。一度柔道に行くと、1週間はどこかしら痛い。要は毎日筋肉痛なのである。地元の高校生にも歯が立たず、年を実感している。まあ、出来る範囲でこの老化に抗いたい。
サチコの意欲は、日に日に増している。今朝はちゃんと朝食を全部食べ、お皿を台所まで持っていった。食器の洗い方を教えてあげると、全部自分で洗った。たいしたものである。
8月7日 ピケティを読んで
ピケティの「21世紀の資本」を読んでいることは前にも何度か書いた。まだ読了はしていないが、これを読めば、資本主義の仕組みとは、本質的に富を偏らせる方向に作用することが分かる。これは理論などではなく、歴史的現実なのである。富める者は更に富み、貧しい者は貧しいままであるということである。そして、ある程度以上の富を得た者は、配当や賃料などの収益で生活でき、更にそれを投資にまわすことで更に多くの富を得ることが出来る。その富を相続することで、自分の子供、孫の代まで安泰というわけである。もちろん、裸一貫から一代で富を築き上げた者もいるものの、多くは無い。
だから、格差を減らすために相続税、資本に対する税、累進課税などを充実させるべき、それも世界同時的に行うべしというのが本書の提言であるが、そもそも政治を担う者自身が「富める者」である限り、自分の富を目減りさせるような政策を断行するのは至難のわざであろう。
私や、父母が生きた時代というのは、2度のの世界大戦により資本が壊滅した状態から復活した、異例の時代であった。その時代は、例外的に格差が少なかった。努力したものは富を得ることが出来る時代であった。そして今、再び資本を取り戻した世界の格差は、世界大戦前の状態に戻りつつある。たしかに、日本でも格差の問題は最近特に取り沙汰されている。一昔前は、ここまで言われていなかった。
私は、これまで子供に資産を残すつもりは全く無かった。自分の持てる富は、子供が将来ひとりで生き抜く力を養うために、惜しみなく使おうと思っていた。この本を読むと、その信念が揺らぐ。こどもは馬鹿で無能なままでもいいから、資産さえ残してあげれば、幸せに暮らせるのではないか。
そんなはずはないと思いたいが、それを裏付ける反論をまだ私はできない。
8月1日 自転車の練習
先週、イオンでサチコのために自転車を買ったのだが、早速練習をしている。買った日に練習したときは、ろくに漕ぐことも出来なかったのだが、1週間後の今日、すでに普通にすいすい進めるようになっていた。さすが、上達が早い。
「速く漕いだ方が、自転車はぐらぐらしないんだぞ」と言うと、サチコはご機嫌でスピードアップした。「パンダコパンダ」の歌を歌い、ご機嫌である。
その直後、カーブで右に曲がろうとして、遠心力がかかり、外側に転んだ。警備の人が駆け寄ってきて、心配してくれたが、少しすりむいただけで大したことは無い。サチコは泣いたが、抱っこしてさっきの状況を面白おかしく再現してやると、泣き止んで笑い出した。強くなったものである。
確かに、補助輪があると外側に倒れやすくなるだろう。インターネットでも、補助輪で慣れすぎると逆に外しにくくなるとあるので、補助輪を取ることにしてみた。補助輪を取って、父ちゃんが支えながら更にアパートを一周した。まだまだぐらぐらするものの、このまま続ければ乗れるのではないかと言う気がする。
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