2015年
10月のつぶやき




10月27日 車の中で

 会社帰りの車の中で、最近好きなCDをかけて暇をつぶしている。私は、助手席に座っているので、こういう操作はし放題なのである。

 今日は、「おわら風の盆」のCDをかけた。「おわら風の盆」は、富山県の八尾町に伝わる祭りで、9月1日〜3日に行われる風祭である。学生時代に何度か行き、思い出深い。静かな雰囲気は、北島三郎のような「祭」の雰囲気とは程遠い。

 CDをかければ、15年前の記憶がよみがえってくる。自分が大きく成長したと実感できるポイントが、これまでの人生で何度かあるのだが、その中で最大のものが4年間のみんけんでの活動であろう。自分はここで大きく変わったし、何せここで妻と出会い、家族を持つにいたる。

 それにしても、運転手は、こいつはなんとケッタイな曲を好むのかと、不審に思ったであろう。


10月26日 365日の紙飛行機

 久しぶりにリコーダー編曲、多重録音をした。NHK朝ドラ「あさがきた」の主題歌「365日の紙飛行機」である。先々週の金曜日、仕事を終えて帰ってから編曲しようと思い立ち、深夜までかかって編曲した。

 そして、週末の時間を使って録音した。録音していると、突然ドアが開いてサチコがどやどやと入ってくる。このあたりが、一人暮らしをしていたときとの違いである。それでも、ちょっと静かにしててねというと、行儀良く静かに待っていてくれるあたり、よく出来た娘だと思う。

 多重録音を終えたら、サチコにマイクを装着し、歌わせてみた。サチコもこの歌が好きなので、ゴキゲンで歌った。何度も録音していると、サチコの歌も多重録音となり、私のリコーダーの音に合わせて、4〜5人のサチコの声が入った、とてもにぎやかな多重録音が完成した。

 サチコの歌入りは、家族で楽しむとして、リコーダーのみの演奏をここにアップする。

https://www.youtube.com/watch?v=9rpvBjU2nBo


写真を撮りに行く

 日曜日は、妻の要望で、家族写真を撮りに行った。インドネシアの伝統衣装を来て撮れるフォトスタジオがあるということで、柔道の稽古を早めに切り上げて向かった。

 こういった写真を撮るところでも、男女の非対称性というものを感じる。まずはモチベーションであるが、この変身願望というものが、女性の方が圧倒的に強いと感じる。妻やサチコは、化粧をして伝統衣装を着ると、かなりテンションが上がってゴキゲンになるが、私はそこまで変化を感じない。優一は(まだ訳が分からないだろうが)普段見ない母の姿に泣き通しであった。

 衣装のラインナップについても、女性は多くの選択肢があるのに対し、男性は、数種類から選ぶだけである。それさえも、妻の判断に委ねられるし、そのこと自体になんら異論は無い。

 そうやって準備をしていると、優一が昼寝をしてしまったので、まずは優一以外の3人を撮りましょうということになった。妻とサチコはノリノリで色々なポーズを決めて写真を撮ってもらっていた。私は、2種類くらいのポーズを撮って終了。

 その後、優一が起きないので、メイクさんは食事に行った。そして、起きるまで待ってから、着替えさせて家族4人の写真を撮りに向かった。寝起きの優一は機嫌が最悪で、写真を撮っている間、絶叫し続けた。

 どんな写真が出来るか、楽しみである。


10月15日 ドリアン健康ランド

 この日は、イスラム正月の祝日であった。会社の友人家族と「Kebun Durian Warso Farm」(通称:ドリアン健康ランド)に行ってきた。「ドリアン健康ランド」という名称は、ジャカルタのフリーペーパー「南極星」で紹介されたときに、どういうわけかこのように訳されていた。

 そろそろスーパーにもドリアンが出てきたので、季節なのかと思い、日帰りツアーを企画した。ところが、「南極星」に紹介されたのも数年前で、インターネットで調べた電話番号にかけても、繋がらない。まだ営業しているのか分からないが、とりあえず行ってみることにした。

 車で二時間くらいのところに「ドリアン健康ランド」はあった。そして、入り口にすぐドリアンの巨大なオブジェがあり、一同はテンションが上がった。


巨大なドリアンのオブジェ

 ところが、オブジェ前で写真を撮った後、隣の売店を見ると、「現在ドリアンはありません」という看板が立っていた。どうやらまだ季節ではないらしい。

 とりあえず、農園を散策することにした。特に入場券があるとかではなく、勝手に入って勝手に観ていいらしい。農園に行けば、サチコ手よりも小さいドリアンが木に生っていた。一番大きいものでサチコの顔くらいである。確かに、季節はまだまだ先らしい。

 ドリアンのほか、ドラゴンフルーツ農園もあった。ドラゴンフルーツは、なんとサボテンのような木(?)に生るらしい。どれが幹でどれが葉でといった区別は全く分からない。何とも不思議である。こちらも、花は生っていたが、まだ季節ではないらしい。

 ジャックフルーツも生っていた。このドでかい実がいきなり生るのは、日本人の常識では考えられない。南国の力強さを感じる。

 それでも、きれいな農園を散策し、楽しいひとときであった。今度ドリアンの季節にまた来たい。


左:小さなドリアンの実     中:ドラゴンフルーツの木。摩訶不思議     右:ジャックフルーツ 異次元の巨大さ




10月11日 チヨミ来イ

 今日は、民研の後輩チヨミと会った。出張でジャカルタに来ている。

 今日初めて知ったのは、チヨミが帰国子女ではないということであった。私も妻も、どういうわけか彼女は帰国子女だと思い込んでいたが、宮崎生まれの宮崎育ちだという。おそらく、社交的な性格で、英語が流暢だったために勘違いをしていたらしい。

 ジャカルタの観光名所、イスティクラルモスクとカテドラル教会に案内し、昼はマナド料理レストランで食事をした。マナド料理は、私たち家族も初めて食べたが、あっさりした味付けで美味しかった。

 彼女は、出張や旅行でも頻繁に海外を訪れ、いつかは海外に住みたいと語っていた。この前向きで外に開けた性格は、家族の雰囲気がそうさせるのだろう。私も妻も、どちらかといえば身近な幸せで満足してしまうたちなので、チヨミが輝いて見える。

 夜はジャカルタに出店したうどんチェーン「丸亀製麺」で食事をして解散した。


10月10日

サチコ運動会

 今日は、日本人学校幼稚部のの運動会であった。

 サチコは、全く冴えない感じであった。かけっこでは、ひとりまるで長距離走を走るかのうなノンビリした走りで、ダントツのビリであった。続くダンスでは、家で見せてくれるような活き活きした感じではなく、やらされ感満載の動きである。その後のあおむしを使った競争も、みんなにフラフラ付いていく感じで、何とも頼りない。

 そんなサチコの姿に、私は自分を重ね合わせていた。どちらかと言えば内向的で、昔から集団行動が苦手であった。大勢の中でどう振舞っていいのか、未だに良く分からない。体は小さくて細く、運動神経も鈍かった。運動会は特に楽しみでもなく、親に良いところを見せてあげたいといった、子供らしい可愛げも無かった。

 だから、サチコの運動会の姿を見て、私の娘なんだなぁと、しみじみと思った。ちょっと嬉しく思ったくらいである。君はそのままで良い。とことん内向的に進めばいい。そして、自分を確立すれば、自然と社交性が身につく。

 家に帰れば、サチコはご機嫌で運動会のダンスを踊ってくれた。そして父はといえば、父母競技で参加した綱引きで疲れ果てていた。わずか数十秒程度の運動でへろへろになるとは、老いたものである。


ゆきちゃんを送る

 今日は、アパートの友達、ゆきちゃん家族が本帰国をする日であった。ゆきちゃんは、私たち家族が知り合った時はまだ幼稚園生だったと思う。そんな彼女は小学5年生となり、身長は妻とほぼ同じくらいまで成長した。ずっとサチコを可愛がってくれ、遊んでくれたり、いじってくれたりもした。

 ゆきちゃんが出発するとき、多くのアパートの住人が集まった。ゆきちゃんは、強い子である。涙を見せることなく、最後まで明るく振舞った。車で出発するときも子供たちが車を追いかけて、門の外まで見送った。最後までハイタッチをする子供たちに「お前ら気が済んだか」と言って、出て行った。

 ゆきちゃんの健闘を祈る。


10月5日 仏教思想のゼロポイント

 「仏教思想のゼロポイント」(魚川祐司著)を読んだ。仏教書としては異例のベストセラーとなっているらしい。仏教の本質について、単に道徳的な教えではなく、その本質となるものは何かについて平易な言葉で語られている。

 自身を「仏教徒ではない」という著者が、ミャンマーの瞑想センターで学び、その教えを体感しつつも、ある意味客観的な視点から、論理的に書かれている。

 仏教の目的が煩悩からの解放であり、それが「解脱」という状態であることは知っている。しかし、「解脱」という状態が具体的にどのような状態なのか、それ以前に、「解脱」という状態になった人は存在するのか、また、それにより世界はどう変わるのかということことは、本書でおぼろげながらイメージすることが出来る。

 そして、上座部仏教と大乗仏教に分かれ、更に多種多様な教派に分かれていったにもかかわらず、いずれも「仏教」とされたこと、そしてあらゆる教派に共通する本質的な考え方(ゼロポイント)がどこにあるのかも、分かりやすい。

 本書の特質からして、上座部仏教寄りという感じがしなくもないが、そもそも仏教の原点はそちらにあったのだと思う。


10月4日 おっぱい

 優一が生まれて5ヶ月が過ぎた。その間、当然ながら食事はだけである。母乳だけでこれだけ成長できることに感嘆する。まさに完全食であろう。

 私は、おっぱいを吸ってみたいと、妻に言った。母乳が出るのは子育てのほんのわずかの間だけだし、まさか他人にお願いする訳にもいかない。3人目はまず無いであろうから、この.チャンスを逃したら、一生おっぱいの味を確認することは出来ない。

 吸ってみたが、全く出ない。しばらく試してみたが、全く飲める気がせず、諦めた。改めて、優一のテクニックに驚いた。妻は、「全く吸われている気がしない」と言った。そして、優一がおっぱいを飲んでいるのを私に見せて、「ほら、こうやるんだ」と言った。

 私は、優一に完敗であった。再挑戦する気も起きなかった。負け惜しみに、「もし私がいきなりゴクゴク飲めて『美味い』とか言ったらそれはそれで困るだろう」と言ってやった。


10月3日 お母さんは勉強を教えないで

 「お母さんは勉強を教えないで」(見尾三保子著)を読んでいる。この本は、妻が見つけて、「なんだと。中学生くらいまでなら私が教えてやるぞ」と鼻息荒くして買った本らしいのだが、私が先に読んでいる。

題名とは裏腹に、この本は最近の教育方法を批判した上で、正しい勉強のやり方について解説している。勉強とは、「やり方」を教わってその通りやるものではない。基礎の積み重ねが大事であって、そのためには基礎的な内容を「やり方」ではなく、感覚的に実感できるような形でなければならない。

 例えば、距離=速さx時間 という公式があるが、これを暗記して問題を解くだけでは、何も身についたことにならない。実感として感じなければならないということである。私も妻も、この本の内容については賛成である。

 私は、どちらかと言えば勉強が好きであった。特に物理と数学が好きで、簡単な論理の積み重ねで複雑な問題が解けることが楽しかった。一方で、丸暗記を強制される歴史は苦手であった。父母に勉強しろとうるさく言われたことは無かった気がする。むしろ、受験勉強時代には、私の部屋というものが無く、隣で父が寝転がってテレビを観てげらげら笑っていたり、いきなり夫婦喧嘩や親子喧嘩が始まったりという、勉強には最悪の環境であった。耳栓をして勉強していた。

 勉強することで、世の中の仕組みが少しずつ分かるのが、楽しい。子供たちにもそういう風になってほしい。


10月1日 プリキュア考

 サチコが夢中になっている「Go!プリンセスプリキュア」を見た。内容は、プリキュアメンバーのひとりの兄が青年実業家で、大きな夢を持っているのだが、その兄が悪役に捕まり、その絶望の力を使った「ゼツボーグ」という化け物が登場してプリキュアに襲い掛かる。その後、いったんは負けかけるプリキュアだが、自分が育った大事な海のイルカに力を得て、ゼツボーグを打ち破る、といったストーリーだったと思う。

 私は、幼児向けの番組だと思ってなめていたが、ストーリー展開についていけず驚いた。まず、「ゼツボーグ」が発生するメカニズムが解らない。この青年実業家には、特に悪い一面は描かれておらず、大きな夢を持つ、非の打ち所の無い素晴らしい人物であった。そんな人物を閉じ込めたからと言って、どこから悪の力が生まれるのか。

 アニメで良くある、「どんな素晴らしい人にも少しは悪の心があって、それを増幅することで云々」というパターンであればまだ理解可能である。どうやら、妻の解説を聞く限り、今回のパターンは、「夢を持つ人物を絶望の檻に閉じ込めることで発生する絶望の力を利用」しているらしい。ちょっとしっくり来ないが、そう理解するしかないだろう。

 こういった悪が増幅したり、新たな力が発動するメカニズムというのは、作り手側は間違いなくかなりの時間を使って論理的整合性を取っていると思う。そのあたりに、アニメーションを作る意味があり、伝えたいことが入っているからだ。ただ、それを30分に入れるのは難しく、結果的に理解しづらい形になっているのだろう。

 プリキュアを観ていると、どう考えても絶体絶命のピンチがあって、その後に「優しさ」とか「勇気」とか「友情」などの心理的作用により、持てる能力が飛躍的に向上、そして敵を打ち破るというパターンが多い。これは、昔からアニメーションの定番であり、これこそが魅力なのだと改めて思った。ピケティの言う資本主義しかり、チェスや将棋もしかり、自然界もビジネスの世界も、この世の仕組みの多くは、一度弱った者が大逆転勝利するようには出来ていない。弱った者はどんどん弱って消滅し、力や富を得た者はそれがどんどん強大化するように出来ている。そんなものをアニメで観たいとは思わない。せめて、アニメを観て日常の非情な世界を忘れたいというのが、アニメを見るかなり大きな目的のひとつだろう。

 最近は、休みの日ごとにサチコの「プリキュアごっこ」に付き合っている。私が「ゼツボーグ」で、サチコの必殺技でやられて倒れてあげると、サチコはプリキュアの決めゼリフ「ごきげんよう!」と言う。

 これはいかがなものかと思った。負けてゴキゲンな訳が無い。負けた者の身にもなるべきで、子供向けのアニメとは言え、否、子供向けのアニメだからこそ、配慮があるべきではないかと、サチコにやられながら思った。

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