2016年
6月のつぶやき
6月20日 ゴキブリ
ある夜、ふと目が覚めると明かりがついていて、妻が起きていた。何事かと訊くと、ゴキブリが出た、という。それも、ベッドまで上がって来て、妻の顔に這い上がってきたらしい。妻によるとサイズは「4センチ級」だったという。それでも、悲鳴を上げたり私をたたき起こしたりしないあたり、一般の女性と比べて妻は虫に強い。私も一緒に探したが、ついに見つからず、また寝た。
妻は、次の日からゴキブリ対策を始めた。これまでは、まるでナウシカの如く虫を愛し、例えば優一がこぼしたご飯にアリが群がってきても、その様子をほほえましく眺めると言った具合であった。我が家に住んでいるチチャック(ヤモリ)は、どこに誰がいるとかも把握している。そんな妻が、よほど怖い思いをしたのか、ゴキブリを「ゴキ野郎」と呼び、毒ダンゴやらゴキブリホイホイやらを設置し始めた。
しばらくしたら、ゴキブリホイホイにチチャックが引っかかったらしく、妻は悲しんでいた。それにしても、これまでゴキブリはほとんど出なかったのだが、環境が変わったのであろうか。
6月15日 寛容について
ラマダンが今年も始まった。イスラム教徒は日の出から日の入りまで一切の飲食をせずに過ごす。会社でも、ほとんどみんな何も飲み食いしていないが、辛そうな顔せず、基本的には普通に仕事をしているのには、毎度驚かされる。
そして、断食明けの夕方6時頃になると、機械を止めて軽く飲食をし、お祈りをし、20分くらいで仕事に戻ってくる。そういうスタイルがほぼ1ヶ月続く。
そしてこの断食明けを祝う食事会は、ラマダン中一度か二度かは、みんなで祝おうと言うことで、レストランで行うこととなる。それは、特にイスラム教徒限定ということではなく、キリスト教徒も、仏教徒も、何教だかよく分からない日本人も呼ばれ、歓迎される。私たちにとっては普通の夕食会だが、普通に下らないお喋りをして、握手をして解散、という感じである。この緩さが心地よい。
別に、他宗教の共存と言った、大げさなものではない。ただ、「私は私、あなたはあなた」という考え方は徹底している。良い意味での無関心である。インドネシア人も、中国人は嫌いだとか、マレーシア人は嫌いだとか、ユダヤ教は間違っているとか、好き嫌いはある。同性愛は間違っていると思っている。しかし、自分の身に直接被害がなければ、あるいは被害があっても許容範囲内であれば、表立った行動に移さないのである。
先日のフロリダで起きた銃乱射事件を見てもしかり、すぐにネットが炎上する最近の日本社会を見てもしかり、寛容さが足りないと感じる。それは、みんなが社会を正したいと「思い過ぎている」のではないか。現実の社会を、自分が思う「正しい社会」に修正したい、そんな思いを言い換えれば、「不寛容」ということになる。
共存するということは、理解しあうことではない。仲良くするということでもない。あえて意識的に「気にしない」ということである。そんなことを、インドネシアで学んだ。
6月6日 王子様考
最近、サチコはシンデレラ、眠れる森の姫、白雪姫等のお姫様が出てくる絵本が好きである。頻繁に絵本を見ながら絵を描いたり、夜寝る前の絵本も、これらを読んでほしがる。サチコに読み聞かせをしながら、私なりのこれらの絵本の解釈をしてみる。
これらの絵本は、お姫様の視点から見れば、大変な不幸ののちに素敵な王子様が現れ、幸福になるという一般的な見方となるわけだが、王子様の視点から読めば、また別な一面が見えてくる。
シンデレラ・・・一度会っただけの素性も分からない女性を探すために、国費をつぎ込んで徹底的に捜索する王子様
眠れる森の姫・・・たまたま通りかかった村で、眠れる美女の噂を聞き、いばらの森の古城に入り込み、城内で見つけた、見ず知らずの就寝中の女性にいきなりキスをする王子様
白雪姫・・・たまたま通りかかった森の小屋で、美人と言うだけの理由で、知らない女の子の死体を貰い受ける王子様
これらから見えてくる王子様像とは、要するに美しい女性を我が物としたいという欲求が、他の何よりも優先されるという、まさに性欲の塊のような存在である、ということである。そしてそれは、決して滑稽でいやらしいものではなく、物語として美しく描かれるべき、正当なものだということである。
もしかしたら、昔の男性はこのくらいが逞しくて素敵、ということだったのかも知れない。否、今でさえ、色褪せることなく読み次がれていると言うことは、本質的なところはあまり変わらないのかもしれない。
むしろ、こんなことを書いている私こそ、男としての魅力に欠ける卑屈な人間と言うことなのかもしれない。
話は変わるが、白雪姫では、「世界で二番目に美しい」はずの継母が、非常に醜く描かれているのはいかなることか。鏡がお世辞を言っていたのであろうか。それならば、白雪姫が生まれた後も虚言を繰り返さなかったのは何故か。この物語で一番意地が悪いのは、この鏡のような気がしてならない。
6月3日 名前
先日、整体の予約をした。KARADAファクトリーという、日本の整体チェーン店がインドネシアにも出店しており、疲れてきたらここで整体を受けている。
以下、予約に日時やコースを決めた後のやりとり
店の人「お名前は?」
私「タドコロです」
店「○△□×??」
私「タ・ド・コ・ロ」
店「(メモを持ってくる音がして)ハイ?」
私「タ」
店「サ」
私「ド」
店「ゴ」
私「もうそれでいいです。」
店「オッケー、ご来店お待ちしております♪」
私の名前はとても覚えづらいらしい。電話で正確に伝わったことはまず無い。まあ、整体が受けられれば名前などはどうでもよい。そんなことを考えていたら、マンガ「寄生獣」で登場する寄生生物が「名前などはどうでもいい」と言っていたのを、無性に思い出した。
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