2017年
4月のつぶやき
4月24日 無題
北朝鮮情勢が、かつてなく緊張している。アメリカは日本海に空母を派遣し、対する北朝鮮も、更なる挑発をしようとしている。一歩間違えれば、軍事攻撃が起こりかねない。日本では、ミサイルが飛んできたときの対処法などが発表されたという。
こんな緊張を生み出したのは何か、ということを考える。色々なことを言う人がいるけれども、私には、まるで野生生物のオスがメスを巡って威嚇しあうように、人間の「二匹のオス」が男が本来持っている本能を押さえきれずに、その野生を剥き出しにして吠えあっているだけにしか見えない。
それは、強大な力を得た者が、敵対する相手に対し、その力を試してみたい、そして、かの相手を力で捻じ伏せて周囲に自慢したい、というような、理性とは対極にある、暴力的本能である。残念ながら、男なら誰でも、多かれ少なかれ、このような本能を持っていると言わざるを得ないだろう。
私自身、憎いと思った相手を、柔道の技で投げ飛ばして関節を取るような空想をしたことがあることを告白する。また、もしアメリカと北朝鮮で戦争が始まったら、怖いとか残念だとか思うと同時に、そのこと自体にワクワクしてしまうであろうことも告白せざるを得ない。そういった感情を、理性と道徳で押さえ込んでいるのである。正義のためとか、国防のためとかいう以前に、この二人は、国のトップとしてではなく、一個人として自らの暴力的な感情を自認し、客観的に見つめることができているのであろうかということに、疑問を感じる。
ここまで高度な文明を発達させ、民主主義という、不完全ながらもそこそこ使える政治形態を持ちながら、たまたま国のトップとなった個人の性格的欠陥のために、世界が緊迫するのは、滑稽なことである。
尾崎辞書
インドネシア語の勉強のために「尾崎辞書」を購入した。「尾崎辞書」とは、個人が作成したインドネシア語辞典ながら、40万語という、圧倒的な単語数を持つ電子辞書である。ジャカルタの日本人向けフリーペーパーに「インドネシア版『舟を編む』」として紹介されている。
インドネシア語の勉強をしているときの障壁のひとつは、適切な辞書が無いことである。これまで、分からない単語は、まず携帯に入れてある辞書で調べ、出てこない場合はGoogle翻訳、それでも出てこない場合は、紙の辞書では最も優れていると思われる「KAMUS STANDAR BAHASA INDONESIA-JEPANG」(約8万語)を使い、それでも出てこなければ、諦めていた。辞書をひいても分からない、或いは訳語が適切に思えないなどの問題は、これまで頻発していた。
尾崎辞書を購入すべく、「尾崎さん」にメールで依頼をし、指定の口座に辞書代金として7千円(送料込み)を振り込んだ。次の日、「KAMUS OZAKI」(KAMUSは辞書の意)とマジックで手書きされたCD-ROMが送られてきた。個人が作ったんだなぁということを実感する。
尾崎辞書を使い、驚いた。どんな単語も載っている。スマホの辞書で、検索してヒットしないということが、これまで頻発していたが、尾崎辞書を入れて以来、それが全くなくなった。そして、その日本語訳も豊富で、必ず適切な訳語が導かれる。辞書を作った尾崎さんに感謝するとともに、世の中には色々な人がいるものだと思った。
4月24日 優一、2歳
昨日は、優一の2歳の誕生日であった。妻は、誕生日にと、ケーキを注文してお祝いした。
しかし、優一は、ほとんど食べなかった。私に味覚が似ていると、妻が嘆いた。私も、子供の頃ケーキが嫌いで、ほとんど食べられなかった。スポンジの部分は、スカスカして喉がつまるし、クリームの部分は甘ったるくて気持ちが悪いと思った。真偽は定かでないが、「ケーキは要らんから、スルメが欲しい」と言って、「誕生日スルメ」が出た記憶がある。
優一の知能は、どんどん発達している。家族を見分けることが出来、下記の様に家族を認識している。
父・・・「ぱぱ」
母・・・「まま」
姉・・・「ねぇね」
自分・・「じゅ」
なぜ一人称が「じゅ」なのかは不明だが、とにかく成長している。ともあれ、誕生日おめでとう。
プールにて2
サチコのプール好きが止まらない。土日月と3連休だが、毎日プールに付き合わされている。先週、顔付けが出来たのを皮切りに、自分からどんどん潜るようになり、プールで浮かべるようになり、ほんの2メートルくらいだが、バタ足で進めるようにもなった。この三日間の成長に驚いている。
今日は、2歳年下のアパートの女の子と、プールで遊んでいた。サチコは自慢げに「顔付けできる?」と訊いていたが、この女の子は顔付けどころか、足の届かないところでも平気で泳いでいってしまうくらい、上手である。インドネシアで暮らしている子達は、毎日泳げるため、上達する子は、本当に早い。
サチコはそんな中でも最も遅いほうだが、私の娘だから仕方が無い。私も、顔付けが怖くて、父に海で放り投げられて泣いた記憶がある。それでもサチコは、確実に成長している。
4月18日 入学式
昨日は、サチコの入学式があり、家族で出席した。ランドセルを背負ったサチコは、小さくて、ランドセルがやたら大きく見える。それでも、彼女にとって「小学生」とは、かなり背伸びをしている状態らしく、お姉さん気分である。
そして、かなり緊張しているように見えた。小学校は宿題が出て大変だとか、先生に怒られるとか、どうやら幼稚園のほうで多少脅してくれたようだ。まあ、全然緊張しないよりは、多少ビビリながら入学したほうが良いだろう。
小学校に着いて、妻が「チビッコがたくさんいて可愛いねぇ」と言うと、サチコは明らかに「何のことですか?」といった顔をした。小学生である私たちが「チビッコ」な訳が無い、すでに立派なお姉さんだという気分がうかがえた。
入学式は、大規模であった。幼稚園とは違う。校長先生やら、来賓の人やら、PTA役員の人やらが、順番に退屈な挨拶をしていた。こういう退屈な話に付き合うのも、大人への第一歩であろう。式が終わり、イオンモールで食事をして帰って来た。サチコは早速教科書を興味深く読んでいた。
学校が始まれば、朝5時に起きて、6時にはバスに乗る生活が始まる。楽しい学校生活を送ってくれることを願う。
4月16日 優一
最近、優一が面白い。私の顔を見るたびに、「やって!」と言う。「やって!」というのは、「たかいたかいをしてくれ」という意味である。たかいたかいをしてあげると、間髪いれずに「やって!」と言う。全部つきあっていると、きりが無い。
私がソファでごろごろしていても、手を掴まれ、「やって!」が始まる。「やらないぞ」と返しても、「やって!」といわれ、「やらないぞ」「やって!」「やらないぞ」「やって!」を延々と繰り返したのち、最終的にはたかいたかいをすることになる。
朝起きて、私と目が合えば「やって!」、仕事から帰ってきて、優一がまだ起きているときも「やって!」、とにかく、私をみれば「やって!」が始まる。
本当に可愛い。少し前は、母親に甘えてばかりで、私のところにはあまり来なかった。最近は、私にも懐いてくれる。2歳前後という、少し言葉は話せるがまだまだ赤ちゃんの可愛さというのは、別格である。この期間は意外に短く、この時間を大切にしたい。
4月15日 プールにて
今日、サチコとプールに入った。サチコは、未だに顔を水につけるのを怖がり、腕に浮き輪をはめないと遊べない。ゴーグルをつけることさえ嫌がる。6月のレバラン休みは、ロンボク島沖にある小島に滞在する予定であり、この有様だとろくに海を楽しめないだろう。
この日は、腕の浮き輪を外し、サチコを抱っこしてプールの深いところに連れて行き、顔付けをやってみようと言った。最初、サチコは怖がり嫌だと言ったが、気長に励ました。するとサチコはやってみようという気になったらしく、私が手を持ちながらバタ足し、ほんの1秒くらい顔をつけた。
私は大げさに褒めてあげた。しかし、怖くてまだ目は開けていないという。目を開けると水の中がきれいだよと、また気長に励ました。こんなことを何度か繰り返しているうちに、あまり怖がらずに水に顔をつけ、目も開けられるようになった。
そのうち、楽しくなってきたらしく、プールからあがるとき、「また明日もプールやりたい」と言った。これまで、プールに誘う度に難色を示していたサチコが、自分からプールに行こうと言うなんて、初めてのことである。
このまま、せめて人並みに泳げるようになって欲しい。せっかく、一年中プールに入れる環境にいるので、この間になんとかしたい。
4月6日 NHK朝ドラ
久しぶりに、NHKの朝ドラを観ている。しばらく、見続けたいと思う作品が無かった。過去2作品くらいは、どことなく綺麗ごとで、深みが無い作品で、最初の2週くらい観て止めてしまった。本当は名作だったのかもしれないが、私は作品の良し悪しは数分見るだけで分かると思っている。良し悪しはともかく、私が好きかそうでないかは、割とすぐに判別できる。今の「ひよっこ」は、しばらくぶりに最後まで観続けられそうな作品だ。
まず、映像が美しい。土の香り、バスの揺れ方、民家の陰影、はてはハヤシライスを料理するときに立ち上る湯気まで、非常に丁寧に作られている。毎度15分間、手を抜くところがなく、隅々まで行き届いている感じがする。
ストーリーの描き方も丁寧である。基本的には、現在の「ひよっこ」も、表面上はこれまでの朝ドラの流れと変わらない。周りの人はみんないい人で、ヒロインは落ち込んだりするけど前向きで明るく、と言った雰囲気は、むしろこれまで以上に強調されている。
しかし、そこが逆に不穏でさえある。この作品の根底に流れる、一本筋の通ったテーマは、そういった「明るく正しい朝ドラ」の下に隠れながらも確実に根を張っている。単に、2020年の東京オリンピックの勢いづけだとか、女性の社会進出だとか、地方格差とか、そんな問題ではない。否、作者の意図とは、そういった表面的なテーマを出すことで、企画を通させた上で、もっと根源的なテーマを描きたいに違いない。
これからの展開が楽しみである。
4月1日 インドネシア語検定
先週、妻が「年を取るとモチベーションが下がる」と言う話をしてきた。私は同意した。確かに5年位前までは、新しいことに取り組んだり、自分を高めたりする意欲があったが、最近はそういう気が起こらない。それは、英語の学習然り、柔道やリコーダーの趣味も然りである。「このくらいでいいや」と思ってしまう。妻の言うことは良く分かる。
というようなことを言ったら、いきなり「年のせいにするな!」と怒られた。上記の話の流れからして、怒られるのは不本意だが、意欲が下がっている自分には改めて気付かされた。
40歳を過ぎると、記憶力は大きく落ちるようだ。それまでに専門的かつ汎用性のあるスキルを身につけておきたい。目的は、何があっても働き、子供を育て上げることである。この激動の時代、何が起こるか分からない。会社が倒産しても、または会社がブラック化し自分がうつ病になっても、或いは自分から辞表を叩きつけて「辞めてやる」みたいな状況になっても、そもそも戦争が始まって仕事どころじゃなくなっても、子供を育てなければならない。そして、今の私の環境とスキルを考えると、得意であるインドネシア語を更に伸ばすのが良策と思った。
私は、インドネシア語検定を受けることにした。ランクは、プロの通訳として通用する 特A 級から、初歩的な日常会話の E 級までの6段階である。目標は A 級、少なくとも B 級は取りたい。ちなみに、ウェブサイトによると、A級、B級のレベルは下記のようである。
A級
一般の新聞記事、文献を読んで翻訳でき、業務文書を書いたり、一応の会議通訳ができる。
職場や社会生活に必要なやや高度なインドネシア語を理解し、使用できる。
B級
平易な新聞記事、文献を読んで翻訳でき、平易な業務文書を書いたり、簡単な通訳ができる。
職場や社会生活に必要なインドネシア語を理解し、使用できる。
私は、早速過去問を妻に買ってきてもらい、勉強を始めた。気付かされたのは、語彙の少なさである。普段の生活、仕事に全く不自由しないから、自分の語彙は十分だと過信していたが、過去問を見れば、知らない単語がバンバン出てくる。いかに自分が限られた分野で、限られた単語を使って仕事をしているかを痛感した。
一方で、リスニングは簡単に思えた。普段の仕事で使う速度よりも、はるかにゆっくりで明瞭で、楽に聴き取れる。
単語については、ありがたいことに、過去に出た単語を分析して、上位2万語を頻度順に並べてくれた人がおり、データをウェブサイトで公開していたので、これをダウンロードし、すでに知っている単語を削除して、単語帳を作った。上位2400語で、知らない単語(固有名詞や略語含む)が400語あった。まずはこれを覚えつつ、過去問をどんどん進めている。辞書を引いても分からないような、婉曲的/比喩的な文章も出てくるので、これは通勤中に運転手に教えてもらっている。インドネシア語を勉強するには、またとない環境である。
妻の叱咤のおかげで、久しぶりにモチベーションを取り戻した。あとは、健康とのバランスを忘れずに、出来る限り勉強を進めていきたい。
topへ