2017年
5月のつぶやき




5月25日 この国で平穏に暮らす方法

 下に書いた「WARISAN」に続き、下記の文章が掲載された。こういう批判精神、意思の強さはどこからくるのであろうか。ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんもそうだが、こういうことが出来るひとは限られている。知識、バランス感覚、意思の強さ、そのいずれが欠けても、この文章は生まれないであろう。以下、フェイスブックからの翻訳のみを掲載する。


「この国で平穏に暮らす方法」

 中学生、高校生の後輩達へ。声をあげてはいけません。他の人と違うことに自信を持ってはいけません。批判的な態度を取ってはいけません。意見を持ってはいけません。君達の不安を声に出してはいけません。色々考えてはいけません。ましてや、長く続いている現状に対して、疑問を投げかけるなんて、絶対にいけません。

 皆さんも知っているように、大人というものは、時々私たちを当惑させます。彼らは、この国が発展して欲しいと思っています。しかし、彼らは、彼らの「常に正しい大人」としての自尊心を傷付けられたくないという理由だけで、簡単に黙り込んでしまいます。彼らは、「より優れた大人」としての地位を失いたくないのです。

 彼らは、長い眠りから目覚めたくないのです。現状の快適さを失いたくないのです。

 だから、何年後かにこの国の重要な担い手となる後輩達よ、学校にさえ行っていればよろしい。学校に行って座って授業を受け、勉強をし、テストを受けて帰りなさい。教育システムや先生、その他君達の周りで起こることを批判してはいけません。君達は、何も知らないただの子供です。君達には、声をあげる権利などありません。

 自分の感情を押し殺しなさい。大人たちに袋叩きにされないように。出来ることなら、ごく普通の子供でいなさい。色々なことに興味を持たなければ、君達は安全です。他の子供たちのように、スマホには自撮りの写真をたくさん入れて、カフェでお喋りをして時間を潰し、ぶらぶらしていましょう。おしゃれで友達に負けてはいけませんよ。青春を楽しみなさい。恋人とおしゃべりして笑っていなさい。ピクニックに行きなさい。文章を書くとか、読書とかの趣味は、地味過ぎて、友達には自慢できませんよ。テストが難しかったら、カンニングすればよろしい。そして、卒業したら、制服に落書きして、大通りに繰り出して馬鹿騒ぎすればよろしい。

 しまいには、君達がまだ満足しなければ、セックス、麻薬、少年犯罪に手を出してしまうのは、当然のことでしょう。君達の友達だって、そんなものじゃないですか?

 だから、後輩達よ、難しいことを考えてはいけません。ましてや、若いうちから努力し勉強し、自分の意見を公開するなんて、絶対にいけません。なぜなら、尊敬されるどころか、袋叩きにされるからです。

 国家の希望である後輩達よ。最近、ある子が身をもって体験しました。何千回、脅迫のコメントが投げつけられたか、分かりません。何千回、コーランを読んだことがないのかとか、その子の信じている宗教の教えから外れているとか言われたか、分かりません。

 その子は、全ての宗教にとって普遍的な考え方を述べただけのです。それに対し、彼らは、自分の勝手な思い込みで、偏った視点で非難してくるのです。これでは、議論が成立しません。

 その子が言いたいのはこういうことです。なぜ彼らは、自分の信じている宗教を押し付けようとするのでしょう。そして、他の人も、宗教に対し、自分と同じくらい信仰しているという事実から目を背けるのでしょう。

 あなたは、それぞれの信者があなたと同じくらい敬虔で、真剣だということを分かっていますか。

 あなたは、それぞれの人が、自分にとって疑いようのない宗教を持っていることを分かっていますか。

 その子が伝えたかったのは、融和の心です。それぞれの信仰を尊重することです。神は私たちを別々の意見を持つ者として創造しました。自分が神だと勝手に思い込んでいる人々が思い描くように、みんな同じには創りませんでした。

 その子は、宗教に対する敬虔さと真剣さは、他の宗教の人たちによって妨害されてはならないことを伝えたかっただけなのです。そんな簡単なことが、なぜ分からないのでしょう。それどころか、なぜこれほど酷い嫌がらせを受けなければならないのでしょう。

 だから、可愛い後輩達よ、お姉さんの言うことをよく聞きなさい。高い希望を持ってはいけません!君達は見ているでしょう。この国で汚職や、モラルの欠如、良識の失墜。。しかし、現実に正直に向き合わず、何も言わなければ問題ありません。

 アフィ ニハヤ ファラディサ


5月22日 バジャイに乗る

 先週の土曜日、延長コードが必要になり、近くのモールまで買いに行った。歩いて15分くらいの距離なので、久しぶりに家族で散歩しようと、のんびり歩いて出かけた。家の裏の高級住宅街を通り、緑のトンネルのような階段を登り、植物を栽培している庭の道を歩き、のどかな下町を抜けると、モールがある。私は、散髪のたびに通っている道だが、家族で歩くのは何年ぶりであろうか。

 ジャカルタで外を歩くのは危ない、と言う人も多いが、私は逆に、危機管理の感性を養うのに必要なことだと思っている。過度に怖がり過ぎないことも大切である。もちろん、全く無防備ではいけない。サンダルではなく靴を履き、貴重品はかばんの底に埋め、ポケットには念のため現金を入れておく。それでも、普通は拍子抜けするくらい、平和だ。

 モールでは、せっかくなのでぶらぶらした。サチコは小学生になってから毎月おこづかいを1万ルピア(約100円)渡しており、すでに2万ルピア貯まっている。それで何かを買ってもいいよと言ったところ、アクセサリーの店で悩みに悩み、チョウチョの形をしたブローチを買った。ブローチは1万5千ルピアで、5千ルピアのお釣りが返ってきたが、まだサチコには何のことだか分からないようだ。まあ、そのうち分かるだろう。

 延長コードを購入し、帰るとき、モールの前にバジャイ(三輪タクシー)が停まっていた。サチコがバジャイを見るたびに乗りたい乗りたいと言っていたのを思い出し、乗ってみることにした。

 バジャイは、見た目に反して、普通のタクシーよりも高い。かといって、観光用というわけでもなさそうで、これまで乗りたいと思ったことがなかった。家までの値段は2万5千ルピアだという。値切ればもっと安くなったろうが、頻繁に乗るわけでもないので、そのまま了承し、出発した。

 バジャイは、予想以上に楽しかった。風は涼しく、揺れは遊園地のアトラクションに乗っているようである。サチコは、乗っている間中、騒ぎに騒ぎ、10分程度の行程を思いっきり楽しんでいた。この満足感であれば、安いと思った。


5月19日 「WARISAN」〜受け継がれたもの〜

 フェイスブックで、インドネシア語の先生がシェアした文章が印象的だったので、勉強も兼ねて全文翻訳してみた。

 この文章は、10代の少女が書いたとされる。内容からとてもそうは思えないとのコメントもあるが、私は、この文章は10代の文章だと思う。逆に言えば、10代の多感な時期にこういうことを考えられなければ、大人になっても考えられないであろう。文章からは、10代なりの未熟さや荒削りなところもあり、大人には書けない文章だと感じる。

 驚くべきことに、これを書いた後、彼女のフェイスブックのアカウントは、一部の人々により通報され、一時的に凍結されたという。インドネシアでも寛容さを良しとしない人が一定数いることの証明であろうと思う。以下、翻訳および原語全文


「WARISAN」〜受け継がれたもの〜

 Afi Nihaya Faradisa

 偶然にも、私はイスラム教徒の両親から生まれました。だから、私はイスラム教徒です。例えば、私がスウェーデンやイスラエルで生まれていたら、それでも私はイスラム教徒になっていたでしょうか?

 答えは「いいえ」です。

 私たちは、どこで生まれ、どこで生きるかを選ぶことができません。私の国籍は「受け継がれたもの」、私の名前も「受け継がれたもの」、そして、私の宗教も「受け継がれたもの」なのです。

 幸運にも、私はこれまで他の宗教の人たちと争いをしたことはありません。なぜなら、私は、彼らもまた両親や国、宗教を選ぶことが出来ないことを知っているからです。

 人は生まれてすぐに、周囲の環境によって宗教、民族、国籍が決められるのです。そしてそれらは、自分の意思で決めたものではないにもかかわらず、死ぬまでそれらを守り続けるのです。

 私は、物心付く前から、イスラム教こそが、唯一の正しい宗教だと教えられてきました。

 だから私は、イスラム教徒以外の人たちが可哀想だと思いました。なぜなら、彼らは、死んだ後地獄に落ちるからです。

 ところが、キリスト教徒の友人も、私と同じように考えていたことを知りました。その子も、イエス・キリストを信仰しない人は地獄に落ちるから可哀想だと思っていたのです。

 私は、もし、私たちが常に他の宗教に移れるような状況であったらと想像してみます。また、もし、それぞれの信者が、合意できるはずもないのに、お互いの宗教の優位性を主張し合っているとしたら、ということも想像してみます。

 ジャラール・ルーミーは、「真実は、神が手にしている一枚の鏡に在る。そしてそれは、落ちて粉々に割れた。人々は、その破片を拾っているのだ。そして、人々はその破片が真実の全てだと勘違いしてしまうのだ」と語ったといいます。

 確かに、それぞれの宗教は、自分の教義こそが真実だと主張し合っています。

 彼らには、それを裏付ける証拠など必要ないのです。重要なのは「信仰」しているということだけです。当然、人は神の教えを伝えることは出来ます。しかし、「神」になろうとしてはいけません。誰が天国に行くとか地獄に行くとか決め付けてはいけません。

 全ての紛争は、「自分こそが正しい」と、それぞれの「受け継いだもの」が主張し合って発生しているのです。

 そして、私が不思議に思うのは、それが神でないとしたら、一体誰がイスラム教徒やキリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、そして無神論者までを生み出し、こんにちまで彼らを見守ってきたのでしょうか?

 神の権力は絶対です。もし神がそう思ったならば、全員を同じ宗教、同じ民族にすることだってできたはずです。しかし、実際にはそうなっていません。

 もしも、ある国に、同じ宗教の人しかいないとしたら、その国は内紛が起きないと言いきれるでしょうか?

 絶対にそんなことはありません。

 実際に、いくつかの国は、単一宗教国家にもかかわらず、混沌としています。なぜなら、その中にも多数派、少数派感情が生まれ、それにより人間性が突然失われるからです。

 例えば、それぞれの宗教が、それぞれの教えを国の基礎にしたいと訴えたらどうでしょう?そうしたら、私たちのインドネシアは、すぐにでも崩壊するでしょう。

 なぜなら、特定の宗教が政治、司法の分野において、国の方針決定に使われてしまうからです。国の方針を決めるのは、コーランでも旧約聖書でも新約聖書でも仏教経典でもヒンドゥー経典でもあってはなりません。それよりも建国五原則、インドネシア国憲法、そして、「多様性の中の統一」のスローガンこそがふさわしいのです。

 国家五原則によると、人々は、自分の宗教を信じてもよいことになっています。しかし、他の宗教を信じる人に、自分の宗教の基準を押し付けてはいけないのです。自分の宗教こそが正しいと主張し、多宗教から成る国の方針に干渉する権利は、どの宗教にもありません。

 将来、私たちは、孫たちに、私たちの国が、どのようにして崩壊したかを語る日が来るかもしれません。爆弾でも、銃器やミサイルのせいでもなく、単に人々が自分達の「受け継いだもの」の正当性をソーシャルメディアで主張し合ったことが原因であると。

 他の国々は、月までたどり着き、文明を発展させ技術を進歩させているのに、私たちはまだ「受け継いだもの」のことで揉めているのです。

 私たちは、同じ意見を持つ必要はありません。しかし、このことはみんなで考えていくべきだと思います。



WARISAN

Ditulis oleh Afi Nihaya Faradisa

Kebetulan saya lahir di Indonesia dari pasangan muslim, maka saya beragama Islam. Seandainya saja saya lahir di Swedia atau Israel dari keluarga Kristen atau Yahudi, apakah ada jaminan bahwa hari ini saya memeluk Islam sebagai agama saya? Tidak.

Saya tidak bisa memilih dari mana saya akan lahir dan di mana saya akan tinggal setelah dilahirkan.

Kewarganegaraan saya warisan, nama saya warisan, dan agama saya juga warisan.

Untungnya, saya belum pernah bersitegang dengan orang-orang yang memiliki warisan berbeda-beda karena saya tahu bahwa mereka juga tidak bisa memilih apa yang akan mereka terima sebagai warisan dari orangtua dan negara.

Setelah beberapa menit kita lahir, lingkungan menentukan agama, ras, suku, dan kebangsaan kita. Setelah itu, kita membela sampai mati segala hal yang bahkan tidak pernah kita putuskan sendiri. Sejak masih bayi saya didoktrin bahwa Islam adalah satu-satunya agama yang benar.

Saya mengasihani mereka yang bukan muslim, sebab mereka kafir dan matinya masuk neraka.

Ternyata, teman saya yang Kristen juga punya anggapan yang sama terhadap agamanya.

Mereka mengasihani orang yang tidak mengimani Yesus sebagai Tuhan, karena orang-orang ini akan masuk neraka, begitulah ajaran agama mereka berkata.

Maka, Bayangkan jika kita tak henti menarik satu sama lainnya agar berpindah agama, bayangkan jika masing-masing umat agama tak henti saling beradu superioritas seperti itu, padahal tak akan ada titik temu.

Jalaluddin Rumi mengatakan, "Kebenaran adalah selembar cermin di tangan Tuhan; jatuh dan pecah berkeping-keping. Setiap orang memungut kepingan itu, memperhatikannya, lalu berpikir telah memiliki kebenaran secara utuh."

Salah satu karakteristik umat beragama memang saling mengklaim kebenaran agamanya.

Mereka juga tidak butuh pembuktian, namanya saja "iman". Manusia memang berhak menyampaikan ayat-ayat Tuhan, tapi jangan sesekali mencoba jadi Tuhan. Usah melabeli orang masuk surga atau neraka sebab kita pun masih menghamba.

Latar belakang dari semua perselisihan adalah karena masing-masing warisan mengklaim, "Golonganku adalah yang terbaik karena Tuhan sendiri yang mengatakannya".

Lantas, pertanyaan saya adalah kalau bukan Tuhan, siapa lagi yang menciptakan para Muslim, Yahudi, Nasrani, Buddha, Hindu, bahkan ateis dan memelihara mereka semua sampai hari ini?

Tidak ada yang meragukan kekuasaan Tuhan. Jika Dia mau, Dia bisa saja menjadikan kita semua sama. Serupa. Seagama. Sebangsa.

Tapi tidak, kan?

Apakah jika suatu negara dihuni oleh rakyat dengan agama yang sama, hal itu akan menjamin kerukunan?

Tidak!

Nyatanya, beberapa negara masih rusuh juga padahal agama rakyatnya sama.

Sebab, jangan heran ketika sentimen mayoritas vs. minoritas masih berkuasa, maka sisi kemanusiaan kita mendadak hilang entah kemana.

Bayangkan juga seandainya masing-masing agama menuntut agar kitab sucinya digunakan sebagai dasar negara. Maka, tinggal tunggu saja kehancuran Indonesia kita.

Karena itulah yang digunakan negara dalam mengambil kebijakan dalam bidang politik, hukum, atau kemanusiaan bukanlah Alquran, Injil, Tripitaka, Weda, atau kitab suci sebuah agama, melainkan Pancasila, Undang-Undang Dasar '45, dan semboyan Bhinneka Tunggal Ika.

Dalam perspektif Pancasila, setiap pemeluk agama bebas meyakini dan menjalankan ajaran agamanya, tapi mereka tak berhak memaksakan sudut pandang dan ajaran agamanya untuk ditempatkan sebagai tolok ukur penilaian terhadap pemeluk agama lain.

Hanya karena merasa paling benar, umat agama A tidak berhak mengintervensi kebijakan suatu negara yang terdiri dari bermacam keyakinan.

Suatu hari di masa depan, kita akan menceritakan pada anak cucu kita betapa negara ini nyaris tercerai-berai bukan karena bom, senjata, peluru, atau rudal, tapi karena orang-orangnya saling mengunggulkan bahkan meributkan warisan masing-masing di media sosial.

Ketika negara lain sudah pergi ke bulan atau merancang teknologi yang memajukan peradaban, kita masih sibuk meributkan soal warisan.

Kita tidak harus berpikiran sama, tapi marilah kita sama-sama berpikir.  


5月14日 勉強について

 サチコが小学生になり、勉強らしきものを始めている。今のところ、楽しく勉強しているようで、嬉しい限りである。私が「勉強」に関して子供と向き合うときに浮かぶのは、常にドラマ「女王の教室」の鬼教師、阿久津真矢が発した言葉である。

 生徒の「何故勉強をしなければいけないの?」という質問に対して、彼女は以下の様に答えている。


いい加減目覚めなさい。まだそんなことも分からないの?勉強は、しなきゃいけないものじゃありません。したいと思うものです。 これからあなた達は知らないものや理解できないものに沢山出会います。美しいなとか、楽しいなとか、不思議だなと思うもの沢山出会います。そのとき、もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから人間なんです。

 好奇心や探究心のない人間は人間じゃありません。 猿以下です。自分たちの生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるというんですか。いくら勉強したって、生きている限り分からないことはいっぱいでもあります。世の中には、何でも知ったような顔した大人がいっぱいいますが、あんなものは嘘っぱちです。

 良い大学に入ろう良い会社に入ろうが、いくつになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。

勉強は、受験のためにするのではありません。立派な大人になるためにするんです。

 また、最終話では、卒業式の後に、将来の不安を訴える子供たちに対し、下記の様に励ましの言葉をかけている。


イメージできる?私達の周りには、美しいものがいっぱい溢れているの。夜空には無数の星が輝いているし、すぐ傍には小さな蝶が懸命に飛んでいるかもしれない。街に出れば、初めて耳にするような音楽が流れていたり、素敵な人に出会えるかもしれない。普段何気なく見ている景色の中にも、時の移り変わりで、はっと驚くようなことがいっぱいあるんです。そういう大切なものを、しっかり目を開いて見なさい。耳を澄まして聞きなさい。全身で、感じなさい。

それが生きているということです。

今はまだ、具体的な目標がないのなら、とにかく勉強しなさい!12歳の今しかできないことを一生懸命やりなさい。そして、中学へ行きなさい。

 今のところ、サチコは旺盛な好奇心で、世界の不思議に向き合っている。読めない漢字や英語を知りたがり、ビールの中で立ち昇る泡を不思議そうに見つめ、夜の読み聞かせは算数の絵本である。

 私は、出来る限り、勉強を強要したくない。それも、上記のような、「いい大学」「いい会社」と言った言葉を使って勉強をさせることは、絶対に避けたい。そのようにして得た知識、その過程で得た能力・意欲は、その後に活かすことが出来ない。やはり、自分からしたいと思って行った学習こそが、未来を生きる力になると信じている。


5月14日 ジャカルタ絆駅伝2017

 今日は、「ジャカルタ絆駅伝」に参加した。「ジャカルタ絆駅伝」では、インドネシア人、日本人の混合からなる4人のグループでたすきを繋ぎ、ひとり2.8kmを走る。昨年に引き続き2回目の出場で、今回は、会社からスズキさん、ヤマグチさん、アデさん、私で出場した。ちなみに、前回は300チーム中、30位と、そこそこの好成績であった。

 スタートは朝6時半と早く、5時半に出発地点のモール入り口に集合した。今年は400チーム出場するということで、昨年以上に大盛況である。私は第2走なので、区分けされた場所にスタンバイした。

 私は、便意をもよおした。朝家で済ませてきても、こういうときに限って、便意というものは発生する。アナウンスではすぐにスタートすると言っているが、そういいながらもなかなか始まらない。近くの仮設トイレに行ってみたが、行列が出来ており戻ってきた。行こうか、行くまいか迷っているうちに時間が過ぎ、スタート時刻となった。

 第1走者のスズキさんがスタートし、待っている間も便意のことが気になった。果たして無事に戻ってこれるであろうか。そんなことが気になって、この盛り上がりを楽しめなかった。

 スズキさんが戻ってきて、たすきを受け取り走り出すと、便意のことはすぐに忘れた。焦りすぎず、怠けすぎずに走っていれば、問題なく10分強で走りきれる程度の距離である。私はどんどん追い越し、おそらく20〜30人くらいは追い越して第3走者のアデさんにたすきを繋いだ。

 その後は、みんなとゴール近くで応援した。正式な順位はまだ出ていないが、アンカーのヤマグチさんもかなり早くゴールしていたので、去年と同じくらいの成績は残せたのではと思う。

 その後、イベント会場でぶらぶらしていると、ポカリスエットのブースに、元JKT48の仲川遥香さんがいた。彼女も走ったが、けろっとした顔をして笑顔を振りまいている。昨年は、駅伝で走り、その後ラッキドローの司会をし、踊り歌い、更にはそのままスラバヤまで(約1,000km)自転車で横断するというイベントに挑んでいた。凄いプロ根性である。インドネシア語も、まるで現地人の如く流暢に操る。私は、○○48のことはほとんど知らないが、仲川遥香さんだけは、同じ海外で仕事する人として、尊敬している。

 メインステージでは、「ピコ太郎」が来るということで、楽しみにしていた。「ピコ太郎」が来る話は、事前の新聞やウェブサイトにも載っておらず、本当に突然の決定のようだ。アデさんも「ピコ太郎」のことは知っており、観るのを楽しみにしているらしい。

 私たちも少し観たいと思ったが、妻も早起きしてずっと優一を抱っこしており、待ち時間がかなり長くなってしまうので、先に帰った。


5月12日 ジャカルタ知事判決

 ジャカルタ州知事のアホック氏に、イスラム教をを冒とくする発言をしたとして、宗教冒とく罪により懲役2年の判決が下された。検察の求刑である懲役1年、執行猶予2年を上回る判決で、異常事態といえる。

 アホック氏は、イスラム教徒が9割を占めるインドネシアにおいて、中華系キリスト教徒でありながら、圧倒的な支持を得て州知事に就任した。今年4月の選挙では、惜しくもイスラム教徒のアニス氏に敗れはしたものの、10月までは現職のはずであった。

 宗教冒涜の内容とは、彼が昨年9月の選挙運動中に「コーランに惑わされているあなたたちは、私に投票できない」と言ったとされる。実際は、コーランの一節を元に、非イスラムであるアホック氏に投票しないよう呼びかけている人々を批判したのだが、これが歪曲され、大きな問題となった。12月には20万人を動員するデモが行われた。

 インドネシアは、「ひとつの国として存在していること自体が奇跡」と言われるほど多様な民族から構成されている。国是に「多様性の中の統一」を掲げ、問題を抱えながらも、ひとつの国として発展している。しかし、ここ最近、イスラム色が強くなり、それを政治利用する勢力に、民衆が踊らされていると感じる。

 私は、ここでは外国人であり、この問題を彼らと議論する気は無い。しかし、アホック氏と同じ、ひとりのマイノリティとして、今回のことを怖いと思った。昨年12月の20万人のデモは「超平和的デモ」(Demo Super Damai)と銘打ち、破壊的行為やゴミの廃棄なども無かったとされる。しかし、そんなことは、自画自賛に過ぎない。事の発端が、上記の如き問題であれば、冷静に考えれば、大げさに騒ぐべき話ではない。彼らの心の底には、華僑に対する嫌悪感や、異教徒を排除したいという思いがあり、そう思うこと自体は人間として致し方のないことだが、それを堂々と表現しても礼節に反しないと思っているところに問題がある。

 そして、こうした大衆の「標的」にされることを恐れた司法、政府、警察機構等が、いずれも常識的な判断を下すことをためらった結果が、今回の判決である。

 今回の問題に対する受け止め方は、さまざまである。イスラム教徒でも、アホック支持者は依然として多く、今回の問題を重く受け止めている人もいる一方で、今回の判決は当然だと思っている人も多い。

 久々にうんざりする事件であった。


5月6日 となりのトトロ

 今日は、家族で映画館へ「となりのトトロ」を観に行った。今年は、スタジオジブリが初めてインドネシアに進出し、4月から9月にかけて、順番にジブリ映画が上映されている。

 改めて、いい映画だと思った。いい映画は、何度観ても、新しい感動があり、新しい発見がある。子供のときに観るのと、学生時代に観るのも違えば、父親になってから観ればまた違う発見がある。今回は、海外で観たことで、また新しい発見があった。特に感じたのは、この映画で描かれる日本人の宗教心についてであった。

 日本人は、「あなたの宗教は何ですか?」と訊かれて、明確に答えられる人は少ない。そもそも、そのような質問をされる機会が無い。ところが、日本以外の国では、それぞれの人は信じる宗教を持っているのが普通であり、「あなたの宗教は何ですか?」という質問は、ごく自然な会話の一部である。万が一、「無宗教です」などと答えようものなら、変わり者だと思われ、場合によっては危険人物扱いされることさえありうる。

 「となりのトトロ」では、信仰に関する場面が何度も登場することを、初めて意識した。例えば、初めてメイがトトロに出会った後、お父さんが「森の主にあいさつをしにいこう」と言って、巨大なクスノキの神社に行き「メイがお世話になりました」とみんなで頭を下げる場面がある。また、学校の帰り道、急に雨が降ってきて、お地蔵様の元で雨宿りするとき、サツキが「お地蔵様、ちょっと雨宿りさせてください」と手を合わせ、メイもそれに続く。その他、メイが迷子になった場面では、おばあちゃんがサンダルを手に「ナンマンダム、ナンマンダブ」と祈っている。迷子になったメイがしょんぼり座っているのも、お地蔵さんの脇であった。

 インドネシアに来る前は、これが宗教的行為だとは、考えもしなかった。しかし、改めて観ると、これらは明確な宗教行為であり、海外の人が観れば、これらを宗教行為と受け取るだろう。

 例えば、「森の主に挨拶にいこう」という場面の字幕では、「挨拶」の訳語として「Doa」(祈る)という単語が使われていた。通常の「挨拶」であれば、「Salam」が使われそうだが、「Doa」を使ったということは、翻訳者はこれを宗教行為だと受け取ったであろうし、この訳は適切だと思う。

 また、「お地蔵様」「ナンマイダブ」などの場面での字幕では、いずれも「Dewa」という単語が登場する。「Dewa」は、神様という意味だが、特に仏教、ヒンズー教、アニミズム等の多神教の神々を指す。ちなみに、一神教の神様は「Tuhan」であり、これは明確に分けられている。

 日本人は、宗教心が薄いのではなく、宗教があまりに日常に深く根ざしているので、それを意識していないのだと言う説は、よく聞く説だが、改めてそのことを感じた。

 ちなみに、優一は、トトロが登場した時点で怖がり始め、バス停でネコバスを呼ぶために大声を出したところで泣き出し、妻とともに途中退場となった。確かに、普通あんな生物に遭遇したら、メイのようにニコニコして昼寝は出来ないだろう。ネコバスも、よく見るとかなり怖ろしい風貌をしている。

 優一の持つ原始本能は、彼らを「捕食者」と見なしたようだ。

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