2017年
6月のつぶやき




6月27日 ギリ・トラワンガン

 今年のレバラン休暇は、ロンボク島沖の小島「ギリ・トラワンガン」に滞在した。正確には、ロンボク本島で1泊、ギリ・トラワンガンで2泊した。


6月24日

 ロンボク島に向けて旅立つ。ジャカルタの空港で、偶然にも妻の知り合いに出会い、行き先も同じであったことを知る。知り合いといっても、アパートの見学に来た際に少し会話した程度とのことだが、ずいぶんと仲良くなった。

 ロンボク島では、地球の歩き方(2010年版)には載っていない空港に着いた。地球の歩き方にあるアンペラン空港は、6年前にすでに閉鎖されており、別の場所に国際空港が出来たらしい。旅行の、一応持って行ってはいるが、ほとんど役に立たなくなってきた。物価も、地球の歩き方の2倍くらいでみておけばだいたい合う。

 ここでのホテルの夕食が、旅行中最も豪勢な食事となった。約2500円のビュッフェを注文し、せっかく払ったのだからと、腹いっぱい食べた。2014年に父が来てジョグジャカルタに行ったとき、「わしは『ビュッフェに燃える男』や」と言って、毎回腹いっぱい食べていたのを思い出した。夜は、きれいな星空も観られた。ギリ・トラワンガンに行くための中継地点であったが、思いのほか楽しんだ。


左:ジャカルタの新ターミナル。雰囲気が良い   右:ロンボク島のホテル


左:妻と娘で磯遊び     右:たそがれる優一。砂浜の地形が地理のミニチュアのようで面白い。

6月25日

 ギリ・トラワンガンは、ギリ3島のうち、最も西側の小島である。ギリ3島は、ロンボク島の北西に東西にみっつきれいに並んでおり、それぞれ、ギリ・トラワンガン、ギリ・メノ、ギリ・アイルと言う。ギリ・トラワンガンが最もにぎやかで、ギリ・メノが最も静からしい。

 ギリ・トラワンガンへは、チャーターボートで渡った。ホテルまで車で迎いに来てもらい、浜辺からスピードボートでギリ・トラワンガンへ向かう。スピードボートは速く、たった10分で着く。これが結構絶叫モノで、ボートがひっくり返りはしないかと、ヒヤヒヤしながら乗った。

 ギリ島には、車は存在しない。交通手段は、馬車か自転車のみである。船着場からヴィラまでは、馬車で行った。10分程度で約千円。地球の歩き方(2010年度版)では、島一周して500円と書いてあるから、凄まじいインフレである。

 ホテルに着いて、早速海に入りに行った。海はきれいで、宿の近くは遠浅であった。干潮になると、磯があらわになり、ヤドカリやらヒトデやらがたくさん観られる。生き物好きの妻は、飽きることなく眺めていた。

 宿では、空港で買ったウノで遊んだ。サチコは、ウノのルールはほぼ理解でき、邪魔する優一を抑えながら3人でウノをした。前日は妻が全然勝てなかったが、この日は妻の圧勝で、サチコが最下位となった。負けず嫌いのサチコは泣き出した。


左:スピードボートに絶叫する妻と静かに耐える優一   右:ギリ・トラワンガンの桟橋にて


左:まずは宿のプールで練習     右:海の中のブランコ


左:クモヒトデやウミブドウらしきものもいる     右:ウノに興じる家族

6月26日

 3日目は、宿の自転車を借りて、島を一周した。私は、優一を抱っこ紐で前に抱っこし、後ろにサチコを乗せて3人乗りし、妻は荷物を担当した。基本的に、島内の移動は全てこのスタイルである。

 島の北端のあたりでは、道がなくなり、浅瀬を自転車を押して歩いたり、壊れた塀の上を、自転車を持って歩いたりもしたが、その他は快適であった。

 全員、水着のまま自転車に乗ったので、良さそうな浜辺を見つけて、そのまま海水浴をした。優一は、水につけたら怖がった。サチコは、ゴーグルを着けて海の中をみたり、浮き輪で波に乗って楽しめるくらいになった。

 午後は、グラスボートに乗った。ボートの底がガラスになっており、海の中が覗けるというものである。2時間のコースで約1万円であったが、最初の30分くらいで飽きてしまい、サチコは昼寝をした。それでも、サンゴ礁や魚の群れ、そしてほんの一瞬だがウミガメを見ることができた。

 夜は、これまた偶然なのだが、同じアパートの友人がギリ・トラワンガンに来ており、夕食を共にした。サチコも2歳下の友達と貝殻ひろいをしたり、おしゃべりをしたりで大はしゃぎであった。


左:グラスボートから見える謎の石像   右:贅沢な昼寝をする人


左:初めて海で潜れた人     右:アパートの友達と貝殻広い

6月27日

 最終日は、基本的に帰るだけである。宿から馬車に乗って桟橋に行き、来るときよりも更に怖いスピードボートに乗って、ロンボクに着いた。そこから車に乗り換え、1時間半くらいかけて空港に着いたときは、ぐったりした。私は、船が苦手らしい。船が速いか、遅いかではなく、海の上の、足元が落ち着かない感覚が、どうにも精神的に疲れる。

 自宅に着いたら、ほっとした。サチコは早速お絵かきをはじめ、優一は寝転がりながら、おもちゃの車を転がしている。妻は「旅行は、家の快適さを実感するためにある」と言った。名言だと思った。嘉門達夫の、旅行から帰った妻が『やっぱり家が一番ね』と言い、「ほなはじめから旅行いくな」という歌を思い出した。

 それでも、いい旅であった。


ギリ・トラワンガンの馬車




6月23日 レバラン休暇

 今日から、レバラン(断食明け大祭)休暇に入った。インドネシアでは年に一度の長期休みである。今年は、家族でロンボク島(バリ島の東隣りの島)から少し離れた、ギリ島という小島に滞在する予定である。我が家は、どちらかというと山里のほうが好きで、ビーチリゾートに行くのは久しぶりである。

 せっかく海に行くので、サチコの水嫌いを克服しようと、プールで練習を続けてきた。以前にも書いたとおり、すでに顔付けはでき、バタ足で泳ぐこともできるようになった。そして、出発前日の今日も、プールで練習したいというので、つきあって練習していた。

 今日は、少しだが息継ぎができるようになった。手で水を掻いて頭を水面から出すというのが、これまでなかなか分からなかったようだが、丁寧に教えたところ、感覚が分かってきたようだ。息継ぎをしてバタ足、というのを3回くらいは繰り返してできるようになった。ここまで出来れば、あとは経験を積めば自分で上達できるだろう。

 優一の言葉は、どんどん面白くなっている。「これは ぱぱ」「これは まま」「これは ねぇね」など、2語を繋げて話せるようになってきた。一人称はいまだに「じゅ」である。好物は全て「ちーず」になるらしく、ブロッコリーも「ちーず」と言って食べている。4足歩行の動物はすべて「わんわん」だったが、最近ゾウは区別がつくようになってきた。

 子供はふたりとも順調に成長しているようである。


6月17日 授業参観

 土曜日は、サチコの授業参観であった。3時限目の音楽、4時限目の算数、昼食を挟んで5時限目の国語までを見学できる。私たちは、音楽の途中から見学した。

 授業の内容は、遊びを取り入れたような内容が多く、まだまだ幼稚園の延長といった感じである。覚えていないが、私が小学校一年生のときも、そのような感じであったのだろう。

 そんななかで、自由に教室を動いてお友達と問題の出し合いっこをする、といった活動が多いのだが、サチコはお友達に声をかけるのが苦手である。そんなサチコを見て、私も妻も、「まあ私たちの娘だから仕方ない」という感想を漏らした。私も妻も、どちらかというと人見知りで、コミュニケーションが苦手で、特に大人数の中でのふるまいが苦手である。そうは見えないと言われることもあるが、それは成長する中で経験や書籍などで知識やノウハウを得て、それを実践しているだけで、本質的なものではない。サチコがまごまごしてお友達を見つけられないのは、本当によく分かる。

 授業を観ながら、私も小学校二年生のときに、あるとき突然「目覚めた」ことを思い出した。これまで何も考えずに行動していたのが、突然、他人の気持ちを推察し、それに基づいて行動するということを、少しずつではなく、ある日突然気付いたのである。そこから、私の行動や考え方は大きく変わった。

 周りの子供たちを見ていると、3年生になると落ち着き始めるような気がする。サチコも、もうすぐそんな「気付き」があるのだろうか。


6月16日 ハロージャパンより

 我が家では、「じゃかるた新聞」という日刊新聞を購読しているのだが、時々、「Halo Jepang!」というインドネシア語の新聞が折り込まれてくることがある。これまでは、読むのも億劫なので捨てていたが、最近は、インドネシア語の勉強も兼ねて読んでいる。

 その中で、面白い記事があったので紹介したい。日本の学校制服に関する記事だが、知らないことばかりで驚いた。文章が下手で、全然まとまっていないところも面白い。

 高校を卒業した後、制服を着てディズニーランドで遊ぶなんて、海外で記事になるほど頻繁に行われているのであろうか。私が日本を離れている間に、ずいぶん変わってしまったのか、もしくは私の知らない世界が元々存在していたのか。セーラームーンの水着なんて見たことないし、それよりもトトロの水着のほうが想像がつかない。以下、記事の翻訳。


 「家やプールでコスプレを楽しむ」

 多くの国では、学校制服は、決して魅力的なものではない。卒業した後に、また着るなんてことは、考えもしないだろう。しかし、桜の国(訳注:日本のこと)では、制服は青春の象徴であり、ポップカルチャーの象徴である。学校制服は、コスプレイベントでも頻繁に着られている。

 マンガやアニメが世界中で有名になり、制服も着物と同様有名になっている。日本でもさまざまな種類の制服があるが、セーラームーンの影響により、海兵のスタイルの制服が最も有名だ。

 そして、AKB48やJKT48などのアイドルにより、かの日の出ずる国(訳注:これも日本のこと)のファッションは、よりポピュラーになった。そして、世界中の人が、日本の学校制服を購入し、コスプレイベントで着てみたいと思っている。アニメやマンガと同様、学校制服もポップカルチャーのひとつになりつつある。

 マンチェスター大学の日本の映像文化の専門家であるシャロン・キンセーラ氏は、「日本の学校制服のフェティシズムの謎」という論文の中で、女子高生の制服は1990年代半ば頃から評判になり始めたと書いている。その頃、女子高生はメディアの注目の的となった。

 日本では、制服や決して安くない。男子制服は約3万円、女子制服は4万円程度だ。

 日本の女の子は自分の学校の制服が大好きだ。制服は、ただ学校に着ていく服というだけでなく、青春の象徴なのだ。だから、二十歳前後の女の子が、学生時代の制服を着て集まり、東京ディズニーランドで楽しんだりするのである。彼女達にとって、制服を着るということは、学校の楽しい日々を思い出し、旧交を深めることになるのだ。

 ビビラボによる、日本人男女を対象とした調査でも、高校を卒業した後も制服を着たいと答えた人が一定数いたことが分かっている。半数近くは卒業した後はもう制服は着たくないと答えた一方で、残りはイベントなどで着てみたい、恋人や夫の要望に応えたい、または、家族や友人と楽しみたい、などと答えた。

 調査結果を受けて、ビビラボはセーラー服のデザインをしたワンピースタイプの寝巻きを開発した。これにより、学校時代を思い出したい人は、人目を気にすることなく制服を着られる。

 この寝巻きは、ストレッチタイプの生地で作られており、頭からかぶって着る。伸縮性が高く、洗濯も簡単だ。スカートの長さも時代に合わせて選ぶことが出来る。1970〜80年代は膝下15センチで、90年代は超ミニスカートである。

 セーラームーンのような水着を着てプールで泳いでいたら、間違いなく注目の的になるだろう。シンプルなタイプの水着は、普通のワンピースタイプの水着に、セーラー服とリボンのモチーフを胸と腰にプリントしただけのものである。他にも、トトロ、ナルト、エヴァンゲリオンの水着などがある。

 更に複雑なデザインの水着もある。こちらはセパレートタイプで、上部はセーラー服でリボンは別売り(6,500円)、1セット全てで18,000円である。

 このユニークな水着は、青と黒の2色から選べる。このセクシーな水着は、日本ではオンラインショップか、特定の店舗で販売されている。



6月12日 ラマダン月

 今年も、インドネシアに来て7回目のラマダン(断食月)が始まった。インドネシアの9割を占めるイスラム教徒は、日中飲食をせずに過ごす。初めてのラマダンでは、断食をしている彼らに対する精神的配慮で、逆に疲れたものだが、ここのところはそういったことも極力考えないようにしている。

 当然、彼らの前で飲食をしない等、最低限のマナーは守るものの、可哀想だとか、大変だとかは思わなくなった。正直言って、断食をする理由も、断食をする際に心境も、異教徒である私には全く理解できない。しかし、逆説的だが、「理解しようとしないこと」自体が、多文化共生のカギであると思う。断食なんて、辛いだけで、健康にも悪く、生産性も下がり、交通事故のリスクも高まるような行為をして何の意味があるのか、そのようなことを考えること自体が、共に生きることの障害になりうる。それよりも、彼らはそういう風習の人、私はそれでも豚肉も食べ、ビールも飲む人。そう割り切った方がよほど平和に過ごせることか。そして、幸運にも、ここでは、そういった共生の在り方が許されている。

 それに、断食をしていることが大変だとか可哀想だと思うこと自体が、失礼にあたる。イスラム教徒にとっては、そのこと自体が幸せなことであり、夜明けの食事、そして、断食開けの共に食事を摂る時間が、彼らにとっての幸せなのである。否、実際には慣習に従って仕方なく断食をしている人がいるのかもしれないが、それは個人の問題であろう。

 それでも、毎年すごいと思うのは、柔道の練習に来ている体育学校の生徒達だ。彼らは、蒸し暑い道場で、通常通りの稽古を行い、休憩中も水も飲まず、それでもモチベーションを保って稽古に励んでいる。

 断食の意味は分からなくても、純粋にたいしたものだと思う。


6月4日 餃子の王将

 最近、ジャカルタの高級モールに「餃子の王将」がオープンしたらしい。これまでも丸亀製麺、吉野家、各種ラーメン屋など、色々な日本のレストランチェーンが進出しており、この6年で、日本食へのアクセスは非常に簡単になった。これらのレストランチェーンは、日本ではどちらかというと「庶民の味」なのに対し、ジャカルタでは高級料理にあたるだろう。

 しかし、昔からジャカルタで「餃子の王将」といえば、北ジャカルタにある「SANTONG KUO TIEH SUE KIAU 68」である。「SANTONG」はおそらく中国の山東省のことで、「KUO TIEH」が焼き餃子、「SUE KIAU」は水餃子である。68はおそらく、店のある番地かと思われる。(と思ったら、下の記事によると開店したのが1968年だからのようだ)店自体は古く、ローカル色豊かな年季の入った感じだが、繁盛しており、日本人客も多い。

 そして、店の看板に、「餃子王将」と書かれているので、ジャカルタに住む日本人の間では「餃子の王将」として知られている。この近くには、別の華僑が経営する餃子屋があり、そちらはどういうわけか「俺の餃子」と書かれているので、正式な店名よりも「オレギョー」という名で親しまれている。

 そして、日本人の間では、「餃子の王将派」と「オレギョー派」がいて、餃子の話になると、どちらが美味しいか、という話になる。ちなみに、「餃子の王将」は、薄皮で野菜多目、「オレギョー」は、モチモチした厚手の皮で、肉多目である。「オレギョー」のほうが、メニューは多く、高級感がある。また、改築したり、店舗を広げたり、経営に野心を感じる。一方で、「餃子の王将」は、ローカル色満載で、店は昔ながらのまま、頑固親父が守る店という感じがする。

 ちなみに私は「餃子の王将派」である。薄皮で野菜多目の餃子は、宇都宮餃子の名店「正嗣」を思わせる。店の前で、店員が一生懸命餃子を包んでいる雰囲気も好きである。

 少し前に、日本のYahooニュースでこの「餃子の王将」のことが取り上げられており、久しぶりに行きたくなって、家族で食べに行った。上記の様に大好きな店だが、北ジャカルタはアクセスしづらく、何年も行ってなかったのである。久しぶりに行く「餃子の王将」は変わらず美味しかった。そして、トイレだけは、真っ白のTOTOのトイレに変わっていた。

 以下、産経ニュース(2017/5/5)より引用


「歴史が鍛えた「ジャカルタ餃子」 地元住民から駐在員まで…文化の交差点に咲いた「逸品」のとりこに」

 東南アジアの大国、インドネシア。経済成長による中間層の台頭で個人消費が拡大し、若者たちが高級ショッピングモールで日本料理を楽しむ光景も定着してきた。一方、昔ながらの味をかたくなに守る中華料理店が、首都ジャカルタの下町にある。豚肉を宗教上禁止しているイスラム教徒が9割をしめる同国で、苦労を重ねて看板料理の「焼き餃子」を約40年間、提供し続けてきた。中国系の華人ばかりではなく、日本人の駐在員や出張者も常連客として、とりこにしてきた逸品餃子。愛され続ける「知る人ぞ知る」名店を紹介する。
(ジャカルタ 吉村英輝、写真も)

 ジャカルタ北部コタ地区。オランダ植民地時代の町の中心部で歴史的建造物も多く、華人が多く居住することでも知られる。市場にもほど近い庶民的な旧繁華街の一角に、「SANTONG KUO TIEH SUE KIAW 68」がある。大きな看板はない。道路に面した店の軒下のテーブルで、店員数人が小麦の生地をこね皮を作り、具を包む作業風景が目印だ。反対側の軒下では、丸い鉄鍋で餃子を焼く香ばしい煙が立ち上がる。

 彼らを横目にガラス戸を開けると、入り口横の会計カウンターに陣取る店主のティー・キム・キーさん(53)が笑顔で迎えてくれた。4人がけのテーブルが20卓ほど。壁際に陣取ってメニューに目を落とすと、筆頭はもちろん「KUO TIEH(鍋貼)」=鉄鍋焼き餃子。次が「SUE KIAW(水餃)」=ゆで餃子だ。ともに1人前10個で4万ルピア(約330円)。他にもメニューは多種あるが、華人とみられる周囲の数組の客たちのテーブルの中心には例外なく、餃子を盛った丸皿が鎮座していた。

 中国本土の餃子といえばゆで餃子が主流だが、ここではほぼ全ての客が焼き餃子を注文する。さらに、麺類と一緒に食べたり、1人で来た客は白いライスと焼き餃子をセットにほおばっていた。かつて、中国本土出身の知人から「餃子は小麦を使った立派な主食。なのに日本人はラーメンやご飯と一緒に食べる。主食が2つなんて炭水化物の取りすぎ」と説教されたが、この光景を見せてやりたい。

 同店に通い20年以上という、インドネシア在住の紀行作家、小松邦康氏はこう解説する。「インドネシアでは、食事は必ずナシ(ご飯)と一緒にとる習慣がある。華人もその影響を受けている」。確かに、ファストフード店でもご飯を紙で包んだものが大抵ある。同店には小松氏が2006年1月に地元邦字紙「じゃかるた新聞」に書いた紹介記事が今も掲げられていた。

 看板には、日本の有名中華料理チェーン店と同じ「餃子王将」とも書かれているが、これも常連の日本人客からアドバイスを受けて書き加えられたもので、深い関係はないらしい。ある日本人は、ジャカルタ出張の際は空港からホテルに寄らずに真っ先に同店の餃子を食べにくるという。日本人ファンが多いのもこの店の特徴だ。

 注文から数分で焼き餃子が運ばれてきた。表面は油で揚げたように、こんがりきつね色。卓上の黒いプラスチック箸で、一個をはがして口にほうり込む。目をつぶる。皮は上部がカリカリで、ほかはもっちり。中からは豚肉の脂肪汁がこぼれ、歯応えが残る程度に火の通ったハクサイ、タマネギ、キャベツたちが、汁の甘みを引き立てる。

 ひとつ気になった。ニンニクやニラなどが入っていないのか、刺激がほあまりない。だが、テーブル上には、しょうゆや黒酢、ラー油と一緒に、ニンニクのみじん切りも添えられていた。インドネシア人が好むサンバルというチリソースも2種類。このあたりに、中国本土のレシピや食べ方を現地風にアレンジしてきた努力の跡が伺える。

 店主に聞くと、父親で故人のティー・ソン・チュアンさんが1950年代、中国・山東省からジャカルタに移住した。華僑としてこの地で餃子店を始めたのは1968年で屋号の68もここから来るとか。故郷の味を現地の同胞に楽しんでもらおうと、試行錯誤を続けてきた。うどんで有名な高松出身の小松氏によると、現在の店主も皮の小麦粉の種類や調合に変更を加え時には失敗するなど、「来店する度に発見する味の変化がある」という。私が東京で通ったラーメン店も、食べる度に味が変化して店主の研究の軌跡を想像し、楽しんだことを思い出す。

 また気になることがあった。餃子の製造工程を含め、13人いるという店員のほとんどは、イスラム教徒だった。豚肉に触れることを彼らは本来、忌み嫌う。だが同店では、職人意識からか、汗をぬぐいながらうまい餃子づくりにいそしんでいる。インドネシアでは商才にたけた華人が、インドネシア人を労働力にして富を築くモデルが一般的だ。ただ、成功例は、店主と店員の信頼関係が根底にあってこそだろう。

 悲しい歴史もある。スハルト独裁体制の終焉(しゅうえん)を迎えた1998年、金融危機を引き金に、ジャカルタでも暴動が拡大した。経済的に成功する人が多く、人種や宗教も違う少数派の華人に暴力の矛先が向かい、多くの華人系店舗が焼き打ちや略奪の被害にあい、死者も出た。

 同店は大通りから奥まった場所にあり、インドネシア人の友人も多かったためか、焼失は免れた。それでも、長期間の閉店に追い込まれた。イスラム教徒のインドネシア人が国民の9割をしめる中で、華人は周囲の視線を常に気にしながら商売することを強いられてきた。同店が大きな看板をかかげないのも、このためか。宣伝もせず、グルメガイドにも載らない名店が育まれた理由だ。

 小松氏によると、過酷な環境の中で同店が生き残ってきた最大理由は、「できたての新鮮な皮」にあるのだそうな。ということで、ゆで餃子も注文した。中の具は同じようだが、ゆでているためか、肉汁や野菜の歯応えが違う。何より、皮がつるっとしていて、餃子ではなく、むしろワンタンだ。鶏ガラのあっさりスープがついてくる。一緒に食べると、のどを餃子が滑り降りていく。

 実は、同店ののれんをくぐるのは2度目だ。前回は2015年春。その頃ジャカルタでは、イスラム教の戒律からか、アルコール制限が強化され、コンビニでのビール販売などが禁止された。飲食店は提供可能だったが、周囲のイスラム教徒に配慮して、同店もビール販売を自主規制した。仕方なく、オランダが植民地時代にジャワ島で栽培を始めたお茶から有名になった「ジャワ・ティー」を牛飲し餃子をほおばった。

 そして今回、はい、ありました「ビア・ビンタン」。旧宗主国であるオランダのハイネケン・ビールをルーツに、瓶の色はグリーンで、味は淡麗。冷えたコップに注いだ。しっとりパリパリの餃子を、おろしニンニクが浮かぶ酢しょうゆと一緒にほおばり、ビールで五臓六腑に流し込む。南国で汗にまみれた仕事の疲れが、一気に吹っ飛ぶ。

 店主によると、餃子は1日で平日は2000個、休日は3000個が売れるという。そんな話をしていると、常連客らしき男性が「だったら高級ショッピングモールにも出店しろよ。もっともうかるだろ」と冷やかしを入れた。即座に店主は「絶対にしない。この場所でやっていくぞ」と反論した。華僑として異国に渡った父親の味を受け継いだ。

 子供はジャワ島第2の都市スラバヤで、同じように餃子店を出しているという。三代にわたり試練を乗り越えて受け継がれる餃子の味。最近はジャカルタで他にも餃子店が増えてきたと言うが、同店が不動の人気を維持している理由が分かった気がした。

■住所■ Jl.Pancoran IV No.3 Glodok Jakarta Kota (電話)021・6924716


左:看板。右側の「餃子王将」の表記により、日本人にも親しまれている。     右:焼き餃子。こんがり焼けた薄皮が美味しい。


左:店の前でひたすら餃子を包む店員         右:餃子を食べる人



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