2018年
3月のつぶやき




3月29日 新生活

 日本での新生活が始まった。私は家から自転車で20分くらいかけて最寄り駅まで行き、そこから電車で12分、更に徒歩20分かけて通勤している。運転手の車で移動していたインドネシアでの生活とは大違いだが、自分の足で動けるのは嬉しい。雨が降ったときのために、最寄り駅までバスを使用するルートも見つけた。

 妻は、冷蔵庫、テレビ、カーテン、電子レンジなど、必要物資の手配を着々と進めており、冷蔵庫とテレビはすでに届いた。電子レンジは、材料を入れてボタンを押すだけであらゆる料理をしてくれるという、ハイテクなものを買うらしい。

 妻は、日本のスーパーの品揃えの良さに感動している。生活に必要なあらゆる物資が徒歩1分の距離にあり、「痒いところに手が届く」製品も多いらしく、久々の日本のスーパーに満足している様子である。

 日本に着いたら、寒かったので灯油を買ったが、これから暖かくなることを考えると、この灯油を使うのも今のうちである。今は、それほど寒くなくても暖房を使って部屋を暖め、灯油を使い切ろうとしている。  航空便については、税関通過に必要な書類の提出を忘れており、昨日気付いて速達で送った。荷物の到着は少し遅れそうである。


3月27日 住所変更

 海外から帰ってくると、あらゆる書類、証明書関係の住所変更が必要である。しかし、ある書類の住所変更をするためには、他の書類により住所の証明をする必要がある。例えば、運転免許の住所を変更するためには住民票が必要だが、住民票の住所変更をするためにも、相応の住所の証明が必要である。よって、原理的には、自分が住んでいる住所の証明が出来ない。よって、最初の書類の変更は、かなり曖昧な情報を元に「現住所の証明」をすることとなる。

 私は、運転免許の住所変更を最初に行うことにした。顔写真付きかつコンパクトであり、証明書としては最強の部類に入る。早速、警察署に行って書類を書いた。そこで、やはり「住所を証明できるもの」の提出を求められたので、宅配便の伝票控えを提出したところ、これでは証明にならない、という。住民票はないかと訊かれたが、住民票を取得するには戸籍謄本が必要で、これを取得するにもやはり、住所を証明するものが必要なのである。

 住民票は未取得と答えたところ、健康保険証の提示を求められた。私の健康保険証の住所欄は、空白であた。ここに住所を書けば、それが住所の証明になりますよ、と言う。

 私はその場で住所を書いて提出したところ、無事に運転免許証の住所変更が完了した。そんな健康保険証よりも、宅配便伝票のほうがまだ信頼性があるのに、と思った。


3月25日 福岡へ

 今週末は、本帰国のための移動であった。

3月22日(木)
 朝、会社で最後の挨拶をした後、家に帰ってひたすら梱包作業であった。その前に船便約75箱、航空便4箱を送付済みだが、当日まで使うもの、また新居についてすぐに必要なものは、手で持ち運ぶしかない。梱包作業は予想以上に手間取り、出発の午後5時半まで、作業し通しであった。ダンボール5箱、スーツケース、ボストンケースのほか、ノートパソコンやかばんなどを車に詰め込めば、人が入れるスペースは僅かとなった。私は助手席でサチコを抱っこし、妻は優一を抱っこして、荷物に挟まれるようにして空港に向かった。

 7年間働いてくれたお手伝いさんは、最後の日まで作業を手伝ってくれ、事前に用意してくれた昼ごはんも作業の合間に食べた。出発の時は、お手伝いさんのほか、アパートの友人や管理人の人も来てくれ、見送ってくれた。

 空港では、会社の人たちが見送りに来てくれ、写真を撮った。これまで、何人も見送ってきたが、初めて見送られる側になるのが不思議な感じがした。荷物のX線検査では、ダンボールの一つが引っかかった。「開けろ」という。箱状の怪しいものが入っている、というので、開けたところ、妻の生理用品であった。「これはなんだ」というので説明したら、苦笑していた。

3月23日(金)
 朝6時半頃、羽田に着き、ダンボール5箱を新居に送った。それでも荷物は、スーツケース、ボストンバッグ、ノートパソコン2台、各自通常のかばん、プラス優一であり、かなり重い。私は本社に挨拶に行かなければならないので、妻子は母に空港まで来てもらって、母の家で休ませてもらった。私は、本社での挨拶を終えた後、母の家に行き、母が作ってくれた豚まんを食べた。妹も来てくれ、姪のユウリちゃんとも会えた。ユウリちゃんは、1歳ながら達者で、日本語も理解し、歌も上手に歌える。ほぼ1歳年上の優一とは大違いの、才女ぶりであった。夕方、イタリア料理の店で一緒に食事をして、私たち一家は横浜のホテルにチェックインした。

3月24日(土)
 みんけんの女声ヴォイストレーナーの柴田先生に会いに行った。妻はみんけんを卒業してからも歌のレッスンを続けており、是非会いたいとのことであった。柴田先生のキャラクターは強烈で、学生時代よく怒られた。新歓期などは、先生自らそこらへんの新入生に声をかけて勧誘していた。卒業後は、「ニンチ(認知症)になっちゃうわ」と何度も言っては笑いを取っていた。

 そんな柴田先生はもう85歳とのことで、みんけんは引退されたとのことだが、「ニンチ」にもならず、元気そうであった。

 その後は、羽田から福岡に飛び、久留米のホテルで一泊。

3月25日(日)
 朝、新居に入り、オーナーさん、管理人さんと挨拶をした。新居は、築30年とのことだが、きれいで、しっかりしている。ガス、水道、電気もつつがなく使えるようになり、荷物も次々と届いた。日本に残してきたちゃぶ台、電気の傘、暖房、食器棚、洗濯機も無事届いた。7年ぶりで洗濯機が動くか心配であったが、普通に動いた。注文していた布団も無事届き、最低限の生活はできそうである。重い荷物を運んだぶん、生活の立ち上げは早い。そして、梱包作業よりも開梱作業の方が楽しい。新しい生活が始まる感じがする。

   日本はまだ寒かった。私は早速自転車を買って、買った自転車で灯油タンクを買いに行き、ガソリンスタンドで灯油を入れ、自転車の後ろにくくりつけて帰って来た。その後、自転車で駅まで行き、駅前自転車置き場の契約もしてきた。だいぶ走ったが、この町は坂が少なく、自転車があれば急に機動力が上がった。

 目の前の公園を見れば、桜が咲き始めていた。良い季節に帰って来たものである。サチコと散歩に行けば、タンポポを見て「このお花なぁに?」と訊かれた。7年ぶりの日本の生活、家族にとっても新しいことだらけである。


3月19日 本帰国

 実は、本帰国が決まり、今週木曜日にインドネシアを後にする。ちょうど7年間のインドネシア生活が、幕を閉じることとなる。先週までは、普通に仕事をしていてさしたる感慨も無かったが、今週になってようやく感慨らしきものを感じるようになった。

 人に恵まれた7年間でもあったと思う。お手伝いさんや運転手とは良好な関係でい続けられたし、柔道やリコーダーを通じて知り合った友人たちとは、週末に楽しい時間を過ごすことができた。そして、家族が大きな事故や病気に遭うことなく、無事に過ごせたことが何よりも嬉しい。

 1歳でインドネシアに来たサチコは、ハイハイしか出来なかったのが、今や小学生となり、難しい漢字も書け、足し算・引き算もできるようになった。優一が生まれ、まだ何を言っているのかよく分からないが、とにかく元気である。妻は、初の海外生活で大変なこともあったと察するが、そのような素振りは見せず、安定感があり、私にとって家庭の悩みはほぼ皆無であったことに感謝している。

 私自身にとっても、心身ともに変化のあった7年間であった。ほぼ3年間、メニエール病と思われる耳鳴り、難聴、めまい等で苦しんだ。今も耳鳴り、難聴は続いているものの、とりあえずは仕事に支障が無い程度で安定している。その間、白髪は増え、元々年齢の割りに老けて見られていたが、年齢を重ねても、「見た目年齢」も同じくらい年を重ねているようだ。

 病気が寛解し、精神的にも変わったようだ。あまり感情を出して怒るようなことがなくなり、人と無駄な「対決」をしなくなったように思う。イライラしないコツのようなものを身につけた。そのおかげか、会社のソフトボールチームでピッチャーをやっているが、無駄に動揺せず、ストライクが入りやすくなった。ストレスとの付き合い方も、前よりは上手くなった。

 日本に帰る不安、というのもあるが、今はあまり考えないようにしている。なんだか分からないことに対して、今から心配しても仕方が無い、具体的な課題に直面してから思いっきり心配すれば良い、と考えるのは、インドネシア赴任前と同じである。


3月13日 インドネシア語検定

 先週の日曜日、インドネシア語検定を受けてきた。前回、A・B級併願し、B級は合格、A級は一次試験のみ合格、という結果であった。A級については、今回は一次試験免除で二次試験からリトライできるのである。

 二次試験は、面接である。録音で読み上げられる文章を聞きながらメモを取り、文章の要約および試験官からの5つの質問(うちひとつは自分の意見を述べる)に答える、といった内容である。前回は、合格点75点に対し70点と、惜しくも足りなかった。

 今回は、文章の内容はほぼ完璧に聞き取れたが、質問に対してうまく答えられたか、自信がないところがある。要約と、自分の意見を述べるところは、上手くできたとは思うが、生来の性格もありスラスラと言えたとは言い難い。

 合格の確率は半々、といったところか。試験官が甘い採点をしてくれていることを祈る。


3月3日 タンポポ

 今日のリコーダー練習の後、前々から気になっている屋台で夕食を食べることにした。帰り道の道端の駐車場に、赤提灯の屋台が現れるのである。赤提灯には「おでん」「ラーメン」「焼肉」などと書かれ、結構にぎわっている。じゃかるた新聞にも掲載されたことがあり、昔から気になっていたのだが、行く機会がなかった。本新聞でこの屋台が「タンポポ」(TANPOPO)ということも知った。

6時開店とのことなので、席に座ってのんびり待っていた。奥のビルに入れば、トイレや屋台の準備用のキッチンなどがある。雰囲気とは裏腹に、清潔に管理されており、食材も新鮮そうで、トイレもきれいであった。衛生管理を知った人が、敢えてユニークな雰囲気を出すために駐車場で店を開いているのであろう。


タンポポ外観

 注文は、「TEPPANYAKI」「YAKNIKU」「HAMAYAKI」「SUKISYABU」の4種に大別され、肉やシーフードをどの調理法で食べるか、という選択肢になるようだ。

「TEPPANYAKI」鉄板で調理して持ってきてくれる
「YAKNIKU」テーブルに炭火の網が設置され、自分で焼肉をして食べる
「HAMAYAKI」串焼き(「浜焼き」だが牛肉やキノコ等のメニューもある)
「SUKISYABU」テーブルに鍋を持ってきて自分で食材を入れて食べる

「YAKINIKU」「SUKISYABU」は、優一が手を出すと危ないということで、「TEPPANYAKI」と「HAMAYAKI」をメインに、好きな食材を色々選んで注文した。結構大量に注文したが、オーダーを取る兄ちゃんは、メモも取らずに全部暗記し、間違えることなく持ってきた。


左:TEPPANYAKI 右:HAMAYAKI 屋台なのに清潔に管理されている

 最初に来た牛肉の鉄板焼きを食べて驚いた。こんなに柔らかい牛肉は、インドネシアではなかなか食べられない。それも道端の駐車場で、こんなに美味しい料理を食べているギャップ感が凄かった。その他に来る料理も、食材は新鮮で、調理法も上手く、何でも美味しく食べられた。唯一残念なのは、ビールが冷やされておらず、ベトナム式に氷入りのグラスで飲むことだが、ちょうど腹の調子がいまいちだったので、常温のビールを飲んだ。


牛肉鉄板焼き、さいころステーキの様。付け合せの野菜炒めまで美味しい




3月1日 からし漬け

 先週末のリコーダーの練習の時、メンバーのホリさんから一時帰国のお土産にからし粉をもらった。以前、ホリさんの作ったきゅうりのからし漬けが美味しく、作り方を訊いたことがあった。

 私は嬉しくなり、早速きゅうりとなすを買ってきてからし漬けを作ることにした。作り方は、切った野菜をポリ袋に入れ、塩と砂糖とからし粉を入れて放っておくだけである。ホリさんによると、調味料は裏面に書かれている分量の5分の1くらいでいいですよ、という。いくらなんでも5分の1は少なすぎるのではと思い、3分の1くらい入れた。

 次の日、野菜から水がどんどん出て、美味しいからし漬けが出来た。しかし、少し辛過ぎる気もする。5分の1でいいというのは本当だと思った。

 野菜好きの優一がやってきて、いきなりぱくりと食べ、泣き出した。そりゃそうであろう。続いて、サチコに食べてみろと言ったら、嫌だという。私は、何事も試してみないと分からない、少しかじるくらいやってみろと言ったら、ほんの少しかじり、あまり辛くないと判断したのか、ぱくりと一気に食べた。

 その後、辛さが一気にきて辛い、辛いと騒いでいた。まるでお笑い芸人である。妻もちょっと辛すぎる、と言っているので、からし漬けは私が独り占めして毎日のご飯とビールの御供になっている。

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