2018年
7月のつぶやき




8月27日 シャーペン

 屋久島に行ったとき、屋久杉で出来たシャーペンに魅せられた。4千円もするが、買うことにした。ここのところ、日常的に消費するもの以外に欲しいものはあまりなく、土産物屋で物欲を刺激されることはまず無い。だから、このようなお土産に惹かれたのも久しぶりであった。

 私は、子供のころ愛用のシャーペンがあった。絵を描くといえば、大抵それを使っていた。シャーペンで絵を描くのは珍しいかもしれないが、私には鉛筆で描くよりも好きであった。そして、大学までずっと使っていたが、なくしてしまった。必死で探したが見つからず、それ以来、絵を描くことから徐々に遠ざかっていったように記憶している。

 このシャーペンで、もう一度絵を描きたい、と思った。妻もサチコも絵が好きである。私は笛が好きだが、今は仲間がいないし、家で吹ける時間も限られる。絵であれば、いつでも描ける。屋久島で、いくつも巨木を見た。私は巨木を描くのが好きである。そういった巨木や、家族の姿をシャーペンで描こうと思った。

 大体、こういった踏ん切りが無いと始めれない時点で、たいした意欲が無いことは自覚している。サチコであれば、そこらへんの紙にそこらへんの鉛筆で日々描き散らかしている。私は、シャーペンと、B4の芯、スケッチブックを手に入れて、屋久杉を描き始めた。

 久しぶりに絵を描くと、楽しい。没頭できるのがいい。飽きたらいつでもやめて、やりたくなったら続けられるのもいい。そんな感じで、少しずつ描きためていこうと思う。


8月27日 サチコ、8歳

 先週、サチコが8歳になった。気付けば小学校に通い、足し算や引き算が出来るようになり、漢字の読み書きもしている。生まれたときのことを思い出せば、実に立派に成長したものである。

 昨日は、家族で市民プールに行った。このプールは、幼児用の浅いプールと、流れるプール、そしてウォータースライダーの3つで成り立っており、いわゆる「普通のプール」は無い。

 流れるプールは、実に楽しく、時を忘れて家族でぷかぷかと流され続けた。サチコは最初は怖がっていたが、入るとすぐに慣れた。優一は、手に浮き輪をはめており、何度も水を飲んでいたがゴキゲンである。夏休み最終日ということもあり、かなり混みあっている。

 サチコをウォータースライダーに誘った。例によってサチコは怖がったが、とりあえずやってみようということで連れて行った。

 二人乗りの浮き輪に乗って、滑れば、爽快であった。しかし前のサチコは滑っている間じゅう絶叫し続け、そのままプールに突っ込んだ。そして、「もう二度とやりたくない」と言っていた。よほど怖かったらしい。下で見ていた妻によると、プール中聞こえるほどの悲鳴がずっと鳴っていた」とのことである。

 プールから帰って、学校の準備をしていると、サチコがしくしくと泣き出した。「もっと夏休みを楽しみたい」という。可愛いものである。福岡の実家に泊まりに行き、屋久島に行き、地域のイベントに参加し、プールで遊んだ日々がよほど楽しかったらしい。親としては、夏休みを楽しんでくれて嬉しい。あと何年かすれば、親と過ごす夏休みの時間もぐっと減るのかもしれないと思うと、今を大切にしようと思った。


8月27日 はだしのゲン

 日本の良いところは、図書館があることだということに、最近気付いた。無料で本が借りられる。何と素晴らしいシステムであろうか。本屋であれば、本当に読みたい本だけを買うことになるが、図書館であれば、あまり興味のない本でも、ちょっと借りて読んでみようと思え、そのぶん視野が広がる。

 しかも今は、スマホで蔵書検索が出来、取り寄せや延長も可能である。返却も、家の裏にある生涯学習センターのポストに入れておけばよいという手軽さである。早速、サチコにも図書カードを作ってやり、週末ごとに自転車で図書館に行っては本を借りている。サチコは、「おばけマンションシリーズ」という本にはまり、時間さえあれば読んでいる。

 私は、先週から「はだしのゲン」を借りて読んでいる。「はだしのゲン」がどんな漫画かは知っているが、読んだことがなかった。一度は読んでおかねばならない漫画だと思った。

 内容は、壮絶であった。原爆の悲惨さを生々しく描き出していることはもちろんだが、それはよく言われていることである。私が驚いたのは、天皇を批判していることである。一緒に住む原爆孤児の「夏江姉ちゃん」を亡くしたゲンは、その遺体を担いでマッカーサーと天皇に謝らせるのだと言って東京に向かおうとする。良い、悪いの話ではなく、そういう漫画に初めて出会った。

 倫理観に関する表現も、今とは全く違う。人を張り倒す場面は5ページに一回くらいは出てくるであろう。学校の先生は、教え子に酒を飲ませる。同居している隆太は銃で何人もやくざを殺している。母親をABCC(原爆傷害調査委員会)に連れて行ってひともうけしようとする医者には自分のウンコを食わせて上から小便をかけていた。再開発で自宅を壊されそうになったときも、屋根の上からウンコをかけて最後まで抵抗していた。

 これらはいくらなんでも大げさだとは思うが、戦後の混乱期とはこうだったのかと思わせる。


 「はだしのゲン」の後は、白土三平の「カムイ伝」を読み始めた。これは高校時代に図書館で少し読んだことがある。図書館にある漫画といえば「はだしのゲン」と「火の鳥」と「カムイ伝」というイメージがある。全部読んだことがないので内容はまだ知らないが、1巻を読んだだけでも凄い漫画だということが分かる。

 まず、自然の描写が圧倒的である。人間社会と同時並行的に描かれる山奥のシーンは、実に美しく、そして残酷に描かれる。そして、謎が多い。これらのピースが今後どう合わさっていくのか、或いは全く異なる方向に進むのか、楽しみである。


8月18日 屋久島旅行記

 今年の夏休みは、4泊5日で屋久島に行った。本帰国してから初めての旅行である。

8月13日

 新幹線で鹿児島まで行き、飛行機で屋久島に向かった。鹿児島中央駅から鹿児島空港までは、バスで行く予定だったのだが、時間がギリギリ過ぎてタクシーを使うはめになった。鹿児島空港は、高速道路でかなり山奥まで行くため、料金は約1万2千円。いきなり痛手であった。

 空港に着けば、民宿のニイチャンが迎えに来てくれていた。「台風が来ますよ」と言う。確かに、私たちが滞在する期間は、ずっと雨の予報である。3年前に北海道から移住してきたというこの人は、ユルい感じで色々教えてくれる。民宿は、海のすぐ近くで、大人素泊まり3千5百円。部屋に入れば、我が家のような安心感であった。日本の民宿は良い。

 夕食がてら、散歩をした。凄く湿度が高い。100%に近いのではないかと思う。海からすぐ近くから山がそびえており、中腹から雲で覆われている。雲の形も、他では見られないような複雑な形をしている。

 夕食は、近くのレストランを探したが、ほとんどがお盆休みで閉まっていた。唯一、徒歩圏内で開いていたレストランも、満席であり、Hotto Motto で弁当を買って食べた。子供たちはドラえもんの形をした弁当が食べられて大満足であった。

 食事をして宿に戻ると、妻が「ひとりで飲むのは寂しいので一緒に飲みませんか?」と誘ってくるオジサンがいるということで、そのオジサンと一緒に共有スペースで焼酎を飲みながら話した。このオジサンは、人と仲良くなるのが得意なようで、山登りで知り合った一家と仲良くなって一緒に登ったらしい。ここで飲む前も、居酒屋で知り合った客と仲良くなり、明日一緒に屋久島を一周すると言っていた。私にはこういう誰とでも仲良くなれる才能は無いので、羨ましいと思った。このオジサンとは、次の日も飲みながら話をすることになる。

 夜、妻が起きてごそごそしている。「ゴキブリが出た」という。見れば、フナムシがごそごそしている。私は2匹ほどフナムシを潰したが、「あれはゴキブリであった」と言って、なかなか寝付けないようであった。私も、妻が寝付けないことで寝付けず、睡眠不足のまま朝となった。


左:屋久島空港にて。  右:民宿で我が家の様にくつろぐ家族


左:山の上のほうは雲で覆われて見えない   右:雲は見てて飽きない 。

8月14日

 2日目は、レンタカーを借りて島を巡ることにした。宿のニイチャンや、昨夜一緒に飲んだオジサンに教えてもらったオススメを巡った。

 まずは、「八万寿茶園の抹茶ソフト」を食べるべし、ということで、ここで、ソフトクリームやアイスを食べて鋭気を養った。その後、山道を車で登って「紀元杉」を見にいく。屋久杉の多くは、山道を歩かないとたどり着けない。有名な「縄文杉」などはまる一日かけて山登りをするのだが、この「紀元杉」は車で行ける数少ない屋久杉らしい。

 杉の存在感は、圧倒的であった。樹齢3千年。私たちがイメージする「杉」とは違う植物の様に見える。付近の植生も、私たちが他で見る風景と全く異なる。切り株からはどんどん新芽が顔を出し、木は水をたたえたコケに覆われる。木や岩を覆うシダ植物やコケ類も、見たことの無いものばかりだ。


左:紀元杉  右:切り株に群がる新しい命(切り株更新というらしい)


左:透明なゼリーをくっつけた謎の植物   右:もののけ姫に出てくるような、水を湛えたコケ



 山を降りたら、腹がすいた。車で走って、次の食堂の看板があったら入ろうということに決めた。「お食事」の文字が見えたので、早速入ったら、倉庫のような場所で、その前にカヤックが並べられている。中に入ると、右手には布で仕切られただけの即席住居のようなものがあり、左手に入り口が見えた。左側の入り口から入ると、食堂があった。

 食事を注文して待っていると、前からいた子供たちが、捕ってきた川エビを見せてくれた。これからから揚げにして食べるらしい。

 色々話を総合すると、ここは元々農協の倉庫だったところを買い取って、夫婦で食堂を始めたらしい。しかし、いつの間にやらここにテントを張る人やら長期滞在する人たちも出てきて、この川エビ一家も、ここに滞在しながらカヤックを漕いだり、山登りをしたりしているようだ。最初に見えた即席住居は、彼らのために店の夫婦が作ってくれたものらしい。

 食堂の奥さんに「ここは民宿なんですか?」と訊いたら「食堂だよ」という。「食堂なのにこの人たち勝手に住んでんの」。そんな話をしているうちに、お父さんが川エビを揚げはじめた。いい匂いがしてくる。少し食べさせてもらい、情報交換をして店を出た。屋久島は面白い人が多いなぁと思った。


左:倉庫のような食堂外観。カヤックが置かれている  右:後ろの子供たちが川エビを見ている。ドアの外に少し見えるのが彼らの即席住居



 その後、千尋の滝を観に行った。「せんぴろのたき」と読むらしい。滝に着けば、昨夜食堂で飲んだオジサンとばったり出会った。昨日言っていたとおり、若い女性を連れている。彼女は、昨日縄文杉まで観にいき、今朝は白谷雲水峡をトレッキングしてからオジサンと合流して島を巡っているらしい。  彼女によると、宮崎駿は「千尋の滝」の名前から「千と千尋の神隠し」を思いついたという。そのほかにも、トレッキング中に「琥珀川」という川があったらしい。そういえば、アシタカは「ヤックル」という鹿に乗っていたが、これもヤクジカから来たのかもしれない。もののけ姫で、日本の原風景を描くにあたり、ジブリチームが屋久島でロケハンをしたことは有名だが、それ以外にも思い入れがあったのかもしれない。


千尋の滝



 その後は、尾之間温泉で入浴した。いい湯であったが、熱すぎて子供たちは入れず、早めに切り上げて帰路についた。帰り道、妻の要望でドラッグストアに寄り、「フナムシ撃退グッズ」を買い込んだ。そのお陰か、以後は安眠できた。

8月15日

 台風は、寝ている間に過ぎたらしい。私たちが滞在しているのは、屋久島の北側に位置する宮之浦という地域である。昨日はそこから右回りに観光したので、今日は左回りに行くことにした。

 島最大の海水浴場といわれる、一湊海水浴場に顔を出した。遊泳禁止の看板が出ているが、売店は開いており、海水浴客も普通にいる。入り江にあるため波も強くないので、私たちも泳ぐことにした。


海水浴場の風景


子供たちもビビリながらも楽しんでくれました



 その後、永田浜、屋久島灯台と巡ってから西部林道に入った。西部林道は、屋久島で唯一、海岸線から世界遺産に指定されている場所で、車で走っていると、鬱蒼とした森に入る。サルやシカも頻繁に見られた。シカは、ある程度近づくと逃げてしまうが、サルは道路に居座り、全く逃げない。こちらが避けてやらねばならない。


このような道が20kmも続く


左:サル       右:シカ



 西部林道を抜けると、大川の滝があった。今まで見た中で最大スケールの滝であった。滝へは、岩場を少し行くと近づける。近くまで行くと細かい水しぶきが霧の様にかかって気持ちいい。


大川の滝と果敢に岩場を歩くサチコ。



 その後は、そのまま島を反時計回りに回って帰宅することにした。途中、外国人夫妻が親指を立てて道端に立っている。ヒッチハイクである。ドライブ中にヒッチハイクに会うのは初めてだが、面白そうなので乗せてあげることにした。話していると、彼らはドイツ人で、バスで島の南端にある海中温泉に来たのだが、帰りのバスが来ないため、ヒッチハイクすることに決めたらしい。日本では2週間滞在し、東京、京都を巡ってから屋久島に来たらしい。前日には、縄文杉まで見にいったらしい。

 たくましいものである。彼らは、これからビーチの近くでディナーを食べるんだといって、グーグルマップを見ながら、「ここで止めてくれ」と言って、何もない道端で降りて行った。

 夜は、「さっちゃん」という居酒屋で夕食を食べて帰宅した。店名だけで決めたが、この旅を通じて一番美味しく、リーズナブルであった。宿に戻ると、例のオジサンが最後の夜だということで、また焼酎を飲んでおしゃべりをしてから就寝した。


「さっちゃん」にて



  8月16日

 屋久島での実質最終日である。この日は、せっかくなので山歩きをすることにした。とは言っても、優一は小さいので、ヤクスギランドで無理のないコースを歩くことにした。ヤクスギランドでは、30分コースから150分コースまで、レベルに応じた山歩きが出来る。

 入れば、道はきちんと整備されていて歩きやすかった。それでいて森の風景は雄大であった。屋久島は、江戸時代より杉を伐採し、屋根の材料となる平板に加工して収めていたらしい。江戸時代に伐採された倒木や切り株から新芽が生え、2代杉、3代杉が生まれてくる。これらの風景を見ながら、50分コースを2時間くらいかけてゆっくりと歩いた。一番奥には仏陀杉があった。樹齢1800年。異形の姿である。中は空洞になっている。こうした巨木は、平板の加工に向かないために伐採されることなく残り、今にいたると言われている。しかし、それだけではないのだろう。これだけの巨木に神を感じた人々は、これを伐ることをためらったのではないかとも思える。


左:仏陀杉  右:仏陀杉と


左:森はコケに覆われている   右:倒木から生える新芽



 ヤクスギランドから山を下ったところにある、「屋久杉自然館」に行った。ここでは、ヤクスギを少し削って匂いをかいだり、年輪の数を数えて樹齢を当てたりと、体験型の展示が多くて楽しかった。妻は、樹齢を見事に当てて携帯ストラップをもらっていた。


左:今回は行けなかった縄文杉の大きさが分かる   右:子供たちはこのピタゴラ装置に一番興味を示していた



8月17日

 最終日は、基本的に帰るだけである。11時ごろまで宿でごろごろして、宿のニイチャンに空港まで連れて行ってもらうのである。しかし、FBを見ていると、なんとセツ父子が屋久島に来ているという。早速連絡を取って、宿に寄ってもらった。ヒトミは仕事のため、父子だけで屋久島に先に来て、ヒトミとは指宿で合流するらしい。息子のマヒロ君は、セツの子供だけあってがっしりした男の子であった。セツと分かれた後、無事に帰宅した。


セツ父子と



最後に

   屋久島に一度は来たいと思っていた。高校生の時に見た、もののけ姫の衝撃がいつまでも忘れられず、その風景を実際に見たいと思っていた。屋久島の風景は、もののけ姫で見たような風景であった。屋久島の自然の素晴らしさを知ると同時に、いくら写真に撮っても伝えられない光景を、絵で再現したもののけ姫もすごいと思った。

 屋久島では、面白い人が多いと思った。一緒に飲みませんかと誘ってくれたオジサン、北海道から移住しながらも、それほど屋久島を熱愛しているようでもないユルイ民宿のニイチャン、食堂だか民宿だか分からない倉庫にいる老夫婦と宿泊客、ヒッチハイクするドイツ人。色々な人に出会えた旅でもあった。

 雨にもほとんど邪魔されなかった。妻とサチコは自称「晴れ女」であり、その通り、海で泳いでいる間は晴れ、泳ぎ終わったとたんに雨が降り出した。ヤクスギランドでも私たちがいる間だけは雨が降らず、車に戻った瞬間土砂降りとなった。そもそも、台風の進路は逸れた上、私たちが寝ている間に過ぎ去っていった。

 今回の旅は、久しぶりに気楽であった。インドネシアにいたときの旅は、基本的に警戒モードであった。もちろん、常に身構えているわけではないが、日本にいるよりは緊張感を持っている。久しぶりの日本旅行は、リラックスしてまわることができた。日本だから警戒しなくていいということはないだろうが、少なくとも、海外にいるよりは安全で、何かあったときの対処もできる。良い旅であった。


8月7日 祭りの週末

 先週末は、祭の週末であった。

 土曜日は、「水の祭典久留米まつり」を観にいった。涼しくなった夕方にいき、7時からの一万人で踊るという「そろばん総踊り」を観た。大通りを通行止めにして、いろんな団体が集まって踊るという。

 おどりは普通のそろばん踊り(盆踊りのような調子)で始まり、ポップな「そろばんバンバン」、サンバ調の「サンバ・デ・そろばん」など、次々と踊りが変わっていった。各団体により衣装は自由で、振り付けも恐らく自由、そろばんを持つ必要すらないらしく、うちわや鳴子で代用している団体のほうがむしろ多かった。

 私たちは、リニューアルするというホテルが無料でかき氷を配っていたので、それをサチコに与え、屋台で食料を買ってしばらく観ていた。商店街の祭りをとてつもなく大きくした雰囲気で、あまり洗練されていないのが逆に良いなぁと思った。

 しばらくすると、子供たちが飽きてきたので、サチコの好きな水笛と綿菓子を買って帰宅した。


 日曜日は、筑後川花火大会を観にいった。今年で第359回というから、江戸時代初期から行われてきた、伝統ある花火大会である。妻は、体調が悪くなったため、私と子供ふたりで出かけた。

 大変混雑すると聞いていたが、それほどでもなかった。特に、佐賀県側の河川敷はガラ空きにもかかわらず、2箇所の打ち上げ場所の両方が観られるという穴場であった。ここにシートを敷き、行きがけにコンビニで買った食料を食べながら、のんびりと花火を待った。

 花火は素晴らしかった。単に打ち上げる玉数だけでなく、伝統ある花火大会だけあって、質が良い。大型の花火が惜しげもなく打ち上げられ、圧巻であった。また、鉄橋を電車が過ぎる後ろを花火が上がるようすが、何とも美しかった。

 花火は9時までだが、終わるまで待つと混雑するので、8時半ごろに撤収した。交通整理のスタッフや、バスの交通整理をするバス会社の社員の人たちのお陰で、混雑しているがスムーズであった。こういうことについては、日本は凄いなぁと、改めて思った。


8月7日 松西先生のこと

 少し前、フェイスブックで松西先生が亡くなられたことを知った。松西先生は、学生時代に所属していた民謡研究会合唱団(民研)の男声ヴォイストレーナで、私たちに歌のレッスンをして下さっていた。その他、女声ヴォイストレーナーの柴田先生、常任指揮者の石渡先生の3人が、民研の合唱を指導して下さっていた。

 松西先生は、3人の中では、どちらかというと民研と距離を取って接しておられるように感じた。しかし、今思えば、夏合宿でも一緒に寝泊りされ、共同風呂に入った後の風呂桶や椅子が散らかっていると、叱ってくれた。小さいことではあるが、こうやって叱ってくれる大人がいて、少しずつ礼儀を覚えていったように思う。

 合唱の指導は、面白かった。大抵、ユーモアを交えて、楽しく上達させてくれた。合唱で歌う場合、大抵ピアノで伴奏を弾いてくれた。無伴奏の日本民謡なんかの場合でも、力強い伴奏を恐らく自分で創って弾いてくれる。あの伴奏はどうやって作り出していたのか、未だに不思議である。

 3年生で学生指揮者をやったときは、個人レッスンを受けるために、狛江の先生宅まで通った。学生料金とはいえ、きつい負担であったが、バイトをしながら通った。レッスンを受けているうちに、自分が変わっていくのを感じた記憶がある。普段から声が大きく通るようになり、性格的にも明るくなったのではないかと思う。

 夏ごろに上手く指揮が出来ずに落ち込んでいたときに歌った練習曲「コンコーネ11番」は、後にMIDIにしてこのホームページに収録している。ほとんどの歌は忘れてしまったが、これだけは覚えている。

 ご冥福をお祈りします。

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