2019年
9月のつぶやき




9月28日 妻の誕生日

 今日は、妻の40回目の誕生日であった。18歳の時に知り合ったのだから、人生の半分以上は、妻との時間を過ごしていることになる。そう考えると、長いものだと思う。

 夕食は、妻のリクエストにより、近くのインドカレー屋から出前を取り、ささやかなパーティーとなった。サチコが司会をしてくれた。「はじめの言葉」に始まり、小学生特有の形式ばった司会ぶりが可愛らしい。

 食事の後は、サチコが考えた「宝探しゲーム」であった。事前に用意したスタンプラリーをしながら部屋中を回り、謎解きなどをして、妻は最終的に折り紙で作ったラピュタの飛行石をゲットした。ゲームのつくりといい、飛行石といい、実に手が込んでいて、サチコの誕生日パーティにかける並ならぬ気合の入りように感心した。

 子供たちの成長も感じられた誕生パーティーであった。


9月27日 サチコ運動会

 先週の月曜日は、サチコの運動会であった。土曜日にやる予定であったが、台風のため延期となったのである。当日は、適度に曇っていて暑すぎず、絶好の運動会日和であった。

 昨年と同様、私は「おやじの会」メンバーとして、朝テント設営の手伝いをしてから場所取りをした。場所取りのために朝早くから並んでいる人たちがいる。朝早くから並んで彼らがゲットする場所というのは、運動会がよく見える場所ではなく、体育館の中や、校舎の下の日陰など、とにかく涼しいところである。一番前に並んでいた人が、迷わずに暗くてジメジメした木の下に走っていったのは笑った。

 私は、のんびり場所を選んで、あまり人気の無い、「運動会がよく見える場所」を選んだ。

 サチコは、いつもの通り大して活躍しないだろうと思いながら見ていたら、ダンスは真剣に踊っていた。驚いたのは、徒競走で5人中3位になったことであった。どうせビリだろうと思っていたので、驚いた。動画を録っていた妻は、録画ボタンを押し忘れたらしく、サチコの走りは記録に残せず、悔しがっていた。

 この運動会で驚いたのは、昼食のホタテであった。妻が用意してくれた弁当の中に香ばしく焼いたホタテが入っていた。ホタテを焼くのは難しい。焼きすぎると硬くなるからである。このホタテは、香ばしく焼き上げられておきながら、ふわっとした感触も残っていて、実に美味しかった。

 このことを妻に言うと、なんとこれはホタテではなく、ホタテ風味カマボコだという。カニカマなど、カマボコの技術は凄いと思っていたが、ついに本物を越えたかと思った。


9月21日 ハァー

 今日の「チコちゃんに叱られる」で、「民謡の『ハァー』って何?」という質問があった。妻も私も民謡研究会合唱団出身でありながら、答えられず、いつも以上に「ボーっと生きてる」ことを実感した。

 答えは「時間稼ぎ」であった。聞けば納得である。民謡は、本来労働の辛さを紛らわせるために歌われた労働唄であり、作業をしながら即興で歌詞をつけていた。歌詞を考える時間をかせぐために、冒頭に「ハァー」などの声を入れたのである。

 その後の、プロの民謡歌手とヒップホップラッパーによるコラボがあったのだが、久しぶりに凄いものを見たと思った。テーマは「最近の若者」で、ラップと民謡が即興の掛け合いで歌われる。発想が面白い。本当に即興でやったかどうかは知らないが、民謡の歌詞で「スマホ」などの言葉が並んでもそれほど不自然ではなかったし、何よりふたりの歌唱力と掛け合いの構成が素晴らしく、見入ってしまった。


9月16日 吹奏楽祭

 昨日は、所属している吹奏楽団で吹奏楽祭に参加した。私は、学生時代に吹奏楽をやっていたわけではないので、吹奏楽で舞台に立つのは初めてである。

 行けば、中高生が多い。学生時代の私は見向きもしなかったが、人気の部活のひとつである。そして、雰囲気が体育会系である。私たちが通ると、中学生が

「コンチワ!」
「コンチワ!」

と真面目な顔で挨拶をしてくる。ノリは体育会系なのに、どうみても運動が出来なさそうな子達がやっているギャップが面白い。

 私たちの演奏は、2曲であった。1曲目は真面目に、2曲目はハゲ面などのカブリモノをして、動きを取り入れつつの演奏であった。練習時に、「全員ハゲ面!」と言ってたのは冗談だと思っていたら、どうやら本気だと分かったのが一週間前で、その日の練習後、ドンキに直行してカツラを購入した。

 演奏は、たくさん失敗した。フルートを再開して半年。私にとってはまだ慣れない楽器である。練習で出来ないことは本番でも出来ない、練習でギリギリできることも、本番では出来ない。

 それでも、楽しいひとときであった。更に練習をして、もっと楽しめるようになりたいと思った。


9月12日 力の入れ方について

 これまで私が学んできた、運動および表現活動は全て、共通した力の入れ方がある。それは、@下半身はどっしりと構え、A上半身は力を抜き、B力ではなくスピードを使う という考え方である。具体的には、柔道、和太鼓、民踊、声楽、フルートがこれにあたる。

 1999年、大学二年の夏、三宅島に伝わる太鼓を習いに同島に行き、当時民宿を営んでいた津村さんに学んだ。津村さんは、上半身裸で隆々たる筋肉を震わせながら「太鼓は力じゃない、スピードだ」と言っていたのが印象的であった。また、今習っているフルートでは、力が入りすぎている、息のスピードを意識して、と言われる。

 津村さんや、フルートの先生が言っているのは、筋肉が必要ないと言っているわけではなさそうだ。太鼓を叩くのにも、理想的なアンブシュアを作るのにも、当然筋肉を使うが、そのことを意識しすぎて硬直してしまうと逆効果だということかと理解している。

 それにしても、私がこれまで習った活動が、たまたまこういう性質のものだったのであろうか。例えば、ウェイトリフティングでも、「力ではなくスピードだ」などと言うのであろうか。


9月10日 太鼓の表現について

 先週、子供たちと参加しているつくし太鼓愛好会の練習に、昔太鼓を叩いていたという、2人組みの男の子がやってきた。後で聞けば、会長の親戚で1歳半から(!)太鼓を叩いていたが、4年前に辞めて以来、久しぶりに叩くという。

 彼らの太鼓は、凄かった。久しぶりに、これが太鼓を叩くということ、というのを思い出させてもらえた。4年ぶりにもかかわらず、体に染み付いたリズムにより勝手に体が動いている、という感じであった。プロが、一生懸命練習して習得した技術とも違う。それよりも、郷土芸能の素晴らしさに近い。民研のころ、初めて地元の演奏を観た様な感動に近い。

 音楽とは、自由な表現活動ではない。むしろ、相当の制限を強いられる。例えば太鼓であれば、決まったとおりのリズムを、決められた手で決められた向きに叩き、そのときの体重移動、顔の向きまでもが決まっている。そういった制限事項を全て自分のものとし、無意識に出来るほどに鍛錬した上で、本当の意味での個性というのが出てくる。

 彼らの太鼓は、そういう意味でも表現をしていると思った。かつての、娯楽が無かった時代、炭鉱の荒くれ者たちが自分らしさをアピールするためにあばれ打ちを叩く、そんな感じが出ている演奏であった。


9月9日 フルートのこと

 フルートを買ったことは、7月のつぶやきに書いたとおりだが、どうもクセがあって苦戦している。

 買うときの基準は、音色の明るさであったが、練習してみると、どうも音程が悪い。高音が高めとなり、特に3オクターブ目のEとEbがやたら上ずるのである。Dが問題ないだけに、ここの2度の音程がやたら離れてしまい、吹き方で修正するのは至難の業である。まだ保証期間内のため、一度調整に出してみたのだが、ほとんど改善されていない。

 とりあえず、使っていないテレカ状の薄いカードを切り取って、管の内側に貼り付けて対応している。木製リコーダーなんかだと、音程の悪いものはこれで緩和されることを、かつての師匠に教わっていた。フルートでそんなことをする人はいないが、根本的な仕組みは同じなので、同様の考え方で少しはましになる。また、替え指を使って少し音を低めに抑えたりもしている。

 インターネットで調べると、フルートは元々音程の悪い楽器であるとか、唇に力が入っているから高音が上ずるだとか、息の角度でなんとかしなさいとか、替え指を使うのじゃ邪道とか、まあ色々なことが書いてある。

 フルートの世界(というか吹奏楽の世界)は、精神論的な要素が大きいと感じる。例えば「『ラ』を吹く気持ちになって吹けば、正しい『ラ』の音が出せる」など。中高の部活でガンガンやっていた人たちが指導しているからであろうか。こういう世界は嫌いではないが、大人になってしまうと、ある程度冷めてしまい、もうちょっと実用的なところを教えて欲しいとも感じる。

 とりあえず、もう一度調整に出してみようと思う。初めて木製リコーダーを買ったときも、このようであった。以前吹いていたプラスチックのほうが響きが良いと感じたり、一部の音程が気になったりして、自分に馴染むのには時間がかかった。こうやって少しずつ楽器に親しんでいく過程も、また楽しみの一つである。


9月8日 優一のこと

 優一は、トイレトレーニングを始めて1年半にもなる。おしっこについては、全く問題なくトイレでするようになったのだが、未だにトイレでうんちをしたがらない。うんちをするときは、オムツを穿かせろと主張し、トイレに座らせても嫌がってしないのである。

 すでにやりたいけど出来ない、という段階はとっくに終了し、できるけどやりたくない、という段階になって久しい。トイレでうんちをしないことについては、驚くほど頑固で、いくらトイレでうんちをする魅力を語っても、或いはやや強い口調で命令しても、聞こえないふりをしてかわしている。

 すでに知的レベルは高く、日付や時刻も理解し、手洗い、着替えなども普通に出来、日常会話も問題なく出来るのだが、トイレでうんちだけはいくら言っても全く歯が立たない。

 そして、私たち夫婦は、それを積極的に楽しんでいる。普通にトイレでうんちをし始めたら、嬉しいと同時にちょっと寂しいであろう。できないことをできるようにしていく段階が、一番楽しい。今、優一は一番可愛い時期である。言葉足らずでありながら、知った風な顔をしていて実に面白い。二度と来ないこの時期を、精一杯味わっておかなければならない。



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