2019年
10月のつぶやき
10月26日 騎士団長殺し
村上春樹の「騎士団長殺し」を、図書館で借りて読んでいる。村上春樹を読み始めたのは、「1Q84」からで、訳が分からないのに面白い、という感覚を味わった。「1Q84」以前の作品も読んだが、あまりに訳が分からなさ過ぎたり、描写が強烈過ぎたりして、食傷気味になったこともあった。私にとっては、「1Q84」以降の作品が読みやすくて面白い。
「騎士団長殺し」も、どんな頭脳を持っていたらこんな話が思いつくのかと思うくらい、突飛である。ユーモラスで、ミステリアスで、ぶっとんでいる。それでいて語るべきことが通奏低音のように常に流れていて、一本の筋が通っている感じがある。村上春樹の本の中では、目に見えない邪悪なものが登場し、同じく目に見えない守護者が登場する。登場人物の語り口は日本語の文法に正確で、そこがまた独特な雰囲気をかもし出している。外国語に訳しやすい語り方だと思う。
もうすぐ読み終わる。最後までどんな結末があるのか想像もつかない。広げた風呂敷は閉じられるのか。おそらく、いくつかは散らかしたまま、唐突に終わるような気がしてならない。
10月25日 横断歩道にて
私は、最寄り駅から会社まで、およそ20分の道のりを歩いて通勤しているが、その中で気になる光景がある。
横断歩道を渡ろうと、登校中の小学生が待っている。それにもかかわらず、車はビュンビュン通り過ぎてゆく。そして、一台の車が小学生のために停車する。小学生は、駆け足で横断歩道を渡り、渡り終えた後、後ろを振り返って、車に向かって深々とお辞儀をするのである。
私は、この光景に違和感を覚える。小学生が自らの意思で、わざわざ振り返って車にお辞儀をする訳が無いだろうから、このように振舞うよう、学校で教えられているのであろう。道を譲ってくれた親切な大人に感謝する、目上の人を尊敬する態度を身につける、といったところがその趣旨かも知れないが、これは明らかにおかしい。
横断歩道における優先は、歩行者である。横断歩道において、歩行者が渡る意思を見せている場合、車が必ず停まらなければならない。これは、道路交通法で決められていることである。ここで停まらないと、5千円以下の罰金だと、教習所で教わった。
要するに歩行者は、車のいる・いないにかかわらず、堂々と横断歩道を渡ればよいだけであり、車は停まるのが当然で、それに対して謝意を示す必要は無い。右折車と直進車では、直進車が優先というのと、同じ考え方を適用すればよい。にもかかわらず、このあたりでは、習慣的に横断歩道においても車が優先される。
だから私は、横断歩道は車がいようがいまいが、堂々と渡る。もちろん、愚かなドライバーがいるだろうから、安全に気をつけた上である。そうすれば、ちゃんと停まる車がほとんどである。抗議の意思を示そうと、わざわざギリギリで停まる車と、意地でも先を急ごうとハンドルを切って突っ切る車がわずかにいる。
そんなかすかな抵抗をしながら、毎日通勤している。
10月14日 バーベキュー
今日は、筑後船小屋の広域公園へ、バーベキューをしに行った。ここでは、格安で場所と道具を貸してくれ、食材と食器だけ持っていけばバーベキューが楽しめる。サチコは、何日も前から楽しみにしていた。
うちの子供たちは、小食である。あれだけ楽しみにしていたバーベキューだが、肉を数枚食べれば、お腹一杯になっている。もちろん、それも見越して食材はかなり少なめである。ちょうどお腹一杯になるころに、食材はなくなった。
その後は、川へ行ってザリガニを捕まえたり、ボール投げやらフリスビーをして遊んだ。昨日の川と同様、一生に何度もない位、幸せな時間だと思った。
10月13日 遠出
日曜日は、子供たちと自転車で遠出をした。これまで行ったことがない、川沿いの公園に行こうと思ったのである。距離は約6キロで、山の方角のため、緩い登りが続く。そんな道を、私は優一を自転車の後ろに乗せ、サチコは自分の自転車で私についてやってきた。
途中で音を上げるかと思いきや、サチコは元気についてきた。体力がついてきたものである。着いた公園は、山奥にあり、透明度の高い川が流れている。川は子供たちが遊べるように整備され、ちょっと肌寒いのに子供たちが川ではしゃいでいる。巨大な水車があり、季節になればホタルが出るらしい。自転車でこんなところまで来れるとは思わなかった。
私たちは、ペットボトルの罠をしかけることにした。ペットボトルの飲み口のところをナイフで切り取って、さかさま向きに取り付け、底の部分は切り取ってタマネギのネットをかぶせ、輪ゴムえ固定して完成である。中にスルメを入れて川に沈めた。
その後、テントの中でコンビニで買ったパンやお菓子を食べてだらだらし、罠をあげると、なんと魚が2匹もかかっていた。私たちは狂喜し、水槽に入れて観察した。
続いて、スルメを糸にぶら下げて、川に垂らすと、蟹が釣れた。これも水槽に入れて観察した。その他、川を上流やら下流やらへ探検したり、展望台のほうへ登ってみたり、子供たちとあっちこっち行って遊んだ。
幸せな時間だなぁと、思った。サチコはあと少ししたら私と遊んでくれなくなるであろう。今の時間を大切にしなければならないと思った。
帰りは、基本的に下り坂である。行きとは違って、驚くほど簡単に戻ってくることが出来た。
10月13日 ラグビーを観る
川から帰った後は、ラグビーのスコットランド戦を観た。我が家は、基本的にスポーツを観ない。それどころか、我が家のテレビは「ドラえもん」か、「チコちゃんに叱られる」か、「ダーウィンが来た」か、「ピタゴラスイッチ」くらいしか映らない。それでも、今夜のスコットランド戦は観たいと思い、父の強権を発動した。
ラグビーの試合を観るのは、初めてである。高校の体育でやった程度で、大雑把なルールくらいしか分からない。初めてラグビーの試合を観た感想は、なんと泥臭いスポーツであろうか、ということである。もちろん、悪い意味ではない。
試合のほぼ全ての展開において、キツそうである。スカっとする場面は、トライを決めるときくらいで、それ以外は精神力と体力が削られるような場面が続く。もちろん、世界のトップレベルにおいて、楽なスポーツなどありえないが、ラグビーはその中でもきつく、試合時間も長いほうに入るのではないだろうか。
試合は、日本の勝利に終わった。台風の中、開催自体が危ぶまれ、開催されなければ決勝トーナメント出場という状況の中、多くの人々の努力により開催され、かつ勝利を収めたのは、素晴らしい結果であろう。
ルールの分かっていないサチコとハイタッチして勝利を喜んだ。
10月8日 酢たまねぎ
前にも書いたが、私は「酢たまねぎ」を作って食べている。作り方は極めて簡単で、たまねぎをスライスしてタッパーに入れ、酢と醤油をかけて1日程度、冷蔵庫で放置しておくだけである。だいたい2週間位は日持ちすると思われ、月に2回くらい作れば、常備食となる。新たまねぎの季節は特に美味しく食べられる。
私が酢たまねぎを食べ始めたきっかけは、インドネシアで耳鳴り、難聴に苦しんでいたころ、先輩に酢たまねぎが効くと言われたことであった。それからたまねぎの薬用効果の噂は、糖尿病、コレステロール、血液サラサラ、果ては安眠など、実に色々聞き、まさに万能薬の如しである。まあ、体に悪いということは無いだろうから、私が自分で作り、家族でも私だけが食べるというスタイルが、何年も続いている。ちなみに、酢たまねぎを作ったタッパーは、食器棚にしまうと強烈なたまねぎの匂いが食器棚内を汚染し、大変なことになるので注意が必要である。
昨夜、残り少なくなった酢たまねぎのタッパーを開けると、ドリアンの香りがした。酢たまねぎは日持ちするが、2週間近くなると、ドリアンの香りがし始める。これはこれで懐かしいなぁなどと思いながら食べる。
そして今朝、タッパーの残りを平らげようと思い、酢たまねぎと、たまねぎエキスを吸い込んだ酢醤油を飲み干した。この「たまねぎエキス」は、まさに健康の塊といった感じなのだが、今朝は、なんと微炭酸であった。
酢醤油味で、ドリアンの香りがして、微炭酸。
2週間保管している間に、アルコール発酵でもしてこのような結果になったのであろうか。平らげようか、若干躊躇したが、腐敗したような嫌な感じはしなかったので、残った酢たまねぎを全て食べ、微炭酸のたまねぎエキスも全て飲み干した。まあ、慣れればそれなりに美味しく、腹を壊すことも無く今にいたる。
これもひとつの「菌活」であろう。
10月5日 文明の衝突
サミュエル・ハンチントンの著書「文明の衝突」(原題:The Clash of Civilizations And the Remaking of World Order)を読んだ。著者のことも、この本のことも知らず、図書館の文庫本コーナーでたまたま手にとって、読んでみようと思ったのである。内容は、特に難解ということは無いが、私が政治や世界情勢に疎いため、理解できない部分もあったが、とりあえず読了した。
この本が刊行されたのは1996年である。通常、政治や世界情勢に関する著作は、時を経ると陳腐化し、読むに値しないものとなる。しかし、この本は、今読むべき内容に思える。驚くべきことに、この本が書かれたころ、1998年のジャカルタ暴動も、2001年9月11日の同時多発テロも起こっていなかったのである。
この本は、冷戦後の世界がどのようになるかを予見した本である。本書によれば、冷戦後、イデオロギーの対立に代わり、文明の対立が表面化するという。世界の文明は、西欧文明、中華文明、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥー文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つに分類でき、その中でも強大だが衰退し始めている西欧文明と、逆にどんどん力をつけている中華文明・イスラム文明の対立が表面化し、他の文明がそれらと協力・対立して第三次世界大戦が起こりうるうというのが、本書の大まかな内容である。この本が刊行されたころ、大きな論争を巻き起こしたという。20年経った今の方がむしろ、実感を持って読める。
この本を読んで感じるのは、著者は自分の思い込みを極力排し、事象だけから結論を導こうとしていることである。自分の属する西欧文明が、普遍的に優れているものではないこと、イスラム文明が他の文明と衝突しやすいこと、日本は他のどの文明にも属さない独特な国であることなどが、理論的に述べられている。
最後に述べられる、世界戦争のシナリオは、今の情勢からいうと外れていることもあるが、ひやりとする内容も多く、知識の深さと、洞察力の鋭さに驚いた。著者は2008年に死去したらしいが、今生きていたら何を語るのであろうか。
topへ