2019年
11月のつぶやき
11月30日 ボクの自学ノート
〜7年間の小さな大冒険〜
今日のNHKスペシャルで、表題の番組をやっていた。途中からしか観られなかったのだが、自らテーマを見つけて学ぶ「自学」を小3〜中3までの7年間、人知れず続けた少年の記録を記したドキュメンタリーで、彼は「子どもノンフィクション文学賞」というので大賞を取ったらしい。
彼は、学校では友人は無く、部活も入らず、授業が終わるとまっすぐ家に帰り、「自学」に没頭する。図書館で大量の本を借りて読み、興味のあるところには実際に足を運んで調べて、その内容を人に伝わるような形でノートにまとめる。クラスメイトにとっては、彼が何をしているのか分からない謎めいた存在。母は、息子が人と違うことに悩む。
この番組で描かれているのは、日本の教育というものが、みんな平均的になることを良しとしており、そこから外れた子供たちにとって息苦しいという現実である。私は、画一的な教育と言うのが、必ずしも悪いとは思わない。それにより、誰でも一定レベルのスキルを身に付け、生きていくことが出来る。
この番組を観ながら、私は自分を重ね合わせた。私も、どちらかといえば社交的ではなく、ひとり好きなことに没頭するタイプだからである。サチコもどちらかというとそれに近い。自分はともかく、サチコはこのままでいいのだろうか、もっと積極的に友達を作るよう促した方がいいのであろうか、ということも考えないことはない。
この番組の最後で、生物学者の福岡伸一氏の「ルリボシカミキリの青」という本の一節が紹介される。
「大切なのは、なにかひとつ好きなことがあるということ、そしてその好きなことがずっと好きである続けられることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりとも飽きさせることがないということ、そしてそれは、静かに君を励まし続ける。最後の最後まで励まし続ける」
私は、笛を吹くのが好きで、そこから人の繋がりが出来た。太鼓を叩くことで、新たな仲間が出来る。私は、何もなしに人と繋がるのが苦手である。一方で、自己表現が好きだからこそ、「つぶやき」を20年近く続けている。好きなことに没頭したことで、逆に社交的なところに自分を持っていくことが出来る。好きなことが、私を助けていると感じる。
人はこうあらねばならないということはない。番組が、そう言っているように思えた。
11月24日 優一がトイレでうんちをする
今夜、太鼓の練習の帰り道、優一が突然騒ぎ出した。私は直感的に、うんちがしたいのではないかと思った。本人に訊いても、要領を得た答えは返ってこない。とりあえず、急いで帰宅し、トイレに座らせてみた。
私は何となく、今日は優一はトイレでうんちをするのではないかと思っていた。というのも、今日は妻が一日外出でいなかったのだが、優一をトイレに座らせると、うんちをきばるようなしぐさを見せたからである。
家に帰り、急ぎトイレに座らせようとすると、妻がオムツを構えてスタンバイしていたが、とりあえずトイレに座らせると、優一の尻から立派な大便がもりもりと出てきた。妻と私は歓喜し、優一を褒め称えた。優一は写真を撮れと言い出したが、優一の写真を撮るのか、うんちの写真を撮るのかよく分からず右往左往した。しばらくすると、優一がトイレに座りなおした。更にうんちが出た。結構我慢していたらしく、相当な量のうんちが、小さな優一の体から出てきた。
ということで、今日は、優一が自分の意思でトイレでうんちをした記念日となった。一度出来るようになると、優一は、あたかもトイレでうんちをするのが当然の如く、一丁前の口をきいた。
私は、嬉しいと同時に少し寂しくなった。子供が成長するにつれ、親がしてあげることはひとつひとつ減っていく。それがなくなったとき、子供は巣立ってゆくのである。それも含めて親の喜びであろうと思った。
11月18日 ないないづくしの里山学校
図書館でたまたま見つけて、表題の本を読んだ。泥だらけの子供の写真が印象的な表紙のこの本は、どちらかというと写真集に近い。千葉県の木更津社会館保育園の「里山保育」「土曜学校」の様子を追った本である。
子供たちが、里山の古民家を拠点として、里山で一日を過ごす。おもちゃやおやつの持ち込みは禁止。何をしてもいいし、何もしなくてもよい。泥だらけになっても叱られない。里山は「バリアフリー」ならぬ「バリアフル」。時に転んだり、怪我をしたりするが、その中で身体感覚を学ぶ。ケンカが始まっても、子供たちだけで解決することが優先される。大人は、よほどのことが無い限り、口を出さない。ひとりで黙々と好きなことに打ち込んでいる子がいても、誰も気にしない。
写真を見て、そこに散りばめられた文章を読んで、私は「いいなぁ。。」を連発した。それは、自分もこんな風に過ごしてみたかったという思いと、子供たちにもこんな経験をさせてあげたいという思いが入り混じっている。
しかし、冷静になって考えた際に、これは正しいのだろうかということを考える。途上国の子供たちの方が目がキラキラ輝いている。地元の伝統工芸を学び、親の手伝いをする子供たちの表情は豊かである。昔の子供たちの方が、逞しかった。そのような考え方は、単なる懐古主義なのであろうか。それとも、子供を育てる上で、必要不可欠なスキルと精神を与えるものなのであろうか。
一方で、子供を危険な目にあわせないために、子供たちだけで遠出はさせない。おもちゃは安全なものだけを与える。タブレット端末やゲーム機などで子供の楽しみたい本能を充足させる。将来のために塾に通わせ、感受性を高めるために習い事をさせる。このような考え方も、決して間違っているとはいえない。
結局、どちらも間違っていて、どちらも正しいとしか、言いようが無い。しかし、どちらに重きを置くかは大事だと思う。それを決める基準は、未来がどのようであるかによると思っている。
将来、資源が枯渇し、気候変動が起こり、日本が経済破綻し、戦争が起こるような、不確実な未来を思い描くならば、前者に述べたような子育てをすべきだと思う。一方で、今のように、一定の不確実性はあるものの、まずまず安定した社会が続くのであれば、後者の子供たちの方がうまく生きられるのではないかと思う。
私の好みから言えば、この本で語られるような教育方針が好きである。妻は恐らく逆であろう。色々考えても、結局感覚的に合うかどうかでしかないのかもしれない。
11月17日 トイレ家族
今日は、私が働いている工場のファミリー感謝祭であった。工場に家族を呼んで、工場見学や、バーベーキューなどのイベントが開かれる。そこで、私が子供たちと参加している「つくし太鼓愛好会」が太鼓を叩くことになっていた。この日、サチコと優一の初舞台でもあった。
私たちが家族で行動すると、どうもトイレ待ちの時間が異様に長い気がする。この日は、工場について、工場見学が始まるまで、サチコがトイレに行っていた。工場見学が終わり、感謝祭に移動しようとすると、妻が異様に長くトイレに閉じこもり、私と子供たちはロビーでかなりの時間を待っていた。
そして、太鼓の演奏が始まるまでの間、サチコが15分おきくらいにトイレに向かった。緊張しているらしく、トイレの頻度が異常に高い。一方で優一はお気楽で、私によじ登るなどしてリラックスしていたが、衣装を着替えると、急にりりしい顔つきになった。
太鼓の演奏は、優一は思ったより上手であった。私に似てひねくれ者の優一は、普段の練習では決められたリズムを叩かず、わざと変なリズムを叩いたり、変に足をばたつかせたりしてるのだが、今日はちゃんと叩いていた。というか、優一がリズムどおりに太鼓を叩いているのを初めて見た。
サチコは、緊張していたものの練習の成果を発揮できたようであった。優一とは対照的で、決められたことをきっちりやる性格である。もう少し力強く叩ければなお良い。
私は、まあまあ上手くやったつもりでいたが、妻が撮ってくれた動画を観れば、自分が思っているほどかっこよくないと思った。まだまだ練習しなければならない。
その後も、家族の誰かが代わる代わるトイレに行き、他の人のトイレを待ち、今日の思い出は、太鼓を叩いたことと、トイレ待ちをしていたこと(自分がトイレに行くのはそれほど気にならない)で占められる一日となった。
11月16日 12月になったら
優一のトイレトレーニングを始めて、1年半が過ぎた。おしっこについては全く問題なく、自分でトイレに行け、外出先でも立ちションも出来るようになったが、うんちについては未だにトイレで出来ない。便意をもよおしたときは、オムツを穿かせろと主張し、トイレに座らせてもきばるフリだけをして、すぐに出来ない、と言う。
オムツを穿かせなければそのうちするんじゃないかと思うが、妻はうんちを我慢しすぎて便秘になることを心配し(実際にあった)、相変わらずオムツで用を足している。
それが最近、「トイレでうんちしなさい」と言うと、「12月になったらね」と答えるようになった。優一は毎日カレンダーを確認し、今日が何月何日の何曜日かを把握しているので、この発言は一定の信憑性がある。
12月に何が起こるのであろうか。
11月10日 神戸へ
今週末は、祖母の7回忌の法要のため、母の実家である神戸の長田へ行った。長田では、祖父、叔母、母、妹と久しぶりに会った。
97歳になる祖父は、前に会ったときよりも元気そうに見えた。私が声をかけると、「もうおじいちゃんにやったんやな」と言われ、いやまだお父さんです、と答えた。記憶も曖昧な祖父だが、それでもおだやかに、日々のするべきことはしようとする祖父は、本来の自分を律する意志の強さと、叔母の介護のお陰だと思った。
法要は、「ベリーショート」ヴァージョンということらしく、11時頃に「お坊ちゃん」(叔母がそう呼ぶ)が来て、仏壇の前で15分くらいお経を唱え、世間話をして帰っていった。お坊ちゃんが帰った後、「ヘタクソなお経やったな〜」と言っていた。叔母の歯に衣着せぬ言葉の切れ味は、昔から何ひとつ変わっていない。
千葉に住む母と妹も、元気そうであった。家族はばらばらに住んでいるが、祖母がこうして久々に会わせてくれ、楽しいひとときを過ごさせてくれているのだということを感じた。
11月2日 ネルノダ
先週末から、疲れが取れない。先週末は、土曜日:太鼓のステージ→吹奏楽の練習、日曜日:吹奏楽のステージ2件→太鼓の練習と、ハードなスケジュールでぐったり疲れた。疲れた割りによく眠れず、ずるずると疲れをひきずっていた。
自分でお灸をすえたり、しばらく飲んでいなかった自律神経の薬を飲むなどして、自己管理に努めている。そして昨日、初めてハウス食品の「ネルノダ」を飲んだ。睡眠の質を向上させると表示されている、「機能性表示食品」に分類される。
「機能性表示食品」とは、2015年に始まった制度で、「事業者の責任で、科学的根拠を基に商品パッケージに 機能性を表示するものとして、消費者庁に届け出られた食品」である。しかし、公的機関による審査等は無く、この制度が始まってから、胡散臭い効能の書かれた食品が増えたように思う。
ともあれ、「ネルノダ」を飲んで寝た。それ以外にも自律神経の薬などを飲んでいたので、効果はよく分からないが、とりあえずいつもよりも長い間眠れ、疲れも取れたように感じる。
何より、私がこうして疲れているのは、好きなことを好きなだけやらせてもらえている結果であり、理解をしてくれている家族に感謝である。
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