2021年
1月のつぶやき




1月31日 理想の餃子

 今日は、餃子を作った。私は、これまで20年ちかく、理想の餃子を作りたくて試行錯誤を続けていたのだが、今日ついに、理想の餃子を作ることができた。

 私は、肉がたっぷり入っている餃子よりも、野菜メインの餃子が好きである。それでいて、小籠包のように、中に水分が含まれており、食べると汁が飛び出すような餃子が良い。これを両立させるのが、実に難しい。

 肉メインの餃子であれば、ひき肉に鶏がらスープを練り込むことで、このような餃子ができる。しかし、野菜メインの場合、野菜の水分をわざと残して餃子を作ったりすると、ベチャベチャした感じになり、私が追い求める餃子とは程遠い結果となる。野菜メインの餃子の場合、野菜は事前に茹でて、みじん切りにした後にしっかり水切りをしたほうが良く、その場合ジューシーさは望めない。

 今日は、しっかり水をきった、野菜メインの餃子を造りながらも、鶏がらスープをゼラチンで固めて餃子に一緒に封入した。皮は、市販のものだと隙間なく包むのが難しいので、一部は小麦粉から作った。

 食べた餃子は、まさに私が長年追い求めていた味であった。子供たちにも好評で、今日の晩御飯は、家族で餃子だけを食べまくった。


1月24日 どんぐりピーナッツ

 宮崎駿の著書「折り返し点」で、映像による刺激が子供を食い殺しかねないと述べている。彼は、優れたアニメーション映画を作りながら、それで子供たちを食い物にして儲けていることに、ジレンマを感じ続けていた人である。以下、P86より引用


基本的には、ビデオのスイッチをつけるということと絵本を開いて見るということは本質的に違う行為だと思います。

 映像は、見ている見ていないに係わらず一定のスピードで送りだされる一方的な刺激ですが、絵本は、違います。今のように子どもたちが、映像に頼れば頼るだけ、これからは現実の生活の中で、絵本を楽しむような時間が必要になってくるんじゃないですか。その子にとっての大切な時間というのが絶対にあるんです。ぼーとして何もしなかったり、畳の毛羽をむしっているほうが、意味があるってこともあるはずなんですよ。

 私は、子どもたちがIpadでYoutubeを見たり、ゲームをしたりすることには、抵抗がある。理由は「楽しすぎる」というものである。別に言い方をすれば、刺激が強いともいえるのかもしれない。妻は、どちらかというと容認派で、むしろ視力が落ちることを心配している。とはいえ、両親の教育方針は違っていたほうが良いとも思っているので、まあ適度にやって、という形で落ち着いている。

 休日、暇に家でごろごろしていると、退屈した優一がやってくると、「どんぐりピーナッツ」をやる。「どんぐりピーナッツ」は、我が家で開発されたゲームで、私と優一の間に公園で拾ってきたどんぐりを置き、

「どんぐりピーナッツどどんこどん!」

という掛け声とともにどんぐりを高速回転させる。そして、どんぐりが静止したとき、とがっているほうを向いている人が、ピーナッツをひとつ食べられるというルールである。漫画「じゃりン子チエ」で、テツが道端で悪友とたむろしながら「次に来る奴は男か女か」みたいなので小銭を賭ける話があったように記憶しているが、それに似ている。退屈でごろごろしている父子が何もやることがなくて、「どんぐりピーナッツ」をやるのだが、それが思った以上に盛り上がる。派生版として、「どんぐりミックスナッツ」「どんぐり味付け海苔」などがあるが、どれも本質的には同じである。

 少し前、「どんぐりピーナッツ」用のどんぐりを紛失してしまった。「どんぐりピーナッツ」用のどんぐりがどこかへ行ってしまったと言い、子供たちと「どんぐりピーナッツ」用のどんぐりを拾いに行ったりもした。全く、我が家以外では理解不能な話であろう。


1月23日 花

 前にも書いたが、YAMAHAのオンライン合奏アプリ「SYNCROOM」で、千葉に住む母と合奏練習をしている。私がフルートを吹き、母がギターを弾く。多少の音ズレはあるものの、合奏練習として成り立つ程度ではあり、便利な世の中になったものだと思う。

 手始めに滝廉太郎作曲の「花」を合奏練習した。合奏練習しながら、アプリの使い方、音のずれ方や聴こえ方、より良い合奏にするには、どのような機材が必要かなどを確認しながら進めていった。昨年末より始めて、なんとなく形になってきた気がする。

 とは言っても、合奏の生録音では音質は悪く、音ズレもあるため、合奏練習したのち、母のギター演奏をメールで送ってもらい、フルート演奏を重ねて完成させた。送られてきたギター演奏を聴いて、暖かくて良い音色だなと思った。私が子供のころ、母は毎日家でギターの練習をしていた。その時の雰囲気が思い出されるようで、懐かしく思った。

母とのフルート・ギターアンサンブル「花」
https://www.youtube.com/watch?v=lc6HAg6luK8


1月22日 いやいやえん

 最近、優一は「いやいやえん」(中川李枝子著)を気に入り、頻繁に読んでくれとせがんでくる。我が家にある「いやいやえん」は、妻が子供のころから持っていたもので、相当年季が入っている。ちなみに「いやいやえん」の著者、中川李枝子氏は「となりのトトロ」の歌を作詞していることで知られる。

 「いやいやえん」は、幼児向けの本だが、字が多く、なかなか読みごたえがある。優一に読み聞かせていても、読んでいる親のほうまで楽しくなってくるような、不思議な魅力がある。その立場は、とても中立的である。作品の中には、表面的にとらえれば、わんぱく小僧「しげる」の因果応報を通じて、いたずらはいけませんよ、と言っているように思えるが、文体からして明らかにそうではない。むしろ、子供の自然な姿をありのままに表現し、ありのままに読者が受け入れる、といった感じが近い。そういった意味で、「いやいやえん」は、なんら伝えるべき教訓を含んでいない。ただ、子供を楽しませたいといった感じがする。

 宮崎駿の著書「出発点」でも中川李枝子さんのことが少し出てくる。対談の中で、絵本には、大人が大人としてどのように世界を眺めてきたという視点が入っていないといけない、という。子供の目線までしゃがんで作られた本ではいけない、といった内容が書かれている。「いやいやえん」を読むと、子供に分かる言葉で書かれていながら、容赦なく難しい言葉も出てくる。甘やかすような態度も見せない。それでいながら、子供が喜ぶような表現がちりばめられている。


1月11日 雪が積もる、母との合奏

 3連休は、寒波がやってきた。私が住んでいる地域でも夜のうちに雪が降り、朝起きれば、家の前の公園は雪が積もっていた。当然、子供たちは歓喜し、朝食を食べたら公園に遊びに行った。

 ひととおり、雪合戦などではしゃいだ後、雪だるまを作った。雪玉が小さいうちは、なかなか崩れてうまくいかないのだが、ある程度の大きさになると、雪の上を転がしているだけでどんどん大きくなる。「雪だるま式」という言葉の意味を改めて知った。積もったといっても、3センチ程度なので、土と混じった茶色の雪だるまになった。

 近くの生涯学習センターまで散歩すると、屋根からつららが伸びていた。なかなか見られない光景で、新鮮な3連休であった。


 母とSyncroomというオンライン合奏サイトでフルートとギターの合奏を始めたことは、昨年末の「つぶやき」にも書いたが、汎用のタイプではどうしても遅れが発生するため、サイト推奨の機材を導入した。具体的には、オーディオインターフェースと、そのためのマイクを用意したのである。この日、初めて合奏をしてみた。

 結果、そこそこ合奏らしきことができるようになった。千葉と福岡で合奏ができるなんて、驚きである。なかなか楽しく合わせることができた。また週末の新しい楽しみができた。

 買ったマイクもなかなか性能が良く、気に入っている。これまでリコーダーの多重録音は、楽器用のものではなかったので、雑音も多かった。こんなに違うのかと、驚いている。合奏以外にも、フルートを多重録音して楽しんでいる。


1月2日 約束のネバーランド

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 今年の大晦日から正月にかけては、コロナ禍であり、寒波もあり、家でごろごろしていた。子供たちはIpadで動画を観たり、任天堂スイッチをやったりしている。私は、近所のレンタルショップで「約束のネバーランド」を借りて読んだ。漫画のレンタルは1冊50円で、全20巻を借りて一気に読んだ。

 「約束のネバーランド」は、孤児院でのびのびと暮らす子供たちの様子から描かれる。ところがここは、孤児院ではなく鬼が管理運営している「農園」で、子供たちは里親に引き取られる代わりに「出荷」されていることが判明する。それを知った子供たちは、知恵と勇気を振り絞って農園から脱出することに成功する。

 「外の世界」に出た子供たちは、少しずつ世界の仕組みを解明していく。そこには、鬼たちの社会がある。そこでは、人間と同じような政治のかけひきがあり、そこに生きる鬼たちは、私たちと同じように愛憎の感覚を持って暮らしている。そんな鬼たちと約束を交わし、取引をする人間もいる。やがて物語は神話の様相を呈してきて、「世界」をどうするかという問題に発展する。

 この物語で強調されるのは、徹底的なプラス思考と、徹底的な「甘っちょろい青臭さ」である。主人公エマは、どんなに不可能に思えることでも、必ず「やろう」「できる」と言い、周囲を巻き込んでいく。そして、自分たちだけでなく、全「食用児」を助けたい。それどころか、人間を食べなければ自身の姿を維持できない、鬼たちさえも救いたいと考える。

 私たちは、現実の世界では「やりたいこと」と「できること」の折り合いをつけて生きている。せめて漫画の中ではそれらを超越しても良いではないか。作者は、そんな不可能性や青臭さもすべて分かった上で描いているように思えた。

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