2022年
3月のつぶやき




3月27日 花見

 今日は、家族で花見に出かけた。自転車で20分くらいのところにある川沿いの公園である。特段の準備はせず、途中のコンビニで飲み物やお菓子を買った。目的地に着けば、満開の桜であった。この上ないタイミングである。早速、テントを張り、レジャーシートを敷いてごろごろした。

 子供たちは、我が家のアウトドアの定番である「いつ、だれが、どこで、なにをした」ゲームをしたいと言い、やり始めた。無茶苦茶な文章を創り出しては、爆笑していた。その後は、ボールを持って広場で遊んだ。

 ボールで遊んでいると、子犬が猛突進してきて、いきなりボールを奪った。優一は、最初は怖がっていたが、すぐに子犬と仲良しになり、ボールを持って一緒に走り回ったり、ボールを投げて子犬に取らせに行ったりして遊んだ。

 川でも遊んだ。非常に浅く、流れも穏やかで、それほど冷たくなかった。小魚を眺めたり、流れてくる桜の花びらを拾ったり、石を投げたりして遊んだ。

 穏やかで、幸せな一日であった。


左:犬と戯れる優一     中:桜の木の下にテントを張って花見をする   右:川を冒険する




3月18日 光の旋律

 かつて、「Kalafina」という女性3人のヴォーカルユニットが存在した。NHKの「歴史秘話ヒストリア」のオープニングとエンディングを飾り、番組に独特の雰囲気をもたらした。オープニングでは謎めいた「Storia」、エンディングは「夢の大地」「Symphonia」など、情緒あふれる楽曲が何度か入れ替わった。「歴史秘話ヒストリア」が終了し、「歴史探偵」に変わってからも、私とサチコはしばらく「ヒストリア」が良かったと懐かしみ、「Storia」を口ずさんだものであった。

 「Kalafina」の魅力は、その独特な曲調と、たとえライブでも音程を外すことが一切なく、溶け合うコーラスで朗々と歌い上げる3人の圧倒的な歌唱力である。どれほどの努力をすればこの域に達するのであろうか。

 最近、気に入ったのが「光の旋律」という曲である。いい曲だなと思いながら、Youtubeでいくつか聴いていると、「赤木さんのフルート」というキーワードがでてくる。伴奏で、フルートを吹いているのが「赤木さん」なのだが、この曲では間奏で入るアドリブソロが毎回変わるのである。しかも、どれも味があってかっこいい。ソロに入ると、カメラも「赤木さん」をアップに映し、笑ってしまうほど目立っている。間奏以外でも、アドリブ演奏をバンバン入れて、そのたびにカメラは歌姫そっちのけで「赤木さん」をアップに映す。

 他の全員が、決められた通り演奏しているのに対し、フルートだけが自由である。ポップソングで、このような自由な構成を作るのは珍しい。ここ最近は、寝る前に「赤木さんのフルート」のさまざまなヴァージョンを聴くのが癖になってしまった。

 Kalafinaは、あまり有名になることは無かったが、私にとっては伝説のユニットであった。

♪ 光の旋律 "Consolation" LIVE 2013 〜 赤木さんのフルート間奏、このバージョンも最高です。


3月15日 優一卒園

 今日は、優一の卒園式であった。私は、半休を取って参加した。

 幼稚園の3年間というのは、濃密である。トイレでうんちができなかった子が、音程通りに歌を歌い、お祈りをし、良いことと悪いことの区別がつき、生意気な口をきいたり出来るようになる。今日の卒園式でも、みんなちゃんと歌を覚え、セリフを覚え、堂々たる態度であった。

 それでも、どこか呑気な雰囲気の子供たちと対照的に、今にも泣きだしそうな顔をしている先生方が印象的であった。優一が、たくましく今の姿に成長してくれたのは、幼稚園に行ったことが大きい。

 72歳になるという、理事長先生の言葉が印象的であった。幼稚園では、3〜5歳の子供の面倒を見ます。その親御さんも今ここにいらっしゃる年代の方々です。そんな日々を何十年と続けていると、自分だけが年を取っていくような感じがするのです。というような意味のことを言っていた。

 教育に携わる人たちというのは、多かれ少なかれこのような感覚を持っているのかもしれない。教育というのは、システムであり、教育者は、こういったシステムの守護者である。「入学」というインプットがあり、その中のさまざまな教育プログラムを通じて成長し、「卒業」というアウトプットがある。「卒業」の感傷の源は、このシステムにある。もう一年幼稚園に居たいとか、ずっとこの子たちと一緒にいたいとかいうモラトリアムは許されない。システマチックな世界だからこそ、血の通ったつながりが、かけがえのない思い出となって残る。

 卒園式が終わって、教室で先生が最後の言葉をかけるときも、子供たちは騒がしかった。ろくに話を聞いていないように見えながら、それでも先生の話に対して反応はしている。そして、歌を歌いましょうというと、みんなちゃんと一斉に歌い出すから不思議である。

 最後、園庭で理事長がマイクを渡された。話し好きの理事長だから、長い話が始まるのかと思ったら、

「みなさ〜ん、小学校へ いってらっしゃ〜い」

 と満面の笑みで手を振って終わりであった。理事長先生は、大人には教育論の話や、幼稚園の方針を力こめて話すが、子どもたちにはそんなそぶりは一切見せない。良い幼稚園だと思った。3年間お世話になりました。


3月13日 旅立ちの日

 この週末は、暖かくなった。寒い冬が遠のき、春の兆しを感じるとき、少し感傷的な気持ちになる。この季節は、人生の分かれ目となることが多いからであろう。卒業、就職もそうであったし、インドネシアに赴任したのも、本帰国したのもこの時期であった。希望よりも不安のほうが大きく、その不安を「希望」という言葉でごまかしながら過ごしていたようにもおもえる。

 明後日、優一が幼稚園を卒園する。ついこないだまで赤ちゃんであった優一が、どういうわけかひらがな、カタカナを理解し、アナログ時計の読み方を理解し、スーパーマリオメーカーで奇妙なコースを発明してはネットに投稿し、マインクラフトの世界では建造物を建築し、現実世界では生意気な口をきいてくるという、驚くべき成長をみせている。

 優一も小学生か、と、感慨にふけっていると、「旅立ちの日に」が吹きたくなった。卒業式の定番ソングらしいのだが、私は知らなかった。私は、インドネシアでリコーダークラブに所属していた時に、リコーダー4重奏としてこの曲を知った。Wikipediaによると、「旅立ちの日に」は、埼玉県秩父市の中学校で、校長と音楽教諭により作られた。それが次第に全国に広がり、日本中の卒業式で歌われるようになったという。

 早速、インドネシアから持ってきた楽譜を引っ張り出して、多重録音し、イラストを添えてアップした。

↓旅立ちの日に リコーダー4重奏
https://www.youtube.com/watch?v=tLZjDNNV6ig


3月6日 ふみふみする

 我が家には、「ふみふみする」という動詞が存在する。意味は、「(父と優一が)スーパーマリオをプレイする」である。週末になると、優一が「ちょっとだけふみふみするかー? 」と訊いてくる。私は、待ってましたとばかり「仕方ないなぁ、ちょっとだけだぞ」と答えて、コントローラーを手にする。

 最近のスーパーマリオは、複数人で同時にプレイすることができる。マリオとルイージが同じ画面上にいるのである。そして、例えばマリオがルイージを踏みつけると、可愛らしい効果音(私たちには「フミッ」と聞こえる)とともに、ルイージがひしゃげる。その他、マリオがルイージを持ち上げて、投げ捨てたりもでき、協力するどころか、足を引っ張りあうことも可能だ。

 そんなこんなで、優一マリオと踏んだり踏まれたり、崖から投げたり投げられたりしているうちに、父とマリオをプレイするのは「ふみふみする」ということになった。

 それでも今は、協力プレイも出来るようになり、毎日プレイしている優一は、私と同じくらいの腕前になり、難易度の高いコースも少しずつクリアしている。今や足を引っ張りあうことも稀になったが、それでも優一は「ふみふみするかー?」と訊いてくるのである。


3月5日 リコーダー多重録音

 先週の話だが、リコーダーの多重録音をして遊んだ。ふと思いついて、中学生くらいの頃に遊んだ「ロマンシングサガ2」の最終決戦の曲を吹くことにした。インドネシアにいるころ、スマホでリメイク版をダウンロードしてプレイした。サチコが好きで、一緒にラスボスを倒してエンディングを観た記憶がある。

 ラスボスは「七英雄」というのだが、その七人の名前が山手線の駅名を逆から読んだものだというのが有名である。「クジンシー」(新宿)、「ロックブーケ」(池袋)、「ダンターク」(五反田)、「スービエ」(恵比寿)、「ノエル」(上野)、「ワグナス」(品川)、「ボクオーン」(新大久保)。これを知ったときはズッコケたが、それでもゲーム独特の世界観が崩れることは無かった。

 今回は、七英雄の紅一点「ロックブーケ」がリコーダーを吹いている絵を描いて、アップした。

↓ロマンシングサガ2 ラストバトル リコーダー5重奏
https://www.youtube.com/watch?v=tLZjDNNV6ig


3月5日 風神・雷神

 和太鼓とオルガンとオーケストラのために作曲された「風神・雷神」という現代曲がある。新実徳英という現代音楽の作曲家が作った曲で、私が10代のころに聴いて衝撃を受けた記憶がある。もしかしたら、民研で和太鼓を始める前のことであったかもしれない。その後、和太鼓をオーケストラや吹奏楽に取り入れた曲はいくつか聴いたが、この「風神・雷神」に勝るものは無かった。

 和太鼓を、西洋音楽に取り込むとき、どうしても「リズム楽器」として認知されてしまう。その結果、物珍しさだけを狙った曲となり、和太鼓でなければならない必然性を感じない。特に、最近の創作和太鼓は、大小たくさんの太鼓を並べて演奏するので、まるでドラムセットのようになる。

 「風神・雷神」は、全然違っていた。大太鼓を後ろ向きに据え、モニターで指揮を見ながら太鼓を打つ。和太鼓の持つ音色や迫力を最大限生かすように作られている。自由に打っているように思えながら、緻密に計算されているようにも思えた。林英哲という、和太鼓ソロのプロとしては先駆者であった彼だからこそ、できた演奏に思えた。

 Youtubeで演奏を探したが、出てこなかった。今時、Youtubeで聴けない曲のほうが珍しい。そのことが逆にうれしくなって、久しぶりにCDを購入した。上記の感動は、10代の頃だからこそかもしれないと思って聴いたが、やはり良い曲であった。

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