2022年
10月のつぶやき
10月28日 囲碁とAI
最近、読む本がなくなったので、以前買った囲碁の入門書を読み返している。かつてインドネシアにいたとき、通勤中の酷い渋滞のなか、この不毛な時間を有効に使おうと、取り組んだことのひとつが囲碁であった。スマホのアプリと、入門書で囲碁の基本を学んだが、未だ人と囲碁を打ったことが無い。
私が買った唯一の囲碁入門書「一人で強くなる囲碁入門」(石倉昇著、日本文芸社)が出版されたのは2015年4月1日。この本を読み返しながら、昔入れた囲碁アプリでスマホ相手に対戦しつつ、腕を磨いている。本書のコラムでは「おそらく、あと百年たっても、プロ棋士にかなうコンピュータは出ないだろう」と書かれている。
そのわずか1年後の2016年3月、ディープマインド社が開発した「アルファ碁」が当時のトップ棋士であるイ・セドル氏と5番勝負を行い、4勝1敗で撃破するという、衝撃の結果をもたらす。人工知能による深層学習の脅威を見せつけられた瞬間であった。
私がこれまでに買った囲碁に関する書籍のふたつめが、「アルファ碁VSイ・セドル〜人工知能は碁盤の夢を見るか?」で、これも今読み返している。5番勝負の全ての棋譜が、解説付きで掲載されている。
この5番勝負を期に、将棋や囲碁において、プロ棋士がコンピュータと対戦する企画が行われなくなった。人類は、人工知能には勝てなくなったからである。そして今や、囲碁や将棋の中継においては、AIによる優劣判定が格闘ゲームの体力ゲージのように示され、かつAIが推奨する次の一手が勝率の高い順にテレビ画面に表示される。視聴者は、プロ棋士が「いかにAIが示した手を選べているか」を強さの指標としている。
それが味気ないと思う一方で、やはり囲碁将棋の面白さも認識している。囲碁の解説書は、将棋と比べてふわっとしているのが面白い。この形が良いとか悪いと書かれているが、何故良いのかは書かれず、「なんとなく」良いとか悪いとか言った感じが面白くて、この世界をもっと知りたいと思う。
今の将棋仲間は父だが、囲碁仲間もできたら面白いのに、と思いながら、いつかその日が来た時のために、細々と勉強している。
10月19日 祖父に会う
先週末は、祖父の100歳の誕生日であり、千葉に住む母、妹とともに神戸にある実家に集った。実家には、叔母と祖父が住んでいる。私は、昨年の11月に、出張のついでに寄って以来である。その時は、叔母が100歳までは生きられへんやろなぁ、と話していたのを覚えている。
ほぼ1年ぶりに会う祖父は、1年前と変わらないように思えた。起き上がったり、歩いたりということはできないが、穏やかな心で日々を過ごしているように思えた。いつか、テレビで観たのか覚えていないが、100歳を超えた人には、「老年的超越」といわれる、私たちには想像もできないような幸福感があるという。それは、私利私欲はもちろん、時間や空間の概念も超越した感覚のようで、まさに長生きをした人だけが味わえる、人生で最大の贈り物であろう。
そんな祖父を支えている叔母の印象は、昔から変わらない。子供のころの私が年齢を訊けば、必ず「18歳や」と答えていた叔母は、今でもよくしゃべり、おおらかで、元気であった。祖父を介護する負荷は想像に余りあるが、それを見せようとはしなかった。
次の日、新幹線で帰路についたが、なんと乗り物酔いをしてしまった。乗り物酔いなど、何十年もしていない。久々に聞く母、叔母、妹のマシンガントークに、三半規管がやられてしまったのであろうか。確かに、身の回りにここまで早口で喋りまくる人たちはいないので、免疫がついていないのかもしれない。その後も数日間は、なんとなくふらふらした状態が続き、今日になってようやく元に戻った。
10月7日 時には昔の話を
「ワセダ三畳青春記」(高野秀行著)を読み返している。早稲田大学から徒歩5分の所にある古アパート「野々村荘」で過ごした1989年から2000年までの11年の珍事が、延々と記されている。そこには、プライバシーの概念などなく、著者が所属していた探検部の後輩たちが自由に出入りし、さまざまな事件が繰り広げられるようすが描かれている。
これを読んでいると、学生時代の「イワオカ宅」を思い出す。私は、学生時代「民謡研究会合唱団」というサークルに所属しており、週3回の和太鼓や舞踊やら合唱等の練習をかなり真面目に行った後、ほぼ毎回飲み会があった。団費と飲み会代を確保するために、空き時間はアルバイトをした。それでも金は無いので、飲み会は、ほぼビールのみを飲み続け、つまみ等の飲食物はほとんど出ない。当時はデフレで、ハンバーガーが65円だったので、飲み会前に65円のハンバーガーを食べて小腹を満たしてから飲み会に行った。
2次会、3次会と続くと、当然家に帰る電車がなくなるが、その場合は「イワオカ宅」に行く。イワオカは、ワンルームのアパートを持っているのだが、彼女の家に入りびたりなので、基本的に家にはいない。家のカギはかかっていないが、アパート自体がオートロックの自動ドアがあった。しかし、私たちは自動ドア上部にセンサーをOFFにするスイッチがあることを知っているので、勝手に「イワオカ宅」に入って寝るのである。
「イワオカ宅」は散らかり放題だが、意外と嫌な臭いはしない。「風の谷のナウシカ」の腐海が、長い時間をかけて毒物を浄化していくように、イワオカ宅で放置されたごみはすでに分解され、無害化されているようであった。そんな中で、私たちは、コンビニで買ったカップ麺などを食べて寝て、翌朝また大学に赴くのである。
あるとき、部屋が狭すぎるということで、イワオカ宅のちゃぶ台を勝手に外に放り出し、部屋を広くしたりして、自分たちが過ごしやすいようにリフォームしたりもしていたが、何せ家主が戻ってこないので、なんら問題は無かった。たまにイワオカ宅にイワオカがいると、「なんでお前がいるんだ!」と逆ギレしていた。
今思えば、自由な学生時代を過ごしたものである。それでも、若いころに心行くまで好き勝手をしたことは、今の私の人格形成に確実に影響している。そして、逆説的だが、こういった経験が、むしろ常識的な感覚を身につけることに役立っているような気がしてならない。
10月4日 桃太郎
図書館で借りて、「桃太郎は盗人なのか?」と「桃太郎は嫁探しに行ったのか?」を読んだ。著者で現在中学3年生の倉持よつば氏は、「桃太郎は盗人なのか?」を小学生の時、「桃太郎は嫁探しに行ったのか?」を中学生の時に出版している。先日、NHK「歴史探偵」に出演していて、その存在を知った。
著者が、200冊もの「桃太郎」を読み込み、地域、時代ごとに分類することで見えてくるのは、その当時の価値観や、民衆の願いが、桃太郎の話に反映されている事実であった。遠い異国に旅立ち、戦い、宝物を持ち帰ることや、美しい姫を救い、出会うことが当時のロマンであった。なかには、犬・猿・雉を引き連れ、鬼が島には行かず、ただ嫁探しをするだけの「桃太郎」もあるというから驚きである。「桃太郎」は、時代と共に変化するのが必然である。そう思うならば、鬼と仲直りする「現代版」桃太郎も、時代を反映した姿であり、単に甘っちょろく作り変えられたとはいえない。
それにしても、大した熱意と才能である。以下は、表紙カバーに書かれた椎名誠氏推薦の言葉
これまでほとんどの日本の子どもたちが頭に浮かべた鬼の存在とそれにからむ謎や疑問。でもそれらを解明できないままにほとんどあいまいに通り過ぎてしまったのではなかったか。
「倉持よつばさん」は毅然としてそこから奥につきすすみ、民俗学者を含む多くの大人たちが思いもよらなかった「人と鬼」の巨大な謎の解明に近づいた。
それはもうひとつの「日本史と人間の裏面史」の解明にまで近づいたのです。
10月1日 運動会
今日は、子供たちの運動会であった。サチコが6年生、優一が1年生ということで、子供たちが同時出場する運動会は最初で最後となる。コロナの影響で、運動会は午前中で終わる、短縮ヴァージョンである。6年生以外は、前半・後半に分かれ、出場していない間は教室でリモート応援をしているらしい。6年生以外は、基本的にダンス等の応援をしたのちにかけっこをするという流れになっているようである。
優一は、ミッキーマウスのダンスを可愛らしく踊ったのちに、かけっこをしていた。一年生らしい初々しさがあると思った。
サチコは、リレーに出場していたが、なんと2位でバトンを受け取ったのち、追い越して1位になっている。なかなかの疾走ぶりであった。インドア派で運動神経が悪いと思っていただけに、驚いた。
その後の組体操では、コロナにより接触を避けた「組まない」体操が披露されていた。それでも、よく練習しており上手に演技していた。ここのところのサチコは、急に成長し、できることが増えていると感じる。私たち両親が知らない世界を持ち、自由な心で考え、彼女なりの道を進んでいる。演技を見ながら、そんなことを考えると、少し涙が出た。
家に帰った子供たちは、早速Ipadやらテレビゲームやらに夢中になっている。頑張った後だから、良いであろう。それにしても、午前中で終わる運動会は楽で良い。コロナが収束してもこのままで良いと思った。
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