2023年
7月のつぶやき




7月24日 すずめ

 昨年の秋ごろ、某高級旅館での宴会の余興として、太鼓の演奏依頼があった。夜の時間帯で、宴席でもあることから、優一は不参加とし、サチコと私で出かけた。「千と千尋の神隠し」の油屋のような館内で演奏をした後、ふたりで居酒屋で食事をした。サチコは「すずめの戸締まり」という映画が面白そうだと教えてくれ、主題歌が良いから聴いてみて、というのでスマホで検索して一緒に聴いてみた。いい曲だな、と思った。

 その後、映画を2回観て、サチコが「すずめ」を歌いたいからリコーダーで吹いて、というのでリコーダー5重奏に編曲して多重録音した。私のリコーダーに合わせて歌ってみたが、音程やリズムに敏感なサチコは、私のリコーダーが微妙にズレているところが気になり、うまく歌えないようであった。サチコは私に修正を依頼した。私は、驚いた。確かに、言われてみれば私のリコーダーは、原曲のから外れ、我流になってしまっている。言われたところを録りなおし、修正した。しかし、サチコはそのやりとりに疲れたらしく、「すずめ」はトラウマ曲となってしまい、しばらく聴くこともしなくなってしまった。私が「いつになったら歌ってくれるんだ」とせっついたのも良くなかった。

 最近になって、「すずめを歌う」と言って、何度か私のリコーダーを聴いた後、一発録りで歌った。よく一発でこれだけ歌えるものだと驚いた。その後、絵を2枚描いてくれ、このタイミングで絵が切り替わるに、と私に指示をした。

 その通りに動画を編集してサチコに見せたところ、今度は切り替わるタイミング等を0.1秒単位で修正依頼され、その場で私が直して公開した。サチコにもかなりの思い入れがあるらしい。8か月がかりのサチコとの合作がようやく完成した。

「すずめの戸締まり」主題歌 サチコの歌とリコーダー5重奏
https://www.youtube.com/watch?v=m8J2X0iQHxY



7月22日 もののけ姫

 金曜ロードショーで、「もののけ姫」をやっていたので、録画して観た。この映画の公開は1997年の夏であった。高校三年生であった私は、受験勉強で忙しかったが、一日くらいはいいだろうと、友人たちと新宿の映画館に行った記憶がある。

 改めて観ても、全く色褪せることが無かった。ひとつひとつの動きに魂がこもっているようなこだわり、美しい森の風景、構想に16年、制作に3年かけたという超大作は、未だに私たちにとって新鮮で、かつ根源的なことを伝えている。

 この映画を観て、私の世界は広がった。この映画の解説本などから、ブータンという不思議な国があることを知り、のちの新婚旅行で訪れることとなった。冒頭に出てくるエミシの民の衣装は、同じ照葉樹林文化を持つタイの山岳民族やブータンの人たちの伝統衣装を参考にしているといったことを知り、これらの本を読むことにつながっていく。

 以下、「もののけ姫を読み解く」のインタビューより引用


 人間の本質みたいなものを据えた、自然と人間との関わり合いを描く映画を作りたいと思っています。
 それはメッセージというものでもなく、自分自身に回答が出ていないから、甚だ迷走しながら映画を作ったんです。
 この映画は、「悪い人が森を焼き払うから正しい人がそれを止めた」という映画ではないのです。
 よい人間が森を焼き払う。それをどう受け止めるかなんです。
 ハイチのように、実際にそういう状況があります。自分の横にいる子供を飢えさせないために、森を伐るのですよ。貧乏で石油ストーブもないし、電熱器もないから、炭がいるのです。
 そのために、木を伐って全土が丸坊主になり、さらに漁業もだめになる。何とかしないとハイチは滅びます。軍事独裁政権が悪いとか、民主主義がいいとか言ってもだめなんです。


 これが冒頭で、「映画をつくるにあたって、現代に向けてのメッセージは?」と訊かれ、「全然ないです。メッセージで僕は映画を作りませんから。」と答えていた人の答えである。日本の時代劇をアニメーションにしながら、その視点は世界を見据えている。この視点がすごいと、高校生の私も思ったし、今の私も思っている。


7月17日 「出来ない」を味わう

 少し前の朝日新聞に、趣味とは「出来ない」ことを味わうものだというようなことが書かれていて、妙に納得した。例えば、釣りとは「釣れない」時間を味わうものらしい。確かに、どんどん釣れてしまったら、それは漁であり、趣味ではなく労働になってしまう。

 母と、週末ごとにフルートとギターでオンライン合奏をしている。歩みは遅く、ひとつの曲を何か月、ものによっては年単位で練習している。それでも、こうして続けられることが良いと思う。まさに「出来ない」を味わっていると思う。

 上記の新聞記事は「無趣味で良かった」といった題名であったが、若いころからギターを続けてきた母と合奏をすれば、趣味を続けることの良さを感じる。

↓アヴェ・マリア 母のギターと私のフルート合奏
https://www.youtube.com/watch?v=JHDe373-gXs



7月17日 少年A

 神戸連続児童殺傷事件の犯人による著書「絶歌」と、彼の父母による手記「『少年A』この子を産んで」を続けて読んだ。「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った、14歳の少年による残虐で異常な犯行は、当時高校生だった私もよく覚えている。

 父母による手記で一貫して書かれていることは、突き詰めれば@「息子がこのような罪を犯したのは私たちの責任だ」A「息子が何故このような事件を起こしたのか分からない」の2点であった。この矛盾したことを考え続けることの苦しみを感じる。加害者側による手記を読むのは初めてだが、こうした文章の特徴があるらしく、常に被害者の方々に対する配慮が、文体に現れている。

 一方で、本人による著書「絶歌」のほうは、読んで驚いた。まず、文章が上手い。少年時代の主観的な視点から書かれた第一部と、少年院を出所してからの第二部で、文体は大きく異なるが、いずれも本人の心の底からの告白をしているという迫力がある。

 そして、いずれの本を読んでも、この事件が発生した背景に、家庭環境や親子関係によるものは見当たらなかった。ごく普通の家庭で、事件前からトラブルを発生させるAに対する、父母の対応についても、特に間違っていると感じることはなかった。「こうすれば事件は止められたはずだ」といった答えは、本をどう読み解いても見つからない。

 多様な遺伝子を持って生まれてくる私たちホモ・サピエンスのうち、ごくまれにこういった人が生まれてくるのではないかと、本を読んで思った。天から与えられたような才能、人の気持ちを察することが苦手な性質、暴力的なことにどうしようもなく惹かれてしまう性癖。こういったことを持ち合わせて生まれ、才能を開花させて成就するか、或いは暴力に惹かれて堕ちるか、これを両親や社会がコントロールして導くのは非常に難しいことだと思った。

 「絶歌」のほうは、遺族に無断で出版され、遺族は出版中止や回収を求めているという。近畿地方の図書館では、本書を置かない方針のところもあるらしい。この本の出版に関する意見はさまざまあるが、私はこの本が、少年Aが自身を掘り下げ、醜い部分も含めて本心をさらけ出したという印象がある。苦しい作業であると同時に、「表現者」としてどうしても成し遂げたかったことであるように思える。色々な意見はあるが、私は本書に出会えてよかったと思った。

 「絶歌」の中で、事件を起こした年の夏のニュース番組で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」と十代の男の子が発した問いに対し、番組に呼ばれた作家やコメンテーターが誰一人答えられなかったというくだりがある。以下、Aの問いに対する答えを本文より引用
 大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 哲学的な捻りも何もない、こんな平易な言葉で、その少年を納得させられるとは到底思わない。でも、これが、少年院を出て以来十一年間、重い十字架を引き摺りながらのたうちまわって生き、やっと見付けた唯一の「答え」だった。

7月15日 昭和の夏祭り

 今日は、夕方から太鼓の本番であった。サチコが体調を崩したため、優一とふたりで会場に向かった。

 駅から会長の車に乗せてもらい、10分くらいで会場に着いた。そこは神社であり、御神木となる巨大なクスノキが茂っている。神社には公民館が併設されており、さらには草野球ができる位のグラウンドもあった。活気があり、地元の人たちの憩いの場となっていることが分かる。駅前はニュータウンの様相だが、少し車で移動するだけで、どこか懐かしい、昭和の匂いがする場所に来た感じがした。

 このあたりでは、子どもが主体となる夏祭りのことを「よど」と呼ぶらしい。小さな境内では、「ひょっこりひょうたん島」のメロディが流れ、地元の人たちが盆踊りの練習をしている。「ひょっこりひょうたん島」なんて、何十年ぶりであろうか。私は、子ども時代にタイムスリップしたような錯覚に陥った。

 太鼓の演奏の余興で、飛び入り参加をしてもらい、太鼓を叩く体験をしてもらう時間があった。大抵は、恥ずかしそうに数人が舞台に上がるだけなのだが、ここでは多くの子どもたちが目をキラキラ輝かせ、大勢集まってきた。

 話は飛ぶが、東京から南に300q近く南に位置する八丈島では、和太鼓は伝統芸能ではなく、だれもが叩いて楽しむ庶民の娯楽であった。アドリブ要素の強い「八丈太鼓」は、カラオケの普及とともに廃れたと言われる。人は、より手軽で、中毒性の高い娯楽が見つかると、それまで大切にしていた娯楽は簡単に手放してしまう。こうして、和太鼓の位置づけが、「娯楽」から「伝統芸能」に変わってゆく。

 ここでも、インターネットは普及し、子供たちは任天堂スイッチやアイパッドで遊んでいると思われるが、ここの子どもたちの純朴さの源泉はどこにあるのだろうか。やはり、ここは昭和ではないか。私は胸がいっぱいになった。日本にもまだまだこんなところがあるのだと、しみじみ思った。


7月15日 君たちはどう生きるか

 宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を観にいった。家族全員で行く予定であったが、珍しくサチコが体調を崩してしまい、私と優一だけで観た。

 まず感じたのは、落ち着いてみられるということであった。最近のアニメ映画は、ドタバタが多く、テンポが速く、落ち着きが無いように感じる。子供たちは順応しているようだが、私にはテンポが速すぎると思っていたが、この映画はじっくりと味わうことができた。

 「味わう」という点では、この映画は非常に生々しく、リアリティがある。そして、ここで描かれているのは地球規模の問題ではなく、極めて個人的なことである点で、村上春樹の小説を読んでいるようでもあった。大仰に正義を振りかざすのではなく、その場その場で何を体験し、何を選択するか。極めて個人的な営みが描かれる。私にとっては、何度も観て、じっくりと味わいたいと思わせる作品であった。

 ただ、残念ながら、この作品は大ヒットはしないような気がした。リアリティある描写は、どちらかというと不快ととらえられるし、このテンポは「タイパ」を重視する世代には退屈かもしれない。優一は、映画を観終わった後、ぐったりと疲れていた。


7月10日 忘れじの言の葉

 凄く久しぶりに、サチコの歌と私のリコーダーを合わせて遊んだ。サチコのお気に入りの曲「忘れじの言の葉」を私がリコーダーで吹き、それに合わせてサチコが歌ってくれたのである。絵もアイパッドで描いてくれた。

 初めてサチコが歌ったのは、5歳であった。「もののけ姫」を感情豊かに歌ってくれて以来、声質が変わり、表現の幅が広がっていく。私のリコーダーの腕前は大して変わらないが、子どもはどんどん成長していく。

 最近は、難解な曲も歌いこなし、色々とリクエストされても応えられないときもある。最近は、テンポの速い5拍子の曲をリクエストされた。私は拍が分からなくなって何度も録りなおしたが、サチコは難なく歌えている。

 それにしても、中学生になってもこのようにして父と遊んでくれるのは有難いことである。

↓忘れじの言の葉 娘の歌とリコーダー5重奏
https://www.youtube.com/watch?v=VpMG6LBpinU



7月8日 こころ

 七瀬晶の小説「こころ」シリーズの「不思議な転校生」とその続編「三十一番目の生徒」を読んだ。会社帰りに図書館に寄ったところ、除籍済みの書籍が無料で配布されており、あまり期待せずにもらってきたのであった。読みやすく、内容も面白かったので読むのが遅い私には珍しく、一気に読了した。中高生向けに書かれた本だが、大人でも(少なくとも私は)楽しめた。

 そのタイトルと、書き出しの雰囲気からして、普通の学園ものかと思っていたら、後半からSFの要素が出てきて、意外な展開となっていく。そんな中でも、登場人物の名前でもある「こころ」がキーワードとなり、心とは何か、友情とは何かを描き出していく。

 描かれる世界観は壮大で、小説に描かれていない裏設定もかなり多くあるように思える。特に気になるのは、「不思議な転校生」では、主人公である双葉絆の中学時代を描いているのに対し、続編の「三十一番目の生徒」では、絆が大学を卒業し、新任教師として母校である如月高校に赴任するところから始まることである。

 絆の高校時代のエピソードが飛ばされているのである。にもかかわらず、「三十一番目の生徒」では、絆が高校時代に神隠しにあったことなどが回想される。まるで、1巻と3巻だけを読んで、2巻を読み忘れているような感覚があるが、ネットで調べてみても、確かにこの2冊しかない。

 著者のウェブサイトを見ると、もともとは三部作構成だったとのことである。そして、この続編をネットで無料配信しているとのことで、こちらはスマホで読み始めた。最初のほうを読むと、設定は「三十一番目の生徒」の後だが、生徒が担任である絆のノートを盗み読む形で、絆の高校時代のエピソードが語られるようだ。

 こちらも読み進めていこうと思った。


7月1日 君たちはどう生きるか

 宮崎駿のアニメーション映画の最新作、「君たちはどう生きるか」が7月14日に公開される。驚くべきことに、映画に関する情報は一切ない。あるのは一枚のポスターだけで、予告動画もコマーシャルも皆無である。ネット上にも何の情報も無い。プロデューサーの鈴木敏夫氏は、このことについて「これだけ情報のある時代に、情報がないことがエンターテインメントになる」と語っている。

 だからこそ、久しぶりにわくわくしている。何度も引退宣言をしては撤回してきた同氏だが、年齢的にも本作が本当の最後の作品になるであろう。2017年に引退を撤回してから「1か月に1分間」程度のペースで作ってきたという。今の時代において、映画は何を物語るのであろうか。封切の日に観にいきたい。

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