2023年
12月のつぶやき
12月20日 和太鼓・花火コラボ
10月に二日市小学校の150周年記念イベントがあり、そのフィナーレで私と子供たちが所属する「つくし太鼓愛好会」が花火とのコラボで演奏したことを以前書いたが、その映像がYoutubeで公開されたので、再度記しておきたい。
つくし太鼓の子どもたちが演奏する創作曲に合わせて、事前に花火の点火タイミングをプログラムし、小学校のグラウンドでフィナーレとして演奏し、それに合わせて花火が打ちあがるというものであった。夜の小学校のグラウンドは照明が全て消され、暗闇の中で和太鼓の音だけが響く雰囲気は、原始的な興奮を呼び覚ます。
暗闇の中で鳴る和太鼓の音と、花火のコラボにより、あたりは熱狂の渦に包まれた。歓声というより、絶叫する声が響き、観ている人たちはトランス状態に陥っているように思えた。なかなかこのような演奏をする機会は無い。貴重な時間を過ごせたと思った。
ちなみに、動画の中央右側で大太鼓を叩く、赤い法被がサチコで、隠れて見えづらいがその左後ろにいるのが優一である。
二日市小学校150周年記念フェス つくし太鼓愛好会と花火のコラボレーション
https://www.youtube.com/watch?v=-rLedUd1KTw
12月16日 ファイナルファンタジーW
「ファイナルファンタジーW」のリメイク版が、任天堂SWITCHであったので、ダウンロード購入してプレイし始めた。本作が発売されたのは1991年、重厚なストーリーに夢中になった記憶がある。ドット絵で描かれた、レトロなゲーム画面が好きなサチコも一緒に観始めた。
改めてプレイすると、そのストーリーは思っていた以上に壮絶であった。王の命令で、とある村に「ボムの指輪」を届けることになった主人公は、途中の洞窟に立ちはだかるミストドラゴンを倒し、村に到着する。その瞬間、指輪に仕込まれたプログラムにより、ボムの指輪が暴発し、村は焼きつくされてしまう。そんな中、母を亡くして悲しみに暮れる少女を見つける。実はこの村は、召喚士たちの住む里で、ミストドラゴンは平穏を脅かす者から村を守るために、少女の母が召喚したものであった。ミストドラゴンを倒したことで、主人公は間接的に少女の母を殺したことになる。その後、王国からの追っ手を倒して少女を守り、裏切り者になる覚悟を決めたことで少女は主人公に心を開き、仲間として旅をすることになる。
主人公を初めて操作するオープニングにおいて、王の命令による不本意な略奪や破壊を強いられ、人々から恨まれることをプレイするあたりが秀逸だと思った。召喚士の少女の側からみれば、見知らぬ男が何の理由も示さぬまま母を殺し、村を焼き尽くし、それでもその男についていかなければ生きていけない状況を強いられる。
ドット絵で描かれた可愛らしい画面でありながら、上記のようすは画面上でも表現されているし、ドット絵だからこそ、もっとリアルな映像を想像することもできる。オープニングからは子供向けのゲームだからといって容赦しないという、気迫のようなものが伝わってくる。このゲームで、感動したり、ドキドキしたりした記憶は残っているが、ストーリーは全て忘れてしまった。年末年始に、サチコとプレイして楽しもうと思う。
12月12日 カギをなくす
昨日、会社に着いてロッカーを開けようとしたら、キーケースが無かった。家に置いてきたのだと思い、そのまま仕事を終えて帰宅し、家を探したが、見当たらない。キーケースには、使用する鍵が全て入っており、無いのは困る。
可能性としては、朝、会社に向かって歩いているとき、電話が鳴ったのでカバンから取り出した際、引っ掛かって落ちてしまったのだと思われた。次の日の朝、電話がかかってきたあたりを重点的に探しながら歩いたが、無かった。
警察に電話してみると、クイズを出された。
問題1.落とした時刻・場所
問題2.キーケースの色、タイプ
問題3.入っている鍵の本数
問題4.鍵以外にぶら下がっているもの
問題5.その他に何が入っているか
問題5の答えは、ガソリンが2円引きになるバーコードカードであり、そのバーコードが使えるガソリンスタンドは○○殖産○○町店、と答えたところで、それらしきものが届けられているといわれた。私はクイズに全問正解したらしい。
その日の午後、無事に受け取ることができた。届けてくれた人に感謝である。
妻からは、受け取ったキーケースに不審なものが付いていないか、チェックするようLINEメッセージが届いた。妻によれば、キーケースを拾った人が、合鍵を作成し、ICタグを付けた後に警察に届けて出る。その後、ICタグの位置情報を元に私をストーキングし、自宅に侵入して危害を加えるような事態が想定されるという。私にはあまりイメージできないリスクだが、キーケースには何も異常は無くて、良かった。
12月6日 ゴジラ-1.0
今日は、有休を取って、妻と映画「ゴジラ-1.0」を観に行った。妻とふたりで映画を観るのは久しぶりである。
ゴジラが誕生して、70周年だという。子供のころ、家の小さいテレビで手に汗握りながら観た記憶がある。令和の技術力で描かれたゴジラは、ここまでやるのか、というほどリアルであった。それでも、昔観たゴジラと、印象が異なることはなかった。
純粋に、エンターテインメントとして楽しめるのも良いと思った。ゴジラが戦後の日本を襲う理由は、何一つ語られない。それは、自然災害のようでもあり、ロケット弾による爆撃のようでもある。平和なころには意識することが無いが、世界は理不尽にできている。この映画が描くのは、「なぜ」ではなく、「どうするか」だけである。
そんな怖いゴジラだが、様式美のようなものがある。ゴジラが登場し、あの音楽が流れ、破壊の限りを始めると、「よ、待ってました!」といった感じで楽しめる。子供のころはもっとドキドキしながら観たものだが、大人になれば冷めてしまう。それでも、このように楽しむのも悪くないと、妻と話した。
12月6日 君たちはどう生きるか
映画館で、「君たちはどう生きるか」のガイドブックが売られていたので、買った。本当は、ゴジラではなく、こっちが観たかったのだが、すでにレイトショーしかやっておらず、観られなかった。(私は一度観たが、妻は観ていない)
ガイドブックには、企画書が記されていた。以下、その一部引用。
世界は膨れ上がっている。予測もつかない大破裂がいつ生ずるのか。今、私達が生きるこの社会全体が息をとめてその瞬間を待っているかのようだ。
君たちはどう生きるか
それは、自分がどう生きるかであり、何をもって観客にむかいあうかである。人生の危機にあって、見たくないもの、あばかれたくないものを見すえ、跳躍しなければならない。
この作品には、楽しく心あたたまる肌ざわりを求めない。悪寒、夢魔、血まみれの世界に耐える勇気こそ描かなければならない。いままでの作品よりはるかに遠い場所へ、ようやく、私たちはスタートの地に立つのだ。
この人はすごいと、改めて思った。映画の主人公、眞人のモデルは自分自身だという。宮崎駿は、これまで作ってきた映画において、自分自身をさらけ出すことは無かったという。今回初めて、80歳を超えながら、自分自身と向き合い、7年をかけて長編映画を完成させた。
映画は、観るたびに発見があるような内容であった。DVDが出たら、もう一度観たいと思った。
topへ