2024年
1月のつぶやき




1月31日 子ども囲碁大会

 先週の日曜日、太宰府天満宮で子ども囲碁大会があり、優一と行ってきた。太宰府を歩けば、道沿いに魅力的な店が立ち並ぶ、観光地であった。店を眺めながらゆっくりしたい気持ちを抑え、会場に向かった。

 大会では、保護者は初戦の開始から5分のみ、写真撮影のために子供に近づくことが許され、それ以外は遠くから見守るのみとのことであった。座って本を読んでいてもなんとなく落ち着かず、遠めに優一の試合の成り行きを眺めて過ごした。

 優一は4戦して2勝2敗であった。初戦と4戦目は、明らかに格下の相手で圧勝であった。2戦目は、かなり強い上級生に完敗、3戦目は中学生相手に善戦したものの、僅差で負けた。

 今回の大会で、優一は19級に認定された。本人は、Ipadの「みんなの囲碁」ではコンピューターの13級に勝てるのに、と言っていたが、Ipadの級位と、日本棋院から認定される正式な級とは違う。

 帰り道、電車の中で、優一が同じ囲碁教室のヨシト君と、私のスマホの詰碁を解きながら、ああでもない、こうでもないと言っている。詰碁が解ける、解けないは別として、そもそも詰碁を解こうとできる小学生がどれだけいるだろうか。君たちは凄い子たちだよ、と言ってあげた。


1月20日 焼肉

 私の44歳の誕生日ということで、家族で焼肉を食べに行った。

 家の近くにある焼肉屋だが、何年か前の私の誕生日でいったきりであった。久しぶりに行けば、食べ放題メニューがメインとなっている。食が細い子供たちだから、食べ放題で元が取れるとは思えず、単品で注文していくことにした。

 単品と言っても、9000円くらいする高級焼肉盛り合わせと、おひつでのご飯、キムチを注文したら十分であった。めったに食べることのない高級肉達は、どれも美味しく、子供たちも自分で肉を焼き、大満足であった。焼き網の焦げ付き防止用の牛脂を乗せれば、油が落ちて七輪から炎が立ち上がる。これを、(ハウルの動く城の)「カルシファーだ」といって盛り上がり、夢のような2時間は過ぎていった。

 妻が気にしていたのは、果たしてこの注文で、一番安い食べ放題を注文するよりも出費が抑えられたかどうか、ということであったが、どうやら大丈夫であったらしい。そのうえで、良い肉を食べられ、制限時間もなく楽しむことができた。


1月18日 風の谷のナウシカ

 優一の絵を観に行った際、本屋で以下の2冊を買った。

「危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』」(朝日新聞社編)
「ナウシカ考」(赤坂憲雄著)

 これまで何度も書いたが、一番好きな漫画は何か、と訊かれれば、間違いなく「風の谷のナウシカ」と答える。ジブリのアニメ映画として有名だが、アニメで描かれているのは、漫画の序盤部分を、設定をかなり変更したうえでまとめている。1982年に漫画版が連載され、アニメ映画が公開されたのは1984年、その後も漫画の連載は続き、1994年に完結した。物語の中で、ナウシカはトルメキアと土鬼(ドルク)という、イデオロギーの異なるふたつの大国の戦争に巻き込まれていく。最後は、古の技術が保存されているという、シュワの墓所で世界の秘密をひもとき、これと対決する。

 「風の谷のナウシカ」がすごいと思うのは、アシスタントもなく全ての絵をひとりで丁寧に書き込んだと思われる重厚な絵と、さまざまな事象が重層的に折り重なるストーリーである。一度読んだだけでは、理解できない。何度も読むと、少しずつ分かってくる。最近の漫画の名作では、作者が最初からすべてストーリーを決めていて、序盤のちょっとしたエピソードが、後になって謎が解けるするような、「伏線の回収」といわれる手法が多い気がする。「風の谷のナウシカ」は、そういった技巧的な作り方とは真逆で、ひたすら悩み、その苦悩が物語を少しずつ進めているように感じる。

 「危機の時代に読み解く〜」は、18人の識者にインタビューした内容をまとめたものである。「風の谷のナウシカ」は、新型コロナやAIの出現を予見していたといわれる。様々な角度から「ナウシカ」に切り込んでいくのが面白い。

 「ナウシカ考」は、民俗学者の赤坂憲雄氏が記した解説書である。「危機の時代を〜」と違って、「風の谷のナウシカ」の物語自体の解説に重点を置いている。この物語をひとつの古典ととらえ、それをより深く味わうためのヒントを記している。以下、「風の谷のナウシカ」の特徴をよく言い表した一文を引用
 それにしても、語り手の影が希薄である。物語世界の周縁や外部にあって、そこに生起するできごとに寄り添い、それを記憶し、物語りする役割をになう語り手は、ひっそりと背後に控えている。その語り手をさらに黒子のようにあやつって、思うがままに物語を想像していくのが作者であるならば、ここにはむしろ作者が不在なのかもしれない。宮崎駿という作者自身が、物語世界を外部から予定調和的に抑えこんでいるようには見えない、ということだ。

 宮崎駿は、はじめから結論まで決めて漫画を描き始めたわけではない。恐らく、ストーリーが崩壊する危機に何度も直面したのではないかと推察する。それでも、突き動かされるように時間をかけて完結した物語は、上記の本にもあるよう、すでに「古典」といえる。それは、時代を超えて読み継がれ、新たな解釈が生まれ、物語は更に深みを増していく。

 「ナウシカ考」の帯に宮崎駿のメッセージが記されている。

「この本を読んで、はじめて原作を読みなほしました よくも描いたものだと あきれました」


1月11日 ラッパと娘

 今日のNHK朝ドラにて、戦争が終わりついに「ラッパと娘」が演奏された。「もう我慢でけへん」と言って歌ったその演奏はすごかった。会場は大盛り上がりとなり、演奏後、音楽家の羽鳥善一からは、「最高のステージを見せてもらったよ」と声を掛けられ、帰宅すれば、愛助からも「福来スズ子は最高の歌手や!」と絶賛される。

 「ラッパと娘」を、ただ上手に歌えるだけでは、このようなセリフを書くことはできない。視聴者に対し、圧倒的な演奏だと思わせなければ、これらのセリフが陳腐化する。このドラマの凄いところは、福来スズ子役である趣里の歌唱力を信じ、そこを最大の見せ場にして成功しているところである。視聴者は、戦争が終わって自由に歌うことができるドラマの中の解放感を味わうとともに、「外側の人間」として、ドラマの中で絶賛されるに値する演奏ができる趣里の圧倒的な演奏にも、2重に感動する。

 優一も、「ラッパと娘」を口ずさみながら観ていた。ドラマのオリジナル曲かと思ったら、ドラマのモデルである笠置シズ子が歌っていた曲であった。歌いたくなるメロディである。


1月9日 優一の絵を観に行く

 昨日は、入賞したという優一の絵を観に行った。なんと、市内で数名しか選ばれない特選作品となり、福岡市美術館に展示されているという。普段から図工は嫌いだと言っていたのに、何が起こったのであろうか。

 優一によれば「10メートルくらいのワンコを描いた」という。どんな絵を描いたのか、想像もつかない。

 実物を観て、家族で爆笑した。これは優一の絵だし、確かに10メートルのワンコだ。


10メートルくらいのワンコの絵。


 確かに、伸び伸びと描かれていて、観ていて幸せになれる絵だと思った。優一は、犬が好きである。そして、本人もどこか子犬っぽいところがある。そんな犬への愛を思うままに描いた作品だと思った。

 ほかの作品も見て回った。小学校6年間の成長というのは、凄いものだと思った。1年生と6年生では、その画風はまるで違う。優一もそうだが、小学校低学年の絵は、自分の好きな動物が大きく描かれ、それに乗っかっている作品がやたら多い。「重要」=「大きい」という図式がある。インドネシア最大の仏教遺跡、ポロブドゥールで見た彫刻は、ブッダが巨人の如く大きく描かれている。大切なものを大きく描くのは、自然なことらしい。

 一方で、6年生になると、構図にこだわりがみられ、写実的に描かれたものが多くなってくる。客観的な視点を得た描き方という感じがする。

 そんな風に児童絵画を存分に楽しみ、博多ラーメンを食べ、その後サチコに付き合いジュンク堂とアニメイトで買い物をして、楽しい一日が過ぎた。


1月2日 地震

 昨日、石川県で震度7の地震が発生した。現時点で、大津波警報は津波注意報に変更されたようだが、小〜中規模の地震は断続的に発生しているようである。現時点で被害の全貌は見えない。テレビを観ながら、13年前に福島で被災した時のことを思い出した。

 地震学者は、歯噛みしていることであろう。発生した後であれば、地震がどういったメカニズムかを解説できる。その地域では、以前から小規模な地震が頻発していたことを述べることもできる。しかし、その小規模な地震の頻発が、大地震の予兆なのかどうかが分からない。もしくは、ある程度の予測はしているが、確証が無いので公表にいたっていない可能性もある。

 「なぜ正月に」と思うが、その問いは無意味である。災害は、ある日突然、何の前触れもなく、何の理由もなくやってくる。決して神罰等ではない。災害は、信心深い人にも、善良な人にも、悪人にも、大人にも子供にも分け隔てなく襲い掛かり、ときにその命をうばう。それでも、日頃の備えで、そこから逃れる確率を少しだけ上げられるかもしれない。

 私が寝ている部屋は、本棚があるが、何の対策もしていない。少し大きな地震が来たら、間違いなく倒れ、私の足は挟まれるであろう。以前から危ないな、とは思っていたが、後回しにしていた。正月休み中に、ここの対策はしておこう。


1月2日 逃亡者

 正月休みに一冊は長編を読みたいと思い、中村文則の「逃亡者」を買って読んだ。第二次世界大戦中、旧日本軍を熱狂させ、作戦にまで影響を与えたとされるトランペットを巡る物語で、話はキリスト教徒が迫害された江戸時代から、戦時中、そしてスマホを持つ現代と飛びに飛び、この世界の本質を明らかにしていく。その文体は柔軟で、どこからこの発想が出てきたのか、想像もつかない。

 彼の小説がすごいのは、一見右翼対左翼、などの社会的なテーマに焦点を当てているように見えて、そこから更に深掘りし、なぜ暴力的な対立が起こるのか、それを緩和するにはどうすべきかを、物理法則まで駆使しながら明らかにしようとしていることである。

 それをここで述べる筆力は私にはないし、この本をしっかり理解できたとも言い難い。一点言及すると、作中では「公正世界仮説」という心理学用語が登場し、文庫版あとがきにも言及されている。人々は、正しい行いをすれば良いことが起こり、悪い行いをすれば悪いことが起こると、思い込んでいるとことを指す。世の中には、公正世界仮説に則り、簡単にいえば「正義は勝つ」物語が多い。

 しかし、公正世界仮説に則った話が増えすぎると、「社会の問題が個人の問題に還元」され、「社会や世界を改善しようと思う人間が減る」、と作中で述べられている。「正義は勝つ」一方、「あいつは死んで当然だ」という発想にもつながる、ということである。それが弱者批判につながり、社会の分断を引き起こす遠因となっている。

 文庫本あとがきでは「この小説は(公正世界仮説に)沿ってはいないし、皆さんが知りたくないようなことも書かれているので、反発を覚える方もいるかもしれないです。」と書かれている。確かに、現代の闇が描かれ、残酷な描写が描かれ、読後もすっきり全てが解決するわけでもない。それでも、もう一度読み返したいと思う。

 実は、小説を読み始めてすぐに思い出したのだが、この本は一度図書館で借りて読んでいたようであった。読んだ感触は覚えていたが、内容はほとんど忘れていたので、初めて読んだかのように楽しむことができた。


1月1日 年末年始

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。紅白歌合戦を観て、ゆく年くる年を観て、この「つぶやき」を書いている。年明けまで起きていたのは、久しぶりかもしれない。今年の紅白歌合戦は、サチコが推している「Ado」「YOASOBI」などが最後のほうの出演であり、優一以外は年が明けるまで起きていたのである。

 年末年始の休暇というのは、それほど心躍るものではない。大晦日は、特にやることもなく、私はスマホで「ぷよぷよ」の研究に明け暮れ、サチコはIPadを持って自室に引きこもり、優一はYoutubeを一日中見て過ごしていた。

 色々あったが、平和な一年であったと思う。一方で、それでよいのだろうか、ということも思う。ChatGPTに代表される生成AIは、この一年で飛躍的に浸透し、仕事や文化のあり方を変えつつある。ウクライナとパレスチナの戦争は、当事者だけでなく、世界の国々の思惑がまじりあい、複雑な様相を呈している。これに台湾の問題が加われば、日本も当事者にならざるを得ないであろう。

 一日一日であれば分からないが、年単位でみると、その変化はかつてなく速い。変わっていくこと自体が日常になっている。10年後に、どのようなスキルを持っていれば時代を生き抜くことができるのか、わからない。

 子供たちに、こうあってほしい、こんな風になってほしいと思うことはある。一方で、私の思いを押し付けてはならないということも思う。子育ての目的とは、子供たちがひとりで生きていく力を授けることである。しかし、どのような手段で生きていくかまでは規定できない。衣食住を与え、せいぜい生きるヒントを与えるくらいであろう。

 幸い、家族は健康で、誰もコロナやインフルに罹ることなく過ごせている。気楽に、気長に、思うままに生きていこうと思う。

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