2024年
5月のつぶやき
5月28日 三体
先月の「つぶやき」にも書いたが、中国人作家によるSF小説「三体」にハマっている。「三体三部作」といわれる、「三体」「三体U 暗黒森林」「三体V 死神永生」を読み終え、続いて「三体」の熱狂的なファンによる二次創作が書籍化された、「三体X 観想之宙」、更には『三体』連載開始の前年に出た前日譚である「三体0 球状閃電 」を読んでいる。
「三体三部作」は、簡単にいえば、攻めてくる宇宙人から地球を守る話だが、その内容はとてつもなく面白い。基礎科学の考え方が頻繁に出てくるのが私好みである。そして、U、Vと進んでも、その面白さは衰えることを知らない。むしろ、小説のスケールは指数関数的に広がっていき、途方もない結末を迎える。
「三体X 観想之宙」は、「三体三部作」を読み終えたファンが、「三体ロス」に陥ったあまり、ネットに投稿したスピンオフ作品が話題となり、原作者の同意を得て同じ出版社から刊行された作品である。
そして、今読んでいる「三体0 球状閃電 」がまた面白い。これは、宇宙人との戦いではなく、「球電」と呼ばれる現実世界でも観測されている不思議な現象をめぐる物語である。現実に存在するとされる現象をモチーフにすることで、SFと現実の境界が曖昧になっているあたり、臨場感を持って読むことができる。
そして、「三体0 球状閃電 」も残りページ数は半分を切ってしまった。これを読み終えたら、次は何を読めばいいのかと、私も「三体ロス」に陥りそうである。
5月20日 夢ノート
私は、ずいぶん前から、枕元に小さなノートとボールペンを置いている。面白い夢を見たら、覚えているうちに書き留めるためである。不思議なことに、夢を忘れるのは早い。面白い夢を忘れるのは勿体ないと思い、夢ノートを付け始めた。とはいっても、書き留めたいくらい面白い夢を見るのは、数か月に1度くらいである。そして、ノートに書いても、読み返すこともあまり無い。
そんな私の夢ノートを、サチコが面白がって読み始めた。寝起きの私のミミズのような文字を、ちゃんと解読して読んでいる。そんな中で、家族が腹をかかえて笑うほど面白い夢があった。
2023/11/20 ミドリムシラーメン
家族で自転車で走っていると、ミドリムシラーメンの店が見つかる。オシャレな外観で、30分毎に開店・閉店を繰り返す。注文すると、ガストのロボの様なのが来た。(そのロボットが)デモンストレーションで窓から飛び出て泳いだから驚いた。麺は緑色でスープは塩味。鶏そぼろ飯もあって、幸子も満足できそうだ。
あえて書き写してみたが、大して面白くない。しかし、私や家族にとっては、ミドリムシが食品になるという、どこかで聞いたニュース、この年の夏に東京に行き、ガストで見た配膳ロボットの驚き、太鼓の本番の後に入ったレストランで、鶏そぼろ釜飯を美味しそうに食べるサチコ、そういった経験がごちゃまぜになってこのような夢を創り出したのが面白いのである。
5月13日 春風をたどって 続編
優一が、国語の教科書の「春風をたどって」という作品を読んで、その続きを創作するという課題に取り組んだ文章が秀逸であった。「春風をたどって」は、旅に出たいと思うリスのルウが、友達のノノンとともに出かけ、美しい花畑に行きつくというストーリーで、小作品ながら美しい絵と、文章でつづられた名作だと思う。
優一の創作はその世界観を大事にしつつ、笑いあり、手に汗握る展開有り、大冒険ありの大作となった。せっかくなので、「名文、作文」に記録しておく。
5月12日 祖父のこと
祖父のことが、大好きであった。小さいころ、神戸の長田にある、母の実家に連れて行ってもらえるのが楽しみだった。そこは、常に明るく、楽しいことがたくさんあった。以下、祖父のことを書くが、私の記憶に頼っており、事実と異なる可能性があることを断っておく。
祖父は、将棋が強く、全然勝てなかった。その戦法は独特で、しかも毎回戦い方が変わるので、あれよあれよと負けた。わざと負けてくれるときは、子供心に分かるくらい、わざとらしかった。祖父は、折り紙が得意で、色々なものを折ってくれた。お年玉袋は、鶴の形が入った折り紙で出来ており、正方形の紙でできていることが不思議であった。新聞紙でスリッパの折り方を教わってからは、しばらく新聞紙のスリッパを履いて過ごした。ものづくりが得意で、竹馬を作ってもらって、近くの公園で遊んだり、竹トンボを作ってもらって飛ばしたりした。
祖父には、色々な食べ物も教わった。十分に焼いて、油が抜けてカリカリになった牛脂を食べさせてもらうのが楽しみであった。祖父が、毎朝生卵にしょうゆをかけて飲んでいるので、私も真似をして毎朝飲んでいた時期があった。オバケ(クジラ)とか、不思議な食べ物もあったが、母の実家で食べているのは祖父だけで、祖母や叔母は気持ち悪がって手をつけなかった。
私達孫の前では、常に穏やかで優しい印象であったが、強くて一本芯の通った印象もあった。戦争中、家の中に焼夷弾が入ってきたので、急いで外に投げ捨てたという。兵役にも出たが、人はひとりも殺さなかったという。阪神淡路大震災に被災した際、祖父は早朝の日課で散歩に出かけていた。地震を感じてすぐに自宅に戻り、倒壊した家から家族を助け出した。
祖父は、家族を守る英雄であった。ふり返ると、一家の長としてこうあるべき、という祖父の姿が、今の私の生き方に影響していることを感じる。祖父の強さ、優しさを会得できているということではなく、こうありたい、こうあるべき、という目標になっている。祖父が亡くなって、改めてそういうことを感じた。
享年101歳。冥福をお祈りします。
5月6日 縄文杉ツアー
今年のGWは、屋久島に縄文杉を見に行った。きっかけは、サチコが今年に入り、繰り返し「縄文杉に会いたい」と言い出したことに始まる。2月ごろから旅行の計画を立て始めたものの、往復22qもの山道を歩くことから、家族全員で行くことに対しても議論があった。結局、全員で行くことになり、何度か家族で山歩きをして、体力をつけて本番に備えていた。サチコは、ツアーの詳細を事前に調べ、持ち物やツアー最中のトイレの場所、見所などを頭に叩き込んでいた。
日程としては、4日の夕方に飛行機で屋久島に行き、5日の早朝から夕方までかけて縄文杉までの道のりを往復、6日はレンタカーを借りて特に予定を決めずに行動し、夕方の便で帰るという、ほぼ縄文杉ツアーのみに特化した旅程であった。ツアーは、Kichikin Trek に貸し切りガイドを依頼した。
縄文杉ツアーは、約10時間にわたる山歩きを伴うが、私にとっては最高の10時間であった。「1か月に35日雨が降る」といわれるほどの雨の多い屋久島において、雨に降られることは無く、気温もちょうどよい。屋久島の山中でみる風景の一瞬一瞬が、他に類をみないものであり、山歩きの疲れからつい淡々と歩いてしまう自分を御して、その貴重な時間を意識して味わうことに集中した。
写真もたくさん撮ったが、今味わっている素晴らしさを写真で切り取って残すことが全くできなかった。しかし、だからこそわざわざ屋久島に来て、実際に歩いて、感じて、体験する価値がある。旅をすることの意義を改めて感じることができる時間でもあった。それでも、せっかく撮った写真をここに乗せ、記録しておきたいと思う。

全長のうち8割は、このようなトロッコ道を歩く。
かつて伐採した材木の運搬に使われたトロッコは、現在も現役で動いており、
トイレや登山道の整備に活躍しているらしい。

このように柵の無い橋もありなかなかスリリング。

食虫植物のモウセンゴケ。養分の少ない岩場で育つ。
触手の粘着で虫をからめとって食べるらしい。

コケに覆われた森の光景が神秘的

小杉谷集落跡地。50年前までここには村があった。
写真の場所は小中学校があった。
島の圧倒的な自然の中では、人々の暮らしの痕跡は
ほぼ完全に消し去られる。

仁王杉。滅茶苦茶でかいのだが、写真ではその大きさが全然分からない。

8.5kmのトロッコ道を終えると、2.5qの登山道に入る。
ガイドさんに山歩きのコツを教わりながら歩く。
周囲の杉の木も滅茶苦茶大きいのだが、だんだん見慣れてしまう。

ウィルソン株。特定の位置から写真を撮るとハート形に見えることで有名
よくあるベタな写真を撮ってもらう。
後ろにちゃんと神様もいるところが日本らしいと思った。

特に名前の無い杉でもすごい迫力。素通りするのが勿体無い

縄文杉の直前で昼食。登山道は思ったよりも整備されている

そして縄文杉。
たくさん撮った写真の中で一番よく撮れている一枚だが、
実際に見たときの迫力は記録されない

ガイドさんに撮ってもらった写真。
このように周囲はよく整備されている。
かつては近くまで行って触れたらしいが、
保存のために今は近寄ることができない
縄文杉の樹齢は、少なくとも2170歳以上だということがすでに分かっている。推定はいくつかの説があるものの、最高で7200歳である可能性があるという。私達日本人が、土器を捏ね、どんぐりを拾って暮らしていたころ、小さな芽が芽吹き、今にいたる。縄文杉の尊さは、その命が永遠ではないことである。現に、道中にある翁杉(樹齢2000年)は、2010年にその寿命を終え、倒れて粉々に砕け散ったという。縄文杉も、いつかその寿命を終え、その後に新たな芽が着床し、いのちをつないでいくはずである。縄文杉の感動は、その大きさだけでなく、いのちのリレーのなかの一瞬の姿であり、永遠に残るものではないことにあるような気がした。
まさにサチコのいう「縄文杉に会う」という表現がふさわしいと思った。
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