2024年
9月のつぶやき
9月23日 囲碁とQRコード
今日、優一と囲碁を打っていると、碁盤と碁石で何か絵が描けないか、という話になった。優一が「QRコードが作れるんじゃないか」と言ったので、それは面白そうだと思い、スマホでQR生成サイトを見つけ、「Yuichi」のQRコードを生成した。
早速、スマホに表示されたQRコードを見ながら、その通りに碁石を置いていった。優一は、こういった作業は得意らしく、どんどん石を並べていく。QRコードは21x21マスなので、19路盤の碁盤からすると2マス足りない。仕方なく、足りない分は碁盤からはみ出して畳の上に並べた。
完成した碁石QRコードを読み取ってみると、私の格安スマホでは認識しなかったものの、Ipadではきちんと「Yuichi」と表示された。これは面白い。アナログとデジタルの融合である。次は、私のホームページのURLを碁石のQRコードにしてみようと思った。
9月22日 サチコとIPad
昨日、サチコのIpadが届いた。これまで我が家には、妻のIpadがあり、それでサチコは絵を描いたりゲームをしたりしており、私は朝日新聞を読んだりしていた。サチコのハマっている「原神」というゲームは、CPUの負荷が大きく、動きがカクカクしたり、途中で落ちたりしていたらしい。
サチコは、思う存分「原神」をプレイするためにお小遣いを節約し、家事の手伝いをしてコツコツとお金を貯め、自分のIpadを中古で購入したのであった。
一方妻のIpadは、バッテリーが膨張し始め、フレームにもヒビが入り、新聞を読んでいても電源が落ちたりするようになった。サチコのIpadに、朝日新聞をインストールしてもいいか訊いたが、拒否されてしまった。
別途、家族用として、比較的安いAndroidのタブレットを購入することにした。
9月21日 シェラカップとドリッパー
先月、キャンプにてダイソーのシェラカップを使って以来、その魅力にハマっている。家でも普段使いしており、コーヒーを淹れるときも、ビールを飲むときも、おやつラーメンを食べるときも、ダイソーのシェラカップばかり使っている。なんとなく、シェラカップで飲食すれば、美味しい感じがする。
しかし、ひとつ問題があった。コーヒーを淹れる際、シェラカップは口径が大き過ぎて、ドリッパーが置けないのである。個包装のドリップバッグも、引っ掛けることができない。何とかならないものかと思い、まずは針金でドリッパーを置くための台を作成した。問題なく使えるものの、素人仕事だけあってグラグラするし、針金の部品を別途用意するのもイマイチである。ネットで調べれば、シェラカップ用のドリッパーは見つかるものの、高い。
会社の帰りに、100円ショップでワイヤー式の折りたたみドリッパーを購入してみた。使ってみると、ギリギリ置けるものの、少しでもずれると脱落してしまう。これを何とかして改造できないかと、今日はそのことばかり考えて過ごしていた。
そしてふと思いついた。このように、3本足のうちひとつを無くすことで、残りの2本を延長し、シェラカップの上に安定して置くことができないか。私は、ラジオペンチとプライヤーを取り出して、ダイソーのワイヤードリッパーをひん曲げて改造を始めた。どこをどのくらい曲げたり伸ばしたりするということを、慎重に考えながら作業した結果、ついにシェラカップに安定して置けるドリッパーが完成した。
私は、嬉しくなった。実際に便利になったかどうかよりも、こういった課題解決に熱中すること自体が楽しい。これでしばらくは落ち着いてコーヒーを淹れることができそうだが、もう少ししたらまた何かしたくなってウズウズしそうである。
9月20日 無題
私は今、幸せである。金銭的に困っているということは無く、一緒に居て楽しい家族がいる。そんな中、現在の私の立場は、私が努力をして手に入れたものであるから、それを享受できてあたりまえだという思い上がりを、今一度戒めなければならない。
私がこのように過ごしていることは、ただただ運がよかったからに過ぎない。たまたま治安の良い国の、良い両親のもとに生まれ、大学まで行かせてもらえる環境にあり、たまたま良い妻と出会い、たまたま今の職に就くことができた。努力することを厭わない性格に生まれたことすらも、運のひとつだと思う。そんな私は、仕事を通じて社会に貢献しなければならない。少なくとも、納税することは社会への還元のひとつだが、仕事そのものを通じても、何らかの貢献をしていきたい。
今一度、「これからの『正義』の話をしよう」(マイケル・サンデル著)の第6章、ジョン・ロールズの格差原理のくだりを引用しておく。
格差原理とは、要するに個人に分配された天賦の才を公共の資産とみなし、この分配がどんなものであれ、それが生みだす利益を分かち合おうという同意を表すものだ。天賦の才に恵まれたものは誰であれ、そのような才を持たない者の状況を改善するという条件のもとでのみ、その幸運から利益を得ることができる。天賦の才に恵まれた者は、才能があるという理由だけで利益を得てはならず、訓練や教育にかかったコストをまかない、自分よりも恵まれない人びとを助けるために才能を使うかぎりにおいて、みずからの才能から利益を得ることができる。自分が才能に恵まれ、社会で有利なスタートを切ることのできる場所に生まれたのは、自分にその価値があるからだと言える人はいない。だからといって、こうした違いをなくすべきだというわけではない。(以上引用)
9月16日 自由キャンプ
3連休は、子供たちとキャンプに行った。サチコが、「山歩きをした後に、テント泊をしたい」と言っており、若杉楽園キャンプ場に行き、若杉山、米ノ山を歩く計画を立てた。若杉楽園キャンプ場は、管理棟は無く、駐車料金のみの無料キャンプ場である。炭や薪の販売は無く、灰も含めゴミは全て持ち帰りだが、いつ来ても、いつ帰っても良いという気楽さがある。ざっくりした計画だけを立て、したいことだけをするキャンプとなった。
朝8時過ぎに家を出て、キャンプ場に着いたのは10時ごろであった。テントを設営した後、しばらくごろごろしてから山歩きに出かけた。しばらくして、サチコがお腹が痛いということで、山頂を目指すのは諦め、「大和の森」を歩くことにした。この森は、杉の巨木が多く、「綾杉」「七又杉」「大和の大杉」など、屋久島を思わせる風景に出会える。森の中で昼食を食べれば、サチコは元気になった。

大和の大杉。幹回り16mの巨大杉
キャンプ場に戻ってからも、子供たちはテントの中でごろごろしていた。かなりの暑さであったが、満足そうにサチコは絵を描き、優一はオセロやチェスの研究をしている。テントの中はどんどんカオス状態になっていき、どこに何があるのか分からなくなってきた。サチコと優一が「お母さんがいないキャンプは自由だ〜」と言った。妻がいると、キャンプにおける規律は保たれ、どこに何があるかも明確である。妻がいないと、テント内は乱れに乱れ、私もチャッカマンを探すのに一苦労し、その直後にヘッドライトを探すのに一苦労するといった具合で、何をするにも探し物をすることになった。それでも、好きなことを好きなだけしているのだから、仕方がない。夕食を食べて、テント内のモノたちを脇にずらして寝袋を敷き、福岡市内の夜景を見てから、寝た。
朝も、適当なタイミングで起き、朝食を食べたいときに食べ、その後はテント内でごろごろしていた。かなりの暑さのなか、子供たちは平気な顔をしてごろごろしている。熱中症になるからと、たまには外に出すようにしていた。チェックアウトの時間が決まっていないのが、良い。好きなだけごろごろして、好きな時間に帰ればよい気楽さは、有料のキャンプ場では味わえない。
それでも、かなりの暑さに私の方がまいり、昼前には片づけをして帰路についた。もう少し涼しくなったら、今度はちゃんと山登りをしつつ、更に自堕落なキャンプをしてみたいと思った。

のんびり楽しみました
9月14日 服を汚す優一
妻が、洗濯物を干しながら仰天していた。優一の体操服が真っ黒に汚れていたのである。妻は、運動会が近いのにと怒りながら、風呂場で汚れを落としていた。優一によると、習字の授業があり、先生が「服が汚れそうな人は体操服に着替えていいよ」と言われて、体操服に着替えて習字をしたらしい。優一は、「汚れても良い服装」を汚して叱られ、「無理ゲーだ〜」と騒いでいた。世の中に理不尽なことはいくらでもあるので、このくらいは大したことではない。
優一が食事をすれば、大抵シャツに何らかの染みが付く。ワニが上を向いている柄のシャツを着ながらカレーを食べれば、ワニもカレーを食べることになるし、カブトムシ柄のシャツを着てスイカを食べれば、カブトムシもスイカにありつくことになる。優一が食べた後は、床に米粒やらパンくずやらが転がっている。
私の息子だなぁと思う。私がパンを食べれば、パンくずが机に散らばる。他の人が、なぜパンくずを机にこぼさずにパンを食べられるのかが、不思議でならなかった。今では気にならなくなったのは、パンくずをこぼさずに食べられるようになったからなのか、そもそもそんなことを気にしなくなったからなのかは、分からない。
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