2025年
9月のつぶやき




9月30日 マイクラ

 最近、優一に教わりながら「マインクラフト」(マイクラ)を始めた。マインクラフトは、スウェーデン人のゲームプログラマーが個人的に開発したゲームでありながら、世界で一番売れたゲームに君臨している。マインクラフトはその後、マイクロソフトに売却され今にいたる。ちなみに、世界で3番目に売れたゲームが「テトリス」らしい。

 マインクラフトの魅力は、その自由度の高さにある。自由な世界で冒険する、建築物を作る、回路やコマンドを使ってプラグラミングをしたり音楽を奏でたりもできるらしい。最近では、教育的効果もあるとされ、「マイクラ教室」みたいなのもできている。優一は、ヴァージョンアップデートのたびに、どんな新しい機能が実装されるのか、わくわくしているらしい。

 優一に教わりながら、基本的な動作を教わった。ブロックを積み上げたり、家を作ったり、ゆっくりだができるようになった。殴ったりもできるみたいなので、優一と殴り合いもした。こちらも下に書いた「ふみふみ」と並行して、少しずつ優一と遊ぼうと思う。


9月25日 嗅覚

 朝日新聞デジタルにおいて、コロナ感染したことで嗅覚を失った記者が、リハビリをする記事が載っていた。記事によると、そのリハビリは、ドイツ・ドレスデン工科大学の医師が提唱したもので、レモン、バラ、ユーカリ、プローブのアロマオイルを1日2回嗅ぐというものらしい。「こんなにおいがするはず」と想像してから嗅ぐのがポイントらしい。これを続けることで、においを発する空気中の分子を最初にキャッチする「嗅覚ニューロン」の生成量が増えるという。

 この記事を読んで、嗅覚は鍛えるものだということを認識した。嗅覚だけでなく、味覚もそうかもしれない。たとえコロナ感染症等による味覚や嗅覚の障害が無くても、においや味に無関心であれば、その感覚は鈍くなっていくだろう。そういえば、かつてはご飯をよく噛んでいたら、唾液中のアミラーゼにより分解された甘みを感じることができた。最近はそういったご飯の甘みを感じていない気がする。テレビや新聞を見ながら、無関心に食物を口に運ぶ習慣を改めようと思った。

 それから、食事のたびに、食べ物のにおいを嗅ぎ、口に入れた後もその味をじっくりと味わい、よく噛んで食べることを心がけている。


9月21日 火垂るの墓

 今日の「朝日新聞デジタル」で、火垂るの墓をめぐる自己責任論についての記事があった。曰く、清太と節子の最期について、「自ら家を出たのだから自業自得」「働かないなら冷遇されても当たり前」などと、清太を責める論調が広がっているという。

 当然、作品の受け止め方は人それぞれで、多様な解釈があって良い。しかし、私は上記の意見には賛同しない。それは、私が同じ立場に置かれた場合に、清太と同じ選択をするかどうかといった次元ではない。この映画は、兄妹が最も大切にしたことは何か、そこからどのような帰結があったのかを、淡々と描いている。正しいとか、間違っているとかを議論すること自体に違和感を感じるのである。

 宮崎駿の著書「出発点」には、宮崎駿が新しい眼鏡を注文した帰り「砂漠の修道院」という本を読んでいて、突然「火垂るの墓」について分かったことがあると書いている。映画を論ずるとは、こういうことなのだと、改めて思い知らされた。以下、その部分の引用。


 突然、わかったような気がする。コプト教の修道士についてではない。四月以来心にひっかかっているアニメーション「火垂るの墓」についてである。
 空襲で家と母を失い、飢えと栄養失調で死んだ四歳と十四歳の兄妹の二人の幽霊が、なぜ母の幽霊と出会わないのか。母と二人は別々な世界に行ったのか。生に執着し、恨みを残して死んだのなら、二人の幽霊は死ぬ寸前の飢餓の姿であるはずなのに、なぜ肉体的に何も損ぜられていない姿をしているのか。
 コプト教の修道士たちが、この世との絆を断ってナイルを西へ渡ったように、あの二人は生きながら異界へ行ったのだ。二人が移り住む防空壕は、砂漠の巣窟がそうであるように、二人が生きたまま選んだ墓穴なのだ。兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意思は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ。
 二人の最大の悲劇は、生命を失ったところにはない。コプト教の修道士のように、魂の帰るべき天上を持たないところにある。あるいは、母親のように灰となって土に化していくこともできないところにある。しかし、二人は幸福な道行きの瞬間の姿のまま、あそこにいる。兄にとって、妹はマリアなのだろうか。二人の絆だけで完結した世界に、もはや死の苦しみもなく、微笑みあい、漂っている。
 「火垂るの墓」は反戦映画ではない。生命の尊さを訴えた映画でもない。帰るべき所のない死を描いた、恐ろしい映画なのだと思う。

9月17日 プロジェクトX

 先週の「プロジェクトX」は、素晴らしかった。100年に一度といわれる渋谷駅の大工事で、「迷宮」と言われ老朽化が進む渋谷駅を改築する内容であった。4社9路線が集結する複雑な駅を、利用者の日常を乱すことなく生まれ変わらせる工事は、賞賛に値する。

 工事は、終電が終わった後に始められ、始発が始まる前に終わる。渋谷駅を利用する生活者は、毎晩自分たちが使用する通路が剥がされ、その下が工事され、翌朝までに復帰されていることを知らない。とてつもない難工事でありながら、駅の利用者に、工事が行われていることを意識させないことが、この人たちの誇りであった。番組が放送されなかったら、この人たちに光が当たることはなかったであろう。

 私の好きなアニメ映画「すずめの戸締まり」で、人知れず災いをもたらす扉を閉じることを生業としている宗像草太は、「大事な仕事なのに」と言うすずめに対し「大事な仕事は、人からは見えないほうがいいんだ」と言った。

 人から見えない大事な仕事は、世の中にあふれている。


9月17日 けん玉

 最近、優一がけん玉の剣に入れられるようになった。確率は低いのだが、愚かなことに、わざわざ私に「入ると思う?」と訊いてからチャレンジをする。私は、「入らない」と答えると、たいていは入らない。プレッシャーに心が負けているのである。まだまだ修行が足りない。

 我が家で最近流行っているのが、周囲のかく乱に対し、いかに心を惑わされずにけん玉だけに集中し、剣に入れられるかの対決である。私がけん玉に集中しているとき、妻と優一が必死になって周囲でギャーギャー騒ぎ、私の集中力を乱そうとする。それに対し、私は心を落ち着かせ、けん玉だけに集中し、チャレンジする。

 私が失敗すれば、妻と優一は大喜びで、成功すると、がっかりするのである。


9月17日 ふみふみ

 休みの日、優一が私に「ふみふみでもするかー?」と訊いてくるとき、それは「一緒にスーパーマリオをプレイしよう」という意味である。最近のスーパーマリオは、複数で一緒にプレイすることができ、本来であれば協力しながらゴールを目指すのだが、私と優一がプレイすると、お互いを踏みつけたり、亀をぶつけたり、掴んで崖から投げ落としたりと、不毛な争いが延々と続く。お互いを踏んづけ合うことから、私たちはこれを「ふみふみ」と呼んでいる。

 最近、優一が、スーパーマリオのコースを作れるソフト「スーマーマリオメーカー2」で、「ふみふみ」という名称のコースを作った。私と優一が、思う存分「ふみふみ」をするための専用コースで、崖があり、ノコノコが降ってきて、まさに「ふみふみ」にうってつけのコースである。週末ごとに、飽きることなく、私と優一はここで不毛な争いを繰り広げてはゲラゲラ笑っている。


9月7日 ころしのカレー

 今日は、「つくし太鼓愛好会」の本番演奏があり、優一と二日市まで出かけた。演奏を終え、何か食べて帰ろうと、グーグルマップで探していると、「ころしのカレー」という物騒な名前の店が出てきた。優一は、名前が怖いから行きたくないというが、口コミの評判も良いので行ってみた。

 私は、「ジェロニモ」という、牛筋煮込みをトッピングしたカレーを注文した。優一は、納豆とパイナップルをトッピングした。優一の食に対するチャレンジ精神にはいつも脱帽する。未知の味に対する探究心は、素晴らしい。

 カレーは、絶品であった。店名は物騒だが、中に入れば親切な店員さんがいて、落ち着いて食事をすることができた。

 店内には、手作りのゲームが並んでいる。ピンポン玉をはじいて、ゴールに入れるような内容のもので、食後に優一と遊んでから帰宅した。


9月6日 鬼滅の刃

 今日は、家族で「鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来」を観に行った。子供たちは、友人同士で夏休み中に観ているのだが、もう一度観ても良いということで、父母に付き合ってくれた形となる。

 鬼滅の刃が人気なのは、その優れたアニメーションもさることながら、舞台が大正時代でありながら、現代を映し出していることにあると思う。映画で描かれる無限城は、極めて精緻であり、鬼による創造物というよりは、現代の新宿やニューヨークなどの大都会を思わせる。どれほどの労力を投入したのか、想像もつかない無限城の描写は、「この映画は現代をえがいているのだ」という、制作者の宣言であろう。

 鬼滅の刃で描かれる世界は、基本的に暗い。世界は生きづらく、不平等で、あるとき理由もなく理不尽に大事なものが奪われるのが、当然の世界である。そんな世界で、原作者がよりどころにしているのが、ジョン・ロールズの格差原理である。2021年11月20日のつぶやきに書いたことが、本作でも繰り返される。

 弱者が淘汰されるのが自然の摂理だと主張する猗窩座に対し、主人公、竈門炭治郎は「お前の言ってることは全部間違っている」と反論する。「お前がそこにいることがその証明だ」「赤ん坊の時のお前は、誰かに守られ助けられ、今生きている」という。続く言葉が印象深い。

「強い者は弱い者を助け守る。そして弱い者は、強くなり、また自分より弱い者を助け守る。それが自然の摂理だ」

 これは、剣術やケンカの腕前ではなく、富の再分配のことを言っている。身もふたもない言い方をすれば、富める者はしっかり税金を納めなさいと言っているのである。私の映画の観方が合っているのか分からないが、そういったことで納得して初めて、感情移入ができるのである。

 映画自体は、かなり目まぐるしかった。戦闘シーンでは、動きが速すぎて終えず、音量も大きすぎてうるさい。サチコは、音と光の刺激が強すぎ、途中退席した。私でもうるさいと感じたのだから、敏感なサチコはなおさらであろう。それでも、一度友人と観ているので、夕食の時に家族で感想を言いあったりすることができ、大事な時間であった。

 次は、これまた家族全員が気になっている「8番出口」を観に行きたいと思っている。


9月3日 有給休暇

 今日は、有給休暇であった。会社の決まりで、半期のうち3日間以上、有給休暇を取らなければならならないのである。特に用も無いため、フルートの練習をし、ぷよぷよの研究をし、囲碁のNHK杯を観ながら棋譜を並べて過ごした。

 フルートは、練習しても指がなかなか回らない。指が回っても、息が上手く入らず、思うように音が出ない。ぷよぷよは更に酷く、プロの並べ方を練習する「ぷよ譜並べ」をして研究しても、実践では思うようにプレイできず、オンライン対戦ではボコボコにされた。

 年を取れば、こういった上達が望めないことは分かっている。趣味というものは、「出来ない」ことを味わうのだと、何かの本に書いてあった。確かに、すぐに出来てしまったら、私はフルートもぷよぷよもしていないかも知れない。なかなか上手くできないから続けているのである。


9月2日 謎解き

 我が家で購読している朝日小学生新聞では、夏休みの企画として、毎日の記事中に現れるキーワードを集め、そのキーワードを元に謎解きをするというのがあった。謎解きの好きな優一は、毎日新聞を読み、その中のキーワードを書き出していた。

 夏休みが終わったので、集めたキーワードを元に、現れたクロスワードを解くと、「最後の問題」に行けるヒントが現れた。記事にあるQRコードをスマホで読み込み、クロスワードの答えを入力すると、「最後の問題」が現れた。

 ここからが難しく、「最後の問題」の解き方が全く分からない。色々逡巡したあげく、優一が、スマホに表示されている「最後の問題」のURLの末尾が「3」であったのに着目し、これを「4」にしてはどうか、という。

 まさかそんなはずは無いと思いながら、URLを打ち換えてみると、なんと新たなヒントが現れ、「最後の問題」を解くことができた。

 後で、他の正攻法の解き方が存在することが判明したのだが、重要なのは答えにたどり着くことである。ずるくても良い。優一の答えにたどり着くための執念を垣間見た瞬間であった。


9月1日 呪いのブランコ

 私が住んでいるアパートの前は公園なのだが、仕事を終えて帰宅すると、夕方から夜にもかかわらず、ブランコを漕いでいる人が結構いる。それも、全力で漕いでおり、薄暗い公園の風景としては異様である。

 今日、帰宅するとき、全力でブランコを漕いでいる人がいた。すぐ隣では、制服姿の中学生が、ブランコに座っておしゃべりをしている。この後、フルートのレッスンに行くため、風呂に入り、着替えてから再び外出すると、やはりその人はブランコを全力で漕いでいた。制服姿の中学生も帰宅時と同じ体勢でおしゃべりをしている。30分くらい、ブランコを漕ぎ続けていることになる。

 このブランコには、延々と漕いでいたくなる呪いのようなものがあるのだろうか。不思議に思った。

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