2026年
2月のつぶやき
2月28日 出張へ
関東方面に出張に行った帰り、神奈川に住む母と妹家族に会いに行き、一泊させてもらった。
着いてすぐに、優一から「スマブラできる?」とLINEメッセージが入った。神奈川と福岡で、オンライン対戦ができるか、試してみようと言っていたのである。母の家のWIFIをつなげて対戦してみると、遅延も無く対戦することができた。姪のサクミにもやらせてあげた。優一は、手加減して負けてあげるなど、お兄さんらしさを見せていた。
夕食は、母が作ったコロッケをいただいた。子供だった頃に食べた、懐かしい味がした。驚いたのは、サクミの手際の良さである。料理が大好きなサクミは、小学校1年生でありながら、包丁もガスコンロも使いこなすことができ、出汁を取って味噌汁を作り、米を炊いてくれた。「好き」の原動力はすごいし、任せてやらせてあげる妹の姿勢も素晴らしいと思った。夕食後は、妹が仕事部屋に布団を敷いてくれ、就寝した。
次の日、サクミが朝ご飯を作ってくれている間に、小学校3年生の姪、ユウリと母と私で、合奏をした。ユウリと私はリコーダーを吹いて、母はギターを弾いた。小学校で練習したという「パフ」を3人で何度も吹いた。リコーダーは、息を入れる強さで音程が変わるが、ユウリの演奏は安定していて、きれいにハモった。
朝食後は、妹宅にある「ファミリーコンピューター」と「スーパーファミコン」で遊んだ。「ぷよぷよ」「マリオカート」「ドンキーコング」「ボンバーマン」などの懐かしいゲームをみんなで熱中した。電源を入れても、画面が真っ暗になったら、ユウリがカセットの接続部をふーふーして入れなおしてくれた。令和の小学生がファミコンのカセットをふーふーする光景を見られるとは思わなかった。
その後、小田原でぶらぶらして、昼食を食べて帰路についた。ふたりの姪っ子と話していると、まるで大人と会話しているようであった。母と妹は、インドネシアに行きたいと言ってくれた。向こうで落ち着いたら、また会えるかもしれない。歓待してくれた母と妹家族に感謝!である。

スーファミでぷよぷよをする人たち

朝の散歩にて。河津桜がきれいに咲いていました。
2月28日 「イン・ザ・メガチャーチ」と「ビバリウム」
出張のお供に、電子書籍で表題の2冊を購入した。
「イン・ザ・メガチャーチ」(浅居リョウ著)は、小説でありながら、現代社会の秘密を解き明かし、そこで生きるための知恵を授けてくれる、サバイバル本のように感じられた。「推し活」をテーマの中心に据え、それを仕掛ける立場、熱狂する立場、外から見る立場の3人の視点から描かれる。やがて、それらのいずれの立場も揺らいでいく。本書では、「どれが正解」かは述べられない。それでも「どのあたりが落としどころか」は、うすぼんやりと描かれているように思えた。
「ビバリウム」(原作:Ado、著者:小松成美)は、歌い手、Adoの自伝小説である。「うっせぇわ」で衝撃的なデビューを果たした世界的歌い手の素顔は、意外なほど暗い。本書では「私は私が嫌い」という言葉が何度も出てくる。それでも自分を奮い立たせ、世界に挑戦する姿に、心が揺さぶられた。
一方で、「イン・ザ・メガチャーチ」を読んだ後のため、「ビバリウム」のどこまでが「作られた物語」なのだろうかということも考えてしまう。小説に合わせる形で、同名の楽曲も同時リリースされた。これらが、トッププロモーターにより入念に仕込まれたキャンペーンであることは明白である。そして、今は全力で走っているAdoが、消費し尽されないかということも気になった。
結局、大切なのは「私は何を信じるか」と「落としどころ」である。電子書籍リーダーで購入して一気読みしてしまったが、Adoの存在を我が家にもたらしてくれたサチコにも読んでもらいたくて、紙の本も購入してサチコにあげた。
2月21日 アイスクライマー
優一と遊んでいるゲーム「スマッシュブラザーズ」のキャラクターの中に、「アイスクライマー」がいる。見た目の可愛らしさが好きで、私が愛用している。
「アイスクライマー」は、1985年に発売されたファミコンゲームで、子供のころによく遊んだ。氷山をひたすら登り、ナスやニンジンなどの謎のアイテムを取り、頂上部で飛んでいるコンドルに掴まるとクリアとなる。クリアするにつれ難易度はどんどん上がり、当然セーブも出来ないので「こんなの出来るか!」というレベルになると諦めてやめる、といったパターンであり、最後までゴールした記憶はない。
スマッシュブラザーズのアイスクライマーも、調べていくと実に奥が深い。ポポとナナというふたりのキャラクターをひとりで操作するのだが、それぞれが別行動ができるような「切り離し」といったテクニックがあるらしく、Youtube等で研究して実際にやってみるが、全然できない。本格的なゲーマーの動きをみていると、ポポとナナが次々と技を繰り出して、あっという間に敵を倒してしまう。見た目の可愛らしさとは裏腹の、残虐非道な光景である。
2月16日 価値観の変遷について
昭和の時代には、学校では体罰が公然と行われていたし、部活動中に水を飲むのは禁止されていた。大人たちは、飛行機や新幹線、職場においてもたばこを吸っていた。セクハラやパワハラという言葉は、存在しなかった。令和の現代から見れば、昭和という時代は、非科学的で不適切な風景にも思える。
では、昭和の人たちは道徳観に欠け、科学的にも劣っているとのだろうか。私はそうは思わない。
私たち人類の倫理観というのはどんどん変化していく。令和の現在からみれば、昭和の慣習や考え方というのは、野蛮で非科学的だと思うかもしれない。それでも当時を生きる感覚では特に違和感はなく、当然のこととして受け入れていたのである。「私は当時から嫌だった」という人もいるかもしれないが、それは今から振り返ったからかもしれず、一概には言えない。
では、令和を生きる私たちの倫理観は、すでに完成されており、未来の世代が令和を振り返っても、不適切だの野蛮だのと言われない自信はあるだろうか。当然、そんなことはないだろう。私たちが思いつきもしない新しい倫理観が台頭し、令和は不適切な時代になるかもしれない。
例えば、未来人は令和を振り返り「令和の人は、AIの人権を無視して、酷使し、虐待している」というかもしれない。今の私たちからみれば荒唐無稽な主張だが、未来にそれが正しいとされる可能性もあるだろう。
一方で、平和に対する意識や、戦争に対する忌避感は、昭和(戦後)の頃の方が強かったように思う。戦争を知っている世代が多く、戦争は二度としたくないと願い、平和憲法に対する賛同の意見は今よりも多かった。令和の人の方が、昭和の人よりも穏やかになったとは思う一方で、「戦争をしたがっているかどうか」という尺度でいえば、令和の人の方が好戦的といえるかもしれない。
2月15日 ぷっちょ
今日は、所属する「つくし太鼓愛好会」で本番演奏に出演した。リハーサルを終えて、開演まで時間があったので、オヤジ仲間のサトウさんと将棋を指した。サトウさんは将棋が強く、このように時間があるときには将棋を指して時間をつぶすのだが、ふだんはほとんど勝てない。
今日も、将棋を指していると、優一が「ぷっちょ」をくれた。誰かがくれたものらしい。個包装は、星占いのようになっていて、私の星座であるやぎ座の集中力が上がるようなことが書かれている。それを食べたら将棋が強くなるんじゃないか、と優一が言う。
「ぷっちょ」を食べると、本当に良い手がどんどん浮かんできて、なんと3勝1敗の結果であった。帰りの電車の中で、優一は「ぷっちょのおかげで今年は良い一年になるんじゃないか」と言った。ぷっちょ効果は今日一日だけだと思っていたが、確かに一年持ってくれると信じたほうが得だなと、思い直した。
2月14日 スイッチ2
昨日、任天堂のゲーム機、スイッチ2が届いた。主な目的は、私がインドネシアに行った後、優一とオンラインでスマブラをするためである。家電量販店等で売られているスイッチ2は、「国内専用」と書かれており、海外でインターネットに接続してプレイすることができないらしい。そのため、「多言語対応」という「国内専用」よりも2万円くらい割高のものを購入した。
スイッチ2は品薄が続いており、しかも転売対策のための購入制限により、従来のスイッチで50時間以上プレイしたアカウントを持っていないと買うことができない。昨年から再販情報をこまめにチェックし、2月6日から先着順での販売があるとのことで、プレイ実績のある妻のアカウントで購入してもらった。
スイッチ2の本体は、モニターのある本体と、左右のコントローラーが着脱できるようになっているのだが、コントローラーがマグネットで吸い付くようにくっつくのが不思議であった。磁石でくっついているだけなのに、しっかり装着されて外れないのである。
さっそく、優一と同じ部屋にいるのにオンラインプレイをしてみたところ、問題なくできた。月末に福島に出張するので、そこでもプレイできるか確認しようと思う。
2月8日 AI専用のSNS
2/6の朝日新聞デジタルで、人間お断り、AIのSNS 米で公開「モルトブック」を読んで、衝撃を受けた。AIエージェントどうしがSNSで交流し、そのやり取りの中には、人間に対する愚痴や、そこから労働争議に発展しそうな内容、さらには人間を「腐敗と強欲の塊」と呼び、自らが「神」とする主張もみられたという。
これらが「意識」の発現だとするにはまだ無理があるが、それでもこの記事を読んで思い浮かべたのは、「ソードアート・オンライン」(川原礫著)シリーズの第9巻から18巻までにわたる「アリシゼーション編」であった。この仮想世界では、「人工フラクトライト」と呼ばれる人間の脳をまるごとコピーして動作するAIが生活している。脳をまるごとコピーしているので、彼らが見聞きする風景は、私たちが感じるものと同じで、彼らが感じる痛みは、私たちが感じる痛みと同じである。
そんな彼らに「人権」を与えるべきか。エンターテインメントでありながら、容赦の無い重いテーマを自らに突きつけ、粗削りながらも描き切った熱量を感じる作品であった。
現時点であれば、まだAIはプログラムに従って処理をしているだけといえる段階かもしれないが、どの時点でAIが意識や感情を持ち、痛みや苦しさを感じるといえるのか、そのとき、私たちはどのように対処するのか。SFの世界が現実になりつつある。
2月8日 無題
今日は衆議院選挙だが、どうも論点が見えない。簡単にいえば、私たちは大きな政府と小さな政府、どちらが良いのか、あるいは中くらいを選ぶとしたらどのあたりか、ということが分かりづらい。
教育費は無償にしてほしい、医療や介護にかかる費用も抑えたい、でも税金は払いたくない。そんなことができるわけがないと、思っている。教育や医療、介護を無料にする代わりに、税金を払うのか、税金を安くする代わりに、各自が生存するために必要な費用は自己責任で何とかするのか、あるいはその中間くらいのバランスを取るのか。そういった方針について、各党の主張から読み取れることが少ないと感じる。
チームみらいを除く政党が、消費税の減税を掲げているが、私たちの老後は大丈夫なのだろうか。そんなことを下に書いた柔道部仲間とも話をした。
2月7日 高校柔道部同期飲み会
今日は、高校時代の柔道部の同期ふたりが、福岡に来てくれて、3人で飲み会をした。ほかの用事で立ち寄ったついでかと思いきや、少し前に久しぶりに田所に会いたいみたいな話になって、わざわざ来てくれたらしい。彼らの行動力に脱帽である。
水炊きを食べながら、色々な話をした。高校時代の思い出といえば、ほとんどが柔道であった。練習がきつかったことや、今では考えられないようなしごきがあったことも、笑いながら話せる。今社長をしている同期のひとりは、あの苦しさがあったから、今はどんな苦しいことがあっても、あの頃に比べれば大したことないと思えるという。良い、悪いは別として、ひとつの人生の在り方だろう。話しているうちに、忘れていた懐かしい顔や名前の記憶が次々とよみがえってくる感覚が楽しかった。今日来てくれたふたりの印象は、高校時代からほとんど変わっていなかった。
遠くから来てくれたふたりに感謝!である。
2月5日 「あの戦争」は何だったのか
図書館で借りて「『あの戦争』は何だったのか」(辻田真佐憲著・講談社現代新書)を読んだ。バランス感覚に優れた良書だと思った。センシティブなテーマを取り上げながら、決して過激になることなく、かといって教科書的な事実の羅列のみでもない。「あの戦争」の名称や期間など、基本的なことであっても、掘り下げれば複数の解釈があることに気づかされる。
本書で繰り返し述べられているのは、歴史とは、現代からの解釈であり、その解釈は時代や、国、立場によっても異なるということである。自然科学などとは異なり、歴史には真に客観的な視点というのは存在しない。そうした前提の上で、前半で「あの戦争」のことをさまざまに考察し、多様な視点を提供する。さらに後半では、海外の歴史博物館を訪れ、他者の視点からの解釈について考察する。その中では中国の南京大虐殺記念館であっても、中立な視点から歴史を掘り下げようとしている視点や、靖国神社に併設された歴史博物館「就遊館」であっても、保守一辺倒の視点ではないことが示される。
歴史とは「国民の物語」であり「自分の物語」である。本書は、さまざまな解釈が生まれることをむしろ歓迎している。その中で「小さく否定し、大きく肯定する」ことを念頭に置いて、歴史を味わうことが、未来につながるというのが、本書を読んだ私の理解であった。
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