2005年
2月のつぶやき




2月20日 「イグアナの娘」考
 テレビ朝日のテレビドラマ「イグアナの娘」をビデオで再び見た。1996年の作品で、原作は萩尾望都氏の少女マンガである。高校生の時に見て、大変な衝撃を受けた記憶がある。

 主人公の少女リカは、母親の目には醜いイグアナにしか見えない為、愛されることなく育つ。そして、リカにも鏡に映った自分はイグアナに映り、心を閉ざしてしまう。その裏には、母親はガラパゴスのイグアナ姫であり、恋をしてしまった人間の男性と結ばれる為に、魔法使いにお願いして人間にしてもらうと言う、いかにも少女マンガ的な前設定がある。

 このドラマは、そんな少女がさまざまな悲しみや苦しみを乗り越えて、心を開き、自立していくという成長物語である。誰もが持っているコンプレックスを「自分がイグアナに見える」というデフォルメされた設定により、見事に表現していると思う。

 このドラマが凄いのは、原作の面白さを大事にしつつ、ドラマとして見れるようにストーリーを全く変えているところである。マンガは50ページくらいの短編で、リカの誕生から結婚、出産まで満遍なく描かれているのに対し、ドラマは高校時代に焦点が絞られる。そして、原作にはいない親友役やいじめ役が登場し、リカの内面の強さ、弱さ等が原作以上に深いところまで描かれる。

 後で知ったのだが、「イグアナの娘」のドラマ化は企画の段階で猛反対を受けたらしい。さらには、原作者の承諾もなかなか得られなかったが、プロデューサーの一途な思いにより実現されたらしい。それ程プロデューサーは原作に惚れ込み、ドラマにしたいという思いが強かったのだろう。

 音楽もとても好きである。寺島民哉という人のインストゥルメンタルなのだが、主題となるメロディは、幻想的なのに凛としており、輪郭がはっきりしている。この不思議な音楽が、非現実的なドラマの設定に現実味を帯びさせていると思う。

 ドラマを見て、リカ役である菅野美穂が好きになった。彼女の感受性や表現力がなければ、このドラマはなかったと思う。

 それにしても、最近高校時代に心を動かされた音楽、映画、本等を、再び見直すことが多い気がする。なぜ今になってそんなことをしているのかは自分でも分からない。しかし、自分の行動を分析すれば、高校時代という、初めて将来を具体的に考え始めた時期に感じたもの、目指したものを再確認することにより、今の自分の方向性を再確認、軌道修正したいのだと思う。


2月14日 減酒を志す
 最近、と言ってもここ半年くらいだが、仕事が終わってバスに乗る度にぐったり疲れ、吐き気がして気分が悪くなる。仕事をしている間はなんともないのだが。緊張の糸が切れるためであろうか。しかし、確かに仕事量は多いが、ストレスを溜め込むような働き方はしていないつもりである。そして、大抵は晩飯を食べ、酒を飲むと治るのである。

 そんな話を後輩にしたら、「酒の飲みすぎじゃないスか」と言われた。

 確かにそうかもしれないと思った。ここのところ、毎日ドラクエをやりながら、ビールを飲み、ビールに飽きたらワイン、焼酎とだらだらと飲んでいる。飲みたいから飲むと言うよりは、癖のようなものである。家には飲み物は酒しかなく、のどが乾いた時は、酒か水道水を飲んでいる。

 そこで、私は今まで飲んでいる発泡酒を、ノンアルコールビールに切り替える決心をした。どうせこれまで飲んでいた発泡酒は、1本105円の安いものであり、大して美味しいものでもない。毎日酒を飲んでいるからと言って、酔っ払いたいわけでもない。それならば、健康な方が良い。

 早速ノンアルコールビールを大量に買い込み、現在それを飲みつつこの「つぶやき」を書いている。長続きするといいのだが。


2月13日 富士山を見に行く
 今日は、思い付きで富士山を見に行った。事前に静岡出身のカオリにお勧めなどを聞いたところ、「富士宮のヤキソバが美味しい」とのことであった。どうやらヤキソバで町興しをやっているらしい。富士宮で是非ヤキソバを食べようと言うことになった。

 しかし、富士宮は寂れていた。商店街も閉まっている店が多かった。ヤキソバ屋を探したところ、それらしいものはない代わりに、至る所にヤキソバのノボリが立っている。定食屋でも、中華屋でも、うなぎ屋でさえもヤキソバのノボリが立っていた。

 とりあえず中華屋に入り、ヤキソバを食べた。麺が特殊でコシがあり、美味しかったが、町興しには弱い気がした。

 帰りは熱海から一駅のところにある、来宮(くのみや)駅で下車し、来宮神社の大楠を見に行った。なんだかんだ言って毎年見に行っている。本当に神が宿っているんじゃないかと思うような、堂々たる風格である。


 帰りは、「R25」を見て、ゲラゲラ笑いながら家路に着いた。「モテリーマン講座」を考える人は馬鹿だなぁと思った。もしこれを真に受けて、実行に移す人がいるとしたら、本当の馬鹿である。


2月9日 サッカー北朝鮮戦を見て
 今日は、体調が悪かったので早めに帰り、お好み焼き屋でサッカーワールドカップの北朝鮮戦を見た。とは言っても、お好み焼き屋に入ったのは9時頃であり、後半の最後の方から見たのみである。

 お好み焼き屋のオバハンは、日本がなかなか2点目を入れられないのでイライラしている様子だった。「北朝鮮なんかに負けるな」とも言っていた。

 テレビで「サッカーで友好の手をつなごう」という横断幕を掲げている人が映ったが、私は偽善だと思った。サッカーは、勝つと爽快だが、同時に負けて最も後味の悪いスポーツのひとつだと思う。試合に負けると、大抵どの選手が情けないだとか、審判のひいきがあったとか、相手選手が汚いプレーをしたとかいう話に花が咲く。勝った時に相手チームの健闘を讃える人はいても、負けた時に相手チームの健闘を讃える人は少ない。

 試合が終わった後の映像をしばらく見ていたが、試合が終わったにもかかわらず、選手達はお互い相手選手と目を合わせようともせず、なんとなく気まずそうである。この対極にあるスポーツは、殴り合いが終わった瞬間に抱きしめ合うボクシングであろう。

 別にサッカーを悪く言っているわけではない。サッカーはいい意味でのナショナリズムを感じさせる効果を持つと思う。私も試合中は手に汗にぎって見ていたし、点を入れた瞬間の感動と団結感は、他のスポーツではなかなか味わえないと思う。祖国を離れて久しい在日朝鮮人は、テレビの中で活き活きと応援していたし、日本人は、君が代を歌う・歌わないに関わらず必死で応援する。

 だからこそ、「サッカーで友好を」などというのは、ことさらに無理だと思うのである。


2月6日 ドコモショップへ行く
 3日くらい前、不覚にも料金未払いで携帯電話を止められてしまった。払込書も見当たらない為コンビニで払うことも出来ず、土曜日に練馬のドコモショップへ行き、料金を払うついでに自動引き落としにしてもらった。

 ドコモショップへ行く度に思うのが、店員がみんな異様な程、美人揃いだいうことである。採用面接時のチェックリストに「顔立ち」という項目があるんじゃないかと疑いたくなる。店の奥には「修理コーナー」というのがあるが、入口からは非常に見えづらくなっており、そこで男性店員が小さくなって働いていた。

 順番が来て、やり取りをしているうちに凄いと思ったのが、この「ドコモショップの窓口」という仕事におけるマニュアルの膨大さと、それを忠実に実行する彼女らのスキルの高さである。語尾の表情さえもマニュアル通りのような気がした。

 私だったら半日も持たないと思った。


 「出発点」を再読する
 最近、高校時代に買った宮崎駿の「出発点」を再読している。ハードカバーで600ページ近くある巨大な本で、宮崎駿の文章、公演、対談等がぎっしり詰まっている。下に書いた「生きる」を見ようと思ったのも、この「出発点」を読んだからである。

 実は、私が宮崎アニメに最もはまったのは、高校生の時である。恐らく、普通の人よりかなり遅いと思う。高3の夏の受験勉強中に「もののけ姫」が封切りになり、今日一日だけはと思いながら映画館に行った記憶がある。「未来少年コナン」の再放送をやっていたのも高3の時であり、受験勉強の息抜きと言いつつ、必死になって見ていた。

 そんな中で「出発点」を見て、相当な影響を受けた。定価2600円という、当時の私にとっては高価な買い物だったが、いい買い物をしたと思った記憶がある。

 「出発点」は、強烈である。現代のアニメーションを批判し、手塚治虫やディズニーまで批判し、アメリカのエコロジストと激しい対談をする。かと思えば小学生の前で面白おかしく公演し、日頃のドタバタ話を書く。そして、世間にアニメは氾濫しすぎていると言いつつ、自分自身アニメで金儲けをしているという、自身の自己矛盾を白状する。

 「出発点」自体、明らかに自己矛盾しているはずなのに、なぜか世間の矛盾を解き明かしてくれるのである。そして、そんな自己矛盾が人間の奥深さだと思う。

 映画を作る時の話も載っているが、映画を作るというのは、物凄い苦しみだと言うことが伝わってくる。普通の人間だったら逃げ出すか、発狂するかしかない様な苦しみを乗り越えて、「宮崎アニメ」が生まれることを知る。


2月1日 「生きる」を見て
 黒澤明の映画「生きる」を見た。実は、黒澤作品をまともに見るのは初めてである。1952年の作品で、フィルムは白黒、音声は割れて聞き取り辛く、映像も所々見辛くなっている。内容は、胃癌であることを知った市役所の市民課長が、その生涯を終えるまでを描いた物語である。

 「生きる」には、人々の小さく、惨めで、みすぼらしく、それでも健気に働き、泣き、笑う姿が描かれていた。そして、登場人物の表情が全く美化されておらず、醜い顔もすれば、演技とは思えない程、輝かしい顔もする。

 映画を見ながら、何度も声を上げて泣いた。単に悲しいとか、面白いとか言う感覚ではなかった。この映画の持つ凄まじいエネルギーが、直に圧し掛かってくるような気がした。ハイヴィジョンでなくても、カラーでなくても、いい映画はいいと思った。そして、50年以上経っても全く色褪せず、感動を与えてくれる黒澤明が凄いと思った。

 是非お勧めの映画である。しかし、見るにはそれなりの覚悟がいると思う。宮崎駿が「正座して見るべき映画」と言っているのが分かる気がした。   

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