2005年
7月のつぶやき
7月24日 登山をする
今週末は会社の人たちと登山に行った。「朝日岳」(標高1896m)という那須の山で標高1200m程度にある駐車場から登る。そこから2時間程度で山頂に着くが、高山植物も生え、険しい岩場もあり、本格的な登山気分が味わえる。
朝集合すると、色々な人がいた。本格的な登山スタイルになっている人もいれば、Tシャツとジーンズにコンビニ弁当をぶら下げて現れた人もいる。同じ目的を持って集った人たちとは思えないのが面白かった。
麓は曇りだったのだが、山の上は晴れていた。山頂では眼下には雲海が広がり、遠くには山の峰々が連なる、感動的な光景であった。
と思ったら、ひとつ上の先輩のO氏が山頂でぐったりしていた。前日は深夜まで飲んでいたらしい。山頂で食べる為に下のコンビニで買った冷やし中華も、他の人にあげてしまっていた。そして、私に「ヘリコプターを呼んでくれ」としきりに言っていた。
山を降りた後は、温泉に行き、キャンプをした。次の日は朝から天ぷらを食べ、家路についた。
説得力のある言葉
司馬遼太郎の名作「竜馬が行く」で、竜馬の西郷への説得により、薩長が同盟に向けて動き出す印象的なシーンで、司馬遼太郎は以下のように言っている。
「著者は、このくだりのことを、大げさではなく数年考えつづけてきた。(中略)『長州が可哀そうではないか』(中略)一介の土佐浪人から出たこのひとことのふしぎさを書こうとして、著者は、三千枚ちかくの枚数をついやしてきたように思われる。事の成るならぬは、それを言う人間による、ということを、この若者によって著者は考えようとした。」
また、浅田次郎の「天切り松 闇がたり」では、年老いた天切り松が囚人や看守たちに、気持ちのよい江戸弁で、靖国参拝について以下のように語る。
「九段は靖国神社の招魂祭といやァ、御一新の戦からこのかた、お国のために命を捧げた英霊たちの御霊を祀る、年に一度の大祭さ。坂上にデンとそびえる日本一の大鳥居からその先ァ、東京中の香具師と見せ物で大賑わい。このごろじゃあ代議士先生が靖国に参(めえ)るの参らねえのって、くだらねえ遠慮をしていなさるようだが、死にたくて死んだわけのねえ兵隊さんに、生きてる者(もん)がありがとうござんすと頭を下げてどこが悪い。軍人が税金泥棒と白い目で見られたあの軍縮の時代(じでえ)にだって、それはそれ、これはこれと、日本中の老若男女が何はさておきお参りに出かけたものさ。」
ある言葉に説得力があるかどうかは、それが正しいかどうかではない。そのときの雰囲気、その人の人柄が最も大きく関係しているのである。今、ニュースでは、北朝鮮の拉致被害者家族が公演しているのが映っている。彼等の言うことは間違いなく正しいのに、なぜか全く説得力を感じないのは、こういうことが関係しているのかも知れない。
7月19日 珍しい後輩
今日は、仕事が終わって帰る途中、社バスの中で今年入社の後輩に出会った。彼は、研究所の配属なのだが、工場実習の為現在現場で交代勤務をしている。一応、私が彼の担当指導員ということになっている。
寮が同じなので色々話しながら帰っているうちに、彼が横国のオケ(オーケストラ)出身ということを知った。彼は私よりひとつ年下なので、絶対サークル棟ですれ違ったことがあるはずである。世間は狭いものだと思った。
オケと民研は、敵同士である。練習をしようと他サークルの部室を開けたら、オケが練習していて使えなかったということは多々あった。また、オケにとって民研の太鼓の強烈な音は、さぞかし迷惑であったに違いない。
とりあえず、寮の近くの焼鳥屋でビールを飲みながら色々話していた。会社の人と清八や天国の話をするのが不思議な気がしたが、最も驚いたのは、彼が話した大池道路沿いの寿司屋の話である。「コック亭」の向かいにあるというその寿司屋は、握り寿司を頼むと、笹カマやチーチクの寿司が出て来るという。また、寿司屋なのになぜか「焼き鳥丼」というメニューがあり、注文すると電子レンジの「チーン」という音と共に登場するらしい。
いい加減こんな事にときめいても仕方ないのだが、行ってみたいと思った。
7月18日 「伊豆栄」の鰻
土曜日は「伊豆栄」ので鰻を食べた。「伊豆栄」は浅田次郎の小説「天切り松 闇がたり」で主人公 松蔵が頻繁に「ごちになる」上野の鰻屋である。風格ある古い店をイメージしていたら、7階建ての大きな店で、内装もお洒落であった。「ごちになりやす」という雰囲気ではないなと思った。
店は、混んでおり、席に座るまで30分程待った。7階建ての大きな店で30分も待つというのは、尋常な繁盛ぶりではないであろう。カウンターだけの有名ラーメン屋に行列が出来るのとは訳が違う。
とりあえず、「鰻丼 特」(3150円)を食べた。ボーナスを貰ったので財布の紐が緩い。自分に対するご褒美のつもりであった。
「星になった少年」
鰻を食べた後は、横浜で映画「星になった少年」を見た。象使いを目指す少年がタイに渡って勉強し、日本初の象使いとして活躍し、その短い生涯を終えるまでの物語である。実話を元に作られたらしい。
凄いのは、映画で登場する象達の演技である。「人間と動物が心を通い合わせる」などというのは人間の勝手な思い込みだと思っていたが、この映画を見ていると、そうではないことに気付く。子供騙しでは撮れないような、象の素晴らしい演技が次々と出てくるのである。
そして、この映画では、象同士の絆と比較されるように親子の絆が描かれる。母と子の思いは互いに伝わらないまま、少年は亡くなる。少年が亡くなった後、母親が少年の真意を知るシーンはあまりに悲しい。現実には起こり得ないかもしれないが、誰でも思い当たる節はある気がする。
見た後は、何となくタイ料理が食べたくなって、横浜のタイレストランで夕食を食べ、家路に着いた。
7月11日 クーラーのこと
前にも何度か書いたが、私は暑さに強い。蒸し暑い日本の夏が大好きである。
だから、クーラーは殆ど使わない。私が住んでいる寮は、熱がこもりやすく、尋常ではない暑さになるが、出来るだけ使わないようにしている。せいぜい風呂上りの10分間だけである。高熱費負担はないので、どんなにクーラーを使おうがタダなのだが、自粛している。理由はみっつある。
ひとつは、最初に書いたように、私が暑さに強いからである。ただし、何故かサウナには弱い。
ふたつめは、生きる力を養う為である。昔の人間は、クーラーが無いからといって皆が皆熱中症になる訳ではなかったであろう。クーラーの登場により、人間は弱くなったのである。クーラーを使うと、中毒のように際限が無い。慣れていればなんともない摂氏30℃の屋外も、クーラーに慣れてしまうと焼けるように暑く感じる。総合的に考えれば、クーラーを使わない方が苦痛は少ない。
みっつめは環境の為である。最近、クーラーを使わないことが二酸化炭素削減に大きく寄与することを知った。また、クーラーで室内が涼しくなった分、外には熱風が放出され、ヒートアイランド現象を引き起こす。
ところが、かく言う私も寒さにはめっぽう弱く、ついつい暖房を使ってしまうのである。
7月10日 便を我慢する法
少し汚い話をしたい。昨日、笛部の練習の為横浜に向かっていたのだが、湘南新宿ラインで新川崎を出てすぐ、私は便意をもよおした。横浜までは10分強だが、便意は次第に強くなっていった。
私は焦った。便を我慢する苦しさは、まさに地獄の苦しみといっていい。苦しいと同時に、この平和な日本で身近にこんな苦しみが存在することに驚きを覚えた。しかも、もし脱糞でもしたら、同情されるどころか軽蔑されるだけである。
そんな極限状態の中で、私は便を我慢する方法を発見した。それは、呼吸法である。息を吸うと同時に腹の内部が上に持ち上がるようなイメージをする。そして息を吸いきるときに尻に力を入れる。そのまま息を吐く。それを繰り返しているうちに、自分でも信じられないくらい楽になった。
これまで気功や整体といった東洋医学を全く信じず、また効いたためしもないが、このときばかりは、そういう科学を超えた力を感じた。
7月9日 体調を崩す
体調がよくない。咳と鼻水が出て、若干の吐き気がある。とは言え、この様に「つぶやき」を書いているくらいだから、大したことはない。私は、頻繁に体調を崩す代わりに大事に至ることはないのである。今週は仕事が忙しく、疲れが貯まったらしい。
「忙しくて忙しくて、それでもやることが山積みというのは、幸せのひとつの形だと思う」というのは、「四日間の奇蹟」で薄幸の運命を辿る療養センター職員、真理子の言葉である。私が今、最も大事にしている言葉である。
この「つぶやき」を書いている途中、テレビでは「エンタの神様」をやっている。「マジャコング」の目には、喋った後にマイクを叩きつけるプロレスラーがよほど面白く映ったのだろう。「ギター侍」が面白いわけでもないのに未だに売れているのは、実は彼の人柄が素晴らしいからじゃないかという気がする。それにしても、観客はほとんど女性である。女性の方がお笑いが好きなのであろうか。
7月3日 「女王の教室」
久しぶりにテレビドラマを見て面白いと思った。土曜の9時からの新番組「女王の教室」である。土曜の朝にだらだらと見ていた新ドラマ特集で、興味が湧いたのである。内容は、小学校6年のあるクラスに、怖い先生が来て、生徒を恐怖に陥れるという話である。「先生が怖い」などという些細なことで果たしてドラマが成立するのか、興味があった。
ところが内容は強烈であった。見ていて鬱になりそうな程であった。「悪魔のような鬼教師」阿久津真矢(天海祐希)の怖さは、人間離れした完璧さであろう。こんな人がいたら、大人でも怖い。しかし、このドラマが描きたいものは、そんな鬼教師の怖さではなく、彼女を通して見えてくる大人のずるさ、子供の悩み、そして現代社会の不健康さであろう。豊かさの裏側、ゆとり教育の失敗、受験戦争、学級崩壊…このドラマには、そんな背景が見え隠れする。
そして、このドラマでは、登場人物の二面性が強調される。普段孤独な優等生が見せる優しさ、優しくて人気のある先生の見せる本音、仲の無い両親に気を使い明るく振舞う子供…。唯一裏表を見せないのは、かの鬼教師だけなのである。
と思ったら、ドラマが終わった後のエンディングで、大どんでん返しがあった。「はいカットォ」とカチンコがなって収録が終了。怖い顔をしていた鬼教師・阿久津真矢は、女優・天海祐希に戻り、にっこりとして「おつかれさまー」と言う。そして校庭に皆で駆け出す。残ったのは撮影機材を片付けるスタッフ達。そして、校庭で皆で楽しそうにダンスを踊る。
私は思わず涙ぐんでしまった。張り詰めていた心が開放されたようであった。このドラマが持つ二面性は、このドラマそのものなのである。
「戦国自衛隊1549」
今日は、映画「戦国自衛隊1549」を見に行った。自衛隊が戦国時代にタイムスリップし、ひと悶着起こすというストーリーである。着想の大胆さが面白そうだと思い、見に行った。
しかし、映画は面白くなかった。「自衛隊と戦国武士が戦ったら面白いだろう」そんな着想だけが空回りしており、その着想にリアリティを持たせる努力も、それを通じて描きたい一本筋通ったテーマも見えてこない。だから、十分な裏付けも無いまま過去にタイムスリップし、本物の戦車を登場させ、金をかけて派手な戦闘シーンを繰り広げ、使い古された「感動的なシーン」を並べて訳の分からないまま終わってしまうのである。
ばかばかしくなって途中で出ようと思ったが、折角金を払って見ているので、一応最後まで見た。そして、スタッフロールが始まると同時に席を立った。
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