2005年
8月のつぶやき




8月30日 検品に行く

 昨日、長野気分をひきずってだらだら仕事をしていると、突然「明日検品に行ってくれ」と言われた。品質事故を起こした為、不良品を除去しに行くのである。

 今朝、集合場所へ行くと、会社からの検品部隊6人の他に、派遣バイトが10人くらいいた。

 派遣バイトは色んな人がいた。フリーター、学生風、オタク、リストラされたっぽいオッサン、もうすぐニートになりそうな人、色々いるけど、みんな共通して表情が冴えない。私も学生時代小遣い稼ぎにやっていたので、なんとなく懐かしい気分であった。

 その冴えなさは、仕事をする際、仕事量を意識するか労働時間を意識するかの差だと思った。時給で給料をもらう彼らは、出来るだけサボり、だらだら楽に働けた方がいい。一方私たちはやるべき仕事量が決まっており、彼らを効率よく働かせつつ働かなければならない。

 「てきぱきやってくれないと終わらないんだよ!」と怒鳴っている社員がいたが、それは我々の論理である。彼らにとっては、仕事が終わろうが終わるまいが、決められた時間働いたことに価値がある。

 私は彼らを休ませないように指示し続けることにした。だらだら働いている人には別のやり方を指示し、ボーッとしている人には他の仕事を指示する。「同じ時給なら出来るだけ働かせた方がよい」というのが我々の論理である。彼らは、自分で考えて動くことはないが、具体的な指示を出せばちゃんと動く。

 最近私は、実年齢+5歳くらいに見られるのだが、「老けて見える」ということは、こういう時に便利だと思った。


8月28日 同期に会う

 今週末は長野に行ってきた。もうOB4年目であり、今年は夏ステは行くつもりではなかったのだが、前日イラハより「鈴荘で飲もう」との連絡があり、行くことにした。他にも何人か来るらしい。そう言えば、年々散り散りになっていく同期に会える機会は少ない。

 行ってみると、夏ステの時点でなんと同期が9人もいた。他のどの代よりも多くなってしまった。

 夏ステが終わって夜の10時過ぎ、かっぱ寿司で食事をしていると、突然シゲオから電話があった。シゲオは仕事の為来れず、名古屋にいるのだが、状況を話していると、「いいなー、いいなー」を連発している。そして、「今から行くにはレンタカーかなぁ、でも酒入ってるしな」等と話している。とりあえず酒が入っているのなら運転は危険だと言うと、シゲオは「そうだよな、やめとくよ。でも万が一って事もあるよ」と言って電話を切った。

 その後、ミヤチに「レンタカーを借りた」との連絡が入り、「朝の4時頃到着するから起きていてくれ」という連絡があった。

 私たちは起きていることにした。殆どの人は寝ており、時間の経つのが遅く感じられた。ミヤチは3分毎に時計を見ながら「シゲオはいつ来るんだ」等とぼやいている。そして、皆で「シゲオが来たら大いに歓迎して飲ませ、すぐに潰してから安眠しよう」等と話していた。

 明け方、外でだらだらしていると、それっぽい車が向かってくるのが見えたので、私たちは道路に飛び出し、飛び跳ねながら手を振ると、シゲオが嬉しそうな顔で出てきた。こんな時間に来るOBはかつてないであろう。

 計画通り飲ませていると、本当にテンションが上がってきて大いに盛り上がった。しかし、空が白み始めた頃、シゲオが「眠くなってきた」と言った瞬間あっさり飲み会は終わり、皆蜘蛛の子を散らす様に寝床についた。


8月25日 ドラマ考

 最近、私にしては珍しくテレビドラマを見ている。木曜10:00の「電車男」と、前にも書いた土曜9:00の「女王の教室」である。

 「電車男」の魅力は、伊藤美咲の美貌であろう。ちょっと憂いを帯びた「エルメス」役ははまり役だと思う。そして、ストーリーは基本的に単純で、見ていて爽快である。

 対して「女王の教室」は迷走を続けている。先が全く読めない。まだ最終話まで作ってないのではないかと思う程である。脚本家やプロデューサーの「生みの苦しみ」が伝わってくるようである。そしてそれが、このドラマの魅力だと思う。

 他には、見ていないが「菊次郎とさき」がドラマ化されていて驚いた。私にとって「菊次郎とさき」は、泣きたくなった時に読む一冊であった。超短編なので、すぐに読めてすぐに泣けるのである。しかし、テレビ欄の見出しを見ると

「母ちゃん涙!!たけし浅草初舞台」

 誰が見るものかと思った。「菊次郎とさき」はお涙頂戴を大々的にやらないから泣けるのである。


8月23日 飲み会続く

 先週の木曜日、八丈島から羽田に着くと、その足で飲み会に行った。テラグチサンの送別会である。テラグチサンは、転職して長野に行くらしい。転職する人は結構多い。私は次の日仕事だったので、一次会で帰ったのだが、久しぶりに会う人も多く、懐かしい雰囲気の飲み会であった。

 若干遅れて顔を出した瞬間「黒い、黒い」と言われた。日焼けのことらしい。私は青ヶ島で泳いだ訳でもなく、ひたすら歩いていただけので、実感がなかったが、相当日焼けしたらしい。

 日焼けと言えば、去年アユミがトラックの運転手をしていた頃、飲み会で「黒い・黒い」と言われていたのを思い出した。そして、タケナカ等が「職場では運チャン仲間に何て呼ばれてるんだ?」等と、嬉しそうに聞いていた。思えば酷いことをしていたものである。

 アユミと言えば、土曜日は笛部の練習をしたのだが、少し遅れて突然アユミが浴衣姿で現れた。私たちが驚いていると、「なんで無反応なんスか?」と怒っていた。どうやら練習後、花火大会に行くらしい。

 練習後はシラトの誕生日飲み会をしたのだが、その時シラトの総括と称して昨年の話をしていた。アユミも花火までの間飲んでいたのだが、かつて失意のどん底にいたシラトに、アユミが「ダケデさんに教えてもらったエダマメでシラトの顔を書く方法」を披露し、さらにがっかりさせたことが判明。人の気持ちなど分かり合えないものだと思った。

 その後はユキとカンダが来て、結局朝まで飲んだ。朝まで飲む感覚も懐かしかった。

 今年の夏休みは息つく暇も無いほど忙しかった。しかし、そういう休みの方が、することもなくだらだら過ごすよりよっぽどいいと思う。


8月20日 青ヶ島旅行記

 夏休みを利用して、念願の青ヶ島へ行った。青ヶ島は、八丈島の南方68kmに位置する伊豆諸島最南端の有人島で、二重カルデラの特徴的な地形を持つ。周囲は9km、人口は約200人である。

 この島の歴史で特筆すべきは、1785年の「天明の大噴火」と、全島避難、そしてその後50年の歳月を経て達成した還住である。

きっかけ
 「青ヶ島」という島の存在を知ったのは、学生時代に間宮芳生の合唱曲「でいらほん」を聴いたことに始まる。「でいらほん」は、青ヶ島の祭文をモチーフに作られた合唱曲で、死者が復活して悪霊を斬る所作を演ずる「デイラホン祭」で歌われたものらしい。「死ねおれデーラホン」で始まる曲はおどろおどろしいが、謎めいた魅力がある。

 間宮芳生は青ヶ島に相当興味を持っていたらしく、彼の著書「現代音楽の冒険」(岩波新書)にもその名は何度か登場する。「オンゴ・オーニ」(合唱の為のコンポジション第十番)も、青ヶ島の祭文をモチーフにしたものらしい。


「デイラホン祭」の様子。お面をかぶって横たわった巫女に歌いかけると起き上がる。
完全に立ち上がった後は、飛び跳ねて刀で斬る所作をするらしい。(「青ヶ島島史」より)

 ちなみに「デイラホン祭」は、NHKが取材に来たという昭和35年以降行われていない。

出発
 青ヶ島に行くには、一旦八丈島へ行き、そこから1日1便のヘリコプターか船で行く。船は欠航が多い為、ヘリコプターで行くことにした。ヘリコプターに乗る機会は滅多にないので、楽しみであった。

 しかし、ヘリコプターに乗るため八丈島空港の待合室で待っていると、どんどん人がいなくなり、不安になった。殆どの人は八丈島で遊ぶらしい。驚いたのは、飛び方である。私は、ヘリコプターは真上に飛ぶものと思っていたのだが、なんとわざわざ滑走路まで車輪で滑っていき、滑走路を助走しつつ飛び立ったのである。

島の雰囲気
 私は、大自然が手付かずに残っているようなイメージを持っていたのだが、そうでもなかった。草木で埋め尽くされてしまった玉石垣、道路、タイヤ等が、そこら中にある。この島では、人間が頑張って色々作っても、圧倒的な自然の生命力によりすぐに埋め尽くされてしまうらしい。そのくせ、プランターにヒマワリを植えたりすると、ダンゴ虫に芽を食われてしまい、思い通りにならない。「自然を大切に」などと言うが、本来自然は鬱陶(うっとう)しいものなのだと思った。

島の人々
 当然だが、島には色々な人がいるので、ひとことでは言えないが、確実に言えるのは、道で会うと誰であれ挨拶をする習慣があることである。そして、島の人々には色々話を聞き、助けられた。道を歩いていると、突然飼っている牛の自慢をされることもあれば、軽トラが止まって「乗ってくかい」と声をかけられ、乗ると色々な話を聞きながら宿まで送ってもらったこともあった。たった2泊なのに、島の人に聞いた話、助けられたことを挙げるときりが無いほど多い気がする。


牛飼いのオッチャン



たまたま出会った家族
 丁度私と同じ日程で、東京から来たという、小学6年生の子供がいる家族と出会った。夏休みの自由研究で伊豆諸島を取り上げるらしい。宿も同じなので、行動を共にすることが多く、大変お世話になった。彼らがいなければ、青ヶ島を半分も楽しめなかった気がする。
 (上に「東京から来た」と書いたが、青ヶ島も東京都であった…)


青ヶ島で出会った家族



携帯電話
 島で携帯電話が通じたのには驚いた。しかし、一日目の夜に突然暴風雨があり、その後は圏外になってしまった。後で暴風雨で電波棟がやられた為と聞いたときには、再度驚いた。

大里神社
 大里神社は「デイラホン祭」が行われていた神社である。

 草ぼうぼうの路をどんどん進んでいくと、傾いた鳥居があり、その向こうには玉石垣が延々とかなりの急勾配で敷き詰められている。手を使わないと登れないほどである。まるで何年も人が来ていないような雰囲気である。

 上まで行くと小さな社があった。私は怖くなって手を合わせて拝んだ。これまで神社に行っても拝んだことはあまりないのだが、このときばかりは必死になって拝み、急いで降りてきた。

 後で島の人に出会い、大里神社に行ったことを言うと、びっくりされた。以前、本土から霊能者が来て大里神社に登ったが、途中で「霊がいる」と叫んで戻ってしまったらしい。確かに「何かいる」と思わせる空気があった。


左:大里神社の入口。ここから草ぼうぼうの玉石垣が続く。  右:玉石垣の参道



大凸部(おおとんぶ)
 大凸部は、島の最高峰で、「新東京百景」というのに選ばれているらしい。

 ここへの道のりも怖かった。「遊歩道」という看板が指している先には道は無く、なんとなく草が低くなっているだけであった。草や蜘蛛の巣を掻き分けて、泣きそうになりながら進んだ。

 大凸部からの光景は、絶景であった。間違いなく島一番の景色である。青ヶ島の特異な二重カルデラの形状が一望できる。


大凸部からの眺望。青ヶ島は中央の内輪山の周りを外輪山が囲む二重カルデラの地形である。



東台所(とうだいしょ)神社
 大凸部から下った後は、東台所神社に行った。島のパンフレットには、江戸時代、失恋の腹いせに7人殺傷したのち入水自殺した「浅の助」という男を祟り神として祀る神社と紹介されているが、「青ヶ島島史」ではより詳細な解説がある。それは、島の閉鎖性・不自由を象徴しているようで悲しい。

 名主の息子である浅の助は「つな」という女性と相思相愛の中にあったが、つなにはすでに許婚があった。浅の助は親から勘当され、つなも家族から仕置きを受けていた。当時、産婦や月経の女性は「他火小屋」という隔離小屋で炊事や機織りなどをする習慣があったが、つなが他火に出るとき、食糧を持参させてもらえなかった。浅の助はつなの為に自分の弁当を与え、つなは浅の助の為に機を織った。

 あるとき、浅の助がつなに何を織っているのか聞くと、「貴方の身につけるものを織っている」と答えた。浅の助は「自分のことは心配しなくていいから、自分のものを織った方がいい」と言ったところ、つなはその日首を吊って死んでしまった。浅の助の言葉を「おれにかまわないでくれ」と解釈してしまったのである。

 それを知った浅の助は逆上し、自分とつなをひきはなそうとした人を斧で次々と殺傷し、入水した。一説によれば、その後、浅の助は岸まで泳ぎ着き、自ら捕らえられた。そして、名主である父・七太夫は彼を磔にし、村人全員に一槍ずつ突かせたという。

 東台所神社は、大里神社以上に急勾配な玉石垣が延々と続いていた。青ヶ島の神社は、どこも鬱蒼としており、怖い。


左:東台所神社の入口。  右:延々と続く草ぼうぼうの玉石垣



ふれあいサウナ
 「ふれあいサウナ」は、島の中央部にある地熱を利用したサウナである。上に書いた家族と共に行った。サウナの他に、シャワーと小さな風呂がある。

 サウナは、非常に熱かった。それだけでなく、シャワーから出てくる水も熱い。地熱のせいで、お湯の蛇口をひねっても水の蛇口をひねってもお湯が出てくる為、サウナで熱くなった体を冷やすことが出来ない。それどころか、地熱のせいで床も熱い。気持ちいいが、苦しいひとときでもある。

レンタカー
 2日目はレンタカーを借り、家族と共に4人で島をまわった。レンタカーは島の整備工場で借りたのだが、しばらく走っていると、アクセルを離す度にエンストした。それで断崖絶壁の道を走るのだから怖かった。車を返すときに、整備工場のオッチャンにそのことを言うと、しばらく車をいじくったのち「夏バテですな」と言って笑っていた。

三宝港
 三宝港は島唯一の港である。島の周囲がすべて断崖絶壁のため、港が作りづらいのである。また、ここが島唯一の海水浴場でもある。下の写真の様に、ずいぶん波が高かったが、これでも島の人にとっては「ベタ凪」らしい。


三宝港



帰り
 帰りは八丈島まで「還住丸」という定期船で帰った。還住丸は「どんなに酔いにくい人でも必ず酔う」と言われ、かなり身構えて乗ったのだが、大丈夫だった。甲板でオッチャンと海を眺めて話をしながら帰った。トビウオが10m位空を飛んでいるのを見たときには驚いた。


青ヶ島を後にする。船で一緒になったオッチャンは海に詳しい。
「昔はイルカがついてきたんだ」と語っていた。




8月7日 「働きマン」

 久しぶりにマンガを読んだ。安野モヨコ氏の「働きマン」である。土曜日にだらだら見ていたテレビで紹介されていたので興味を持った。主人公は大衆誌の女性記者で、日々の激務にプライベートを捨て、活き活きと働き、その中で成長していく姿が描かれている。彼女は、「仕事モードオン」になると「血中の男性ホルモンが増加し、通常の3倍の速さで仕事をする。その間、寝食恋愛衣飾衛生の観念は消失する」らしい。

 これを見て、卒論を書いたときのことを思い出した。私は、明け方まで飲んで部室で仮眠をとったあと、思い立って一気に卒論を仕上げた。その時、朝の8時から夕方の5時まで飲まず食わず、トイレにすら行かずに作業し続け、自分でも驚いた。

 このマンガは、「仕事は生活の為の手段に過ぎない」とか「言われたことだけやっていればいい」とか言う姿勢に対する痛烈な批判ともとれる。仕事は全身全霊を込めて打ち込み、苦しんでこそやりがいがあるし、社会や人を動かす力になるのだと、このマンガは言っているようである。

 宮崎駿は「趣味や酒で欲求不満を解消する奴はいいアニメーターになれない。すべてアニメーションに吸い取られ、アニメーションを作ることで自らを解放するような奴でないと駄目だ」と言っている。「自分が知っていることを伝えるのは単なる『伝達』に過ぎない。『表現』とは、自分でもよく分からないものを、絞り出す様にして掴み取るものなのだ」とも言っている。

 当たり前だが、仕事は普通はしんどい。しんどいことをやるからこそ、報酬がもらえるのである。また、しんどいからこそ、やりがいもあるのである。


相模湖へ行く

 今週末は、「相模湖ピクニックランド」に遊びに行った。メンバーは名古屋から来たミヤチ、シゲオの他に平塚市役所職員のユリエである。

 「相模湖ピクニックランド」では、迷路やトランポリン等、他愛の無い遊びに興じた。特にトランポリンはしんどかった。「5分300円は高い」等と言い合っていたが、始まって2分くらいでぐったり疲れた。それでも折角だからと跳ね続け、降りた後は体が異常に重く、あとは観覧車に乗って帰ろうという話になった。

 観覧車は、私達以外には殆ど人は乗っていなかった。観覧車は山のてっぺんにあり、異様に高く感じる。4人とも怖くなり、出来るだけ表を見ないようにしてじっと耐えていた。中はぴりぴりした雰囲気となり、少しでも動いて揺らそうものなら、「動くんじゃねぇ!」と怒鳴っていた。

 一周して出てくる時には、皆やつれていた。従業員も驚いたであろう。


8月3日 先週末の映画 
先週末は、ビデオ屋で映画を2本借りて見た。以下、その感想。

「七人の侍」
 黒澤明の名作「七人の侍」を見た。1954年の作品である。貧しい農村を守る為に、命をかけて野武士達と戦う侍たちの物語である。

 凄いのは、戦闘シーンである。時代劇のチャンバラとは違い、リアリティがあり、怖い程生々しい。 土砂降りの雨の中で、馬から転げ落ちた野武士を農民が寄ってたかって竹槍で突き刺す。闘いは泥まみれで、荒々しい。本当の闘いと言うのは、こういうものだろうと思った。時代劇や香港映画の様に美しいものでは無い。

 最後は、なんと農民達の花田植で終わる。民研の「田楽」くらいでしか見たことのない花田植が見られたのは感激であった。その歌と太鼓、そして早乙女達が苗を植える手付きは、映画のための創作とは思えない程、洗練されていた。恐らく映画が作られた当時は、また至る所で花田植の慣習が残っていたのであろう。

 田植えは、収穫以上に華やいだという話を聞いたことがある。花田植で幕を閉めるというのは、現代の私達の感覚以上に華やかな結末だったのかも知れない。

「がんばっていきまっしょい」
 「がんばっていきまっしょい」は、愛媛の高校生の少女が思い立って女子ボート部を設立し、最後の大会を終えるまでの物語である。最近ドラマでリメイクされているようだが、この映画が作られたのは1998年、監督は磯村一路である。

 素朴だがいい映画であった。ストーリーに無理が無いのが良い。少年マンガのように非現実的な全国優勝を果たす訳でもなく、一生懸命ボートに打ち込み、やっと「ドンビリ」を抜け出し、あと一歩で全国大会出場か、ということころで夢破れ、映画は終わる。本格的な愛媛弁が素朴さを一層引き立てている。

 私は、高校時代を思い出していた。私達にも、この映画のような贅沢な時代があったのである。


8月2日 日光へ

 先週末は思い付きで日光へ遊びに行った。メンバーはダケヤン、モコ、私である。きっかけは、モコが「日光の深山踊りを見たい」と言ったことに始まる。計画性は全く無かった。宇都宮まで電車で行き、そこからダケヤンの車で日光に向かった。

 踊りが始まるのは午後7時からなのだが、日光には2時頃着き、だらだら遊ぶことにした。まずは「裏見の滝」というところに行った。清冽な流れが美しかった。ダケヤンも「マイナスイオンが出とる」と、嬉しそうだった。

 その後、中禅寺湖でスワンに乗り、華厳の滝を見て午後6時頃食事をしていると、大雨が降ってきた。勿論踊りは中止である。それでも十分満足して家路に着いた。

 宇都宮に戻り、電車まで時間があるので3人で飲むことにした。ダケヤンは、その前に家に荷物を置いてくると言っていたので、私たちもついて行った。そこで、ほんの少しだが、玄関からダケヤンの新居を覘く機会に恵まれた。

 ダケヤンの新居は感動的であった。電気を付けていないのであまり見えなかったが、家は整然としておりリビングにはテーブルと椅子が並んでいる。

 人は変わるものだと思った。もうダンボールをテーブル代わりにするダケヤンではないし、宇宙船のような風呂に入るダケヤンでもないらしい。無論、ジーパンをフライパンで乾かすダケヤンでもない。ダケヤンは「食事はテーブルでするもんや」と自慢げだった。

 結局宇都宮で10時頃まで飲み、次の日仕事にもかかわらず、家に着いたのは夜中の1時半であった。

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