2005年
9月のつぶやき
9月29日 ハワイへ
今週は有給を取ってハワイへ行ってきた。数ヶ月前に父に突然誘われたのである。メンバーは父と妹、そして父の友人夫妻である。父の友人が勤めている会社の保養施設に泊まるのである。
誘われた時は何となく乗り気ではなく、むしろ青ヶ島に行くことにときめいていた。しかし、滅多にない機会だから行くことにした。そして、折角行くのだから楽しもうと思い、図書館でガイドブックを借りて下調べをした。はじめはハワイ島に行くのに、間違ってオワフ島の本を借りたりしていた。
ガイドブックによれば、ハワイ島はハワイ諸島最大の島で、その大きさは四国の半分くらいもの広さがある。そして富士山よりも高い4000m級の山がふたつもある。面積は青ヶ島の1700倍、標高は青ヶ島の10倍である。もはや「島」として比較することに意味がない。
泊まるところは、絵に描いたような「リゾート」であった。まるでカタログを見ているようである。クイズ番組で全問正解した芸能人に送られる賞品のようでもある。父と「出来過ぎだ」と話していた。対して妹は「リゾート」を満喫しているようであった。
その「リゾート」は島の西側、溶岩のごつごつした荒野の中に突然存在する。全てが人工物である。ヤシの木もビーチも人工的に作られたものであり、快適だが何となく不自然な感じがした。海に行くと、魚が沢山泳いでいるのが見えた。一通り魚を見た後は、父と岩にへばりついたウニを採ろうと躍起になっていた。どこに行っても発想は変わらない。
2日目は、キラウェアカルデラに行った。要は巨大な噴火口なのだが、圧倒的な迫力があった。広大な荒野に開いた噴火口は、常識を超えた光景であった。もしこれが日本にあれば、神社と温泉が作られたに違いない。
3日目は、朝早く起きて私だけ先に帰路についた。さすがにこれ以上有給を取ることは出来なかった。父と妹はもう1日、父の友人夫妻はそのまま一週間ハワイに滞在する。結局ハワイを楽しめたのは1日半のみであったが、楽しい旅であった。
ウォッシュレット
本当にどうでもいい話なのだが、ハワイにいる時に生まれて初めて「ウォッシュレット」を体験した。これまで「ウォッシュレット」が良いということは、頭で分かっているが、体が受け付けなかった。どうしてもあのスイッチが押せなかったのである。
トイレットペーパーでは限界があると言うことは、自明である。トイレットペーパーで拭くというのは、きれいになったと自分に言い聞かせる為の「儀式」に過ぎない。そういう実感が湧かない人は、指に便がついたときにトイレットペーパーで拭き取るだけで満足出来るかイメージしてみると良い。
そんな下らないことを考えながら、勇気を振り絞ってボタンを押した。しかし、あまりの気色悪さに我慢できず、すぐに「ストップ」ボタンを押してしまった。
こんな思いをするくらいなら「儀式」でいいと思った。タイでは用が済んだ後、桶に貯めてある水を尻にかけて終わりだと言う。日本人にとっては不潔に思えるかも知れないが、逆にタイ人にとっては紙で拭くだけの日本人の方が不潔に映るであろう。それは自分の「儀式」と異なるからであり、どちらがきれいということはない。
要は何でもいいのである。ある程度の清潔さは必要だが、過剰な潔癖は資源の無駄遣いである。
本当に下らないことを書いてしまった。不愉快な思いをした方は、どうか寛容に読み飛ばして下さい。
9月23日 無題
今朝は久しぶりにリコーダーのレッスンに行った。レッスンをしながら、いまいち音楽を感じることが出来なくなっている自分に気付いた。メロディやリズムの持つ意味を感じ取るのが苦手になっている。あまり音楽に触れていないと感性が鈍るのかと思った。
レッスン後は家に戻って昼寝をし、夕方に起きて近くの広島焼きの店に行った。私は広島焼きが大好きで、週に2回くらい食べている。週末はインターネットで探して都内の評判店を食べ歩いたりもしている。
周りの人とお好み焼の話をしても、大抵は「味の違いがよく分からない」とか「要はソースの味だろ」と言われる。私にとっては店によって味が全然違うと思うのだが。
要は食べる頻度だと思う。ラーメンをよく食べる人はラーメンの味の違いがよく分かるらしい。一方私は、醤油、塩、とんこつ くらいの差は分かっても、それ以上はよく分からない。
なんだかだらだらと書いてしまった。現在夜中の2時である。明日からハワイに行くのだが、なんの準備もしていない。
9月19日 「女王の教室」最終回を見て
ドラマ「女王の教室」が17日で最終回を迎えた。学校ドラマの中でかつてない異色作である。ストーリーを大雑把に言うと、小学校のあるクラスに「阿久津真矢」という恐ろしい教師が来て、クラスを恐怖に陥れる。生徒達は、その中で戸惑いながらも「阿久津真矢」に負けまいと、必死で成長していく。しかし、実はそれこそが「阿久津真矢」の教育方法であり、それに気付いた生徒達は「阿久津真矢」を慕うようになるが、彼女の教育方法が教育委員会で問題視され、卒業式を前に担任を辞めさせられてしまう。
こう書けば陳腐な内容になってしまう。このドラマの凄いところは、一歩間違えれば陳腐になってしまいかねないテーマを、優れた演技と音楽、映像、そして並外れた構成力と気迫で描ききったことだと思う。
はじめは、もうこのドラマのことを「つぶやき」で書くつもりは無かった。このドラマが優れた「表現」だと思ったからである。「表現」と言うのは、言葉で端的に表せないものだからこそ、音楽や、絵や、映画や、ドラマにするのだと思う。「世界に平和を」とか「地球を大切に」と露骨に言う作品を、私は「表現」とは思わない。そういう意味で、このドラマについて書くのは難しすぎると思ったのだが、とある人に「是非書いて欲しい」と言われたことをきっかけに、このドラマと改めて向き合ってみようと思った。私個人の頭の整理も兼ねている。私見多々あるが容赦願いたい。
まずはじめに勘違いしてはならないのは、このドラマは、「『阿久津真矢』の教育方法が良い」とは、ひとことも言ってないことである。最終回で病床の「阿久津真矢」は、「私は、自分が素晴らしい教師だなんて、一度も思ったことはありません。どんな教師を素晴らしいと言うのかさえ、まだ分かりません。」と語っている。これは「阿久津真矢」の謙遜ではなく、このドラマを作った人たちの本音ととるべきだと思う。
その上で、私が感じた重要なポイントとして、3点挙げたい。
ひとつは、「阿久津真矢」の言葉である。彼女のセリフは、ドラマで登場する子供達に向けられているようで、テレビを見ている私達に向けて語られている。その言葉は、刺す様に強い。例えば、彼女は教育で教えなければならない重要なこととして
・一生懸命勉強すること
・目上の人を敬うこと
・悪いことをすると罰を受けなければならないということ
の3点を挙げているが、その通りだと思う。基本中の基本だと思う。音楽で言えば、楽譜の読み方や、楽器の持ち方のようなものだと思う。もしそれを崩すことがあるとすれば、十分に習得した後である。基本を教えずに、いきなり崩すことを教えてはならない。
ふたつめは、「逆境」の捉え方である。苦しいことや辛いことは、悪ではない。悪いのは、苦しいことや辛いことから逃げることや、第三者により無条件で取り除かれることである。「辛いことや苦しいことから逃げずに向き合い、打ち勝て」と、このドラマは明確に主張している。勿論この主張は、子供だけでなく、大人にも向けられている。
そして、みっつめは、このドラマの原点とも言えると思うのだが、子供を肯定するところである。このドラマには、子供が元気よく疾走する場面が沢山出てくる。どんなに辛くても次の瞬間に笑顔がある。このドラマを見ていると、子供を否定することや、諦めることは絶対にしてはならないという気がしてくる。
以上、色々書いたが、やはり後味が悪い。このドラマを上手く言い表せた気がしない。しかし、書いた内容は満足できないが、私の頭はかなりすっきりした。「とある人」に感謝!である。
9月18日 散髪屋にて
今日は散髪に行った。シャンプーをする時に「痒いところはありますか?」と聞かれた。お決まりの文句である。「ありません」と答えると同時に、私は嘉門達夫の「怒りのメドレー」という歌を思い出していた。歌といっても、ほとんどが語りである。以下、そのセリフ。
「かゆいところは ありませんか?」
「おしり」
「いや あの アタマでかゆいところはありませんか?」
「ツムジの左45度」
ばかばかしい歌だけど、言われてみれば本当に痒いところがあった時、どうすればいいのかと思った。
9月11日 賛否両論多々
現在テレビでは、衆院選の結果を報道し続けている。自民党圧勝の中で、野党は自民党を「国民を惑わす」という表現で批判している。「国民の7割は郵政の詳細を知らない」とも言っている。対して自民党は「国民に失礼だ」と反論している。
これらの野党の発言に、まるで「国民は馬鹿だ」と言われているようで、腹が立った。確かに国民の殆どは政治の詳しい話など知らない。そんなことよりも自分の生活の方が大事だからである。各党が論じる内容はきちんとに準備されている為、よほど無茶苦茶な内容でなければ国民は信じる以外に無い。「信じる以外に無い」内容なのに、全く正反対のことを各党が述べているからどれが本当か分からない。
だから、多くの国民はインスピレーションで選ぶのである。表情や喋り方から候補者の熱意や誠意を読み取るのである。それしかないし、それでいいと思う。それをマジックやら催眠術と言われたら選びようが無い。
「女王の教室」の初回放送時、日本テレビに非難が集中し、放送中止を訴える等大論争を巻き起こしたということを最近知った。初回で生徒が失禁する場面やら、第2回の防犯訓練でナイフを突き付ける場面が問題視されたらしい。
私は驚いた。私は初回から欠かさず見ており、「つぶやき」にも何度か書いている。一体どんな批判があったのか興味を持ち、ネットで調べたが、番組の掲示板を見てもブログを探しても絶賛の意見しか見当たらなかった。
これは、回が進むにつれて明かされる番組の深さに、批判者達が前言撤回したのであろうか?
よく考えたらそんなはずは無い。批判する人達が次回から見るはずが無いからである。見ないと批判は書けないし、見るということは面白いと思うからであろう。回が進むにつれて、見ている人の意見に埋め尽くされたと考えるのが妥当であろう。番組の良否は、視聴率推移やDVDの売上げくらいでしか判断できないし、それが最も説得力のある結論だと思う。
「エンタの神様」を見ていたら、「クワバタオハラ」という女性コンビのひとりが乱心し、観客や他の芸人、そして芸能界そのものを非難した挙句、乳を出そうとして、相方の暴力を受け、袖に片付けられていた。
私は不愉快だと思った。これがアクシデントだとしたら放送するべきではないし、ネタだとしたら全く面白くないと思った。ところが、番組の掲示板には意外にも「面白かった」「これからも頑張れ」と言った意見が多かった。対してクワバタオハラのホームページには痛烈な非難が集中していた。
あれを見て面白いと思う人もいると言うのは、ある意味衝撃だったが、一方そういう感性の人もいるんだと新鮮な思いがした。しかし、番組の掲示板に肯定的な意見が多かったのは、内容を事前に検閲し、あまりに酷い非難は削除していたからだと思う。
9月10日 明日は総選挙
今週末もヒマだった為、久しぶりに部屋の掃除をすることにした。モノが散乱していて足の踏み場もなくなってきたからである。
掃除をしていると、、NHKの「週刊こどもニュース」で、選挙についての解説をやっていた。「小選挙区」と「比例代表」の意味、「衆議院」と「参議院」の役割等々…。小中学校の社会科の授業で習った記憶があるが、私にとって苦手な概念らしく、いくら読み返しても理解出来なかった。
恥ずかしながら、今更ながら理解することが出来た。これまで「なぜ参議院で否決されたのに衆議院が解散するのか」等、本気で分からなかったのである。
9月6日 「青酎」
最近、毎日のように青ヶ島の焼酎「青酎」を飲んでいる。青ヶ島の数少ない名産品のひとつで、本土ではなかなか手に入らない為「幻の焼酎」と言われている。
私が初めて「青酎」を飲んだのは大学四年の時、ミヤチ、シゲオ、カナと八丈島に行った時に買い、帰りの船で岩海苔を食べながら飲んだ。ミヤチは船酔いでダウン、シゲオと私は「船酔いか酒酔いか分からん」と言いながらフラフラ甲板を徘徊していたのを覚えている。
先月青ヶ島に行った時、民宿で青酎を飲ませてもらった。そこで60度の青酎を飲んだ時はあまりの美味しさにびっくりした。売っている青酎は25度か30度である。どこで手に入るのか聞いたが、「売り物ではない」とのことであった。青ヶ島でしか飲めない、本当の幻の焼酎である。
青ヶ島では、青酎を4本買った。2本は土産用、2本は自分用である。重くなったバッグを背負って青ヶ島を後にする時、民宿のオバチャンに「それはニセモノだ」みたいなことを言われてびっくりした。彼女曰く、「それらは大量生産する為伝統的な製法を守っていない」らしい。
とは言え、非常に美味しい。八丈島でも何種類か飲んだが、八丈島の焼酎とは比べ物にならないくらい美味しい。そして、「青酎」と「あおちゅう」、二種類あるのだが、味が全然違う。
そして、どちらも製造元の住所は「東京都青ヶ島村無番地」である。青ヶ島には番地の概念がないらしく、住所は全て「無番地」である。
「無番地」と言うのが、なんかかっこいいと思った。
9月4日 無題
今日は近くに小泉首相が演説に来るので、自転車で見物に行った。近くとは言っても、自転車で40分程度はかかる。
行くと、物凄い人だかりがあった。警官も多数おり、想像以上の厳戒態勢であった。
小泉首相は、選挙カーの上で大声で演説していたが、喋りすぎで喉が枯れていることと、スピーカーが反響していることで、半分も聞き取れなかった。ともあれ昨日の政見放送と同じ内容を喋っていることだけは分かった。
ともあれ私もミーハーっぽく、周りの人のようにデジカメで写真を撮って帰ってきた。
その後は、島根に旅立つダイスケサンの送別会に行った。日曜の夜なので人はあまりいないと思っていたら、30人以上も人がいた。タキザワサンなどは、「今日明日にでも子供が生まれる」という状況で来ていたらしい。私が民研に入る前の先輩から、私が卒団した後の後輩までいて、ダイスケサンの人望の厚さを感じた。
9月3日 祭へ
今日は、9月3日である。9月3日と言えば、越中八尾の風祭「おわら風の盆」の最終日である。毎年9月3日近くになると、頭の中を胡弓の音色が鳴り続ける。そして、美しい町並みと踊りの姿が目に浮かぶ。そして、おわらに行きたいと思う。今年は9月3日が土曜日に当たるので行こうかとも思ったのだが、ここの所旅行続きで疲れた為、家でのんびりすることにした。
そして、今日は寮の近くの駅前で阿波踊りをやっている為、そちらを見に行くことにした。先週、馴染みのお好み焼き屋で、オッチャンに「週末は阿波踊りやってて結構盛り上がるから見に来なよ」と言われた。するとオバチャンは「今の若い人は阿波踊りなんかで喜ばないよ」と言ってたので、「実際やってました」と言うと驚いていた。
行ってみると、狭い商店街に人がひしめいており、小規模ながらも盛り上がっていた。2年ぶりに阿波踊りを見て、思わず泣けてきた。阿波踊りの原型は精霊送りと言われる。主流の盆踊りが輪踊りで先祖の霊を歓迎するのに対し、阿波踊りは行進して先祖の霊を村境まで送り出すのである。
現代の阿波踊りがそんな意味合いを持っているとは思えないが、そのステップと手の振りは、そういう源流があることを物語っている気がした。男踊りは普通に考えればガニマタでダサい筈なのに、洗練されていてかっこいいと思うのは、不思議である。女踊りは美しいだけでなく、力強い。
面白かったのは、「極真カラテ連」であった。「チャンカチャンカ」のリズムに乗りながら、「正拳突き」で行進していた。さすがにどうかと思ったが、阿波踊りはなんでもありである。
topへ