2005年
11月のつぶやき




11月27日 寮にて

 夕方、寮に戻ってくると、ロビーで4,5歳くらいの女の子が走り回っていた。寮長のお孫さんらしい。「こんにちは」と声をかけると、「こんにちは」という元気な返事が返ってきた。続いて寮長の奥さんも現れた。

 奥さんと立ち話をしていると、女の子から「お兄ちゃんはなぜここにいるの?」という質問がきた。「ここに住んでいるからだよ」と答えると、「なぜここに住んでいるの?」と聞かれた。難しい質問である。そう言えば何故だろうと思っていると、寮長の奥さんが「また何故何故が始まったわね」と言って流してくれた。

 そう言えば、子供に「お兄ちゃん」と呼ばれるのはあと何年であろうかと、ふと考えた。


11月25日 「愛」について

 覚えている人もいると思うが、大学3年の時、サークルの飲み会で、私達は「愛」について大議論をしたことがある。当時の民研は、3年生が「選曲テーマ」というものを作り、それをもとに一年間歌う合唱曲を選曲するのだが、その時の「選曲テーマ」が「愛」で、選ばれた曲のひとつに「百万本のバラ」があった。

 「百万本のバラ」は、1982年にソ連で流行した歌で、貧しい絵描きの青年が旅の踊り子に恋をし、小さな家を売り払って百万本のバラを購入し捧げるが、結局恋は成就せず、踊り子は他の町に行ってしまうという内容である。真偽は定かでないが、当時ソ連では、このレコードが2千万枚売れたという。

 当時の私は、「青年の態度は愛などではなく、ただのナルシシズムだ」と主張し、さんざん非難された。「本当に踊り子を愛しているのなら、バラを送るなど迷惑なことはせず、静かに身を引くべきだ」とも言った。飲み会は荒れ、同期から「学生指揮者がこの歌を理解していないのは問題だ」と糾弾された。実は、この時の私の主張には出典がある。

 「『つらい愛』『楽しい愛』」(加藤諦三著・三笠書房)は、社会心理学者の著者が「これを書いた時、私は自殺寸前まで追いつめられていた」と、冒頭で但し書きを付けている本である。この本では、「(好きな男が他の女を愛していると知った時)もし女が本当に男を愛しているのなら、黙ってそばを離れるべきなのだ」と言う。「『情熱』と『愛』を間違えるな」とも言っている。今読み返せば、9割は下らないが、1割は大いに納得出来る本である。当時の私は、大真面目に「愛」をどう捉えていいのか分からず、こういった本をいくつか読んでいた。

 さて、「つぶやき」には殆ど登場しなかったのだが、私には4年近く付き合っている彼女がいる。当時の民研は不思議で、誰と誰が付き合っているということは、あまり表沙汰にされなかった。「つぶやき」に彼女のことを書かなかったのは、そういった流れを汲んでいるからであろう。しかし、ここまで来ると、例えば、二人で旅行に行ったのに、あたかも一人旅をしたように書く方が不自然である。

 「結婚しよう」と言ったのは随分前の話だが、ここのところ具体的になってきた。来年の4月までには入籍し、一緒に住むことになる。結婚を決めた理由は、一生共に生きることを決めたからである。それ以上の理由は無いし、それ以上の理由は不純だと思いたい。

 例えば、女性を可愛らしいだとか、美人だとか、豊満だとか思うのは、単なる生物学的反応である。当たり前だが、そんなことで結婚を決めてはならない。もしかしたら、器量が良いとか、性格が良いとか思うことさえ、客観的に見れば生物学的反応かも知れない。

 「LOVE」を日本人は「愛」と訳したが、本来の「LOVE」には「大切」と言う意味が含まれているらしい。私は今、彼女を「大切」に思っている。しかし、そんなことはどうでもいいのである。そのうち、彼女を「大切」に思えなくなる時、心から憎らしく思う時さえ来るかも知れない。その時に冷静に原点に戻れるか、そして、何があっても「『大切』にしようと決めたんだから大切にしよう」と思えるかが大事だと思う。


11月23日 今日見た映画

 今日はヒマだったので寮の近くの映画館に行った。以前から気になっていた「ALWAYS三丁目の夕日」と「私の頭の中の消しゴム」を続けて見た。

 「貧乏が、よかった。」と言うのは、「ALWAYS三丁目の夕日」のキャッチコピーである。私がこの映画を見ようと思ったのは、このキャッチコピーに心を動かされたからである。敢えて「貧乏『が』」と言っているところが力強い。痛烈な現代批判とも取れるほどの力強さがある。映画は、昭和33年を舞台に「三丁目」の人々が、貧しいながらも泣き、笑い、精一杯生きる姿が描かれている。原作は西岸良平氏のマンガである。

 キャッチコピーの通り、映画は力強く、そして美しかった。あまりに美しくて、「ALWAYS三丁目の夕日」と言う題名が出る前から涙が止まらなくなった。映画は、全編を通じて愛情と希望に満ち溢れていた。ちょっとしたセリフや仕草にもきめ細かい愛情が注がれており、暖かみがある。

 原作は、一話完結のほのぼのとしたマンガである。これを映画でやろうと思ったところがまず凄いと思った。そして、一話完結という原作のスタイルを保ちつつ、映画としての大きな流れを作り、クライマックスへ持っていく構成力が凄いと思った。

 「小さな感動」が立て続けに来るので、10分おきくらいに涙が出た。鼻水も出た。声を上げそうになるのを我慢していると、今度はしゃっくりが出た。「涙が枯れる」という感覚を嫌と言う程体験できた。

 この「つぶやき」を書きながらインターネットで調べていて知ったのだが、「貧乏が、よかった。」というキャッチコピーを含むテレビCMを作ったのは、なんとスタジオジブリであった。

 「私の頭の中の消しゴム」は、残念ながら面白くなかった。「ALWAYS三丁目の夕日」で感情移入し過ぎて疲れた為かもしれない。建築家の男と、若くしてアルツハイマー病になり、少しずつ記憶が失われていく女性のラヴストーリーである。「愛している」ということさえ忘れてしまう状況下での愛が描かれている。

 批判を書けばきりが無いので、この映画が面白くないと思った理由をひとことで言えば、この映画が俳優の為に作られたように感じたからである。

 チョン・ウソンのかっこよさや、ソン・イェジンの可愛らしさを表現する為に、脚本が書かれている気がする。映画のテーマさえも、俳優を引き立てる為の手段に過ぎない気さえしてくる。私は、テーマを表現する為に全力を注ぐような映画の方が好きである。

 ともあれ、映画も沢山見られて、満足した休日であった。


11月21日 地震車に乗る

 先週の避難訓練で、地震車に乗る機会に恵まれた。地震車とは、さまざまな震度を再現できるトラックの様な車で、工場内で行った地震対策の検証の為に呼んだのである。

 検証の前に、震度の感覚を知ろうと言う話になり、始めに人が乗ることになった。私は前から乗ってみたかったので、喜んで飛び乗った。

 「震度7の縦横揺れ」というのは、強烈であった。踏ん張れば立っていられる気もするが、突然来たらさぞかし驚くであろう。検証の様子はビデオカメラで記録されており、私が「震度7の縦横揺れ」でうろたえる姿がばっちり記録された。

 それにしても、「震度5強」の震度は全く大したこと無かった。この程度の揺れでは、家の多くのものは無事であろう。この程度の揺れで「倒壊の恐れ有り」という話題の耐震強度偽造住宅は、危険だなぁと思った。


11月14日 足を痛める

 左足が痛い。昨日のマラソンで痛めたらしい。昨日の時点では大したこと無かったが、今日痛みが増していた。筋肉痛も来た。仕事の帰りは、少しびっこをひいたような歩き方になった。

 こういう感覚は懐かしいと思った。高校時代は筋肉痛も、体のどこかを怪我しているのも、普通の状態であった。なんとも無い方が珍しかった。そして、大抵は「サロメチール」を塗っていれば緩和された。

 サロメチールが有るか探してみたが、無かった。買おうとも思ったが、他に使うことも無さそうなのでやめた。


11月13日 今週末

 曜日は、久々に笛部の練習会があった。12/10の「ふるさと中村音楽祭」に出る為、練習をしたのである。練習後、皆で食事をして帰ろうとすると、シラトが「飲みましょう」と言う。シラトから飲もうというのも意外だったが、もっと意外だったのは、今日は「酒の休閑日」と決めていたはずのアユミが賛同したことであった。「酒の休閑日」は翌日に延期するらしい。

 結局、シラト、チエミ、私の3人は他の飲み会に合流して二次会まで飲んだ。明日はマラソンなので早く帰ろうと思っていたのにうかつであった。帰りの電車では1駅乗り過ごし、家に着いたのは夜中の12時半頃であった。

 曜日は、5時前に起きた。まだ真っ暗である。昨日の酒はまだ残っており、二日酔いというよりは、普通に飲んだ後の感覚であった。酒がまだ胃の中に残っている。しかし、今日は小田原マラソンに出場する為、6時半横浜駅着の東海道線に乗らなければならない。

 しかも眠い。これから山道を10キロも走るのかと思うと憂鬱だった。電車が横浜駅に着くと、ナオとマサカワが乗ってきた。カオリも来る予定だったが、風邪が悪化して欠席となってしまった。笛部の練習の時から具合が悪く、「見学にするかも」と言っていたが、本格的に悪化した為来れなくなってしまった。

 小田原に着いてウォーミングアップしている時には、酒は抜けたものの、まだ眠かった。完走出来るか不安だった。しかし、走り出すと何とかなる気がしてきた。

 走りながら色々考えた。ナオもマサカワも私も、走るのが好きだからこんなことをやっているのである。しかし、当たり前だが、走っている間はしんどい。走るということは、楽をしたい自分に打ち勝つことなのかと思った。

 最後の急な坂を登りきってしばらく走ると、急に小田原の市街と海が眼下に広がった。小田原は海と山の両方の雰囲気を持つ美しい町である。走っていなければこういう景色に感動はしないであろう。

 マラソンを終え、帰りの小田原駅の階段で、マサカワと私は無意識でエスカレーターに乗っていた。マサカワも私も普段は階段を使うようにしているのだが、さすがに疲れたらしい。と思ったら、ナオは横の階段を平然と歩いていた。そして「これからはバスを使わずに和田坂を登って帰るようにします」と語っていた。強いなぁと思った。

 横浜では「牛角」で焼肉を食べたのだが、ナオは飲み物を注文する時、「ビール以外のものを注文してもいいですか」と私に聞いていた。何でも注文していいよと言った。また、帰るときはさすがに疲れたらしく、「今日はやっぱりバスで帰ってもいいですか」と聞いていた。

 ナオは真面目で面白いなぁと思った。


11月11日 部屋干し柿

 先週、父から柿が送られてきた。実家でなった柿である。硬い柿、じゅるじゅるに熟した柿、渋い柿、虫食いのある柿等々、市販の柿と違って柿に個性があって面白い。

 気持ち悪く思う人もいるかもしれないが、じゅるじゅるに熟した柿は最も美味しい。硬い柿もそれなりに甘くて美味しい。虫食い柿も虫食い部さえ取り除けば普通に食べられる。

 しかし、渋柿をそのまま食べたところ、口の中がシワシワになるような不快感に襲われた。「渋い」という感覚を初めて体験して、流石にこれはこのまま食べられないと思った。

 そこで、残りの渋柿は干し柿にしようと思い、インターネットで干し柿の作り方を調べた。皮を剥いて放っておくだけでよいことが分かった。

 しかし、残りの渋柿は2個だけである。寮の屋上に干したりしたら、雨に濡れるかもしれないし、カラスに食われるかもしれない。かといって、部屋に干したらカビが生えるかもしれない。

 悩んだ末、部屋干しすることにした。それも、扇風機の前に紐でぶらさげて、朝と夜の2回、タイマーを使用して3時間ずつ送風で乾かすようにした。恐らくこんな方法で干し柿を作る人はいないだろう。勿論上手くいくかどうかも分からない。

 今日2個のうちひとつを食べてみた。ちょっと酸っぱかったが、丁度干し柿になりかけのような「半熟」状態になっており、美味しかった。

 多分腐ってはいないと思うが、ふたつめも早めに食べようと思った。


11月6日 フォークを聴きに行く

 今日は母と妹とで浅草へ「Modern Folk 2005」というコンサートを聴きに行った。10のフォークバンドが20分の持ち時間で次々に演奏するコンサートである。

 行く前は、あまり乗り気ではなかった。出演者は皆50過ぎのオッサン、オバハンである。彼らの自己満足的な演奏を聴かされるだけだと思っていた。

 ところが、演奏はどれも素晴らしかった。彼らの中には、アマチュアでずっとやってきた人もいれば、一度プロを辞めて、最近再結成された人もいる。彼らの演奏は、若いプロ奏者の様な急激に磨き上げられたものではなく、長い時間をかけてゆっくりと磨かれた安定感と味わい深さがあると思った。

 私が最も感動したのは、小林啓子さんという方の演奏であった。30年の歳月を経て音楽活動を再開した彼女の声は、50歳を過ぎているとは思えない程若々しく、50歳を過ぎているんだと納得させる程、味わい深かった。

 彼らは人生の大先輩である。私の倍以上生きている。彼らにとって「夢」とは、若い人の様に現実から離れたところにあるのではなく、日常の中に自然と存在しているように思えた。年をとるのも悪くないと、心から思った。


11月5日 色々

 ゲオが来るということで、飲み会に行った。金曜の夜である。9時半頃仕事を終えて、そのまま横浜に向かったのだが、会社を出る時に彼に電話すると、「今横浜にいるけど、誰もいなくて途方に暮れている」という内容の返事が帰ってきた。とりあえず、いろんな人にメールでその件を伝えると、今度は何人かから、「シゲオが圏外から動かない」という苦情が来た。どうやらすでに圏外で飲み会が始まっていたらしい。

 深夜の1時頃白木屋に着くと、いきなり「格好が冴えない」と言われ、続いて「お前は子悪魔をどう思うか」と聞かれた。どうやら「子悪魔とは」という議論を延々としていたようである。しばらく話を聞いていると、「メイド喫茶」に次ぐ人気喫茶を模索しているうちに「子悪魔喫茶」が提案され、具体的な子悪魔像について語り合っていたらしい。

 結局明け方まで飲んで、ラーメンを食べようとしたがどこも開いておらず、そのまま解散した。

 「リベラ」は、イギリスに住む少年による、ボーイソプラノのユニットである。白木屋のBGMで初めて彼らの音楽を聴いた。その時はそれが「リベラ」の音楽であるということは知らなかったが、透明な歌声と独特の和声・メロディは、既存のジャンルには属さない新鮮さがある様に思えた。

 次の日、銀座のヤマハに行き、白木屋で聴いた音楽を探した。手掛かりは昨日聴いた曲の記憶だけなので、試聴コーナーにある曲を片っ端から聴いて回り、見つけた。私が白木屋で聴いた曲は、「VISIONS」というアルバムの8曲目「自由への翼」という曲であった。

 「リベラ」は、元々は「セント・フィリップス少年聖歌隊」という名前だったが、どこかの教会に所属している訳ではないらしい。プロデューサーであるロバート・プライズマンにより集められた8歳から17歳の少年で構成されているが、彼らは「リベラ」に入るまで殆ど歌った経験が無いという。曲は賛美歌やミサ曲をモチーフに作られたオリジナル曲が多い。

 「リベラ」の音楽は、ピュアでニュートラルだと思った。加えて変声期を迎える危うさも魅力のひとつとなっている。俗世間を忘れて落ち着いた気分に浸れる音楽である。

 「淀工グリー」の音楽は、俗世間を思いっきり匂わせてくれる音楽である。「ファイトU」は、淀工グリーの二枚目のCDである。「リベラ」と一緒に買った。「淀工グリー」の演奏を聴いていると、歌う高校生の顔まで浮かんでくる。

 彼らの演奏は、俗世間のしんどいことや辛いことに共感し、「それでもがんばろう」と言っているように聴こえる。中島みゆきの「ファイト!」の他、「時代」「秋桜」「サライ」等おなじみの曲が前作よりも多い。

 嘉門達夫の曲もあった。これらの曲の多くは自前で編曲しているというから凄い。確かに嘉門達夫の合唱曲は、書店でも見たことが無い。


11月3日 キムチ戦争

 中国と韓国がキムチを巡って闘っている。韓国が「中国から輸入されたキムチから寄生虫の卵が検出された」と報じた僅か10日後、中国も「韓国産キムチから寄生虫の卵が検出された」と全く同様の発表をした。これに対し、韓国側は「中国が発表した業者は中国向けにキムチを輸出していない」とし、中国による報復報道であると批判した。

 しかし、今日韓国の食医薬庁は、国産のキムチから寄生虫が検出されたことを発表した。しかし、専門家によれば「安全性には問題ない」という。

 当たり前だが、最も重要なのは、「寄生虫の卵が有るか無いか」ではなく、「その食品が安全か否か」である。安全性さえ確かならば、キムチの中に寄生虫の卵が有っても全く問題ないのである。中国の不確かな情報による報復措置も問題あるが、まずはじめに韓国は、寄生虫が発見された時、騒ぐ前にその安全性を確かめるべきだと思う。

 安全性を強調する一方で、韓国食医薬庁は当該業者の在庫キムチの流通を禁止し、寄生虫の検査を強化することとした。また、日本でも当該業者の検査を強化すると言う。

 これは過剰な措置だと思う。専門家は「100%安全」と言っているし、万が一回虫に住み着かれても死亡する訳では無い。寄生虫の卵が検出されたキムチ業者は殆どが零細企業だという。相当の打撃を受けるに違いないし、キムチ好きの私としては、何よりも「キムチが勿体無い」と思う。


 怖い事件

 静岡で恐ろしい事件が起こった。高校一年生の少女が、実の母親に劇物である酢酸タリウムを飲ませ、意識不明の重態にしたという。そればかりか、母親の入院後も投薬を続けていた可能性もあるという。また、母親が衰弱していく様子をブログで公開したり、デジカメで撮影していたらしい。取調べで「母親には親しみを感じていない」と供述しているものの、特に目立った確執は無いらしい。

 大衆はこういう得体の知れない事件に興味を持つのか、どのテレビでも大きく報道されている。大衆のひとりである私も、この事件に興味を持ち、インターネットを調べてみた。

 最も驚いたのは、少し調べるだけで少女の通っていた高校名のみならず、本名(らしき情報)、顔写真と思われる画像まで見つかったことである。また、少女の書いたブログは警察により閉鎖されたものの、コピーは他のブログで見ることが出来た。インターネット上では、どんなに情報規制してもしきれない。

 この事件に関しては、色々な人が意見を言っているが、どれが本当かと言うのは分からない。ただ私が思うのは、これは極めて特殊な事件だということである。即ち、この事件を通して現代が病んでいるとか、若者に異変が起こっているとか、インターネットが悪いとか議論するべきものでは無いと思う。

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