2006年
9月のつぶやき




9月24日 サイクリング

 今日は嫁とサイクリングに行った。私たちが住んでいる場所は「となりのトトロ」の舞台になった狭山丘陵が近くにある。狭山丘陵にはナショナルトラスト運動で保護された「トトロの森」と呼ばれる雑木林があったり、「八国山」(映画では「七国山」)という地名が残っていたりする。折角だからと、。「八国山」目指して自転車で向かった。近くに病院もあるらしい。

 道は気持ちよかった。市街地を離れれば、所沢はまだ田舎である。至る所に古い神社や茶畑があり、気持ちの良い風景が続く。道に迷いつつ二時間くらい走ると、「八国山」に着いた。「八国山緑地」と名付けられたこの付近は、雑木林の中に遊歩道が作られており、気持ちの良い散策が出来る。とりあえずリコーダーを取り出し、森の中で「トトロ」を吹いた。

 歩いていると、病院が見えてきた。こじんまりとしていて、清潔な感じの病院である。これがトトロで出てくる病院であろうか。

 ひととおり散歩して、家路についた。久しぶりに健康的な休日であった。


9月20日 雑記

 私見としての一般論を述べたい。以下の段落の整合性は一見無い。

 子供が非行に走ったとすれば、それは100%親の責任であろう。また、学校にて生徒が伸びないとすれば、それは100%教師の責任であろう。そして、もしも後輩のやる気が出ないとすれば、それは100%先輩の責任である。少なくとも、親、教師、及び先輩はそういうつもりでいなければならない。伝えるということは誠に難しい。しかし、人にものを伝えるとき、伝わらない理由を相手に求めてはならない。

 人が一生懸命努力をして少しずつ歩み続け得たものを、当たり前のように受け取り、それどころか更なる要求を平気で行い、その要求に満足する結果が得られたとたん、彼らを追い払ってしまうような行為があったとしたらどうか。それは人の道に悖る行為であると言わざるを得ない。しかし、そんな人の道に悖るような行為が、実際は至る所で行われており、知らぬうちに自分自身が加担していることさえありうる。普段から感性を研ぎ澄ませ、自分なりの真実を見極めなければならない。

 映画「ピアノレッスン」の劇中曲「楽しみを希う心」はとてもいい曲だと思う。最近、仕事からの帰り道は必ず聴いている。ストレスとか悩みとか、感情のドロドロした部分をドロドロしたまま表現した様なこの曲は、美しいというよりはむしろ生々しい。しかし、不思議と聴いているだけで癒されてくるのである。この曲が一日のモヤモヤを整理してくれる気がする。


9月15日 怒涛の一週間

 一週間が、終わった。今週は忙しいと予測していたら予想通り忙しく、目の回るような5日間であった。夢の中でも仕事をしていたし、ボーっとしている時も、気付くと仕事のことを考えていた。明らかにこなした仕事よりも増えた仕事の方が多い。自分の能力の無さを痛感する。

 「忙しくて忙しくて、それでもやることが山積みというのは、幸せのひとつの形」

 「四日間の奇蹟」に登場するこの言葉は、これまで何度も「つぶやき」に書いた。かみしめて思い浮かべると、改めていい言葉だなぁと思う。

 いくら忙しくても幸せだと思えるのは、ひとえに「職場」に恵まれているからだと思う。「会社」ではなく「職場」である。一緒にがんばりたいと思う人がいて、いざという時に助けてくれる先輩がいて、育ててやりたいと思う後輩がいる。モチベーションの原動力は、それに尽きる。

 そんな人たちに感謝し、精進しなければならない。


9月6日 おわらへ

 9月はじめの週末は越中八尾の「おわら風の盆」に行った。毎年この時期になると、仕事が手につかず、頭の中を胡弓が鳴り続ける。今年はたまたま祭の日が休日と重なったため、おわらを見に行くことが出来た。メンバーは7人、レンタカーを借りて八尾に向かった。

 夜の10時頃から見ていたが、全く面白くなかった。辺りは観光客で喧しく、踊りの群れをカメラを構えた観光客が追いかける。警備員の注意を呼びかけるスピーカーはけたたましく鳴り、伴奏の音色がかき消される。観光客の数は、初めて来た時よりも圧倒的に増えているような気がした。

 八尾の町が、揺れているのを感じた。観光客を誘致して盛り上げたい想いと、自分たちの祭を他人に干渉されたくないという想いが入り混じっていた。

 深夜、町は少し落ち着いた。おわらが本当に良いと思う瞬間は実は一瞬で、その瞬間に出会えるかどうかも分からない。今年は残念ながら、そんな瞬間には出会えなかった。思えば私たちだって、八尾の人々にとっては「招かれざる客」なのである。それでも見に来たくて来るのだから、断じて図々しくしてはならない。

 ともあれ、おわらを見た。おわらを見て、夏を終えた。

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