2007年
7月のつぶやき
7月30日 電気泥棒
イラハ飲み会に参加するため、西口で待っていたら携帯電話の電池が切れそうになった。途中合流のため、電池が切れて連絡が取れないのはまずい。近くを見渡せば、駅の柱にコンセントが有ったので、そこで携帯電話を充電しながら待っていた。
しばらくすると、イワオカとヒグチが現れた。彼ら曰く
「それって『電気泥棒』っすよ〜。捕まりますよ。」
それまで「電気泥棒」という言葉すら知らなかった。しかし、飲み会で他の人と話していても、「電気泥棒」と言う言葉がポンポン出てくる。そんなにメジャーな言葉なのか。
早速調べてみると、確かに「電気泥棒」と言う言葉はあった。窃盗罪にあたるという。大学生が路上で携帯電話の充電をしていて、通行人に110番通報され、取調べを受けたケースもあるらしい。その時の充電時間は30分。被害額は5銭だという。
そういえば学生時代、夏合宿の後、長野から鈍行で帰った際、相模湖に野宿した。深夜、工事現場のライトのコンセントを抜き、代わりにステマスが持っていたビデオカメラを挿して夏ステビデオをいち早く見た。更にビデオの最後、「感想」と称してわけの分からないコメントを録画して喜んでいた。
そんなことをしていたから、空いているコンセントを使うのが犯罪だとは思いもよらなかった。以後気を付けたい。
7月29日 夕凪の町、桜の国を見て
映画「夕凪の町、桜の国」を見た。原作はこうの史代氏の漫画で、原爆をテーマにした時代の異なる2編の物語を読んだ時に、全てがつながる様に作られている。
原作の漫画が大好きであった。何度も読み返し、優しい絵のタッチやそこに込められたメッセージ性の深さを味わった。ストーリーは、起承転結の原則を破った型破りの構成で、作者が苦しみながらこの作品を生み出したことがうかがえる。映画化されることを知り、封切と同時に見ようと思っていた。
映画も素晴らしかった。原作を忠実に再現しつつ、映画でしか出来ない表現も織り込まれており、非常に感動した。「夕凪の町」の最後、薄幸の人生をたどるヒロイン、皆波に弟が「原爆はなんで広島に落ちたんじゃろ?」と聞くのに対し、死を目前にした皆波が「原爆は落ちたんやのうて、落とされたんや」と応えるシーンがある。原作には無いセリフである。しかし、「夕凪の町」を語りつくしたからこそ意味の深まるセリフだと思った。
映画を見た後は、広島焼きを食べて家路についた。
7月28日 リコーダーコンサートを聴きに行く
今日は嫁と「スーパーリコーダーカルテットリサイタル」を聴きに行った。4人の男性リコーダー奏者による演奏である。
いいコンサートだった。さまざまなジャンルの素晴らしい演奏と緩いトークが絶妙であった。高校生の部活のように、必死で練習して心をひとつにするようなものではなく、たまたま達人が4人揃ったので遊び心満載に演奏してみたという感じがする。
例えば、ひとりがソロを必死に吹いているのに、他の3人は特に気にかけることなく思い思いの姿勢でボーっと待機していたりする。それがまた楽しい。人生を半分も生きれば、肩の力が抜けて新たな境地が開ける。そんな気楽さと希望を感じさせてくれるコンサートであった。
リコーダーのコンサートを聴いた後は、横浜のイラハ飲み会に行った。久しぶりの人もいれば、ぜんぜん久しぶりじゃない人もいた。みんな相変わらずで、飲み会も相変わらずであったが、キクチの話が妙に怖かったことのみ印象に残った。
7月22日
洗濯物ルール
洗濯物をたたみながら嫁と議論になった。乾いた洗濯物の取り扱いについてである。これまでは、洗濯物が乾いた時点でたたみ、クローゼットにしまっているが、たたむ手間、及び次の使用時にクローゼットから出す手間がかかるため、室内に放置しておきたい、というのが嫁の主張であった。
私は当初反対した。室内の景観を損ねるし、なによりだらしないと思った。しかし、冷静に考えると、嫁の主張は極めて合理的である。私が働いている工場でも日々改善が行われており、数秒でも無駄な時間をなくす努力を続けている。そのためには、これまで当然として行われていたことを見直す必要があるし、なにより既成概念を打ち破らねばならない。
議論の末、パンツと靴下はそのままぶら下げておくことになった。シャツとズボンはこれまで通りクローゼットにしまう。これで我が家の家事労働が少し減るかもしれない。
少女マンガを買う
凄く久しぶりに少女マンガを買った。くらもちふさこ氏の「天然コケッコー」というマンガで、映画の予告編を見ていたらどうしても原作が読みたくなったのである。少女マンガを買うのは、「ちびまる子ちゃん」以来であろう。
とりあえずブックオフに行って探してみたが、少女マンガの棚をうろうろするのはやはり恥ずかしい。早く見つからないかと思ったが、なかなか見つからない。結局新品を購入した。
早速読んでみたが、意外と面白い。舞台は山陰地方のとある山奥の村、生徒6人の小さな分校に東京からイケメンの転校生が来る話である。方言が心地よく、何気ない会話にも温かみがある。
少女マンガを読みながら、「話を聞かない男、地図が読めない女」を思い出した。少年マンガと少女マンガの違いは、右脳を使うか左脳を使うかの違いなのである。
少年マンガは空間感覚を重視しており、理論的な展開をする。だから、将棋の少女マンガというのは聞いたことが無い。
対して少女マンガは言語感覚が物凄く優れている。男の私からすれば、天才としか言いようの無い言語感覚に思える。冒頭の「小学校と中学校は渡り廊下でつながっててみんな家族みたいです。神さんも校庭でつながっているのでやっぱり家族です。」と言う表現に惹かれて本を読み進めたし、神社で主人公の少女「そよ」が淡い恋心を抱いている「大沢君」とふたりっきりになって少し会話をした後の「大沢君の――息が まだ おでこにのっかっとる」という表現も男には無い感性であろう。
だから、私にとって少女マンガは少々読みづらい。ゆっくり読まないと理解できないのである。それでも少しずつ読んでみようと思った。そして、映画も見てみたいと思った。
7月15日 色々
ビールを造り貯める
今日は、先週から仕込んでいたビールを瓶詰めした。夏場は気温が高すぎてビール酵母が死んでしまうため、夏前最後の醸造である。去年の秋から始めたビール造りはすでに16回目となっており、趣味と言うよりは、家事労働のひとつとなってきている。
瓶詰めを終えた後、本数を数えてみたら、なんと70本もビールがあった。毎日一本ずつ飲んでも9月末まで持つ。10月になったらまた醸造が出来る気温になるだろう。
自分で作るビールは美味しくて安い。その味もバラエティに富んでいて、キリンラガーとスーパードライの差など吹き飛ぶほど、色々な味のビールが作れる。ビール好きには是非お勧めの趣味である。
雨乞いの力
日テレの「世界の果てまで行ってQ」を見た。今日の放送は「雨乞いで本当に雨は降らせられるのか」という疑問に答えるために、中国四川省の少数民族であるチャン族の村に行き、実際に雨乞いをしてもらい、雨が降るか試すという内容であった。
見た人もいると思うが、結論から言うと本当に雨が降った。それまで晴れていたのに、雨乞いを始めたとたん黒雲が立ちこめ、わずか30分程度で雨が降ってきたのである。
晩飯を食べながら見ていたのだが、私は震えるほど驚いた。とてもヤラセには見えない。自然と共に生きる人たちの驚異的な力を垣間見た。
雨乞いの儀式は、思い描いていたものと違った。太鼓や鉦、果ては爆竹や猟銃などで大きな音を立てる。ハイテンションで大きな声を上げたりもする。科学的には、大音量で空気を振動させたり、爆竹の煙で雨を作るための粒子の核を作ることが、降雨に関係しているのだという。
誠に面白い。雨乞いは、神頼みなどではなく、太古より伝わる生活の知恵なのである。
ブータンの音楽
ブータンで買ったテープを少し公開する。「Gyop Gyeser Ganglu」という曲で、ゲッサルと言う戦士が、戦いに行く際、残った家族に向けて思いを述べる歌らしい。伴奏は「ジャムゲ」と呼ばれる弦楽器で、三味線にそっくりな形をしている。
ブータンで購入し、移動中の車の中でかけてもらって驚いた。節回しが日本民謡とそっくりなのである。江刺追分を思わせるようなその旋律が気に入り、日本に帰ってからも何度も聴いた。
この曲は日本民謡の田舎節(ドレミソラド)の音階だが、その他にも沖縄的な音階の音楽や、インドの影響を受けたと思われる音階の音楽もあって実に面白い。
音楽を聴くにはコチラをクリック
7月8日 ネギネギラーメン
3日くらい前、仕事を終えて先輩K氏と後輩Nとラーメンを食べに行った。深夜の1時頃だったように思う。「仙龍」というラーメン屋で、かつて先輩が行ったことのあるという隠れ家的な名店らしい。
メニューは「ラーメン」「チャーシュー麺」「ネギラーメン」「ホルモンラーメン」の4種で、他には「ネギホルモン」などと組み合わせによるのみである。K氏とNはチャーシュー麺を注文した。私がネギラーメンを注文すると、店員から質問された。
店員:「当店のネギラーメンは召し上がったことがありますか?」
私 :「ないです」
店員:「当店のネギラーメンはネギを丸々3本使うもので、(手をテーブルから30cmくらいのところにかざして)このくらいの高さになりますが」
私 :「はぁ」
店員:「初めての方はトッピングの『ネギ増し』又は『ネギネギ』をお勧めしております」
ネギラーメンは全くお勧めしないらしい。むしろ食うなと言わんばかりであった。そこまで言われでは怖くて注文できず、「ネギネギ」とやらを注文した。
はじめにチャーシュー麺が来た。チャーシュー麺なのにネギチャーシューかと思うほどのネギが乗っていた。これだけあれば十分であろう。
続いて「ネギネギ」が来た。物凄いネギの量である。「ネギラーメン」にしなくてよかったと思った。むしろ普通のラーメンで良かったと思った。
しかも、ネギの香りが強い。厨房には「ネギカッター」があり、一瞬で大量の千切りが出来る。しかも、ネギの香りを損なわないようオーダーを受けてからネギをカットするようになっているらしい。
ラーメンは美味しかった。しかし、次の日まで自分がネギ臭かった。
7月1日 指輪のこと
もう一年以上前のことだが、ふと指輪のことを思い出したので書きたい。
有給を取って入籍をした翌日、会社で入籍したことを上司に伝えると、いきなり「指輪はどうした?」と聞かれた。買うつもりが無いと言うと、猛烈な反対を受けた。是非買うべきだと言う。隣にいた事務の女性も買うべきだと言う。当時の私は、結婚指輪と婚約指輪の区別もついておらず、その事務の女性に呆れられ、ゼクシィを読むように言われた。
ゼクシィを読んだ時の衝撃は忘れられない。日本語なのに、意味が分からないのである。英文を訳すときの様に、ゆっくりとなぞらないと書いてあることが理解できないのである。嫁いわく「よほど興味がないのね」。その通りであった。
それでもゼクシィを読んで分かったことは、ゼクシィで書いてある「結婚の常識」は、かなり割高に設定されており、これを信じて「結婚」というイベントを遂行すると、えらい出費がかかりそうだということであった。ゼクシィという雑誌は、勝手に「結婚の常識」を作り出し、読者の不安を煽り、余計な金を払わせる仕組みになっているらしいことが分かった。
さて、私は結婚して初めて知ったのだが、「婚約指輪」というのは、ダイヤモンドなど宝石の付いた豪華な指輪で、ドラマなんかで「給料の何か月分」みたいな表現で価格を示すものである。これは結婚式などで使う以外はタンスにしまっておくのが普通らしい。対して「結婚指輪」は輪っかだけのシンプルなもので、それほど高価ではなく、普段身に付けるために買うものである。
もう結婚したので、婚約指輪を買う必要は無い。結婚指輪を買おうということになった。例のゼクシィの指輪コーナーをパラパラめくっていると、今度は気が狂いそうになった。
全て同じに見えるのである。しかも指輪のページは物凄く多く、どんどんページをめくっているうちに訳が分からなくなってきた。それらの中で、特殊な製法で木目が入ったようになる指輪がなんとなく印象に残ったので、それを買いに行くことにした。
恵比寿の小さな装飾品店に行き、実物を見た。この指輪には金の指輪と銀の指輪があり、どちらにしますかと聞かれた。
究極の選択である。童話でこんな話があった気がする。金の方が3倍くらい高かったように記憶している。店員は勿論金の指輪を勧めている。金は安定な物質なので錆びることもなく、かつ金属による肌荒れみたいな現象も無いという。対して、銀は錆びると黒くなるし、人によっては肌が合わないこともあるという。
嫁は金の指輪に傾倒しているように思われた。私は即座に店員に対する反駁を考えた。銀スプーンと同じで、指輪だって、毎日身に付けていれば錆びることは殆ど無いだろう。万が一錆びたら歯磨き粉で磨けばよい。健康優良な嫁が肌荒れなどするはずも無い。しかも金は柔らかい金属である。ちょっとした衝撃でぐにゃりと曲がるかも知れない。傷も付きやすいだろう。何より金色の指輪なんて嫌味な感じがする。
上記のことは勿論声に出さず、「銀の指輪を」とだけ言ったように記憶している。あれから1年、指輪は錆びることも肌荒れすることもなく、私たちの指に納まっている。
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