2007年
8月のつぶやき




8月28日 長野へ

 先週末は長野に行った。行きのメンバーは、アツシ、セツ、シゲオ、モコ、ダケデ、キョウスケ、イワオカ、ユキ、キエ、ミゾグチクン、私の11人である。金曜の深夜出発で、かつ関東全域から集合するため、横浜、大宮、所沢にそれぞれ集合し、関越で合流して長野に向かった。

 一番の目的は、民研同期である峯村夫妻の息子に会うことである。その他、飯山の富倉そばを食べること、夏ステを見ること、いむらやでかたやきそばを食べることなど、さまざまな目的を持って長野に向かった。

 土曜日の早朝、信濃平の鈴荘に到着し、少し寝た後、峯村家に向かった。

 峯村家は本当に大きかった。新築である。学生の下宿まるまる一個分くらいの広さがある。更に、前住んでいた家がまるまる余っているそうである。長野はスケールが違うと思った。

 峯村夫妻の息子、天晴君は可愛かった。いきなり大の大人10人に囲まれたにも拘わらず、泣くこともなく落ち着いていた。まだ生まれて3ヶ月なのに、妙に貫禄があった。ダケヤンが「そのうちこの足にもじゃもじゃ脛毛が生えてくるんやなぁ」とつぶやいて女性陣に非難されていた。

 その後、天晴君の前で学生時代に歌っていた合唱を歌った。青森県民謡「おぼこ祝い唄」は子供が生まれたことを祝う民謡で、私達が一番好きな合唱曲である。天晴君の前で思い出しながら歌った。その後も昔歌っていた合唱曲を歌った。ロシア民謡の「ヴォルガの船曳歌」は心地良いらしく、天晴君はうとうとと眠り始めた。しかし、その後に歌った富山県民謡「むぎや節」はよほど嫌いなのか、終始不機嫌な顔をしていた。生まれて3ヶ月でもこんなに好き嫌いがあり、表情豊かなのが面白かった。

 それにしても長野は豊かだと思った。生活レベルが東京と桁違いである。それは、安心感とも言える。丁度この「つぶやき」を書きながら見ていたニュースで、ネット難民のことをやっていたが、ここはそんな世界とは無縁に思えた。支えてくれる家族や隣人が近くにいて、助け合いながら暮らしている。そんな安定感がどっしりとした土台としてある。勿論いいことばかりではないのだろうが、そんな暮らしに純粋に憧れた。


 その後は、夏ステを見た。私が民研に入ったのは9年前だが、驚くほど変わっていないものだと思った。

 夏ステが終わったあと、鈴荘で飲んでいたのだが、10月のタザワ結婚式の余興でやる石狩太鼓の素振りをしてみた。順番を覚えていないことと、素振りしかしていないのに手にまめが出来、かつ筋肉痛になったのがショックであった。それから、シゲオが提唱しているTBS(太鼓舞踊団シゲオ)の結成の話などをして寝た。自前で太鼓を買うのも悪くないと思った。また、ヤマダイの態度が相変わらずなのが面白かった。

 日曜日は、飯山名物「富倉そば」を食べた。ヤマゴボウをつなぎに使ったそばで、山奥のがけっぷちに立つ「はしば食堂」で食べられる。2年ぶりに食べる富倉そばは本当においしかった。その後、東部湯の丸で温泉に入り、帰路につく。横浜経由で帰り、自宅に着いたのは深夜0時であった。体力的にきつい旅だったが、車の中では終始懐かしい合唱曲を歌っており、楽しい旅であった。

↓はアツシがアップした夏ステ及び天晴君の写真
http://picasaweb.google.com/Atsushi.Minemura


8月19日 覚え書き

 夏休みの後半は富士山の疲れも癒え、ごそごそと色々なことをした。以下、その覚え書き。


8/16

 この日は秩父の長瀞へ川下りをしにいった。前日の夜、ネットをしていたいから、と嫌がる嫁を誘って秩父へ向かった。嫁のスタンスは「仕方なくついてきてやった」というものであり、はじめは文句を言っていたが、次第に楽しくなってきたらしく、帰りには「来てよかった」と言わしめた。

 夕方帰宅、その後は、下に書いたとおり、クーラーを寝室にひく「ダクト作戦」を決行するも、次の日には邪魔ということで撤去する。


8/17

 リコーダーのレッスンへ行く。テレマンのリコーダーソナタは♭が4つもつく難曲であった。楽譜どおり吹くので精一杯であった。次は同じくテレマンのカノンソナタ。テレマンの作曲技法に驚嘆するも、思い通り吹けず。

 その日の夜は、急遽リコーダー部の人たちと高円寺で食事をする。「奄美大島料理」という珍しいジャンルである。鶏飯(ケイハン)が絶品であった。意外に多く飲み、帰宅後の記憶なし。


8/18

 シゲオと共に劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」を観賞する。メンツは他にミヤザキ、キョウスケ、セツ。初めてのミュージカルに圧倒される。

 その後は同メンツにて東京タワーへ。階段で展望台まで登るも、暗い階段を登り続けるのみで面白くない。展望台からの景色も、富士山に比べれば全くたいしたことなく、土産物も遊戯施設も面白くない。二度と来ないなどと言いつつ東京タワーを後にし、新橋のガード下で飲む。意外に多くのみ、帰宅後の記憶なし。


8/19

 朝8時から地域の避難訓練。集合してみれば、「今日は朝○時に震度○の大地震があり、被害がナントカで負傷者が○名の想定で行います。情報伝達をメインとした訓練を行います」みたいなことを言われ、のんびり地元の中学校へ。

 中学校へ行けば、そんなこと関係なく、のんびりテントを張り、テントを張り終えたら疲れたでしょうとお茶が配られ、のんびり消防団の模範演技を見物し、のんびり消火器を使ってみたり、のんびり応急救護をしたりして、ゆったりとした時間が過ぎて、テントをたたんで終わった。

 午後は、アニメ「時をかける少女」を見る。意外に面白い。

 夜はNHKで「ハゲタカ」の再放送をやっていた。2回目だがこのドラマの持つリアリティと迫力に圧倒され、涙する。続いて「出口のない海」の最後を見る。少ししか見ていないが、この映画が言いたいのは感動的な別れや美しい死などではないことが分かる。この映画が言いたいのは、「人間魚雷」という残酷な兵器に対する怒りと、それを生み出した異常な環境への悲しみであろう。組織が大きくなればなるほど、ひとりひとりの人間は人間らしくみなされず、あたかも駒のごとく扱われる。それは現代でも同じことであろう。

 私にとって戦争は、このように映画や本でしか思いをめぐらすことは出来ない。しかし、せめて夏休みくらいはそのように過ごすべきだと、最近思うようになった。


8月16日 冷気をひく

 ついに嫁が音を上げた。暑さに耐えられないと言う。我が家にはクーラーがあるのはリビングのみで、寝室には無い。パソコンがおいてあるのも寝室であり、休みの大半をインターネットをして過ごすつもりの嫁としては、耐え難いという。

 なんとかリビングのクーラーの冷気を寝室に引き込めないか、という話になった。議論の末、クーラーの吹き出し口からダクトを伸ばしてパイプラインの様に冷気を寝室に引き込むことにし、早速ホームセンターに行った。

 ホームセンターでは、スーパーなどに置いてある、雨の日に傘を入れるためのポリ袋を購入した。

 家で、まずクーラーの吹き出し口をゴミ袋ですっぽり覆い、そこから傘袋をチューブ状に何枚もつなげてみた。ところが、冷気が弱くいまいちであった。

 続いて、ゴミ袋の底を切り開いたものを何枚もつなげてみた。これは上手くいき、無事寝室に冷気が引き込まれた。しかし、たいそう大掛かりであり、リビングは狭くなった。こんな状態で夕食など食えない。

 しかも冷却効率も悪く、冷房代もかさむと思われたので、どうしようもなく耐えられない時のみ使用することとし、普段は扇風機と冷茶でしのぐこととした。


左:リビングのクーラーから冷気をひく。非常に狭い。  右:寝室入り口。吹き出し口から扇風機で寝室に冷気を送る。




8月15日 だらだら

 会社に入って以来、これほどだらだらと夏休みを過ごすのは初めてな気がする。富士山登頂があまりに大きなイベントで、それから2日間家でごろごろと過ごした。

 今日は、終戦記念日である。新聞やテレビで、戦争に関する記事や番組を見た。この日は、なんとなく浮かれたことをしてはいけない気がして、だらだらに拍車がかかった気もする。



 だらだらまかせに、本を読んだ。アル・ゴア氏の「不都合な真実」とビョルン・ロンボルグ氏の「環境危機をあおってはいけない」である。私は、これからの時代で最優先されるべき課題は、環境問題だと思っている。しかし、二酸化炭素が増えると本当に温暖化するのか、温暖化すると本当に南極の氷が溶けて水位が上昇するのか、リサイクルは資源の節約に有効なのか、酸性雨は本当に森を枯らすのか等、人によって言っていることがバラバラで、何が正しいのか分からない。環境問題には、科学的な裏づけの他にさまざまな立場による利害関係が絡んでいることは確かである。

 そこで、さまざまな立場から環境を論じた本を出来るだけたくさん読むことにしている。上記の2冊は中でも対極にある本である。

 一生懸命読んでみたが、眠くなってきた。結局、よく分からない。もっと勉強せねばならない。



 今夜、今年初めてクーラーを使った。我が家ではクーラーは贅沢品という考えがなんとなくあり、今日まで30℃を超える室内でも扇風機と冷茶のみで過ごしてきたのである。しかし、外出から帰ってきた嫁がついにクーラーをつけようと言い出した。

 クーラーをつけた瞬間、かび臭い匂いとともに驚くほど快適な空間になった。クーラーすげーなどと言いつつ夕食を食べ、食べ終えたら30分ほどで電源を切り、元の暑い我が家に戻った。

 よほどのことが無い限り、クーラーは使わない。この感覚は夫婦ぴったり合っており、幸せなことだと思う。



 だらだらついでに、ネットで民謡を調べた。

http://st1.town.chiran.kagoshima.jp/content/moving.jsp?id=208
 知覧節のビデオが見られる。知覧節は間宮芳生の合唱曲として歌ったことがあり大好きな曲のひとつである。合唱では男女の恋みたいなのが歌いこまれていたが、そういう歌詞はなかった。素朴なメロディと伸びのある歌声、素朴な踊りが素敵である。

http://www.amakusa-now.com/03-02/usi-haiya-zennya01.htm
 牛深高校生によるハイヤ節。凄く上手い。現地のハイヤ節は阿波踊りみたいに行進するものと思っていたが、舞台用の振り付けもあるらしい。構成も凝っていて面白い。

http://www.amakusa-now.com/03-02/usi-haiya-zenya2.htm
 老人会によるハイヤ踊りの原型。これは凄い迫力である。舞台を見ているというよりは、遠い過去の牛深の日常を見ているような気になってくる。高校生も凄いが、やはり老人の味わい深さはピカイチでである。


8月13日 日本一高い場所へ

<集合〜五合目>

 先週末は、富士山に登った。メンバーはシゲオ、ミヤザキ、ケージ、シュウヘイ、メグ、ユキちゃん、嫁、私の8人である。土曜日の朝9時に大学に集合し、シゲオと私の車で富士山に向かう予定であった。

 富士山に登るとは言っても、屈強な人間はシゲオくらいであり、他は決して体力のある人たちではない。富士山に登るとは言っても、途中まで行って帰ってくるくらいの気持ちで考えていた。

 前日から、嫌な予感がしていた。何となく、富士の麓にすら着けないのではないかと思った。

 当日朝6時に起床し、大学に向かった。運転中、もうひとりの運転手であるシゲオに電話すると、なんと車がパンクしたらしく、タイヤ交換中だという。シゲオはなんとか集合時間には間に合いそうだと言っているが、怪しい。

 そうこうしているうちに、こちらも渋滞が酷く、間に合いそうになくなってきた。急遽集合時間を10時に変更し、私達は9時半頃大学に到着した。そして10時頃、シゲオに電話すると、なんと道に迷っているという。到着は11時頃になるであろうとのことであった。

 ふとメンバーを見渡せば、皆一様に表情が冴えない。特にメグは相当不安らしく、気が焦っているように見えた。ここでのんびりシゲオを待っていたら間に合わない、一刻も早く出発せねばという気運が高まってきた。急遽レンタカーを借り、シゲオとは現地集合ということになった。

 レンタカーを借りて、さあ出発というところで、シゲオが到着した。一日半借りるはずだったレンタカーは20分ほどで返却され、シゲオは皆から一斉に非難を浴びた。


<五合目〜八合目>

 何とか富士の麓に着き、シャトルバスで五合目まで向かう。五合目で変なラムネ(わさびラムネ、カレーラムネ、杏仁ラムネ)を飲んだ。

 この時、ミヤザキの持ってきたポテトチップスがパンパンに膨れていた。気圧が低いためである。ミヤザキは荷物が一杯らしく、このポテトチップスをパンパンのままユキちゃんに持たせて出発した。


左:登山前の元気な姿          右:五合目の変なラムネたち

 六合目までは、すぐに着いた。七合目も、割と平気であった。八合目は、今夜泊まる山小屋があるところである。この調子で行けば、予想以上に早く八合目に着くと思われた。しかし、八合目と思われる場所を目指している最中、他の登山客により衝撃の事実を知らされることになる。

 なんと、七合目はふたつあり、今までいたのは「新七合目」で、次の休憩場所は「元祖七合目」だという。疲れがどっと来た。八合目に向かう途中、日没直前に見える影富士(富士山の影が平野に浮かび上がる現象)や逆さ富士(湖に映る富士ではなく、夕日の影が逆三角に伸びる現象)が見られ、その美しさに息を呑んだ。

 八合目の山小屋「池田館」に着いたのは、夜の7時であった。麓を見下ろせば、下で花火大会をやっているのが見えた。花火はミニチュアのように小さく、富士山の高さを改めて実感した。ビールを飲み、ささやかな乾杯をして8時に就寝した。山小屋は非常に混んでおり、一人あたりの寝るスペースは50センチほどしかなかった。外で寝ている人もおり、それに比べればはるかにましである。


左:影富士           右:逆さ富士

<八合目〜山頂>

 午前2時に山小屋を出発した。外に出てみれば、真冬のごとく寒い。着替え用のシャツやジャージも全て重ね着して登り始めた。

 空を見上げれば、満天の星空であった。天の川がくっきり見える。そしてその下では真っ黒な富士山を登る登山客のヘッドライトが、山頂に向かって列をなしている。まるで巡礼のようで、神秘的な光景に見えた。

 九合目あたりで、東の空が明るくなってきた。ご来光は近い。なんとか山頂でご来光を迎えたかったが、九合五勺を過ぎたあたりで山肌に日が照らされた。そのとたん、風が止み、急に暖かくなった。太陽の威力を肌で感じた。しばらくして、山頂の鳥居をくぐった。


左:ご来光直前の地平線          右:登山中(この格好でもまだ寒い)

<山頂にて>

 山頂では、とりあえず名物のカップラーメン、カップうどんを食べた。800円だが、水もカップ麺も下から運んできたことを思えば安い。カップ麺は滅茶苦茶美味しかった。恐らく人生で一番美味しいカップ麺であろう。

 その後、女性陣は休憩、男は本当の山頂である「剣が峰」を目指した。剣が峰までの道のりはかなり辛いものであった。坂が急な上に、砂が崩れてろくに登れない。蟻地獄から這い上がる蟻の気分であった。

 剣が峰に着いた瞬間、持っていたポテトチップスの袋が「ボン」という音を立てて破裂した。まさに富士山が開けたポテチである。私達は無駄に喜び、有難がってポテチを食した。

 剣が峰は、写真を撮る人で行列が出来ていた。シゲオ、ミヤザキ、ケイジはこの行列に並ぶことに、シュウヘイと私は代わりにお鉢回り(火口を一周すること)をすることにした。山頂からの眺めはどこから見ても本当に美しかった。山頂は吉田口(山梨県側)の方が栄えており、そこはまるでアンデスの古代都市を思わせる雰囲気があった。そこで「富士の万年雪で冷やした」というビールと水を買った。ビールが600円で水が500円。ここまで運ぶことを思えば格安である。


左:お鉢回りにて           右:山頂の町並み

<下山>

 朝の8時半頃、下山を開始した。9合目で休憩した時、高山病でミヤザキの具合が悪くなり、ミヤザキ、シゲオ、私の3人は先に下山することにした。坂を駆け下りるようにして下山し、12時半頃、5合目に下りてきた。他のメンバーが下りてきたのは14時頃。顔を合わせた瞬間、メグが7合目で手に入れた「温泉割引券」を私達に叩きつけて崩れ落ちた。「すぐに連れて行け」ということであろう。相当疲れたらしい。よく頑張ったものである。


左:雲海           右:下山中皆で棒踊りのキメ

<帰宅>

 その後、温泉で疲れを癒して帰路についた。帰省ラッシュの中、東京方面は空いているだろうと思っていたが、東名は混んでいた。横浜駅に着いてミヤザキとケイジを降ろしたのが夜の10時過ぎ、家に着いたのは12時過ぎであった。

 今日は昼の1時に起き、だらだらと過ごした。  


8月6日 神輿を担ぐ

 先週末は、元宮のお祭に参加した。元宮の人たちには学生時代からお世話になっており、毎年行っては太鼓を叩き、神輿を担がせてもらっていた。去年たまたまシゲオと遊びに行った時に、私たちのことを覚えていて下さり、泊めていただき、かつ朝からビールをご馳走になるなどの歓待を受けた。そして、来年も必ず来ることを約束して一年が過ぎた。

 とは言え、祭の前の気分というのはルンルン気分とは少し違う。どちらかと言えば少しだるい。炎天下で神輿を担ぐよりも、家でごろごろしていた方が楽なのは明らかである。しかも、前日は深夜まで飲んでおり、二日酔いである。しかし、約束してしまった以上行かないわけにはいかない。そんな気分で土曜日2時頃キエと合流し、会場に向かった。ちなみにシゲオは寝坊である。

 行けば、疲れが吹き飛んだ。いきなり日本酒をご馳走になり、その後、着替えのために神輿大好会元会長宅に行った。インターホンを押すと、ベランダから

「あ。上がってー」

という素っ気ない声がした。一年ぶりに来たというよりは、数日ぶりくらいの感じである。そこで着替えて神輿を担いだ。神輿は本当に楽しかった。大きな声を出してみんなで神輿を担ぐのは本当に楽しい。

 夜は、学生時代お世話になった石渡先生宅に泊まった。朝起きれば、いきなりスイカとビールをご馳走になり、かつ朝食と昼食までご馳走になった。そして、音楽のことや今の民研のこと、そして先生の昔の仕事の話などを聞いた。世代のぜんぜん違う人の話というのは面白いし、ためになる。

 日曜日は、本番である。途中から二日酔いの冴えないセツが現れたが、神輿を担ぎ出すと元気になった。

 そして、日曜日は民研の現役生が来て演奏を披露していた。もう10歳近くも年下の後輩である。演奏を聴きながら、自分達の頃のことを棚に上げて好き放題言っていたら、「先輩風吹かしとるね」と、元宮の人たちに笑われた。

 その後、夜の8時まで担いで、終わった。ガードマンの格好をして交通整理をしているオジサン達、隅々まで気を配って神輿の運行を見守る神輿大好会の人たち、そして祭を盛り上げる大勢の人々のおかげで、神輿は進み、曲がる。そんな姿は本当にかっこいいと、毎年のことながら思った。

 その後は石渡先生宅で11時までご馳走になり、深夜の1時に家に着いた。次の日、全身筋肉痛で仕事をしたものの、どうしてもハレからケへのギャップに馴染めず、悶々とした一日を過ごした。

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