2007年
11月のつぶやき
11月25日 神着木遣太鼓発表会
今日は、嫁と神着木遣太鼓の発表会を見に行った。神着木遣太鼓とは、三宅島の神着地区の伝統芸能で、太鼓曲のなかでも最も有名な曲のひとつである。横置きに置いた太鼓を腰を落として打ち込む、独特のスタイルが特徴である。
私は、木遣太鼓が大好きである。学生時代に三宅島で習ってから、その魅力にほれ込んだ。木遣太鼓は、その動きの全てが「太鼓を打つ」ためだけに存在する。「太鼓を打つ」という純粋な喜びを、ここまで味わうことの出来る曲は、私の中では他に無い。しかも、いくら練習しても、自分が目指す姿には程遠い。今日は、私たちが三宅島で太鼓を習った津村さんという方がやっている教室の発表会であり、本物の木遣太鼓が見られるということも、津村さんの太鼓が見られるということも楽しみであった。
発表会は3時間半続き、その半分以上が木遣太鼓であった。各地区の教室ごとの発表会であり、木遣太鼓だけを2時間以上も聴いた気がするが、意外にも飽きることはなかった。5歳くらいの子供からおじいさんまで、さまざまな人が叩いていた。私には、みんな物凄く上手に見えた。
途中の余興で、木遣太鼓とビリーズブートキャンプのコラボが面白かった。ビリーの音楽をかけながら、「つく、ドン」の掛け声に合わせて木遣の体重移動を行うというもので、私が学生だったら絶対に活動に取り入れていたのにと、悔しく思った。
最後の方になって、津村さんと津村さんの息子さんたちの模範演奏があった。この衝撃は、久しぶりであった。置かれていた3台の太鼓が、これまで聴いたことの無いような音になった。「太鼓を打つ」ということを極めたとき、太鼓はここまで鳴るものなんだと思った。
最後の全員演奏が終わり、満足して帰ろうとすると、丁度ボンサンが到着した。ぎりぎり間に合わなかったらしい。
その後は、ボンサンと我が家に行き、もんじゃ焼きを食べつつシゲオが貸してくれたファミコンに興じた。「けっきょく南極大冒険」や「アイスクライマー」など、懐かしいゲームで遊んで、3連休最後の日は終わった。
11月23日 合コンのこと
会社の後輩と雑談していると、合コンの話になった。彼は、学生時代数えきれな
いくらい合コンに行ったという。
合コンなるものに一度も参加したことない私は、興味しんしんであった。未知の
世界なので、彼の話は、まるで小説のようで楽しい。
彼によれば、「合コン相手は距離の遠いところから」が基本らしい。大学ならば
他大学から、職場ならば他の会社、または事業所で、ふだん交流のないところが
望ましいという。理由は、「他の合コンでばったり会ったら気まずいから」だそ
うだ。「偶然出会ったら、それはそれで楽しいじゃないか」と反論したが、合コ
ンについてはそうも言えないらしい。
「『合コン テクニック』などで検索すると色々でますよ」と聞いて、さっそく検
索してみた。
そこには、清潔にしなさいとか、相手の気持ちを考えて行動しなさいとか、礼儀
を大切にしなさいとか、当たり前だが重要なコミュニケーションの基本が書かれ
ていた。
どうやら合コンも、自分を磨く手段のひとつらしい。
11月18日 上尾マラソン
今日は上尾(埼玉)のマラソン大会に出場した。初めてのハーフ(約21キロ)マラソンである。朝6時に起きて上尾に向かい、会社の人と8時に集合した。
実は、前日は太鼓大好会の練習後に飲み会があり、横浜で11時まで飲んだあげく、終電を逃した。結局タクシーで家に着いたのが深夜2時。当日起きた時は、体がだるく、これからマラソンをしなければならないという事実が信じられなかった。前日はつまみくらいしか食べていなかったので、朝からコンビニで肉まんを2個食べて上尾に向かった。
スタート前、トイレ(大)に行きたくなって公衆トイレで並んでいると、私のすぐ後ろのオッサンが割り込んで先に入ってしまった。どうしても我慢できないなら、一言声をかけてくれたら譲ってあげるのにと思った。
こんなことで喧嘩してもしゃあないのだが、オッサンに何も言わないのも、いかにも事なかれ主義の現代人で嫌である。例え面倒臭くても、こういったコミュニケーションが出来るということは、人として大事なことだと思った。結局、出てきたオッサンの肩をポンと叩いて、関西弁で
「オッサン、割り込まんとってや」
と言った。不思議なことに、こういう時は関西弁のイントネーションの方が険悪にならない。
さて、時間となりマラソンのスタート位置に行くと、物凄い人である。10代の若者から60歳以上のジイサンまで、年齢層は幅広い。お祭のようにうきうきしており、スタートの空砲が鳴っても、後ろの方はまだ動かず、みんなで拍手をして大会を盛り上げていた。空砲の1分後くらいから、徐々に動き始め、トラックを出て町に出た。
上尾は美しい町であった。特にこれといった特徴はないが、町全体が静かな微笑をたたえているようで、誠に感じがよい。沿道では、近所の人が暖かい声援をかけてくれる。
とりあえず、目標は完走である。あわよくば、2時間を切りたかった。はじめの10キロは、調子が良かった。懸念していた膝の痛みも無く、ゆっくりと走った。折り返しを過ぎたあたりから、少しペースを上げてみた。相変わらず調子良い。どんどん人を抜いて、気持ち良い。
しかし、14キロあたりから、急にきつくなってきた。息が上がった訳でもなく、筋肉に限界がきた訳でもない。言ってみれば、車でいう「ガス欠」のような感覚で、体の中で燃やすものがなくなったような感じがした。
走れなくなり、歩いた。沿道では子供達が無心に応援してくれている。そのたびに少し走るが、すぐに走れなくなってしまった。そのうち、体がどんどん冷たくなっていき、手足がしびれてきた。腹も減ってきて、吐き気がする。明らかに栄養が足りていない。
そうしていると、沿道でチョコを配っているオジサンがいた。チョコを受け取って食べると、これまでにないくらい美味しく、少し元気になった。
結局タイムは2時間15分。制限時間が2時間25分であり、ぎりぎりであった。ゴールした後、しばらく倒れこんで、寝た。初めて走って、ハーフは怖いと思った。10キロと違って、きちんと体調を整えないと、走れない。そして、今日の私は明らかにハーフを走るコンディションではなかった。
その後は大宮で向かえ酒。ビールを2杯飲んだら疲れたので、最寄り駅から家まではタクシーで帰った。
11月14日 耳がおかしい
ここ1週間、耳の調子がおかしい。風呂上がりに綿棒で耳掃除をすると右耳だけジュルジュルとした音が摺るのである。痛みは無いが、なんとなく違和感があり気になっていた。
今朝の風呂上がり、やはりおかしいので耳鼻科に行ってみようかと思った。
私は耳鼻科が大嫌いである。というか怖い。小さい頃に頻繁に中耳炎を起こしていた私は、いまだに耳鼻科恐怖症なのである。中耳炎が酷い場合は、「切開」と呼ばれる治療をするのだが、これが鼓膜に穴を開けて中の膿を吸い取るもので、滅茶苦茶痛い。診療中に、看護婦にサイドを固められたら要注意である。そんなことが何回もあって、いまだに「耳鼻科」という響きだけで震えるほど怖い。
嫁に「耳鼻科に行ってみようかと思う」と言った時、嫁はびっくりしていた。私は何があっても耳鼻科に行かないものだと思っていたからである。状況を説明すると、「耳に水がたまっているのではないか」という意見が返ってきた。
確かに、プールで泳いだ後に耳に水がたまったような感じに似ていなくも無い。耳鼻科に行く前に、ティッシュを細長く丸めて耳に入れてみた。すると、「ジュル」という音がした。その後は特に異状ない。
ただ、水が入っていただけらしかった。耳鼻科に行かなくてよかったと思った。
11月12日 家族に会う
先週末は、久しぶりに父、母、妹と会った。
久しぶりに会って、やはり家族は特別だと思った。小柄な母を見ていて、この人から私が生まれたんだと思うと不思議な感じがする。生まれたときから私を見続けている人は両親をおいて他に無く、私以上に私のことを知っていると思う。
私は小さい時から変わった子供で、ブランコが好きだったらしく、3時間もブランコを漕ぎ続けていたらしい。他の子供がブランコに飽きて砂場や滑り台で遊んでいても、私は頑なにブランコを漕ぎ続けた。そして母は、3時間私に付き合ってブランコを押していてくれたらしい。
少し涙が出た。よく3時間も付き合ってくれたものだと思った。そういった事実の積み重ねが、今の私に繋がっていることは疑いようがないし、そこでの母の態度ひとつで、私は今頃違った人生を送っていたかもしれないと感じる。
父は、私が学生の頃、ひとりで神奈川の自宅から徒歩で東海道を下り、浜松まで行った。とは言え一気に歩いたのではなく、始めは自宅から3駅くらい向こうの駅まで歩き、電車で帰宅する。次は前回行ったところまで電車で行き、そこから少し歩き、また電車で帰ってくる。
そのうち、距離が広がり、新幹線で前行った駅まで行き、そこから少し歩いてまた新幹線で帰ってくることになる。そうやってついに浜松まで行ったのである。父は、幼少の風変わりな私を見ていて、息子は知恵遅れではないかと心配したらしいが、私は間違いなくこの人の息子である。
次はハーレーでお遍路を回るらしい。体に気をつけて欲しいと思う。
妹は、小さい頃お転婆であった。私と一緒に中国拳法を習っており、幼稚園の男の子と喧嘩しても決して負けない。かつての作文を読めば、そのお転婆ぶりがうかがい知れる。
そんな妹も、年を経るにつれ女らしくなったが、自由奔放さは残った。大学ではタイ、ラオス、カンボジア、インドなどをバックパッカーとして旅行し、その後はタイに留学する。今では日本よりもタイの方が落ち着くらしく、妹にとって、不思議なことに、日本で就職するよりもタイで就職する方が心理的なハードルが低いらしい。
こんなに個性的な家族だから、今は家族バラバラである。それでも、たまに会うのは実に楽しい。
11月10日 発表会ビデオ
最近、毎週太鼓を叩いていることもあり、久しぶりに民研の発表会ビデオを見てみた。
まず見たのが、2000年発表会の水口囃子。これは今見てもよく出来ていると思う。曲の緩急、点から面への広がり、前後左右の掛け合い等、耳にも目にも面白く、かつコンパクトにまとまっていて素晴らしい。仕切っていたのは私のひとつ下の後輩だが、彼らにはセンスがあったんだと改めて思った。
続いて曲間演奏の大漁太鼓を見た。これも面白い。構成が斬新で、型にはまった様な振り付けではなく、生き生きとしていてよいと思った。会長のシゲオが大漁太鼓を変えたいと毎週の様に言っているが、意外にもかつての私達の痕跡の中にそのヒントがあるものだと思った。
その後、ビデオを変えて1999年度の発表会へ。開幕の創作合唱は、未だに新鮮だと思った。太鼓伴奏つきの合唱曲も珍しいし、なにより舞台の使い方が実に面白いと思った。星野先生が熱心に舞台の使い方を指導して下さったのが懐かしいし、星野先生が創作合唱を指導してくれること自体が新鮮であった。
続いて問題の木遣り太鼓・・・。実に長い。しかも、上記の水口の様なバランスの取れた構成ではなく、ただ思いついたことを並べただけと言う感じがする。しかし、20分近くの壮大なドラマの最後は、異常な盛り上がりを見せて終わり、終わりよければ全てよしと言った感じが私達らしいとも思った。それにしても、星野先生に申し訳ないことをしたと、何度見ても思う。
ここまで見て見るのをやめた。久しぶりに見ると面白いものだと思った。
11月4日 今週末の出来事
土曜日は、朝から嫁と会社の運動会へ行った。運動会とは言っても種目は綱引きと玉入れのみで、各職場ごとにトーナメント方式で延々と綱引き及び玉入れを行うのみの運動会であった。
私の職場は、どちらも一回戦惨敗という冴えない結果となったため、終わるまで暇であった。近くの公園まで散歩するなど嫁と時間を潰し、最後のお楽しみ抽選会へ行った。特賞は液晶テレビが当たるなど意外に豪華であり、期待していたが、これも私の職場は全員ハズレであり、全く冴えない形で解散となった。
その後は、夕方6時より「太鼓大好会」の練習のため、川崎の太鼓スタジオ「八泉」へ。
練習はこれまでで最もハードであった。大漁太鼓の基本打ちや共通リズムを延々と反復練習するなどストイックなメニューをこなし、ほぼ全員の手の皮が剥けた。
続いて休憩がてら水口囃子を練習した。私はこれまで未体験であった鉦に挑戦してみた。
全く叩けない。手首の返しやミュートの方法など複雑極まりない。鉦と言う楽器は、馬乗りのリズムを奏でるにはあまりに都合が悪いと思った。ともあれ練習せねばと、鉦バチを持ち帰り、自宅で丁度よい大きさのタッパーを鉦に見立てて練習することにした。
最後に木遣り太鼓を練習した。これは楽しかった。叩いて、私は木遣り太鼓が好きなんだということを改めて実感した。本当に楽しい。特に、太鼓を1台だけ置いて、みんなで回しながら叩く現地流が楽しい。現地では、「木遣り」とは唄を指し、太鼓は「神楽」「打ち込み」に分かれる。「打ち込み」は有名な「つくドンつくドンつくドンドン」のリズムだが、その名の通り、太鼓を打ち込むことのみに専念出来、他のいかなる雑念も忘れられるのが楽しい。「太鼓を打つ」という純粋さという点では、他のどの曲にも勝るであろう。
練習後は、飲み会であった。終電で帰ろうと思っていたが、ついつい飲み過ぎ、始発で帰ることとなった。
日曜日、昼頃起きれば、全身筋肉痛であった。筋肉痛の体をおして嫁と映画「ALWAY'S続・三丁目の夕日」を見に行った。前作は2回劇場に見に行ったが、2回とも涙が枯れるまで泣くほど感情移入してしまう。
今回も素晴らしい作品になっていた。ストーリーは、予測通りなのにそれでも泣いてしまう。涙と鼻水で顔が酷い有様となり、しゃっくりまで出てきて、映画が終わる頃には、鼻水と涙を拭いたティッシュが山の様に握られていた。
映画を見終わった後は、マラソンの練習をした。18日に大会でハーフマラソンに出場するため、その準備である。現在膝を壊しており、毎日スクワットをしてリハビリしている。膝を痛めないようにするには、筋肉をつけて補強するしかないらしいのである。
筋トレの効果が出たか確かめるために、今日は家の周りを10キロ走ってみた。前の大会では、3キロくらいで膝の痛みが増してきて、4キロでリタイヤしてしまったのである。
今日は、10キロ走ることが出来た。どうやら回復は順調らしい。この調子でハーフを完走してみたいと思った。
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