2007年
12月のつぶやき




12月28日 一年を振り返って

 今日は仕事納めであった。毎年のことだが、一年の終わりはばたばたとしており、あれよあれよと言う間に年末の挨拶が終わり、気付けばひとり帰路についていた。なんともいえぬ空疎感が心地良くもあり、切なくもある。

 一年が、終わった。

 今年はどんな年であったか。10年来の念願であったブータン旅行へ行き、想像した以上の素晴らしい思い出となった。また、太鼓団体の設立に加わり、なんとなく軌道に乗った。仕事も休日も共に楽しく充実していると思う。もしかしたら、一生にいくらも無い程の幸福な時間を過ごしているのかも知れないと感じる。

 同時に、かつて持っていたものを失っているように感じる。自分の可能性がどんどん狭くなっているのを感じる。

 宮崎駿の著書「出発点」では、以下の様に書かれている。

 「人間は生れ落ちたときに”可能性”を失っているのである。過去と未来に人類の歴史がある中で、1978年に生まれた瞬間、あらゆる時代に生まれついてくる可能性をその人は失ってしまったというわけだ。」

 例え生まれた後であっても、人生の進路を決めるなかであらゆる可能性からひとつを選択していく。そのうちに自分の生き方が決められていく。自分で決めるというよりは、自然と決まってしまうようにも感じる。そしてそうなることを思えば、恐怖にも近い閉塞感を感じる。

 社会を下から支えるようなものづくりを通じて、社会、特に地球環境問題の解決に貢献できるような仕事がしたい、これは私が就職活動をしていたころの志望動機であり、本音であった。しかし今は、目の前の仕事にしか視野が行き届かず、そのような思いを持って仕事が出来ているとは到底思えない。あるべき姿に向けてあがこうとすらしていない。

 惰性で生きてはならない。たとえしんどくても、自分の知らないことややったことのないことを手探りで見つけ出すように生きなければならないと思う。そう思うが、なかなか重い腰を上げられずにいるのが今の私なのである。

 まあ、焦り過ぎないよう、だらけ過ぎないよう、来年もがんばろう。


12月24日 太鼓大好会誕生秘話

 太鼓大好会が出来て3ヶ月となる。もう3ヶ月か、などと会長であるシゲオと話しているうちに、そういえば誰が大好会を作ろう、と言い出したのかという話になった。私はシゲオが言い出したからそれに乗ったのだが、シゲオは私が乗り気だったから太鼓を買ったんだと言う。以下、太鼓大好会がどのように出来たか、私の視点から述べたい。なお、会長の視点による誕生秘話は、彼のmixi日記に詳しく記されている。


 今年の7月の終わり頃、イラハが上京することがあり、「イラハ飲み会」が開かれた。その時、シゲオが皆と盛り上がっている。

 誰か  「いいっすね〜『太鼓舞踊団シゲオ』」
 シゲオ 「でも舞踊はやらないよ」
 誰か  「それじゃなんで太鼓『舞踊』団なんすか??」
 シゲオ 「そりゃ、ゴロがいいからだよ。」

 シゲオが太鼓団体を作ると言い出している。それどころか、団体名や活動内容まで決まっている。他にも、何度か飲み会でTBS(太鼓舞踊団シゲオ)の話で盛り上がっていた。記憶は定かでないが、飲み会のたびにその話になっている気がする。


 8月の上旬、恒例の元宮の祭に参加した。メンバーはシゲオ、セツ、キエ、私の4人であった。毎度の様に神輿を担ぎ、心から楽しんだ。二日目、各地域の神輿が一同に会し、国道15号線沿いで民研の現役による太鼓演奏があった。私達は、

 「なんであんなに鳴らない太鼓使ってんだよ」
 「うわっ!リズムバラバラやんけ」
 「着付けみすぼらしいな」

 などと、好き勝手言っていた。(現役でこれを見ている方、ごめんなさい)恐らく、過去の私達はもっと上手に叩いていたという錯覚と、自分達も太鼓をやりたいのに出来ないという嫉妬心からこのような言葉が出たものと思われる。

 祭が終わって、

 シゲオ 「やっぱ太鼓叩きてぇな」
 私   「太鼓買うか」
 シゲオ 「そうだな。ちょっとネットとかで探してみるか」

 みたいな話をしたように記憶している。


 そして夏、みんなで長野に行った。長野でアツシ、チカチャンの息子に会いに行ったり、夏ステを見たり、「富倉そば」と呼ばれる長野独特のそばを食べたりした。

 さて、夏ステが終わった鈴荘の夜、OBOGでも古株の私達は、ロビーで飲んでいた。現役生は、

「誰だろう?このオジサンオバサンたち」

と言った目つきをして遠巻きに通り過ぎていく。そんな中、イワオカが「YDB」をやりたいと言い出した。「YDB」とは、「猥談部」又は「横浜ダンディボーイズ」の略で、民研で代々1人ずつ選出され、部長である「Y」がおもむろに立ち上がって「ワイ!」と絶叫すれば、続く下級生が「ディー!」「ビー!」などと絶叫せねばならぬという、訳の分からない団体である。

 当然、そんな下らない伝統が伝わるはずもなく、現役生は全く知らないのだが、イワオカは現役生をふたり捕まえ、

「いいか。おれが『ワイ!』ってやったらおまえとおまえが『ディー!』『ビー!』ってやるんだぞ」

 とポーズを含めて教育し、現役生が飲んでいる大広間に向かっていった。私達も盛上げ役のサクラとして付いていった。

 夏ステの興奮で盛り上がる現役生の中、OB6年目イワオカは果敢に立ち上がり、皆を黙らせた。そして、万感の想いを込めて

「ワイッ!!」

と絶叫した。続いて、現役生2人の声が、「ディー」「ビー」と虚しく響き、しばらくの沈黙の後、あたりは元の喧騒に戻った。イワオカは激しくへこんでおり、私達は全力で慰めた。


 そんなこともあり、私達は大盛上がりの飲み会に参加した。元宮流に「サッセ」の掛け声に合わせて日本酒を一気するなどのハードな飲み方に疲れて横を見れば、ダイスケ、ユキ、セツが集まっている。シゲオと私がそれに加わると、太鼓団体を作る話になった。

 私とシゲオはあまり喋っていないのだが、ダイスケとユキは特にやる気に満ち溢れており、なかでもダイスケは、

「是非太鼓団体作ってくださいよ!」
「俺タドコロさんやシゲオさんと太鼓叩いてマジ楽しいんすよ!」
「俺長野だからなかなか参加できないけど、やらせてくださいよ!団費も払いますから!」

 など、話はまだ作ってもいないどころか、作ることすら決まっていない太鼓団体の団費や運営の話にまで及んだ。ユキもうんうんと頷いて、やる気になっており、ふたりの目は輝いている。私は、どこまで本気か確かめようと、

「そんなにやりたいんなら自分で作ればいいじゃん。気が向けばおれも参加するよ」

と言ってみた。すると、

「なんでそんな寂しいこと言うんすか!」

 と怒っていた。どうやら他力本願らしいことが分かった。後の話は適当に流して、寝た。


 次の朝、

「ヤマダイ、太鼓やるの?」

 と聞いてみた。すると、

「はぁぁ?? やるわけないじゃないすか」

 私は、乗せられなくて良かったと思った。続いてユキに、

「ヤマダイ太鼓やらないって言ってるよ」

と言ったところ、

ユキ   「だいちゃん 太鼓やらないの?」
ヤマダイ 「やるわけないじゃん、そんなの」
ユキ   「きのうはやるって言ってたじゃないっ!」
ヤマダイ 「それは飲んだノリで言っただけだよ」
ユキ   「わたし、きのうの話わすれないようにお酒ひかえたのにっ!こんなことなら飲みつぶれればよかった!」

 と言って、どんどんと地団駄を踏んだ。悔しくて地団駄を踏んでいる人を初めて見た。


 ちなみにこの日の朝、「万年野党」ダケデが、

「家庭崩壊や〜〜」

 と叫びながらふらふらと帰宅したという面白い話があるのだが、本編と関係ないので割愛する。


 とりあえず昨日の話を思い出せば、セツが太鼓をかなり本気で探しているらしいと言うことが分かった。それも意外に格安で買えそうである。人が集まれば、それ程高くない出資で太鼓団体が作れそうである。あと、モコが本気であることも分かった。太鼓を叩きたいという思いは私の中で強くなってきた。

 しばらくして、ネットオークションで太鼓を見ていると、「諏訪楽器」という会社が格安で太鼓を提供していることを知った。その値段は桁違いに安い。安過ぎて不安なので、実際に物を見てみようと思い、諏訪楽器に連絡を入れ、シゲオとモコを誘って見学に行った。

 3人で諏訪楽器に行き、太鼓を叩いた。安い割にはしっかりしており、特に締太鼓は民研で叩いていたものと遜色ないくらいいい音が出た。叩いているうちに楽しくなってきた。価格は2万円前後。モコの持っているかばんやシゲオの着ているアロハと同じくらいの値段である。私はすぐに購入してもいいと思った。

 購入を決め、領収書にサインする時、シゲオは、

「もう後戻りできねぇな」

と小さくつぶやいた。その後、浅草でモコが見つけた格安の大太鼓を見た。大太鼓の購入は決めなかったが、3人で食事をしながら方々に電話をかけて勧誘した。とたんに10人くらい集まった。太鼓大好会設立の瞬間である。


 長々と書いたが、結局のところ、一体誰が太鼓団体を作ったのか。このことをシゲオ、モコ、私の3人で議論すれば、

「だっておまえが作ろうっていったから云々」

 とお互いに言い合って終わる。それでも毎週楽しく太鼓が叩け、衣装も決まり、来年にはステージがひかえている。結果オーライだし、メンバーの人たちには感謝感謝である。


 と、ここまで書いて、太鼓団体を作ったのはヤマダイかもしれないと思った。


12月20日 ランボルギーニ カウンタック

 最近、会社の食堂で、一世代前を風靡した「スーパーカーブーム」について話をした。職場のグループリーダーによれば、「カウンタックは当時の男子の注目の的であり、もしカウンタックが目の前を通り過ぎたならば、必ず『あ!カウンタック!』と発声せねばならぬ」と言う。私たちの世代では、カウンタックを知っている人は少なくとも一部であり、少なくとも私は知らなかった。

 食事が終わって事務所に戻る間にも「ランボルギーニ カウンタック」が覚えられず、「ボンバルディーナ コウンテックだっけ?」などと、後輩と何度も確認したが、数時間経つとどうしても忘れてしまう。

 「ランボルギーニ」とは、イタリアの車メーカーの名称であり、「カウンタック」は、代表的な車種であるという。「カウンタック」の最大の特徴は、「ガルウィング」と呼ばれるドアで、手前方向に開く通常のドアではなく、なんと、虫の羽の如く上方向に開くという、斬新なものである。

 今日は、会社の忘年会だったのだが、先輩達とカウンタックの話となった。「田所はカウンタックを知らない」という話になると、方々から「信じられない」「男子として認めるわけにいかない」等の非難が上がった。「カウンタックは男のロマン」である。カウンタックの後には、その後も車の話で大いに盛り上がったのだが、全くついていくことが出来なかった。

 本当に、車が熱狂的に好きなのだと思った。私達よりも少し上に、車を「おもちゃ」と感じる世代と、「道具」と感じる世代の境目が存在するのである。会社にいると、学生時代には感じられなかった世代差を実感でき、それがまた楽しい。

 ランボルギーニ社は、元々イタリアのトラクターメーカーであった。そんなランボルギーニ社の社長が、フェラーリを買いに行ったところ、トラクター屋と軽蔑され、ぞんざいな扱いを受けたという。その態度に腹を立てた社長は、フェラーリに負けないスーパーカーを製造することを誓い、実現した。その象徴として、フェラーリのエンブレムは跳ね馬なのに対し、ランボルギーニは猛牛である。

 以上は、前述のリーダーから聞いた「うんちく初級編」だが、熱い話である。男子であれば、こういう話は世代を超えて共感できると思った。


12月16日 ハンドベルコンサート

 今日は嫁と「ProArte Bell Ringers」というハンドベルグループのコンサートを見に行った。リコーダー部のまーさんがこのグループに所属しており、そのつてでコンサートの存在を知った。

 ハンドベルと言えば、子供達がたどたどしく演奏しているイメージしかなく、お金を払ってコンサートを見に行くということ自体が不思議であった。本格的なハンドベルの演奏とはどのようなものなのだろうか。全く想像もつかない。

 1曲目の世界遺産のテーマソングを聴いて、度肝を抜かれると同時に、涙が止まらなくなった。他のどの楽器でも出せないような調和と一体感があった。

 ハンドベルはひとりあたり2個(4つ持つこともある)のベルを持つが、曲の進行にしたがってベルを持ち替えたり、自分がたった今鳴らしたベルを2つ隣の人に渡すなど、とにかく忙しい。ハンドベル演奏は、ベルの持ち替えや譜めくりなど、演奏中も事務的な作業が多く、かつ自分の担当する音を正確なタイミングで確実に鳴らすという、重い義務と責任がある。

 そんなプレッシャーの中でも全体の流れや音楽性を考え、オリジナリティ溢れる演奏が出来るのが凄いと思った。演奏者どうしがそれぞれの視線や呼吸を感じ、一体感を感じている空気が会場まで伝わり、とても温かみがあった。

 アンコールはモンティのチャルダッシュであった。浅田真央がフィギュアスケートで使用した曲として有名である。テンポが速く大変そうだったが、とても楽しそうであった。それだけにここに至るまでの地道な練習があるのだと思った。


12月15日 硬いかたやきそば

 先週、後輩と午後から外出であった。11時半の電車に乗るのだが、11時頃駅に着いたため、駅前の中華屋で早めの昼食をとることにした。店に入り、後輩は坦坦麺を、私はかたやきそばを注文した。

 この店のかたやきそばは麺が太く、食べ応えがあって好きなのだが、ボリュームがあり過ぎて、毎度の様に胃もたれ気味で店を出ることになってしまう。それでも毎度のようにかたやきそばを注文してしまうのである。

11時10分、後輩の坦坦麺が来た。先に食べるよう促す私。
11時15分、かたやきそばは未だ来ず。「思ったより辛くない」と、坦坦麺にラー油を足す後輩。
11時20分、かたやきそばは未だ来ず。電車の時刻を心配する。
11時22分、かたやきそばが来る。

 私は大急ぎでかたやきそばを食べた。牛丼を2分で食べた会社の先輩や、「カレーは飲み物」と豪語する大学の同期など、色々な早食いの話が頭をよぎる。

 しかし、かたやきそばは硬い。縦向きで口に入った麺を咀嚼すると、麺が口に刺さって痛い。かたやきそばは、早食いには適さない食べ物だと思った。しかし、そんなことは気にしていられず、必死で食べ続けた。

 結局5分程度で食べ終わり、駅までダッシュし、なんとか間に合った。しかし、胃の中にかたやきそばがそのまま入っているような感覚が、しばらく続いた。


12月11日 鉄塔武蔵野線

 「鉄塔武蔵野線」は、家の近くにある75号鉄塔から1号鉄塔を目指す小学生を描いた、銀林みのる氏の小説である。この小説は、1994年に「ファンタジーノベル大賞」を受賞しているが、銀林みのる氏の作品は、この「鉄塔武蔵野線」以外、殆ど無い。

 私が「鉄塔武蔵野線」に出会ったのは、高校時代に映画がテレビで放映されたのを見たときである。広大な武蔵野台地の風景と、そこにそびえ立つ鉄塔を追う少年の姿は、雄大なのにどことなく懐かしく、私の忘れられない記憶となった。

 「鉄塔武蔵野線」は、実在する送電線で、下に書いたように私が深夜に歩き始めた保谷あたりから、所沢、狭山を突き抜け、日高の変電所に達する。私の日ごろの生活範囲が近いせいか、最近、鉄塔武蔵野線が妙に気になる。

 小説(完全版)を初めて読んでみたら、度肝を抜かれた。81号鉄塔から1号鉄塔までの全ての写真がそれぞれ5枚ずつ、詳細な解説と共に載せられているのである。読んでいても、正直読み飛ばしたくなるほど1つ1つの鉄塔について丹念に描かれており、小説と図鑑と技術書を混ぜ合わせたような感じがする。

 面白いのは、解説や帯びかけのコメントを書いたのが書店員だということである。この小説は、書店員たちの熱烈な支持があったらしい。また、あとがきに著者が書いた、この小説を書こうと思った経緯などは、本作に勝るとも劣らぬ面白さである。

 久しぶりに、映画も見た。映画の舞台である武蔵野台地は、広大だが決して美しくはない。映画では、ドブ川を渡るシーンやスクラップ置き場で一夜を過ごすシーンなどが容赦なく出てくる。映画全体が日常であり、非日常であるし、醜くもあるし美しくもある。そんな不思議な雰囲気と、おおたか静流の歌がよく合っており、何回でも見たくなる作品だと思った。

 また夏になったら、鉄塔武蔵野線を辿ってみたいと思った。


12月10日 長芋三昧

 昨日、長野に住む友人夫妻から長芋を頂いた。明け方まで歩き、へろへろになって寝ている間に届いたらしい。

 ダンボールを開ければ、70センチはあろうかという巨大な長芋が10本くらい届いた。友人の家では、なんと長芋が3千本収穫できるという。位置付け的には「家庭菜園」と「農家」の間くらいらしい。よく分からないが、とにかく長野はスケールが違うと思った。

 早速、夕食はお好み焼にした。生地の半分以上が長芋という、贅沢なお好み焼である。しかも、出来たお好み焼の上から更に山かけにした。その他にも、ホットプレートの余白を利用して輪切りにした長芋を焼くなど、長芋三昧の夕食を存分に堪能した。

 楽しい夕食であった。友人夫妻に感謝感謝である。


12月9日 電車がない

 昨日、太鼓の練習が終わった後に皆で飲みに行き、私は終電に間に合うよう先に帰ったのだが、山手線で乗り過ごしてしまい、所沢の自宅に戻る電車がなくなってしまった。西武線は「保谷」という駅まで行く最終電車が残っていたので、とりあえず保谷まで行った。

 前に嫁とこの最終電車に乗ったときは、タクシーで自宅まで帰り、6千円くらいかかった気がする。この日は、次の日ものんびり出来るので、歩いて帰ろうと思った。道はよく分からないが、西武新宿線と西武池袋線の間にいれば、いつか所沢に着くだろうと思った。また、所沢街道を見つければまっすぐ行くだけである。

 歩けば、畑の風景がいたるところにあった。このあたりは水はけの良い関東ローム層なので田んぼがないのだなどと、どうでも良いことを考えていた。歩いている間、ずっと手で秩父屋台囃子のリズムを刻んでいた。

 所沢街道に出るまでに意外と迷った。疲れていたが、タクシーに乗ろうという気持ちはあまり起こらなかった。

 明け方4時ごろ、ラーメン屋を発見し、食べた。こういう時のラーメンは、驚くほど美味しい。

 家に着いたのは、5時ごろであった気がする。後で地図を確認すると、20キロくらいあった。


12月2日 秩父夜祭

 今日は秩父夜祭を見に行った。友人の結婚式から帰ったばかりで、もっとのんびりしたいのに、と嫌がる嫁と共に出かけた。

 秩父に着いて、仲見世通りでもつ煮を食べていると、シゲオと会った。

 秩父夜祭のメインは三日であり、二日は観光客もそれ程多くなく、八時頃には祭は終わる。熱狂的な盛り上がりはない代わりに、落ち着いて祭を見られる。

 駅前で、屋台囃子の演奏があった。電車が到着するタイミングで演奏しているらしく、

「電車が来たぞ〜!」

とだれかが叫ぶと、紅白幕の裏から法被姿の人たちが現れて、屋台囃子の演奏が始まった。

 演奏は素晴らしかった。プロの太鼓集団の様に、体を反らせて腹筋を使った叩き方はしない。しかし、リズムが軽快でかつ力強く、独特の味わいがあるなぁと思った。真似しようとしても出来るものではない。

 商店街を歩いていると、別の場所でも屋台囃子の演奏があった。二日は表での演奏が多い気がする。ここでは小さな子供達が演奏していた。

 子供達の演奏に目を見張った。まだ小学校にも上がっていないであろう子供達が、とても上手に叩いていたのである。その表情は一丁前のプロの顔つきであり、やはり秩父の子供は違うなぁと思った。

 子供の演奏が終わった後、なんと、「では皆さんも叩いてみませんか」との声があった。一般人も叩けるとは思わず、びっくりした。せっかくだからとシゲオと舞台に上がってみることにした。他にも10人くらいの人が舞台に上がっていった。

 最初に叩き始めた人たちは、とても上手であった。あんな複雑なリズムを「叩いてみませんか」と言われて「叩いてみよう」と思う人は、そりゃ経験者であろう。おれたちはあんなに上手に出来ないぞ、と、シゲオと焦っていた。

 結局、私は笛を吹き、シゲオは太鼓を叩いてきた。舞台に上がると、それっぽく演奏している風になり、それなりに楽しく演奏することが出来た。

 演奏後、一緒に叩いた人達に声をかけたところ、立命館大学の「和太鼓ドン」というサークルの人で、なんと京都から来たらしい。学芸大の「結」ともつながりがあり、民研のことも聞いたことがあるという。太鼓の世界は狭いものだと思った。

 その後は、しばらく曳山を見て、仲見世通りで再度食事をし、家路についた。屋台囃子がやりたくなってきた。先週は木遣りがやりたくなっていたのに。我ながら影響を受けやすいなぁと思った。

topへ