2008年
2月のつぶやき
2月25日 グリズリースーツ
突然思い出したことなのだが、私が高校生くらいの時に見た「世界まる見え!テレビ特捜部」で、忘れられないシーンがある。それは、カナダの山奥でグリズリーに襲われたある男が、グリズリーと戦うことを夢見て「グリズリースーツ」なるものを開発する物語である。
彼は、独自に開発した防御力に優れる「グリズリースーツ」を着込み、車に激突されたり、飛んでくる丸太の衝撃を受けたり、崖から突き落とされたりしてその能力の高さを確かめていた。物凄く衝撃的なシーンのはずなのに、ばかばかしくて大爆笑してしまう。
そしてついに「グリズリースーツ」山火事にも耐えられるような耐熱性も持つのだが、グリズリーとの対決に必要な機能なのか全く不明である。
しかも、そうして改良された「グリズリースーツ」は、重過ぎてろくに歩けない上、転ぶと起き上がれないという致命的な弱点を持つあたり、抱腹絶倒すべき面白さであった。
私の筆の稚拙さによりこの面白さを伝えることが出来ないのだが、いろんな人と話をしていると、「グリズリースーツ」のインパクトがよほど強いのか、意外に知っている人が多い。「グリズリースーツ」などで検索してみた。するとその後、この男がグリズリーと戦ったところ、逃げようとして転んだとか、更にその後、軍用のバトルアーマーを開発したとか、突っ込みどころ満載の話があることを知った。
youtubeにも
その動画
があり、久しぶりに爆笑した。「Project Grizzly」という名前でDVDも出ているらしく、是非手に入れたいと思った。
2月24日 職場対抗駅伝
今日は、職場対抗駅伝大会であった。下にも書いたとおり、私は直前に選手となったため、最後の1週間で追い込み練習をしたのみである。駅伝は、5キロのコースをひとり1周走り、5人で合計5周する。
天候は、荒れまくっていた。雨こそ降らなかったが、昨日までの陽気が一転、真冬並みの寒さとなった上、暴風が吹き荒れて電車が止まったり遅れたりしていた。スタート&ゴールのある運動場は砂埃が舞い上がり、衣服はざらざらになり、しばしば目も開けられないような状態となった。
私は、走りたくないと思った。走るのは嫌いではないが、大好きというほどでもない。こんな寒い中、なぜ裸同然の格好で走らなければならないのか。しかも、砂が目に入って常に痛い。しかし、レースが始まるとテンションが上がってきて、走る気になってきた。
私は、たすきを受け取って走り始めた。先輩に言われたとおり、はじめはあまり飛ばし過ぎないように注意しながら走った。3キロ過ぎたあたりから少しずつペースを上げていったが、あまり上がらずにゴールとなった。やはり練習不足であろう。走り終えた後、応援してくれた人たちが口を揃えて
「死にそうな顔で走っていたぞ」
と言った。みんなゴール直前は辛いに決まっているが、私の顔は格別だったらしい。そんなに酷い顔だったのであろうか。
その後は、砂まみれのまま慰労会で大いに飲食し、帰り道にクリーニング屋で着ていた砂まみれのダウンジャケットを脱いで渡してきた。家に帰ると、即行で風呂に入った。そして、もう少し速く走れるようになりたいと思った。
それにしても、先々週までは太鼓大好会のステージに向けて追い込んでおり、先週は駅伝の追い込みであった。そして明日からは今週末のリコーダー発表会に向けての追い込みをしなければならない。
そう思った今日、家に帰りリコーダーを吹きはじめたとたん、ちょうど昼寝を開始しようと思って横になっていた嫁が怒って起き出した。嫁は「寝ていられない」と言って風呂に入ってしまった。風呂から上がった嫁は、怒るというより呆れて笑っており、そのまま夕食となった。
毎週充実してるなぁと、我ながら思う。そういえば最近、みっつのお手玉が出来るようになった。多趣味とも、落ち着きがないとも言える。
2月21日 残雪の賭け
今、嫁と賭けをしている。賭けの内容は、「残雪が3月まで残るか否か」である。私の家の周りでは、2月9日に降った大雪の残雪がところどころ残っており、3月1日までに全て溶けるか、それとも残るかを賭けているのである。
私は3月まで残ると思っており、全て溶けると主張する嫁と議論になった。私は冗談で、
「では3月まで残るか百万円賭けよう」
と言った。すると嫁は、
「百万円は大きすぎる、せめて十万円でどうか」
と言う。これには私が驚いた。たかだか雪が溶けるかどうかのことで、十万円も失いたくない。そんな大胆な賭け事はざらにないし、受けたくもないと思った。結局、「負けた方が飯をおごる」ということで落ち着いた。もちろん私は「残る」方に賭け、嫁は「溶ける」方に賭けている。その後、細かいルールを詰めた。
例えば、「途中で再度雪が降ったらどうするか」という問題があり、私は「残るにあたる」と主張し、嫁は「ドローである」と主張した。私は、
「では途中で雨が降ったらどうする」と逆に問うたところ、嫁は「溶けるにあたる」と答えたので、その矛盾を説き、「何があっても残るか溶けるかのみを賭ける」こととした。また、近所のガキ及びオッサン及び犬などが雪に小便をかけるのは自然現象とみなし、賭けは継続される。ただし、こっそりお湯をかけたりする等、人為的に操作するのは厳禁とした。
賭けを始めたとたん、毎日の通勤がスリリングとなった。毎日雪の溶け具合をチェックしつつ歩く。特に雪だるまの残骸は心強い。天気予報も気になる。寒さに弱い私が寒波を願うのである。3月まであと9日、私は雪が踏ん張ってくれることを願っている。
2月20日 追い込み
おととい、突然会社の駅伝の選手に選ばれた。駅伝大会は今週末である。
私は驚いた。陸上部のタイムトライアルでは良いタイムが出ず、選手になることはないと言われていたからである。よって、それ以降練習もしていない。
ともあれ、この一週間でそれなりに走れるようにしなければならない。毎日帰宅後に家の周りを走ることとした。毎日10キロ走るつもりでいたが、初日いきなり膝を痛めそうになったので7キロ走ることにした。
仕事で疲れた後に更に走るのはしんどいが、今週だけの話なのでなんとか耐えようと思う。
2月17日 東京マラソン応援ステージ
今日は、東京マラソン応援ステージであった。太鼓大好会の初舞台である。軽い気持ちで応募したらビデオ審査を通り、なんとゴール前100メートルあたりで太鼓を叩くことになった。
会場に行けば、凄い熱気があった。到着してすぐに、車椅子のゴールがあり、続いてトップランナーがゴールした。トップランナーの走りを生で見たのは初めてだったが、その迫力に圧倒された。まさに超人である。応援の方は、太鼓の他にもマーチングバンドやよさこいソーラン、吹奏楽など学園祭のように色々な人が集まっていた。
さて、私達の演奏は1時からなのだが、スタッフより「12時半頃から適当に叩いていてもよい」との声があり、演奏を開始した。
演奏を始めて、しまったと思ったのは、いくら叩いても疲れないはずの石狩太鼓の地打ちのリズムが、1分と持たず叩けなくなることであった。寒空の下で待っていたせいか、筋肉が硬直し細かいリズムが叩けず、また手がかじかんでバチを投げそうになってしまうのである。練習での細かい注意事項などは消し飛んだ。
それでも何とか演奏し、演奏し終わった後はランナーを応援した。応援は面白い。「ガンバレー」と声をかけると、殆どの人が、少し表情が輝いてペースが上がるのである。凄いコスプレや着ぐるみを着ているのに表情がグロッキー、というギャップも、マラソンでしか味わえない醍醐味である。
それにしても、東京マラソンは楽しい。まだ2年という短い歴史だが、都心を交通規制するという贅沢さと、誰しもが主役になれ得るという手軽さが嬉しい。
家に帰り、予約録画したビデオを見てみた。すると、一瞬だが2回くらい映っていた。私達が石狩太鼓を叩いている間に、なんと東国原知事が目の前を通っていたらしい。
左:ラルフ鈴木(アナウンサー?)を応援する私達 右:東国原知事の前で石狩太鼓を叩く私達
2月16日 スーツを買う
今日は、嫁と川越までスーツを買いに行った。今のスーツが破れてきているからである。今の職場は会社で職服に着替えるため、私服で通勤している。よって、スーツを着る日と言えば、外出か飲み会くらいなので、これまで我慢して着ていたのだが、先日職場の後輩女性に指摘されたことを良い機会とし、スーツを新調することにした。
周知の通りだが、私にはファッションのセンスが無い。ましてや、スーツとなればどれも同じに見えてしまう。そこで嫁に見立ててもらうこととし、連れ立って川越に向かった。
電車の中で、私は嫁に注文を出した。ストライプ入りなどのものはチャラチャラした印象を与えるのでやめて欲しい、グレーはオッサン臭いので嫌だ、等色々言っていたら、私のスーツ選びを楽しみにしていた嫁はがっかりし、かつ少し怒っていた。
川越の「パーフェクト・スーツ・ファクトリー」に行った。しばらく色々なスーツを眺めていたが、すぐにこれは手に負えないと思った。そしてこれは、嫁に一任しようと思った。私が上記の如く注文していると、結局今までと同じようなものしか選ばないはずだからである。それに、スーツを見ているうちに少しは冒険してみようという気持ちが起こってきたのである。嫁は色々悩んだあげく、ストライプ柄のスーツを2種類選んでくれた。
ひとつは細身のもので、私が着ると更に細くガリガリになってしまったのでやめた。もうひとつのものはバランスもよく、価格も手ごろなので購入を決めた。あとはワイシャツやネクタイも数点購入した。
すそ直しをしてもらう間、「小江戸」川越を散歩することにした。川越の古い町並みを歩き、「菓子屋横丁」と呼ばれる裏路地に入り、駄菓子を食べたり「芋ビール」なるものを飲んだりして過ごした。
川越はいいところだと思った。心なしか、会う人がみな温和な表情に見える。庶民的な雰囲気の中にも上品さがあり、ぶらぶら歩いているだけで心が安らぐような感じがした。
また、「川越まつり会館」にも寄った。川越まつりは、江戸時代から続く都市祭礼で、十数台もの山車が登場し、大いに盛り上がるらしい。元々は江戸の山王祭や神田祭に源流があり、お囃子などもそれらに似ている。興味深いのは、これら江戸の祭も、元々は山車を引くものだったが、都市化につれ路面電車や電線が出来、山車の通行が困難となったために神輿に変わってしまったということである。川越まつりは、古い江戸の祭の姿に最も近いのかも知れない。
私はまだ川越まつりに行ったことは無いのだが、今年は行ってみたいと思った。
その後はスーツを受け取って家路についた。初めてこのスーツを着るのは3月1日のリコーダー発表会であろうか。少し楽しみである。
2月13日 今日の夕食
今日は外出後早く帰ることが出来たので、食事を作った。最近寒いので、暖まるためにモツ煮込みを作ることとした。
私の料理は適当である。鍋に白モツを入れて水を浸し、火にかける。後は、火にかけつつ野菜を切り、切った野菜を次々と放り込んでいくだけである。野菜を切る順は、大根、ニンジンなど煮えにくいものから始め、最後はきのこ、たまねぎなどである。あとは、味噌や醤油で適当に味付けして出来上がりである。
その他、冷蔵庫の余り物を使って「ぐちゃぐちゃ炒め」を作った。余り物は、豆腐、卵、キャベツ、キムチ、餃子の具(餃子を作った時の余り)であった。
まずは、餃子の具を炒めて別皿にとっておく。次に、キャベツとキムチを炒め、先ほど炒めた餃子の具を加えて更に炒める。仕上げに、卵と手で握りつぶした豆腐を加えてかき混ぜ、醤油をかけて出来上がりである。沖縄の「チャンプルー」の作り方を参考にしつつ適当に作った。
どちらも、美味しく出来た。不思議なことに、レシピ通り作るよりも、様子を見ながら適当に作る方が、美味しく出来る確率が高い気がする。
2月12日 職場にて
今日の昼、昼食をとるため表に出ると、ドアを出たところに人が立っていた。なんと、職服にきちんと名札を付けているかチェックしているらしい。隣席の事務の女性は、名札が付いていないことを指摘され、名札を取りに一旦席に戻っていった。その他、「靴のかかとを踏んで歩かないように」などと指摘されるらしい。
驚くと同時に、懐かしい感じがした。まるで一昔前の中学校の校門のようである。噂によれば、毎日チェックすると言う。また噂によれば、名札を紛失した者は始末書を書かされるらしい。一体、私の会社に何があったのか。私には会社の方針を推し量ることも出来ないが、要するに「行儀よくしなさい」「決まりを守りなさい」ということらしい。
思い起こせば、少年の頃はこのように「管理」されることに対し、反発心を抱いていたような気がする。「管理」する側の大変さまで考えが至らなかったのである。当時の先生方は、持ち物検査をするにせよ、頭髪検査をするにせよ、とてつもない神経と労力を使ってそれらを行っていたに違いない。
勿論、今はこれに対する反発心は微塵も湧かず、むしろ大変だなぁとしか思わなかった。
2月9日 雪の帰り道
今日は、太鼓大好会の東京マラソンステージ前の最終練習であった。
練習後、皆で焼肉を食べて帰ろうとすると、雨が降っていた。そう言えば今日の予報は雪である。シゲオは私を車で送ってくれると言う。練習場所は東京、私の家は埼玉、シゲオの家は栃木であり、途中と言えば途中だが、シゲオにとって遠回りである。私はシゲオの好意に甘えることにした。
車中にて、雪の予報だったが雨でよかった、などと話していると、雨が雪に変わった。
雪は降っているが、まだまだみぞれであり道路は安全である、と話していると、雪はいよいよ本降りになってきた。そのうちあたりは真っ白になり、車線も見えなくなった。そして、ブレーキを踏む度にABSが作動するようになった。
やがて、ゆるやかな登り坂にさしかかった。道は混んでいる。スタッドレスやチェーンは無く、このまま登り坂で車が停止すれば、再び発進するのは困難に思われた。と思ったら、案の定、車は停止した。
再び発進しようとすると、雪にタイヤを取られて発進することが出来ない。私達は「やばい、やばい」と騒いだ。
私は車を降り、後ろから押してみた。しかし車は動かない。仕方なく、太鼓を保護するための毛布(サイレンサー)を取り出して車の駆動輪に噛ませたところ、車はようやく動き出した。このまま端に寄せて処置しようと思っていたが、せっかく動き出したのにまた停止するのは勿体無いと思った。私はノロノロと動き出した車のドアを開けて飛び乗り、そのまま坂道を越えた。
飛び乗った後、シゲオと私は大はしゃぎした。まるで映画のワンシーンのようであり、それが楽しかったのである。その後は降雪も峠を越え、次第に雨になった。シゲオは私を家に送ってくれた後、深夜の1時過ぎに無事家に着いたとのメールが来た。
疲れたが、特に辛いとか不運だとは思わなかった。こういった困難を楽しめるような、得な性格になれたのは、民研での影響が一番大きい気がする。
2月4日 パソコンを治す
ここのところ、パソコンの調子が悪かった。「youtube」の動画を見ていると、1分くらいでフリーズしてしまうのである。その後は何をしても復活せず、電源を入れなおすしかない。よって、どうしても見たい動画などは、1分毎に一時停止し、パソコンを休ませつつ閲覧するしかなかったのである。
はじめはソフト的な問題だと思っており、Windows Updateを行うなどしていたが、一向に治る気配が無い。パソコンQ&Aの様なサイトを覘いてみたが、有力な情報は得られなかった。
色々調べているうちに、どうやらCPUに負荷がかかり過ぎるためだと感じるようになってきた。そして今日、パソコンを空けて中を掃除してみることにした。勿論、パソコンの知識は殆ど無い。
先ず、パソコンが開かなかった。以前にも何度か開けたことがあり、簡単に開くことが分かっているのだが、押すのか引くのか、持ち上げるのか10分くらいパソコンのカバーと格闘した。
簡単に開くはずなのに何故開かないのか、こんなことも出来ない自分に嫌気がさしたころ、偶然にもカバーは開いた。
中を見回したが、どれがCPUなのか分からない。プログラマーである嫁にどれがCPUか聞いてみると、マザーボードの中央にある黒くて四角い部品を指差して、
「これではないか」
と言う。理由は、その部品に「Intel」と書かれているかららしい。
少し不思議な感じがした。CPUと言えば、なによりも冷却が大事なはずなのに、ファンの微風さえも当たらないようなマザーボードの中央にあるものだろうか。それとも、オークションで購入したこの3万円のパソコンが、CPUを冷やせない設計にしてしまったのであろうか。
そんなことを考えつつファンの掃除をしていると、ファンの風が当たる位置にヒートシンクがあった。何気なくこのヒートシンクを外してみると、その下に金属製の四角い部品があった。
再度嫁に確認してみると、間違いなくこれがCPUであると言う。先ほどの話は勘違いであると言う。CPUは、さすがにパソコンの頭脳らしく、外からは見えないところで頑丈に守られている感じがした。
さて、CPUを見ると、白い石膏のようなもので汚れている。CPUに接触するはずのヒートシンク裏側の銅地面も、同じく汚い。これではヒートシンクが浮いてしまう。私は、これらの汚れが、当初はCPUとヒートシンクを強固にくっつけていたが、今は逆にこの汚れがあるために、CPUがヒートシンクと接触できず、CPUがオーバーヒートしてしまうのではないかと思った。
そこでこれらの汚れを全てカッターで削り落とし、元通りセットして電源を入れた。
結果、パソコンは見違えるように復活した。「youtube」で7分間の和太鼓演奏を聴いても全く問題なかった。
私は嬉しくなった。パソコンの知識はあまり無いが、理屈どおりに修理し、理屈どおりに治ったということが快感である。しばし自分に酔い、このつぶやきを書くことにした。
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