2008年
4月のつぶやき




4月29日 虫が増える

 最近、暖かくなってきたせいか、我が家に虫が多くなってきた。トイレに行けば、ハエと蚊の間くらいの大きさの虫が、壁にちょこんと行儀良く止まっているし、寝室の壁は、団子虫の小さいのがヨタヨタと歩いている。

 一年前までは、これらを見かけるとティッシュで潰したり、殺虫スプレーをかけたりしていたのだが、昨年の新婚旅行でブータンに行って以来、全く出来なくなった。

 ブータンでは、殺生を好まない。ハエや蚊を叩く行為さえ嫌われる。現地ガイドの話によれば、ブータン人にとって、輪廻転生の中でハエや蚊が自分達の先祖かも知れないという考えがあるらしい。

 ブータン旅行に行く前、バルサンを炊いて家を出た。旅行から帰ってきて、バルサンによる死屍累々とした光景を見て、なんと悪いことをしたことかと思った。

 それ以来、耳元に蚊が来ても、追い払うだけで叩くことはしなくなったし、トイレに小バエがいても全く気にならなくなった。嫁は元々生き物を愛しており、虫がいても全く気にせず、ゴキブリも外に放してやるような人である。当然、ブータン人の考えにも共感していた。我が家の虫はどこまで増えるのであろうか。今くらいなら問題ないが、突如大量発生とかされたら非常に困る。

 かなり心配になったので、生ゴミと燃えるゴミを分けることにし、生ゴミはこまめに出すことにした。少しは効果があればよいのだが。


4月27日 私の将来

 私は、年を取るとぼけるのではないかと思っている。私は、仕事や趣味など、特定のことについては一生懸命考え、行動出来るのだが、その他のことに関しては無頓着で、惰性で流れているような一面がある。

 例えば、仕事中に口にするものは、決まったガムと決まったチョコと決まった煎餅のみであり、売店に行っても何も考えることなくそれらを購入するのみである。いかに魅力的な新製品が出ても、それらを購入する気は起こらない。仕事中に口にするものは、いつも同じで良いと思っている。しかしこれは、「新製品にときめくことにより脳を刺激する」ということを怠っている証拠でもある。

 また、やるべきことをすぐ忘れる。例えば、ある仕事のついでに他のちょっとした仕事も片付けるべく席を立ったとする。すると、かなりの確率で「ちょっとした仕事」の方を忘れたまま席に戻ることになる。それどころか、席に戻る頃には、胸ポケットのボールペンがなくなっていたり、逆に増えていたりするのである。

 その他、知らない言葉に出会って、あとで調べてみようなどと思って、何度もその言葉を反芻していても、家に着く頃にはきれいさっぱり忘れているなどということは日常茶飯事だし、人の名前を覚えるのも苦手である。

 ただし、強みもある。それは、私が将来ぼけるであろうことを認識していることである。例えば、私が老人になったとき、昼食を食べたのにその記憶が無いとする。大抵の人は、「おれは昼食を食べていない」と主張するだろう。しかし私は、「自分はぼけているからその記憶が無いだけだ」と自分を納得させられる自信がある。

 「ぼけたもん勝ち」と言われる夫婦生活において、将来私は勝ち組になるだろう。しかし、ぼけても決して嫁には迷惑をかけないつもりである。


4月21日 水口曳山祭

 先週末は、滋賀県の「水口曳山祭」を見に行ってきた。祭は19日、20日に行われ、19日が宵宮(前夜祭)20日が例大祭となっている。私達は、20日に大好会の練習があるため、19日の宵宮のみ行くことにした。メンバーは、シゲオ、シンゴ、オサムであった。

 木曜日くらいまでは、私は行く気だったのだが、シゲオは乗り気でなかった。たかが前夜祭だけを見るために滋賀まで行くのはばかばかしいと思ったらしい。「やめるか?」みたいなことを何度か言っていたように記憶している。

 一方、私のほうも、金曜日に水口の観光協会に電話し、宵宮だけ行くのもどうかと思い始めた。独身でもないのに、週末にふらふら遊びに行くのもどうかと思った。シゲオから「やめよう」という言葉を引き出すべく電話してみると、意外にも「行こう」という返事が来た。集合は、横浜駅に土曜日の朝8時。

 当日、シゲオは1時間ほど遅れて現れた。なぜか平日と勘違いしたらしく、スーツを着て駅まで行ったところで気付いたらしい。その後、横浜でシンゴを、浜松でオサムを拾って水口へ向かった。

 水口は、美しい町であった。かつての宿場町を思わせる古い町並みが落ち着いて佇んでいる。どの家も、庭は丁寧に手入れされており、ゆったりとした時間の流れを感じさせる。ヤンキーだって可愛らしい。学生時代、2回くらい水口に行ったが、その時の記憶は、西友、くるくる寿司、市民プールなどであり、このような美しい風景に出会った記憶は全く無い。水口の美しさを始めて知った。

 宵宮は、それぞれの町の蔵で山車を飾り付け、その中で水口囃子を演奏する。暗くて細い路地に突然現れる山車は、とても美しく見えるし、路地に響き渡る水口囃子は、とても風流である。

 かつて水口囃子を教えてくれた人たちに、会った。彼らは私たちのことを覚えていてくれ、歓迎してくれた。特に、ダケデは印象的だったらしく、みんな「ダケヤン」「ダケヤン」と口々に言っていた。宵宮だけ見て例大祭は見れないということを伝えると、「アホちゃうか」と呆れていた。

 その後、後ろ髪を引かれる思いで水口を後にし、今日の寝床である浜松のオサム宅へ。オサム宅に液晶テレビとプレステ3があることに、一同驚愕した。オサム=人間らしくない生活、と考えていた私たちは、この変貌ぶりに感動を覚え、心からオサムを称えた。その後、これらのデジタル機器を駆使してプロレスのDVDを見て、酒を飲んで寝た。

 だんだん面倒臭くなってきたので、次の日は時系列で箇条書き。

8時・・・起床
9時・・・オサム宅を出る。
13時・・横浜に着く。スーパー銭湯でだらだらする。
18時・・太鼓大好会練習。大漁太鼓などをストイックに練習し、ぼろぼろになる。
22時・・練習後、デニーズで夕食。
24時・・帰宅。風呂に入る。
2時・・・深夜より仕事あり、会社へ。
7時・・・帰りの車で何度も落ちそうになりながら帰宅。出社する嫁を尻目に布団に倒れ込む。
12時・・ふたたび起床、会社へ。

 ハードだが充実した週末であった。


4月18日 大切な言葉

 以前に何度も書いたが、私が大事にしている言葉がある。忙しくて心に余裕がないとき、この言葉を思い出すだけで癒される気がする。


「忙しくて忙しくて、それでもまだすることが山積みというのは、幸せのひとつの形」

 このくだりは、浅倉卓弥の小説「四日間の奇蹟」の中で、山奥の診療所の職員、真理子がかつて農家に嫁いだことを回想するシーンで口にする言葉である。この言葉を知った時、これまで忙しくて気付かなかった幸せに気付くことができたし、たとえそれを忘れそうになったときも、この言葉を反芻することで、今が幸せな瞬間だと思えるようになったのである。


 「仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない。」

 以上は、養老孟司の新書「超バカの壁」からの引用である。シンプルで強い言葉である。入社して数年は、こんなことすらも分からなかった気がする。今の仕事は本当に自分に向いているのだろうかということを考えては、答えを出せなかった。少なくとも、「仕事」と称して、わざわざ穴を空けるようなマネだけは、してはならないと思う。


 私はもの覚えが悪く、せっかく本を読んでも、読んだところから忘れてしまう。しかし、たまにはほんの数行だけ、覚えられる時もあるのである。


4月17日 紫の水玉ネクタイ

 私には、「勝負ネクタイ」がある。重要な打合せがある時や、クレーム対応などで取引先と戦わねばならない時など、ここぞというタイミングではこのネクタイをする。そして、このネクタイのおかげか、大抵は良い結果となる気がする。

 そのネクタイの色は紫で、ピンクと白の水玉模様がある。無難な柄を好む私にとって、かなり異様なネクタイである。当然、私には似合わないし、私の好みでもない。

 このネクタイは、大学4年のとき、民研の追いコンでもらった。ひとつ下の後輩、キシミカが選んでくれたものである。彼女は紫とか水玉とかが好きで、常にそんな服を着ていた気がする。このネクタイの選定基準は、私に似合うかどうかではなく、純粋にキシミカの好みであろう。

 前にも書いたが、私は定性的なことや迷信的な話をあまり信じない傾向がある。このネクタイの件にしても、ここぞという時にあえて「勝負ネクタイ」以外のネクタイを使ったことがないため、本当の効能は分からない。

 しかし、なんとなくこの「勝負ネクタイ」をすると、集中力がアップするような気がするのである。


4月13日 イチカワ、マミコ挙式

 昨日は、民研の後輩、イチカワと民研の同期、マミコの結婚式であった。新郎新婦ともに民研人ということもあり、民研らしい挙式となった。

 太鼓大好会では、披露宴で余興の太鼓演奏をすることになっており、器材搬入とリハーサルのため11時に披露宴会場に向かった。色々検討した結果、新郎新婦を囲むように太鼓を配置することにした。なんとなく新郎新婦を威嚇しているような印象となったが、まあ大丈夫だろうということになった。

 準備を終え、挙式の行われる「山手ロイストン教会」へ。教会に着けば、懐かしい顔があった。同期で全員集合するのも、そろそろ最後かもしれない。教会の中はこれまで見たどの教会よりも厳かで風格があった。このとき、この空間は、ふたりにとっての世界の全てであった。

 挙式を終え、外で写真撮影となった。クミコが「やっぱりいっちゃんの口開いてるよ」と言ったら、本人に聞こえたらしく、不自然に口を閉じたのが印象的であった。



 続いて披露宴に向かう。受付前で、シゲオとセツの祝儀袋が全く同じものだということが判明、ふたりがへこんでいるのが面白かった。



 心配していた余興では、新郎の笛に始まり、交代で大好会以外の民研人にも演奏してもらい、更には新郎と新婦のかけあいも実現するという、予想以上の盛上がりとなり、安心すると同時に嬉しかった。



 二次会は、定番の「マシンガンズ」「ダケデクイズ」があった。民研人の結婚式には、必ずオプションとしてついてくる余興である。どちらも、他に類を見ない個性がある。マシンガンズはお笑いの常識を覆しており、ダケデクイズは「クイズ」そのものの常識を覆していた。



 結局、そのまま朝まで飲んだ。久しぶりに会う人も多く、楽しいひと時であった。

 イチカワのスピーチで、「私は人が大好きだ」と言ったことが忘れられない。イチカワだけでなく、マミコも人が大好きである。そして、そんなふたりが魅力的だと思う。「人が好きだ」と言えるようになりたい、というのは私の目標である。「自分に好意的な人が好きだ」「自分と同じ意見の人が好きだ」という「条件付き人が好き」は、誰でも言える。しかし、それを超越して「人が好きだ」と言える人はなかなかいないし、自分もそうありたいと思う。

 ともあれおめでとうございます!!




4月7日 郷土愛について

 おとといのさくらステージの後、打ち上げで、郷土愛の話になった。栃木県出身のヒトミによれば、栃木人で栃木を愛している人は少ないと言う。そういえば、学生時代に知り合ったの栃木人で、卒業後故郷に帰った人はひとりもいない。

 しかし、私達は信じなかった。誰だって、故郷は好きなはずだし、他県の人が故郷を気に入ってくれれば、それは誰だって嬉しいはずだと思っていたからである。

 私達は、栃木を弁護すべく、ヒトミにさまざまな栃木のよさをアピールしたが、ことごとく却下された。日光については、「江戸から大工が来て勝手に作ったため、栃木県の一部とは認められず、『江戸の飛び地』、または『日光県』というべきものである」 とのことであり、那須についても、「都会人の別荘ばかりで那須出身の栃木人は殆どおらず、よって愛着は無い」 とのことであった。宇都宮名物、餃子についても、特に他県の人に勧めるほどの情熱は無いという。

 更には、「春には桜が咲いても、風が強い気候柄、すぐに散ってしまい花見などは殆ど楽しめない」 という、日本の美しい風景すらもろくに楽しめない有様を語ってくれ、私達は完全にノックアウトされた。

 それに対し、山口県出身のシンゴは、錦帯橋がいかに素晴らしいかであるとか、山口のガードレールは、山口の名産品であるみかんにちなんで、みかん色に塗られているという話を、目を輝かせて語っており、その対比が面白かった。


 話は変わるが、昨日、秩父の横瀬町で行われる、「宇根の春祭り」に行った。秩父出身で、ユウノシンの会社の後輩であるタカザワ君が教えてくれたお祭である。「笠鉾の中で太鼓を叩けるかも知れない」 とのことで、シゲオと車で向かった。

 小さなお祭りだったが、華やかな笠鉾がのどかな田畑や山々の風景と溶け込んでいて、とても美しかった。しかも、タカザワ君のはからいで、笠鉾の中で太鼓を叩かせてもらうという、素晴らしい体験も出来、心から楽しんだ。

 タカザワ君は、「会社の花見を欠席して祭りに駆けつけた」 と言う。この祭りをよほど楽しみにしていたらしい。大人たちは、祭りのことや、町のことを色々話してくれたし、笠鉾に乗っかっている子供達は、終始笑顔で掛け声をかけており、本当に楽しそうであった。

 うらやましいなぁと、思った。


4月5日 さくらステージ

 今日は、所沢航空公園の「さくらステージ」で太鼓を叩いた。天気は快晴、桜もなんとか残っており、丁度散り際の美しいときであった。

 しかし結果は惨敗・・・。私は、太鼓を叩いている間に足をつってしまい、アキレス腱伸ばしを行いつつ太鼓を叩くという体たらくであった。東京マラソンのように、延々と演奏するのではなく、舞台上で一発勝負である。とにかく、基礎的な技術と体力が足りないと思った。

 普段の練習では、基本打ちをを黙々とこなすような、基礎練習が必要と分かっていても、なかなか長続きせず、ついつい通し練習ばかりしてしまう。本当は、基礎さえしっかり出来ていれば、曲を通すのは意外に簡単なのである。今後はこういう練習も多めにした方がいいのかと思った。

 あとは、「楽しく練習する」ということと、「上手くなるために練習する」ということのバランス感覚が大事である。どちらに片寄りすぎても、うまくいかない。


 ステージ後、我が家にみんな集まって録画したビデオを見た。すると、安物(1万円!)のビデオカメラの解像度が低いためか、駄目なところがうまくごまかせており、意外に悪くないように見えた。

 少しほっとした。


 話は変わるが、今日シゲオが「タイコンコーネ」を持ってきた。家にあったらしい。「タイコンコーネ」は、民研時代の器楽部に受け継がれてきたもので、私達の先輩が民研のレパートリーを楽譜にしたものである。

 半分以上は私達が見たことのない曲である。残念ながら、楽譜だけでは太鼓の置き方や振り付けなども分からないため、演奏することは出来ないが、昔の人たちの情熱を感じることはできる。御陣乗しかレパートリーのなかった先輩方は、インターネットもない時代に、毎年曲を発掘したり創作したりして、形にして残していたのである。

その最後に、私が作った「讃岐国分寺太鼓」の楽譜もあった。当時の私は、消えそうな曲を復活させようとがんばっていたらしい。よく見ていると、うっすらと思い出してきた。

 懐かしいなぁと思った。

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