2008年
8 月のつぶやき




8月29日 蝉と外出する

 今日は、午後から外出であった。西武線で居眠りをし、池袋駅でふと気付くと、私のかばんに蝉がくっついていた。いったいどこからついて来たのか?少なくとも所沢駅からであり、もしかしたら工場からずっとついてきていたのかも知れない。

 蝉は、3〜17年もの時を土の中で過ごし、最後の数週間のみ、成虫として大空を飛び回り、子孫を残すという。最後の成虫の期間というのは、この生物にとって最も輝けるときであろう。遥かなる時間を経て、この蝉が私のかばんにくっついていることを思うと、この蝉がいとおしくなった。

 蝉をつついてみたが、かすかに足を動かすだけで、飛び立とうとはしなかった。弱っているのだろうか。ふと、この子は無事に子孫を残すことができたのだろうかと思った。そんなことを考えていると、この蝉を無下にすることはできないと思った。

 私は、蝉と一緒に外出することにした。電車の揺れにも動じず、蝉は私のかばんにしっかりとくっついていた。2回の乗り継ぎを経ても、蝉は一生懸命、私のかばんにくっついていた。電車の中で、私のかばんをじろじろ見ている人もいたが、気にしないようにした。

 駅を降りると、小さな公園があった。この子の最期は、ここでいいかと思い、蝉を木に止まらせようとすると、なんと蝉は勢い良く飛び立ち、遥か高い木に向かって飛び去っていった。それまで、行儀良く私のかばんにくっついていただけに、驚いた。

 ともあれ良かったと思った。そして、夏もそろそろ終わると思った。


8月28日 忘れ物

 私が外出するとき、嫁は「忘れ物はない?」と聞いてくれる。

 私は「ある」と答える。「何を忘れたの?」と嫁。

 何を忘れたか分からないから忘れ物なのである。何を忘れたかなど、分かるはずが無い。しかし、普段の私の行動からして、なんらかの忘れ物はあるに決まっている。よって、当然「分からない」と答える。分からないが、忘れ物をしている。呆れる嫁。

 大抵は、私の言ったとおり、家を出て5分か10分くらいすると、忘れ物に気付いて取りに帰るのである。そして嫁に「ほれ見ろ。おれの言ったとおり、忘れ物はあったろ」と自慢する私。呆れる嫁。

 嫁に言わせれば、外出する前日に必要なものをリストアップし、置き場所を決めてきちんと管理すれば、忘れ物はしないらしい。確かに嫁は、ほとんど忘れ物をしない。

 しかし、休日までそんなことをしていると、まるで仕事の延長みたいで息が詰まるのである。勿論、嫁の言うことが100%正しくて、私が100%間違っていることはよく分かっているのだが。


8月25日 コントレックス

 初めてコントレックスを飲んだ。コントレックスとは、フランスのミネラルウォーターで、非常に硬度の高い硬水である。五十嵐貴久の小説「TVJ」で、テレビ局を占拠した犯人グループを説得する交渉人、大島が飲んでいた水がコントレックスであった。

 私は、水でも焼酎でもクセのある方が好きである。お金をだしてせっかく飲むのなら、個性のある方が良い。麦焼酎よりは芋焼酎、ボルヴィックよりはエヴィアンの方がおいしいと思うが、エヴィアンでさえ軟水である。

 コントレックスを飲んで驚いた。水なのにねっとりとしており、独特の味わいがある。これはクセになりそうだと思った。


8月24日 鹿児島旅行

 今年の夏休みは鹿児島へ行った。九州最南端のこの県は、なんとなく沖縄よりも遠い感じがする。焼酎と桜島と西郷どんの鹿児島、前から気になっていたのだが、ついに行くことになった。


<エスカレーターの乗り方>
 エスカレーターの乗り方だが、関東では左側は止まる人、右側は歩く人となっており、関西では逆である。愛知では東西入り乱れ、ジグザグに歩かねばならない。これは、「エスカレーター本来の機能を使う人が左に来る」という法則に当てはめることができるらしい。即ち、エスカレーターは、関東では「楽をして上に行くためのツール」として位置づけられており、せっかちな関西では「速く上に行くためのツール」として位置づけられている。

 鹿児島ではどうかと思っていたら、なんと歩いている人はひとりもいなかった。駅を降りていきなり、南国のゆったりした時間の流れを感じた。


<知覧へ>
 駅でレンタカーを借り、知覧へ向かった。特攻隊の基地で有名な知覧だが、昔ながらの武家屋敷がそのまま保存されているなど、風流な町並みも楽しむことができる。

 ♪大隣岳(おんないだけ)から 下原(しもんはゆ)見れば
 ♪唐種(からす)大根葉(でぇこんは)が 今 生(お)立つ

 嫁と知覧節を口ずさんだ。間宮芳生の合唱曲として、学生時代に歌った。知覧は、この歌のように風流さと素朴さが入り混じった美しい町であった。時間が遅く、武家屋敷をひとまわりして知覧を後にした。


知覧武家屋敷の風景。のんびりと静かであった。




<砂蒸し風呂(指宿)>
 今日の宿は指宿である。民宿はどこも一杯で、鹿児島についてから予約した宿は、なんとウィークリーマンションの一室であった。そこで少し落ち着いてから、名物砂蒸し風呂へ。砂蒸し風呂とは、地熱で温められた砂に埋められることにより体を温める、独特のサウナである。

 受付で専用の浴衣を渡され、砂蒸し風呂のある砂浜へ向かった。昔の白黒写真を見ていると、まるで迫害されているキシリタンの様相である。

 言われるがままに寝っ転がると、手際よく砂で埋められた。かなり重い。15分後、どろどろの浴衣を脱ぎ捨てて普通の風呂に入った。やはり普通の風呂の方がいいと思った。


<フラワーパーク>
 次の日は、「フラワーパークかごしま」へ行った。

 行く前は、あまり乗り気でなかった。どうせビニールハウスの中に南国の植物が植えられているのを見るだけだろうと思っていたが、一歩入って驚いた。

 フラワーパークは、自然の地形を利用して作られており、ほとんどの植物はそのまま植えられていた。いわば、鹿児島県全体が巨大なビニールハウスらしい。一部本物のビニールハウスもあったが、この時期はビニールハウスの内外で気温差はなかった。


<焼酎ロック>
 鹿児島で、焼酎ロックを注文して驚いた。通常、私たちがイメージする焼酎ロックは、グラス一杯に氷を入れ、焼酎を半分くらいまで注ぎ入れたものである。しかし、鹿児島のロックは、並々と注がれた焼酎に氷が2〜3個、プカプカ浮かんでいるのである。

 初めてこれを見た時は、店員が間違えて水割りを持ってきたのだと思っていた。これが水割りではないと気付いたのは、2杯飲んだだけでぐでんぐでんに酔っ払ったからである。


<蒲生の大楠>
 指宿から戻り、「釜生の大楠」を見に行った。「釜生の大楠」は、日本一のクスノキである。

 実際に見ると、滅茶苦茶大きかった。後ろには、なんと入り口らしい扉が取り付けられている。後で社務所の人に聞くと、中にはなんと8畳程度の空洞があり、今は木の保護のため樹木医しか入れないが、昔は誰でも自由に入れたらしい。


左:大楠全景           右:大楠に取り付けられた扉




<本家白熊>
 「本家白熊」を食べた。「白熊」とは、寒天やメロン、すいか、みかんなどさまざまな「具」が埋め込まれた巨大なかき氷であり、この「本家白熊」が発祥らしい。後で知ったのだが、九州ではコンビニでも売られているくらい有名なものである。

 嫁とふたりで一つの白熊を食べたのだが、それでも大変だった。本家白熊は大繁盛であった。鹿児島の若者は、白熊を食べて暑さをしのいでいるらしい。


本家白熊




<桜島>
 鹿児島へ戻った後は、桜島へ行った。桜島へのフェリー運航は24時間行われており、昼間はなんと7分おきにフェリーが発着する。レンタカーを借りて1周した。印象的だったのは、名物茶色のローソン(国立公園内は、青系の派手な色を使えないらしい)、鹿児島出身の歌手、長淵剛のモニュメント、灰で埋もれた鳥居などであった。

 噴火の写真を見れば、衝撃であった。中学校の裏山が激しく噴火しているのである。通常ならばありえない光景がそこにあった。

 レンタカー屋のおじさんは、長渕剛と同じ高校に通っていたらしく、少年時代の長渕は、ギターを担いで登校する変わり者で、体育会系の連中からいじめられていたこと、歌の「順子」は実在の人物だったことなど、当時の話を色々してくれた。


左:名物茶色のローソン      中:長渕剛のモニュメント。桜島で8万人の野外ライブが開かれたという。     右:中学校の裏で噴火する桜島の写真




<西郷どん>
 最後の日は、朝起きてそのまま博多に向かう予定だったが、私の強い要望により西郷隆盛の銅像を見ることになった。

「薩摩の国の主に挨拶もせずに帰るたぁ、失礼極まりねぇ」と、渋る嫁を浅田次郎風に説得したが、薩摩藩の主は島津氏である。本音は、鹿児島らしさを少しでも味わいたかっただけであった。

 西郷どんは、公民館の横に予想よりも地味に鎮座していた。目の前は道路である。道路の向こうには、写真を取れる広場があり、その横には、地元の工業高校の女生徒が銅像を測量した結果が記されていた。身長や顔の大きさ、果ては目の幅や鼻の高さまでがミリ単位で詳細に記されていた。


交差点の脇に鎮座する西郷どん




<最後に>
 明治維新の原動力となった薩摩、大久保利通や西郷隆盛を生んだ薩摩、家父長制の薩摩・・・。私はこれまで鹿児島に対し、厳格で硬派なイメージを持っていた。しかし、鹿児島に来て、そのイメージが変わった。「薩摩」の持つ厳格な雰囲気は、この土地が持つのんびりした気風の裏返しに過ぎず、その本質はむしろ、大らかさと開放感溢れる南国の気風なのだと思った。

 鹿児島は、のんびりと、そして明るかった。


鹿児島一の繁華街、天文館




8月18日 「全国アホ・バカ分布考」

 夏休みの帰省および旅行中、新幹線の中で読んでいた本が「全国アホ・バカ分布考」(松本修著・大田出版)であった。この本は、関西の人気ローカル番組「探偵!ナイトスクープ」の、「アホとバカの境界はどこにあるのか」という視聴者の調査依頼がきっかけで行った、膨大かつ綿密な「アホ、バカ調査」の記録である。著者の松本修氏は「探偵!ナイトスクープ」のプロデューサーである。

 タイトルは馬鹿馬鹿しいが、内容は非常に学術的であり、知的好奇心をくすぐられる。一般的に、関西では「アホ」、関東では「バカ」が最も用いられるとされているが、「バカ」は実は広島以西でも広く用いられており、「アホ」の地域を「バカ」が囲むような形になっている。また、「バカ」と「アホ」の間には、「ダラ」「アンゴウ」「タワケ」などが分布し、「アホ」を中心とした同心円状に分布しているのである。

 これは、日本の方言が、かつて強力な情報発信地であった京都を中心とした同心円状に分布しているという、柳田國男の「蝸牛考」(=カタツムリの呼び名に関する考察)そして、これを元にした「方言周圏論」に合致している。即ち、「アホ」も「バカ」もかつての京都で流行った言葉であり、「アホ」は、「バカ」よりもより新しい表現なのである。更には、方言の伝播速度は1年間におよそ930メートルであることから、「アホ」「バカ」の出現した年代とその語源が明らかにしていく。

 そして、アホ・バカ分布に関する放送は大反響を呼び、日本民間放送連盟賞・テレビ娯楽部門最優秀賞、ギャラクシー賞選奨、ATP賞グランプリと、テレビ界のビッグタイトルを総ナメにするのである。


 最も印象的だったくだりが、同心円の最も外側に分布する、すなわち最も古いアホ・バカ表現である、沖縄の「プリムヌ」についての考察である。

 一般的に「プリムヌ」の語源は、「ふれもの」(=気の触れた者)とされていた。しかし、著者はこれに強烈な違和感を覚える。日本のアホ・バカ表現は、親しいものに対して愛情を込めて言うものであり、「気の触れた者」などの差別語を使うはずがない。例えば、親が子を叱るときに、「気の触れた者!」と言うはずがないと考える。

 そして著者は、「プリムヌ」の語源は「惚れもの」(=ぼんやり者)ではないかと仮定し、まことに鮮やかな論理構成でこれを証明するのである。以下は本からの抜粋だが、著者がいかに言葉に愛情を込めているかが分かる。


 琉球方言圏のすべての人々に、私は声を大にしてこう伝えたい。

「どうかこれからは『もしや差別語では?』などとつゆ疑うことなく、部下やお子様・お孫様に対して、必要な場合、正々堂々と『フリムン(プリムヌ)!』(この、ぼんやり者!)と怒鳴ってください。むろんのこと、否定されるべき差別のためではなく、それぞれご自身の、心からの『愛情の証』として」

 琉球の人々は、「気の触れた者」などという差別的なアホ・バカ表現など、遠い昔から今日にいたるまで一度も使用してはこなかったのだ。逆に「気の触れた者」、すなわち狂人を指す場合にでも、新たに差別的な言葉を設けず、「ぼんやり者」を意味する日常的なアホ・バカ表現で代用してきたのである。この一事を眺めても、琉球の人々がいかに人の心と言語を大切にしてきたかが、おのずと彷彿される。

 この本には、アホ・バカ分布にかけたとてつもない労力と、厳密な論理構成、そして言葉に対する著者の深い愛情が込められている。


8月11日 無法松の一生

 「無法松の一生」を見た。明治時代、北九州小倉の人力車夫「無法松」こと富島松五郎の喧嘩早いながらも情深い生き様を描いた映画である。1958年版で、監督は稲垣浩、主演は三船敏郎である。小倉祇園太鼓をやるからには、無法松の太鼓を見てみたいと思い、レンタルビデオ屋で借りた。

 昔の映画は、テンポが悪くていまいち乗り切れないことが多いのだが、「無法松の一生」は、面白かった。明治時代に生きる庶民の雰囲気が生き生きとしており、無法松だけでなく、出演するばあちゃんや子供達も味わいがあって可愛らしい。

 無法松は、その名の通り滅茶苦茶な男である。顔パスで芝居小屋に入ろうとして追い出された仕返しに、チケットを買って芝居小屋に入り、中でニンニクやニラを煮て凄い匂いを発生させ、大混乱に陥れる。文句を言いにきた小屋の連中には逆切れし、大喧嘩をする無法松。現代の感覚で言えば、陰湿な上にキレやすい、とても映画のヒーローになれるようなキャラクターではないが、この映画の中ではそれが気持ちの良い男として描かれている。

 しかも、喧嘩のシーンなどでは、結構本気で殴られていたり、角材で殴っていたり、投げ飛ばされたりしており、下手なCGよりも臨場感がある。

 そして、この映画の見せ所である祇園太鼓を打つシーンでは、テレビに釘付けになってしまった。その味わいと太鼓の腕前は、今の感覚で言う俳優の粋をはるかに超えていた。その太鼓には、映画を通して見てきた無法松の優しさと悲しみ、そして言いようのない不条理な感情が全て込められているように感じた。昔の俳優はなんと凄いことかと思った。そしてこの映画の祇園太鼓が、鬼太鼓座や鼓童をはじめとする多くの太鼓打ちが行っている「大太鼓」の原点となっていることは、疑いようがないと思った。

 鬼太鼓座の創始者、田耕氏は、「『この人こそ!』とめざす日本人の太鼓打ちは、稲垣浩監督の映画『無法松の一生』で、阪東妻三郎『富島松五郎』以外には、まだ現れていません。」と書いている。

 この映画はその後に作られたものだが、阪東妻三郎の太鼓も見てみたいと思った。


↓三船敏郎が太鼓を打つシーン
http://jp.youtube.com/watch?v=mkwQebzHRvM


8月6日 元宮にて

 先週末は、元宮で太鼓を叩いたり神輿を担いだりした。「太鼓大好会」という名前は、元宮の「神輿大好会」に由来している。思い出せば一年前、現役生の太鼓を見て、シゲオと「太鼓叩きてぇな」と言ったのが太鼓大好会の始まりであろう。元宮は、太鼓大好会の原点とも言えるところである。

 そんな元宮で、神輿の出発時の出陣太鼓を叩くことになった。演目は大漁太鼓のみに絞り、5月頃から練習していた。「大漁太鼓を変えたい」という思いはシゲオも私も以前から持っており、youtubeのぶちあわせ太鼓を参考にしたりしつつ作り込んでいった。


 8/2土曜日、けだるい暑さの中、元宮に向かった。神輿を担ぐ前の気持ちは、うきうきと嬉しいというよりは、どちらかというとだるい。家でごろごろしていた方が確実に楽なのに、わざわざしんどい思いをするのである。それも始まってしまえば滅茶苦茶楽しいのだが。

 出陣太鼓の演奏は、やはり練習の半分くらいの実力しか出せなかった。テンポの変わり目ではずれ、最後のさんとこはテンポが上がりきらずに終わってしまった。それでも、元宮の人たちの暖かい喝采を浴び、最高に嬉しかった。

 その後は、例年通り大いに神輿を担ぎ、元宮男のふんどし姿での一気飲みを見て、銭湯「千歳湯」に入って帰宅した。


 次の日、朝9時に地域の草むしりをしてから、ごろごろしていた。元宮では、クーラーの効いた部屋でごろごろ昼寝をすることを「鋭気を養う」と言う。私も扇風機を効かせて鋭気を養い、来たる本番に備えた。

 8/3は祭の本番である。元宮周辺の各地区から神輿が出され、国道15号線沿いで一同に会する。

 8/3の出陣太鼓は現役生の石狩太鼓であった。1年生が中心らしい。若々しい演奏であった。今年は現役生が多く、20人以上いた。私たちは適当に先輩風を吹かせたりしつつ、担いでいた。そして、いつものように国道15号線沿いで現役生の演奏と地元のオバチャンのかっぽれ節を見て、踏切では「高速ヨイト」をしつつ、夜のマンションの下をくぐり、時間が無いと言っては「高速ヨイト」をして、「元宮のアイドル」キエは「ヨコタ」に参加し、女神輿を応援し、神輿は公園に戻ってきた。

 本当に楽しい。一年に一度の楽しみである。楽しいが、くたくたに疲れた。足袋はぼろぼろになり、足の裏の感覚がおかしくなった。そして、「明日は会社かよ!」と思った。

 終わったあと、例のごとく千歳湯で汗を流してから、石渡先生の家に行った。先生は、病み上がりながらも歓迎してくださり、例のごとくビールとスイカに始まり、更にはウォッカや長期熟成のハブ酒を出してくれた。


 本当に楽しい二日間であった。次の日、全身筋肉痛と両肩のあざを持って会社に行き、ほうほうの体で仕事をして帰った。

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