1/23から1/29までの1週間、グァテマラ旅行に行った。妹が国際協力のボランティアでグァテマラに住んでおり、母と私で会いに行ったのである。
グァテマラに向かう(1/23)
今回の旅行の最大のポイントは、「グァテマラに到着する」ということである。グァテマラにさえ着いてしまえば、あとは妹が計画してくれた通りに行動すればよい。しかし、そこに着くまでにアメリカへの入国、デトロイトとヒューストンでの2回の乗り継ぎがあり、旅慣れておらず、英語もろくに喋れない母と私にとっては
不安であった。逆に、グァテマラに到着し、妹に会えさえすれば、旅の半分は終わったようなものである。
一番ピンチだったのは、ヒューストンでの乗り継ぎであった。ヒューストンに到着したのが18:45であったのだが、なんと次のグァテマラ行きの飛行機の搭乗時刻も同じ時刻なのである。出発は19:15。しかも、次の搭乗口まではシャトルバスを利用するらしい。教えてもらったとおりのところで降りたものの、搭乗口まではやたら遠く、そこから猛ダッシュした。なんとか19:10分頃に搭乗口に着くと、すでに誰もいない。乗り込もうとすると、職員にさえぎられた。たどたどしい英語で事情を話すと、「No problem.」「You are OK.」などの答えが返ってくる。しかし、搭乗時刻を尋ねると、やはり18:45だと言っている。
なにかおかしいと思い、中1で習う英会話の基本、「What time is it ?」と聞いてみたところ、これまた教科書どおりに「It's 6 o'clock.」という答えが返ってきた。なんと、デトロイトとヒューストンでは1時間の時差があるらしく、私たちは搭乗1時間前に搭乗口で大騒ぎをしていたのであった。
他にも、デトロイトで私が航空券を失くしかけるなど、トラブルはあった。それでも何とか無事グァテマラ空港に到着し、出口を見れば、笑顔で手を振る妹がいた。

空港にて
グァテマラについて
グァテマラは、中米(アメリカ大陸の一番くびれた部分)に位置する国で、紀元前よりマヤ系先住民による高度な都市国家が築かれていた。マヤ文明は、滑車も鉄器も用いることなく巨大建造物を建てるなど、私たちの知っている文明とは全く異なるベクトルで進化を遂げており、9世紀頃までに栄華を誇ったが、その後衰退したとされる。グァテマラは1523年にスペインに侵攻され、1821の独立宣言まではスペインの支配下に置かれることとなる。独立後も軍事政権時代、過激テロなどの混乱などの苦労を経て現在に至る。
グァテマラの人口比率は先住民52%、混血も含めると97%となり、先住民人口が最も多い。先住民は遥か昔にアラスカを渡ってきたモンゴロイド系の人種であり、顔立ちは私たちアジア人にそっくりである。民族衣装も、タイやブータンを思わせるデザインであり、親しみの湧くものが多い。私の感触では、グァテマラに住む先住民と欧州系の人たちは、目だって反目しあってはいないものの、どことなく交じり合えないというか、よそよそしいように感じる。
アンティグア〜パナハッチェル(1/24)
朝、ホテルで妹のホームスティ先の次男、ポロに会う。初めて接するラテン人である。明るい!テンション高い!母にも「ママー!」と言って抱きついており、その歓迎ぶりに驚いた。そんな彼が環境省の役人だから、更に驚きである。
そんなポロの案内で古都アンティグアへ。アンティグアは1541年から1776年までの間、グァテマラの首都であった。しかし、火山活動と地震のため壊滅し、首都は現在のグァテマラシティに遷都された。今では世界遺産に登録され、かつて地震で崩壊した建造物がそのまま遺されている。
ポロによれば、かつてペドロという牧師がいて、多くの貧しい人やハンディキャップを持つ人のために尽くし、民衆の罪を背負うがごとく十字架を背負って町を歩いていたらしい。一方で先住民を虐殺する施設もあり、アンティグアという町が抱えていた矛盾を感じる。
ポロは、「フォト!」と叫んでは写真を撮り、車の中から外を歩く女性に声をかけるなど、私たちをとても楽しませてくれた。彼は、前日仕事のトラブルで11時まで仕事をしており、しかも私たちを案内するための車が故障していたらしく、朝4時に起きて車を修理してからかけつけてくれたらしい。
ラテン人の明るさというのは、根っからのものもあるだろうが、その中には人付き合いに対する繊細な感覚があるのだと思った。ポロは無理してでも(もちろん無理してることなど、一切悟らせないように)私たちを明るく歓迎してくれた。更にポロは、アンティグアを案内した後、4時間くらいかけて次のホテルがあるパナハッチェルまで運転して連れて行ってくれた。本当に、感謝感激である。

左:アンティグアの遺跡 中:妹とポロ 右:十字架の丘にて(アンティグアの町が一望できる)
パナハッチェル〜トトニカパン(1/25)
次の日は、パナハッチェルを観光した。パナハッチェルには、世界一美しいと言われるアティトラン湖があり、モーターボートで横断する。対岸のサンディアゴ・アティトラン村に着くと、物凄い数の物売りに囲まれた。彼らを振り切ると、小さい男の子だけがひとり、いつまでも私たちについて来た。私たちのガイドをしてくれると言う。妹が、私を指差して「何歳に見える?」と聞くと、男の子は「50歳」と答えた。外見上の最高年齢がまたもや更新され、ショックを受けた。ちなみに母も50歳、妹は30歳と言われたらしい。妹が私と母の娘だと思ったのだろうか。
男の子の案内で、カトリック教会、プロテスタント教会、そしてマヤの神様がいるという民家に連れて行ってもらった。マヤの神様は、一年ごとに民家を移動するらしい。マヤの神様は、タバコをくわえた老人の姿をしており、不思議な魅力があった。移動中、民族衣装を着た地元の人たちでごったがえす市場を通り、いかにも異国に来たという感じがした。
その後、船で東側にあるサンアントニオ・パロポ村へ。ここでお茶しようと入ったところが、リゾートホテルであった。オウムを見たり、イグアナを抱いたりした。帰り道、物売りの男の子からミサンガを買ったところ、凄い数の子ども達が手にしている土産物を売りに来た。その表情は真剣で、ここでの生活が決して楽ではないことを感じた。
昼食を食べ、蝶の飼育をしているというアティトラン自然保護区へ行った。しかし、今の時期は卵やさなぎの状態らしく、蝶は2種類しか見当たらなかった。
午後4時、ホームスティ先のお隣さん「ワヴィート」が迎えに来てくれ、車で妹のホームスティ先、トトニカパンに向かった。「ワヴィート」は、地元でトゥクトゥクの運転手をしている23歳の青年で、妹が言うには「ワヴィート」の発音は物凄く難しいらしい。とても23歳には見えない、愛嬌のある青年である。
車は、ホームスティ先で「メルセデス」と呼ばれているボロボロの車で、パナハッチェルからの急な坂道を登れば、エンジンがオーバーヒートした。ラジエーターキャップを開けると、水蒸気が物凄い勢いで噴き出した。私たちは驚いたが、ワヴィートは驚く風もなくラジエータに水を補給していた。彼いわく、よくあることらしい。
グァテマラ人の運転は速い。高速道路でもないのに、100キロくらいは普通に出す。日本では60キロくらいだというと、大抵誰でもずいぶん遅いなぁという反応をしていた。しかも、見通しが悪くてもどんどん追い越しをするため、慣れない私たちには怖く、悲鳴を上げつつトトニカパンに向かった。
これから2日間、妹のホームスティ先に泊めてもらうことになる。妹の面倒を見てくれているホームスティ先のママは、とても明るく、素敵な人であった。一緒に住んでいる次女も、良く笑う楽しい人である。お土産である日本のがまぐち、千代紙、坂角のえびせん、そして母がお好み焼を作るために持っていったオタフクソースをとても喜んでくれた。
夕食は、とうもろこしを練って作った「タマリート」、牛肉を骨ごと料理した豪快なもの、そして見たことの無いような小さなじゃがいもであった。どれもとても美味しかった。

左:カトリック教会にて、ガイドの男の子と 中左:市場の様子 中右:妹とイグアナ 右:「メルセデス」に水を補給するワヴィート
ウエウエテナンゴ(1/26)
ウエウエテナンゴは、トトニカパンから最も近くでマヤ遺跡を見られる場所である。朝8時にワヴィートと彼の友人、アベルとともに「メルセデス」で出発した。
遺跡は、のんびりした公園であった。地元の人がサッカーをしていたり、デートをしていたりしていた。遺跡は崩れないようコンクリートで固められており、「遺跡らしさ」はあまりなかった。
最も高い遺跡は、頂上で生贄の心臓をえぐり取ったり、生贄の首を切って転がり落としたりしたものらしい。また、球技場は生贄同士を勝負させ、負けたほうが殺されるという、文字通り命を賭けた戦いが行われていたという。
マヤ文明を知る手がかりは、遺跡と土器、そして王の歴史が記された象形文字くらいであり、民衆の生活を知る術はほとんど無い。マヤ文明といえば、生贄と戦いのイメージが強いが、個人的には、こんなことは一部の狂気的な王族のみが行っていた愚考であると思いたい。そして、マヤに住む多くの人々は、美しい民族衣装を着て穏やかに過ごしていたと思いたい。
ホームスティ先に戻ったら、お好み焼を作った。母も妹も私も、お好み焼には特別のこだわりがあり、粉の量が少ないだとか多いだとか、火加減が強すぎるだとか弱すぎるだとか喧嘩になりつつ作った。グァテマラのキャベツは甘く、美味しいお好み焼が出来た。
その後、アメリカ人ボランティアのリンダ、隣りに住むギターおじさんが現れ、ラテン風のどんちゃん騒ぎが始まった。ギターおじさんは、グァテマラの歌とか、トトニカパンの歌を何種類も歌っており、地元ソングがたくさんあるのに驚いた。私は、日本から持ってきていた篠笛で、コンドルは飛んでいく、おおスザンナなどをギターと合奏した。ホームスティ先のママは音楽が始まると可愛らしく踊りだす。まるで体が勝手に動くようである。そんな風にして、トトニカパン最後の夜を過ごした。

左:ウエウエテナンゴの生贄の塔 中左:アベル・ワヴィート・母・私 中右:踊る母とママ 右:ギターおじさんと篠笛で合奏
トトニカパン〜グアテマラシティ(1/27)
この日は、トトニカパンの最終日である。次の日には朝飛行機でグァテマラを発つため、実質上グァテマラ最後の日でもある。妹は寂しそうにしていた。この日は、午前中妹の職場に行った。妹の職場は市役所の1階にあり、ここを拠点として村々をまわったり、マニュアルの作成をしたりしているらしい。グァテマラの職場では、以下のように仕事をするという。
8時:出社
10時:軽食
13時:昼食のため帰宅
14時:再び出社
16時:帰宅
日本人からすれば、なんと気楽な働き方かと思うが、生活全体を見ればどちらが楽などとは言えない。10時の軽食を一緒に頂いたのだが、結構たくさん食べるのである。ここ以外でも、グァテマラの食事は全体的に量が多く、常におなか一杯といった感じであった。
昼食を食べて、ホームスティ先のママ、次女と別れる。妹が元気に過ごせているのは、この人たちのおかげだと思った。

左:妹の職場にて 中:トトニカパンの風景 右:次女・母・ママ・妹
帰宅(1/28〜1/30)
朝8時の飛行機の乗るため、朝5時起床。今回の旅で2番目のポイントは「無事に帰る」ということである。とにかく、無事グァテマラに来れて無事帰れればほぼ100点満点なのである。結論から言うと、特に大きなトラブルも無く成田に帰ることが出来た。
トピックスと言えば、アメリカの食事がどれもまずく、かつ多いことであった。空港で食べたナチョスは、この世のものとは思えないくらいまずく、かつ凄い量であった。ホテルで食べたピザはそこそこ美味しかったものの、食べきれないくらいでかかった。一番ましだったのは、マクドナルドのハンバーガーであり、マクドナルドが大人気な訳が分かった気がした。
最後に
今回の旅の目的は、妹に会いに行くことであった。ついでに、グァテマラがどんなところか見てみたいという思いもあった。妹のたくましさとその行動力は、私などとは比べ物にならない。一貫した考えとそれを行動に移すバイタリティは、学ぶべきところが多い。頑張ってほしいと思うと同時に、私も頑張らねばと思った。
1月22日 すごーい