お盆休みは太鼓大好会のメンバーで郡上踊りに行った。郡上踊りは、岐阜県郡上市に伝わる盆踊りで、日本三大盆踊りに数えられる。祭り期間は1ヶ月半も続くのだが、なかでも8/13〜16は徹夜踊りであり、郡上踊りのクライマックスである。メンバーはボンサン、シゲオ、モコ、セツ、マサルサン、キエ、イッチ、私の8人。12日深夜に出発し、14日深夜に戻るという、0泊3日の強行軍であった。
8/12 行く
深夜の12時半にシゲオと私の車で横浜に集合し郡上へ。私たちのメンバーで旅行をする場合、サービスエリアにこまめに止まり、腹が減っていなくても何かしらの食事をする。民研の頃からの習性というか、礼儀作法というか、とにかくなかなか変えられないことである。
道は東名高速のがけ崩れの影響で若干渋滞していた。渋滞のさなか、セツに運転を任せて助手席に乗っているシゲオが、先週の銚子で買ったおもちゃの拳銃を取り出して私の車を撃った。すると、私の後ろの車が急に車間距離を空けて走り始めた。そりゃ怖かったであろう。その他、「エロしりとり」などをしながら眠気と戦いつつ、13日朝に郡上のスーパー銭湯に行き、仮眠をとった。
8/13 踊る
2時間くらい寝て、食事をしてすぐに郡上八幡に向かった。郡上の町は本当に美しい。きれいな水と古い町並みの風景は、いつまで見ていても飽きない。私たちは、早速ビールを買って観光した。すると、いかにもガラの悪い観光客の如き様相となり、恥ずかしくなった。
続いて夜の踊りに向けてゲタを購入した。郡上踊りはゲタを鳴らしながら踊るため、大量のゲタがバーゲンセールのように積まれており、どれも安い。早速ゲタを履いて河原で遊んだ。キエがシゲオのゲタを川に投げ捨てたり、セツとシゲオがキエを橋の上から投げ捨てようとしたり、私たちらしい旅の時間を過ごして踊りが始まるのを待った。
踊りが始まるのは夜の8時半からであった。この日は4日間続く徹夜踊りの初日であり、明け方の4時まで踊りは休むことなく続けられる。
踊りは簡単である。5分も一緒に踊れば誰でも踊れるようになる。そして、踊りを見物している人など殆どおらず、観光客も含めて殆どの人が踊っている。というか、誰が観光客で誰が地元の人かもわからないくらい、みんなが郡上踊りに溶け込んでいる。
さすがに、途中休憩を入れたり鰻を食べに店に入ったりしながら休み休み踊った。キエは日本酒を飲みすぎて若干おかしくなっており、ふらふらどこかに消えていき、最終的にシゲオの車で寝ていた。シゲオは、休憩も取らずに踊り続け、途中みんなで食事をしているときも冷やしパインだけを口にして踊り続けていた。何たる底なしの体力かと思っていたら、「疲れたので車で眠る」という内容の電話がかかってきた。しかし、結局寝付けなかったらしく、帰ってきて最後まで踊り続けていた。
明け方の3時過ぎからは、これまで聞いたことの無い伴奏が流れた。「郡上甚句」「古調かわさき」「まつさか」と3曲続けて踊り、徹夜踊りは終わった。これらの曲は、唄のみで伴奏は無い。踊りもシンプルでひっそりとしており、どことなく厳かである。見れば、地元の人たちは皆、徹夜で踊り明かしたとは思えないほどの、とても晴れやかな表情であった。盆踊りが単なる大騒ぎの場ではなく、先祖を迎える伝統行事であるということを感じた。
本当に楽しい時間であった。個人的には「春駒」の掛け声がかけられうようになったこと、猫の子が踊れるようになったことが嬉しい。
8/14 帰る
踊りが終わってすぐに車で郡上を発ち、仮眠を取るべく岐阜市内のスーパー銭湯に向かった。ここでは千円で仮眠室に入れるのだが、オバチャンの計らいにより、男4人は開店まで食堂で寝ててよいと言われ、食堂の座敷でごろ寝した。ここでも2時間ほど寝て、帰路についた。
朝の10時半頃郡上を発ち、横浜に着いたのは夜の11時頃であった。この時間、常に眠気と疲れとの戦いである。
間宮芳生12のインベンションを熱唱
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越中おわら節を熱唱し、歌詞がエロイと議論する
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嘉門達夫「怒りのメドレー童謡編」で爆笑。
そして最後はバリ島の伝統音楽「ケチャックダンス」であった。これを聞けば必ず目が覚める。ブラックブラックよりも眠眠打破よりも効果は高い。海老名SAからは、これをこれを聴いて絶叫したところ、ばっちり目が覚めなんとか横浜まで帰った。
家に着いたのは深夜1時前。疲れたが充実した旅行であった。

左:ゲタ売り場 中:郡上の風景(新橋より) 右:郡上踊りの様子
8月10日 廃線めぐり