2002年
11・12月のつぶやき




12月30日  凧揚げをする
 今日は凧揚げをした。メンバーはセツ、サクモト、シンジクンである。私は前から凧揚げをしたかったのだが、企画としてはあまりにつまらないため、なかなか切り出せずにいたが、今日思い立ち、実行した。
 当初は、瀬谷の海軍道路沿いのアメリカ海軍基地の、ただっ広い広場でやる予定であった。しかし、集合の不具合で、予定通りに集まらず、このまま海軍道路まで行くと日が暮れてしまうので、急遽国大グラウンドに場所を変更した。

 それでも国大グラウンドに着いたのは日没後であったが、なんとか凧揚げを始めた。凧は、セツが買ってきた昔ながらの竹と和紙の凧だったのだが、まず組み立て方が分からなかった。それでも「とりあえずやってみよう」という話になり、組み立てないまま無理やり凧を揚げようとしたが、当然揚がるはずもなく、凧は地面をごつごつと引き回され、壊れた。それを治そうとしていじくり回していると、竹ひごが外れ、さらにどうしようもない状態となった。

 そんなときにハンベイがくるという話になり、早速新しい誰でもすぐ飛ばせる凧を買ってきてくれるように頼んだ。しかし、その間あたりは暗く、肝心の凧もないため、することがなくなってしまった。仕方なく、たまたま車の中にあった竹とんぼで遊んでいたが、すぐに飽き、酒を買いに行った。

 国大グラウンドで酒を飲み、あたりはどうしようもなく真っ暗になったところでハンベイが来た。今度は「凧」といった感じではなく、「kite」といった感じの洋風の凧で組み立てもたやすかった。ためしに揚げてみると、凧は非常に空高く上がっていった。「まるでメーヴェみたいだ!」などと男5人で叫びつつ、凧を追いかけていた。

 しかし、そのときあたりはほぼ無風といっていい状態で、走り続けないと凧は失速してしまう。最初は元気に走り回っていたが、だんだん疲れてきた。そのうち、グラウンドを交代で一周ずつ走って、リレーみたいに凧をバトンタッチする方式を採用したが、4周目にセツが転んで終了した。

 その後もいろいろ試してみたが、やはり揚がらず、あきらめた。やはり年末年始に無理やり何かやろうとしてもうまくいかないんだということを思った。


12月28日  発表会を見て
 昨日、民研の発表会を見に行った。去年までは自分がやっていたわけだから、当たり前だが、民研の発表会を見るのは初めてである。

 結論から言うと、非常に感動した。私も去年まで民研をやっており、民研の音楽はどうなんだろうということをよく考えたものである。そして時には自分たちは素晴らしいことをやっているんだと思い込んだり、時にはろくでもないものなんじゃないかと思ったりもした。

 しかし、昨日実際に見て、やっぱり民研の音楽はいいものだと思った。たった一度きりの演奏のために数ヶ月(広く言えば一年間)かけて取り組むというのはこんなに凄いことなのかと思った。ある程度時間的にゆとりを持てる大学生だからこそなせる技である。

 さて、ここで細かく感想など書いてみようかと思ったが、あまりにとりとめもなく、つまらないものになってしまいそうなので、割愛することにした。そしてここでは、ちょっとした思い出のある日本民謡合唱の「稗搗ぶし」についてのみ話そうと思う。

 実はこの曲は私が三年のときに取り上げた曲である。確か民研で取り上げるのは初めてだといわれた記憶がある。7月ごろに取り上げたが、発表会にはのせず、4回ほど活動をするだけで終わった。当時私はコンダクターをやっていたが、非常に伸び悩んでいた。そして、この曲をどう作り上げていったらいいのか全く分からず、だらだらと歌うのみで終始してしまい、最終活動後にかなりへこんでしまった。

 今思えばこの曲は、解釈が非常に難しい。楽譜どおりに歌えるようになってからが大変な曲である。一方ピアノ伴奏の方は、楽譜どおり弾くだけで大変である。そんな中で、私は何も出来ず、「もういいや」という気持ちになり、さじを投げてしまった。しかし、発表会前になって、当時の一年生から「稗搗ぶし一番好きだったのにどうして発表会でやらないんですか?」という声が相次ぎ、さらにへこんだ。

 時は流れ、当時の一年生たちが三年になり、選曲を担当することになり、再び「稗搗ぶし」が選ばれた。まさに選ばれるべくして選ばれたといった感じであろう。

 そして、昨日初めて完成された「稗搗ぶし」を聴いた。聴いて、こんなにいい曲だったのかと思った。前半の男女の愛を歌うところは優しさが、後半の那須大八の伝説を歌うところは切なさと深い思い入れが伝わっているようであった。全体的に素朴で、非常にゆったりと聴くことが出来た。そしてこれまでその存在さえ全く理解不能だったピアノ伴奏が、時には合唱をひっぱり、時には脇役としていい味を出したりしているんだということにも初めて気づいた。

 この曲を聴けてよかったと心から思った。少し複雑な思い入れのある曲ではあるが、私にとってこの曲がいい曲だということに気付くことが出来ただけでも、大きな進歩である。


12月25日  久しぶりの更新
 またもや久しぶりの更新となる。最近仕事が忙しく、なかなか落ち着く間がない。今年のクリスマスも特筆すべきことなく、いつもと変わらぬメンバー(独身男性+単身赴任)で工場の夕食を食い、終わった。そして、12時過ぎに家に帰り、ストーブをつけ、その火でスルメをあぶって芋焼酎を飲むという、なんとも渋い生活をしている。

 そういえば、今朝初めてエアコンの「おはようタイマー」を使った。これまで、「お休みタイマー」があることは知っていたが、「おはようタイマー」はないと思っていた。しかし、最近のあまりの冷え込みように音を上げ、エアコンをいじくっていたところ、「おはようタイマー」もあるということに気付き、早速使ってみた。

 使ってみたところ、非常に快適に起きれることが分かった。なんせ今までは起きた瞬間白い息を吐く生活をしていたのである。しかし、快適であると同時に、なんだかエアコンに悪い気がしてきた。私のためにわざわざ早起きして部屋を暖めてくれるという、献身的な行為に対して申し訳ない気がしたのである。相手は機械なのに。

 そういえば、年明けに新たに音楽サークルを立ち上げることとなった。とりあえず和太鼓をやることは決定で、後は未定である。どのように活動をしていくかは、集まったメンバーの状況から総合的に判断したいと思っている。参加条件は「立ち上げ費用として1万円払う」ことである。とりあえず太鼓を買わないと始まらないので、10万円程度の太鼓を買うための費用である。だから10人集まればとりあえず立ち上がることとなる。参加したい方は、私か近藤さんまで連絡ください。

 気付けばとりとめもなくずらずらと書き散らしてしまった。やはり疲れていると筆が冴えないようである。おやすみなさい。
 


12月10日  大雪を体験する
 休み明けの月曜日、朝起きると大雪が降っていた。私は非常に驚いた。20センチくらいは積もっており、車はすっかり埋まっていたのである。驚くと同時に、「まだ大丈夫だろう」と思って本格的な冬支度をしていないことを後悔した。

 とりあえずスタッドレスタイヤは履いていたが、車の雪落としや、長靴、手袋さえも持ってなかった。仕方なく、ハンガーに雑巾をぐるぐる巻き、それで車の雪を落とした。するとすぐに手が痛くなり、何度か家に戻っては雪を落とすことを繰り返した。

 また、ドアを開けようとするとドアが凍り付いており、「バリッ」という音とともに開き、開くと同時に座席の上に雪が舞い散った。

 非常につらい朝であったが、せっかくだからと思い、早速昨日買ったデジカメを持ち出して、写真を撮った。

 家に帰って、ビデオの続きを見ようとして電源を入れると、何もしていないのにすぐにカセットが吐き出されてしまった。再度入れてみてもやはりすぐに吐き出されてしまう。よく見たら、画面を

「結露」

という文字が点滅しており、驚いた。

 次の日、雪はまだ降っていた。朝起きて表に出ると、今度は車に巨大なツララが出来ており、びっくりした。ハンガーはあまり効果的ではなかったので、今度は傘を持ってきて、傘で雪を払った。これはかなり効果があり、雪落としを買わなくても大丈夫だと思った。

 ともあれすごい雪である。現在やっと雪はやんだが、代わりに路上が凍結しており、非常に危険な状態である。


12月8日  デジカメを買う
 今日は、横浜からダイスケサンとアツシとミヤチが遊びに来た。土曜日に横浜に帰り、笑笑で朝まで飲み、日曜の朝にその場のノリで彼らと一緒に福島に行くことになった。

 ほぼ不眠だったが、そのまま「ちょっとコンビニに行く様なノリ」で那須に行くと、雪が積もっており、びっくりした。その後は、秘湯に入り、白河の評判のラーメン屋へ行き、腹一杯になって我が家でごろごろしていた。

 そのとき、アツシとダイスケサンはデジカメを持っており、他愛もなくいろいろな写真を撮っていた。それを見て私もデジカメが欲しくなり、近くの電気屋まで買いに行くことにした。

 しかし、買うとは決めたものの、私はデジカメを買っていったい何をするのだろうということがどうしても分からなかった。もちろん写真を撮ってパソコンに取り込むのだが、どんな写真を撮るのかもよく分からないし、パソコンに取り込んだからどうだということもよく分からない。店に並んでいるデジカメを前に、「おれは本当にデジカメが欲しいのだろうか」ということを自問自答していた。

 いくら考えても分からなかったので、買ってから考えることにした。買った後も、「ついに手に入れたぞ!」といった様な感激はなく、横にいたアツシに「買わなきゃよかった」というような意味のことをこぼしていた。

 ともあれせっかく買ったのだから、いろいろ遊んでみようと思う。そして、せっかくホームページを公開しているのだから、いろいろ面白い写真をアップしていこうと思っている。


12月3日  北朝鮮の音楽
 最近よくテレビで、北朝鮮についての番組をよく見かける。やはりみんな北朝鮮という、未知の国に興味を持っているのだろうと思う。
 私は、そういった北朝鮮についての番組の中でも、子供たちが音楽や踊りをやっている映像が流れたときには、思わず画面に釘付けになってしまう。

 非常に上手なのである。おそらくそれは、他の国々の物心つく前から英才教育を受けた子供たちにも負けないほど上手であろう。例えばピアノなど、小学校低学年くらいの子供が、ただ難しい曲を弾いているだけでなく、曲を理解し、解釈した上で演奏しているように感じる。ただ無理矢理やらされているだけでは、こんな素晴らしい演奏にはならないであろう。踊りなども振りが揃っていてすごいなあと思う。
 テレビでこういった映像を見て、「気持ち悪い」とか「異常だ」とか感じた人も多いであろう。と言うか、そう思う人がほとんどだと思う。しかしちょっと想像して欲しい。

 もしも、北朝鮮の音楽であるという先入観を持たずに、あの舞台をライブで見たらどうだろうか。
私ならば感激し、素晴らしいものを見たと満足するであろう。

 もしも、モーニング娘が北朝鮮のユニットで、北朝鮮の紹介VTRでモーニング娘が踊っていたらどうだろうか。
ほとんどの人は、笑顔がわざとらしくて気持ち悪いと言うかも知れない。

 もしも、民研の八木節が北朝鮮の芸能で、大勢でひしめきながら総踊りを踊っていたら・・・
私は北朝鮮という国は案外楽しい国なのかと思うかも知れない。

 もしかしたら私の感性が変なのだろうか。
 ただ、私は、なんでも先入観というフィルターを通してものを見たくないと思っている。
 しかし、もしかしたら、そう思う気持ちが逆に歪んだフィルターとなってしまっているのかもしれない。

 なんだか立て続けに暗いテーマでつぶやきを書いてしまった。次はもっとバカバカしい話を書こうかと思います。


11月30日  立川ゴミ屋敷の火事
 久しぶりにワイドショーを見ていたら、立川のゴミ屋敷が火事にあい、それを期にゴミ屋敷内のゴミを撤去することを家主が承諾したというニュースが報道されていた。彼は何十年も前からゴミを家に持ち帰り、その屋敷はゴミの山となり、悪臭や衛生などの点から近隣住民との間で問題になっていたという。

 テレビの中での家主は、非常に落ち込んでいた。人生で一番大事なものを失ったような感じであった。施設を無料で提供するという提案にも応じず、焼け落ちた家で毎日寝ているという。インタビュアーがなにを聞いても終始無言で、テレビカメラには常に背を向けていた。

 私には彼の気持ちは計り知れないが、私は、もしかしたら彼は世間にゴミの山を見せ付けたかったのかもしれないと思った。そして、現代の一見豊かで清潔な暮らしは、このような悪臭と不潔の上に成り立っているのだということを叫びたかったのかも知れない。

 人は限りなく清潔な暮らしを求める。しかし、清潔を求めるということは、不潔を見えないように隠し、自分とは離れたところに隔離してしまうということであろう。地方に行くと、焼却炉建設反対という看板をたまに見かけるが、なんと身勝手なことだろうと思う。都会で出たゴミを地方に押しやってしまおうという発想も身勝手だし、自分の家の近くにだけは作らないでくれという主張も身勝手である。

 そんなことを書いているうちに、私が思っているある考えを述べたくなった。私たちの世代についてのことである。

 私たちは、モノがあふれる時代に生まれた。だからこの豊かさはずっと前から続いていたのだろうという錯覚に陥るが、こんなにモノがあふれる時代になったのは、私たちが生まれるほんの少し前である。

 私たちは、モノがあふれる時代に生まれたが、未来はないという教育を受けて育った。私たちが子供時代に習った世界は、後何十年で石油がなくなるとか、毎日どのくらいの赤ちゃんが餓死しているとか、砂漠化は毎日どのくらいのペースで進んでいるとか、温暖化で海面は上昇して低地の都市は沈むとか、そんなどうしようもなく暗い未来である。「学研の科学」では、「もしも石油がなくなったら部屋の中からなにがなくなるか」というのをやっていて、部屋の中からすべてが消えてなくなった写真を見た記憶がある。たとえ木の製品でも、森から切り出し、運び、加工するのにも石油が必要だからである。

 多分私たちの親くらいの世代は、モノがなかった分、未来はなんとなく明るいと教わって育ったのだと思う。そして、物質的な豊かさを求め、必死で働き、高度経済成長を遂げた。

 逆に私たちは、モノが豊かな時代に生まれた分、物質的な豊かさにあまり魅力を感じない。むしろ精神的な豊かさを探し求めているように思う。私たちの世代はヨーロッパやアメリカよりも、アジアに興味を持つ人が多い。自分たちが体験できない、不便で貧しい生活の中に、精神的な豊かさを探しているのである。年配の人にこの気持ちは理解しかねるであろう。

 この世代による決定的な世界観の差は、どんなに努力しても分かり合うことはないと思う。しかし、そんな差があるということを知っているだけでも、例えば親子のいさかいなど、少しはましなのではないかと思う。


11月27日  我が家の暖房設備
 今日も工場を出ると雪が降っていた。もうすぐ福島は本格的な冬を迎えることになる。しかし、築20年の我が家は冬には向いていないらしく、非常に寒い。朝起きると、室温は表と同じか、下手をすれば日が出ている分、表のほうが暖かかったりする。そんな我が家の暖房設備について少し述べたい。

 我が家にはもともとエアコンが付いていたのだが、それでは心もとないと思い、石油ストーブを買った。上でお湯を沸かせたり、焼き芋を焼けたりする昔ながらのストーブである。その方が風情があるし、便利だと思って買ったのだが、ファンがない分ストーブの周りしか温まらないことに買ってから気付いた。

 ファンがないことを後悔しつつ、ストーブにべったり張り付いて毎朝茶漬けを食う生活をしていたが、今日上司に「部屋の中で扇風機を上向けて回すだけで全然違う」という話を聞き、早速試してみた。

 ちょうど我が家には、以前オーバーヒートした冷蔵庫を冷やすために買った中古の扇風機があったので、早速使おうとしたところ、その扇風機はガタがきており、無理矢理上を向けてもぐったりと下を向いてしまった。なんとなく腹が立ったので、ごろんと仰向けに倒して電源を入れた。

 すると、暖房効果はこれまでとははっきり違って部屋は暖かくなった。天井付近に滞留していた暖かい空気がうまく循環してくれたのであろう。

 部屋は暖かくなったが、部屋の隅で仰向けになった扇風機が回っている姿は、なんとなく寂しいものである。


11月20日  私の工作
 以前実家に帰ったとき、私が小中学校の授業で作った工作を見つけた。私は昔から普通のものは嫌いだったらしく、変なものばかり作っていたので少し紹介したい。

聖徳太子とスライム
 小学校4年くらいであろうか。確か「動く置物をつくる」というテーマで作った作品だったと思う。当時私は歴史というものにはじめて触れ、聖徳太子という、はるか昔の人物に興味を持っていた気がする。同時に、ドラクエも流行っており、そのザコキャラ、スライムの曲線美にも興味を持っていた。

 私は、聖徳太子を作り、手にもっている羽子板みたいなものを振り子で動かせるようにした。そして、振り子の重石として、スライムを取り付け、羽子板が揺れ動くとスライムが見え隠れするようなものを製作した。そして、その下に汚い字で

「月とすっぽん」

と大きく書いた。改めてみると、自分の小学生時代の感性に我ながら感服した。  

どこからでも空く箱
 これも小学校の作品であるが、「箱をつくる」というテーマで製作したものである。

 私は、やはり普通のものは嫌だと思い、直方体で、どの面からでも開けられる箱を作ろうと思い立ち、熱中して作った。どこからでも開くように釘を打つ位置も考えつつ、一気に作った。すると、異様に汚らしい箱が出来上がったので、全面を灰色に塗り、上面に「ゲゲゲのきたろう」の、ねずみ男の絵を汚らしく書いて完成した。

 作ってみて気付いたのは、「どこからでも開く箱は、すなわち箱としての機能を果たさない」ということであった。

 しかし、先日会社の関係で、プラスチックの展示会に行ったところ、どこからでも開けられるゴミ箱のフタというものが展示されていた。また、左右どちらからでも開けられる冷蔵庫というのも最近開発されており、先見の明があったのかと、少し思った。   

ピサの斜塔
 これは確か中学のときだったと思うが、木のかたまりを渡されて、なんでも作れと言われた気がする。私はピサの斜塔を作ろうと思い立った。このことだけでも自分はへそ曲がりだったんだと思う。

 私は、ピサの斜塔に興味を持っていた。なぜあんなに美しいのに、傾いているんだろうと思った。そして、あの傾き具合がまた美しいと思っていた。あれをわざと傾けて設計した人は天才だなどと思っていた。(後に、地盤の関係で傾いてしまったということを知る。)

 これはかなり上手にできた。今でもうまくできたなあと思っているので、手元に置いてある。やはり、傾いている方が見ていて飽きない気がする。    

作業着のデザイン
 これは高校3年のときであるが、私の高校では、高3では美術の授業がなく、夏休みに宿題として出され、それを提出すれば単位が取れるという、卑怯な手口を使っていた。そのときの宿題のテーマが、作業着のデザインであった。

 私は、あまり興味がなかったので、面倒臭くて直前までやらず、ぎりぎりになって適当に色鉛筆で書いて提出した。

 内容は「ムササビの服」と題して、袖を異様に巨大化し、足の部分とくっつけた。ムササビが飛んでいる姿を想像してもらえれば当たっている。その袖にはポケットを大量に作り、工具をびっしり入れられるようにした。そして、「万一足場から転落しても、手を広げればムササビのように滑空して着地できる」という内容のコメントを添えて提出した。

 二学期になり、みんなの絵が貼り出されたが、そのとき私は、画用紙の大きさが間違っていることに気付き、若干恥ずかしくなった記憶がある。


11月15日  最後の温泉
 以前この「つぶやき」で話した秘湯が今日で閉鎖になった。この秘湯とは、那須の山奥をどんどん行ったところに、脱衣所も屋根も何もなくただ露天風呂だけがあるという、まさに秘湯である。もちろんただで、月の出ていない日などは、懐中電灯を持っていかないとたどり着けない。以前、仕事が終わった後、先輩のS氏に連れて行ってもらい、それから非常に気に入っていた。その温泉が今日を持って閉鎖となってしまった。

 理由はよく知らないが、閉鎖の告知の看板を見る限り、開発が行われるのであろう。また、インターネットの掲示板などでも紹介されたらしく、あまりに来る人が多くなり、マナーなどの点で問題になったのかもしれない。

 ともかく私は、仕事が終わってから、ひとりで温泉に向かった。最後の秘湯をゆっくり堪能しておきたかった。

 温泉に着くと、月が明るく、懐中電灯がなくても歩くことができた。風呂に入ると、月が水面に反射して非常にきれいだった。木々も月の光に照らされて影ができていた。私は生まれて初めて月光の影を見たので非常に感動した。月はこんなにも明るいものだとは知らなかった。はじめは私ひとりだったが、次第にぽつりぽつりと人が現れた。最後の日だからもっと混むかと思っていたが、むしろいつもよりまばらだった。

 私はいつになく感傷的になっていた。この温泉の景色や、このにおいはもう二度と味わうことができない。そんなことを思いながら、一緒に入っていたおっさんたちと話していた。風呂に入りながら、頭の中で、ちょうど車の中で聞いていた、「pure」というCDの中の、中村幸代という人の「Heaven In A Wild Flower」(NHKスペシャル、ブッダ・大いなる旅路テーマ曲」が流れていた。永遠の別れを連想させるような、切なくも美しいメロディである。

 一時間くらい入り、上がった。名残惜しく、石をひとつ拾ってポケットに入れた。もうこんな温泉はめったに現れないであろう。いつもは寒さのあまり、足早に車に乗り込むのだが、この日はゆっくりと最後の秘湯をかみしめながら温泉を後にした。  


11月14日  久しぶりの更新
 またもや一週間更新せずにいてしまった。カウンターは着実に増えているのに、更新しないとは、せっかく足を運んでくださる方に申し訳ないことをしてしまった。今日は少し早めに仕事が終わったので、最近のことを書こうかと思います。

松明あかしを見る(11月9日)
 この日は福島県の須賀川市の「松明あかし」という祭を見に行った。例の清八のおばちゃんの妹に教えてもらい、見に行ったのである。なんでも、日本三大火祭に数えられるお祭らしい。

 このお祭は、400年以上も前の天正17年(1589年)、伊達政宗の手によって滅ぼされた須賀川城と、そこで戦死した多くの人々の霊を慰めるために始められた祭らしい。このときの戦いでは、城下町の北側に火が放たれ、あたりは火の海と化したという。

 それにちなんで、この祭では、夜のメインイベントとして、10メートルくらいある巨大な松明を何十本も立て、一斉に火を放つ。松明には、それを作った地元の学校の名前や、会社の名前などが書かれており、その下では、太鼓を打ち鳴らしつつ松明を応援する応援歌が大声で歌われていた。

 この日は大雪が降っており、松明に火が放たれると、煤や火の粉とともに雪が降りかかってきた。はじめの一本だけが燃えている間は普通に見ていたが、30本くらい一斉に燃やされると、あたりは非常に凄惨な光景となった。私たちが見物していた場所はちょうど風下にあり、煤やら巨大な火の粉やらが容赦なく降りかかって来て、観光客は逃げ惑っていた。

 松明はどんどん燃え、あたりは火の海と化した。松明の周りには誰も近づけなくなり、観光客の上着は煤で真っ黒になった。着火前から松明の前には柵が設けられており、柵の外ならば安全だろうと思っていたのに、全くそういうことはなく、点火後、危険が増すにつれて逐次柵は後退していった。

 私たちは最初は結構後ろの方で見ていたのに、気付くと最前列にいた。さすがに危険だと思い、私たちも下がった。それにしても観光客が自主的にどいてくれるお祭も珍しいであろう。それほど危険だと思った。

 しかし、こんなお祭をやったら先祖の霊は怒り出すんじゃないかと思った。この祭から連想するものは、「空襲」「火事」「地獄」などであった。私たちにとってはエキサイティングだが、かつて町に火を放たれ、死んでいったご先祖様のとってはあまり嬉しい光景ではない。

 結局祭というものは今を生きる人のためにあるのだろう。点火するとき、大声で歌っていた地元の人々はやはりとても生き生きしていたし、それを見ている私たちも楽しかった。

 どうやらこの祭には「松明太鼓」という太鼓があるらしい。私たちは見ていないが、どうやら大勢で叩くものらしい。曲想も充実しているので、民研で取り上げたら面白かろうと、今更ながら思った。

雪の週末(11月9〜11日)
 先週末は、大雪だった。この時期に降るのは100年ぶりだという。毎年こんなに降るのかと思っていたが、どうやら異常らしい。

 雪は土曜日の午後から降り続け、深夜まで降り続いていた。ちょうど雪が一番ひどいときあたりに松明あかしを見に行ったことになる。祭を見て、家に帰ったときには、家の前は15センチくらい積もっていた。

 日曜日、起きると晴れており、あたりは銀世界であった。私はこれはやばいと思い、あわててスタッドレスタイヤに交換した。そしてその後、那須に向かった。

 しかし、山を登るに連れて雪は深くなり、はじめは道路には雪がなかったのに、だんだんタイヤの通り道だけになり、やがて道路は真っ白になった。それでも突き進み、那須甲子有料道路にたどり着くと、そこには巨大な除雪車が走り回っており、通行止めとなっていた。

 仕方なく引き返し、西郷村の「雪割橋」というところに行った。なんでも自殺の名所らしく、橋には明らかに後から継ぎ足されたような背の高さもある手すりが取り付けられていた。

 ここで紅葉と雪景色を同時に見たときは感激した。なかなか見られない光景であろう。満足して雪割橋を後にした。

 月曜になるともうあったかく、週末の大雪が嘘のように解けてなくなってしまった。せっかくスタッドレスにしたのに、もったいない気がした。


11月7日  スナックに行く
 今日、清八のおばちゃんの妹がやっているというスナックに行ってきた。以前、清八で今白河に住んでいるということを言ったところ、「是非妹のスナックに寄ってくれ」と言われたので、丁度今日は自転車通勤していたこともあって、立ち寄ったのである。

 実は、こういうスナックがあるということを聞いてから、何度か白河駅の方まで自転車で探しに行ったのだが、見つけられなかった。そして、今日やっと小さなマンションの二階に「さらさ」という看板が出ているのに気付いたのである。場所は一見ごく普通のワンルームマンションの二階で、よく見つけたものだと我ながら思った。

 入ると、清八のおばちゃんを少し派手にしたようなおばちゃんがひとりでいた。私が事の次第を話すと、いろいろな話をしてくれた。一番驚いたのが、清八のおばちゃんはもう70歳だということであった。私はこれまでスナックに行ったことがなかったので、どういう風に注文したらいいのか分からなかったので、とりあえずビールを注文した。

 おばちゃんとは(本当はママというべきか)、いろいろな話をした。話題は主に白河の冬をいかに乗り切るかということであったが、その他にも福島のみどころや、温泉のこと、祭のことまでいろいろ話した。

 その中で、白河にも関西人が定年退職して、お好み焼きと明石焼きの店をやっているという話が出た。まるで私の実家にそっくりである。今度いつかの休日に連れてってくれるという話になり、今から楽しみである。

 いろいろ話し込んで、気付くと12時前だったので、店を出た。そこそこの額を払ってきたが、私はスナックに行ったことがなかったので、それが高いかどうかもよく分からなかった。清八のような感じなら頻繁に入り浸るだろうが、多分この店にはたまにしか来れないだろうなと思った。

 それにしても人の縁というものはすごいものだと実感した。


11月6日  仕事のこと
 今日は、仕事のことに着いて少し述べたい。これまで私が仕事のことについてここで書くことはあまりなかったように思う。しかし、来年入社の方、これから就職活動される方のため、そして自分へのために少々筆をとろうかと思う。

 私が仕事について、絶対に変わらないであろう考えが、「仕事は楽しくやるもの」ということである。社会人になってからの人生は、仕事をしている時間がその大半を占めることになる。その時間を楽しめないということは、人生の大半を楽しめないことになる。いかに土日が楽しくても、ウィークデイが楽しくなければ、なんとなく損をした気になってしまう。

 私は今、主に食品のパッケージに関わる仕事をしている。そのほとんどが、スーパーなどで買って、開封した直後にゴミになってしまうようなものである。しかし、そんなものにも科学技術と、職人的技術が結集されていると思うと不思議なものである。

 例えば、同じペットボトルのラベルでも、コカコーラと緑茶とではその材質は全く違う。炭酸飲料は、開封した瞬間に圧が下がるため、伸縮するフィルムを用いているのである。

 また、同じ緑茶のペットボトルでも、コールド用とホット用とでも全く違う。ホット用は熱に強いようにできているのである。

 社会人になって、これまで全く気にも留めなかった身近なものにも、いろいろなアイディアと技術が込められているということが分かった。大げさに言えば、「世の中の仕組みについて少し詳しくなった」ということになる。そう考えれば、仕事というのは興味を持ってやればすごく面白いものだと想う。


 というのが私の考えの一面である。私の中にはもうひとつの考えが渦巻いていて、非常に葛藤している。

 私の仕事は、世の中を便利にする仕事である。これまではスーパーの弁当に入っている醤油の小袋を、いちいちハサミで開けなければならなかったのが、小さな切れ込みを入れ、さらに手切れのよいフィルムを用いることによって手で簡単に開けられるようになった。さらに最近はマジックカットと言って、「この面のどこからでも開けられます」といった表示のある小袋のように、さらに簡単に開封できる技術が開発された。

 しかし、ここで思うのが、人はいちいちハサミを持ってくる時間が省けたことによって、その分の時間を何に使うだろうかということである。のんびり過ごすのに使うだろうか。私にはそうは思えない。醤油の小袋が簡単に開くようになった分、世の中の流れはさらに速くなり、さらに人はあくせく生きることになると思う。

 なんだか将来社会人になる人を励ますつもりで書き始めた文章が、だんだん違う方向に来てしまった。しかしこのふたつの考えのどちらも私にとっての本音であることは間違いない。

 なんだか中途半端な月初めの「つぶやき」になってしまった・・・。  

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