2010年
1月のつぶやき




1月31日 STOnight

 昨日は、フサコさんの主催する「STOnight」(酒と音楽の夜)に参加させていただいた。音楽の好きなメンバーが集まって飲食物を持ち寄り、順々に演奏しつつ談笑すると言う、非常にざっくりした演奏会である。3回目の今回は、妻は歌を歌い、私はリコーダーの演奏と太鼓大好会の演奏で参加させていただいた。

 今回は、会社の後輩も3人参加した。なかでも面白かったのが後輩のMであった。彼はバリトンサックスを吹いたのだが、演奏する頃にはかなり酔っ払っており、演奏の合間に奇声を発しつつ演奏していた。演奏は相当上手であった。目が座っているのに、手だけが凄い勢いで演奏しており、おまけに変な奇声を発しているのが面白く、それが逆に受け、会場は大爆笑となった。

 太鼓大好会は、酷かった。まずは、演奏の直前になって、メンバーが「着替えるのが面倒臭い」と言いだした。しかし、フサコさんの意向もあり結局着替えることに。すると、「ズホンは着替えなくていいのか?」「靴は履き替えなくてもいいか?」「帯は締めなくてもいいか?」など、色々な質問が飛んできた。相変わらず面倒臭い連中である。うんざりしてとにかく持ってきたものは全て着替えるべしとのことを言い、演奏を始めた。

 演奏は、散々であった。私も座った瞬間に太鼓を叩く感覚が思い出せず、およそ人様に見せるものとは思えない演奏をしてしまった。他のメンバーも酷い演奏であり、とりあえず着替えて見栄えだけでも形にして良かったと思った。あれで着替えなかったら、一体何をしているのかさえ分からなかったであろう。

 ともあれ、無事終わった。今回で3回目だが、非常に楽しいひとときであった。次の日は、所沢の家を引き渡し、福島に向かった。これで拠点は完全に福島となる。なのに明日はいきなり埼玉で仕事である。なんだか、無駄に埼玉と福島を往復している気がする。


1月27日 赤いサラファン

 高速道路を走っているとき、暇つぶしに聴く音楽をごそごそ探していると、ロシア民謡のカセットテープが出てきた。学生時代によく聴いたものである。懐かしいなと思って聴いていると、「赤いサラファン」が流れた。

 「赤いサラファン」は19世紀のロシア歌曲である。作詞者も作曲者もいるから、ロシア民謡とは少し違う。「サラファン」とはロシア女性の民族衣装であり、曲では、婚礼衣装として赤いサラファンを縫う母と、まだ結婚せずに遊んでいたい若い娘のやりとりが素朴に描かれている。テープはロシア語だったのだが、この日本語訳が秀逸であったことを思い出した。以下、訳詞。

 ♪赤いサラファン 縫うてみても
 ♪楽しいあの日は 帰えりゃせぬ

 ♪たとえ若い娘じゃとて 何でその日が長かろう
 ♪燃えるような その頬も
 ♪今にごらん 色褪せる
 ♪その時きっと 思いあたる

 ♪笑ろたりしないで 母さんの
 ♪言っとく言葉を よくおきき

 ♪とは言え サラファン縫うていると
 ♪お前といっしょに 若がえる

 原曲は、前半に娘のセリフ、後半に母のセリフが歌われるらしいのだが、日本語訳では、母のセリフだけが描かれる。この訳が素晴らしいのは、行間に情景がにじみ出るからであろう。「笑ろたりしないで」の前などは、母の説教にたいして娘が無邪気に笑う姿がありありと浮かぶようだし、「とは言え サラファン縫うていると お前と一緒に若返る」の前で、母の表情が少し緩むあたりなどくっきりとした映像として想像できる。この訳詞は、歌の抑揚とも調和しており、学生時代に女声が歌っているのを聴いてすごく感動したのを思い出した。


 と、ここまで書くと、色々なことを思い出す。ロシア民謡の日本語訳というのは、結構滅茶苦茶なのもある。一番酷いのは「カリンカ」である。これは、ロシアの結婚式で歌われる民謡で、原詩もかなり訳の分からないものだが、日本語訳もそれに匹敵するくらいぶっとんでいる。

 1.
 ♪カリンカカリンカ カリンカマヤ・・・
 ♪朝早くとびおきて 顔をきれいに洗う
  <中略>
 ♪顔をきれいに洗う

 2.
 ♪カリンカカリンカ カリンカマヤ・・・
 ♪すあしもかるくタプチカはいて 朝つゆふんで牛を追う
  <中略>
 ♪朝つゆふんで牛を追う

 3.
 ♪カリンカカリンカ カリンカマヤ・・・
 ♪朝つゆふんで牛追っていたら 森の中から熊が出た
  <中略>
 ♪森の中から熊が出た

 4.
 ♪カリンカカリンカ カリンカマヤ・・・
 ♪大きな熊にびっくりおどろいて くさむらめがけてとびこんだ
  <中略>
 ♪くさむらめがけてとびこんだ

 5.
 ♪カリンカカリンカ カリンカマヤ・・・
 ♪熊さん熊さんお願いだから 私の牛にはふれないで
  <中略>
 ♪私の牛にはふれないで

 どこが結婚式の歌なのか、理解に苦しむ。ともあれ、車の中で懐かしい時間を過ごした。


1月18日 20代最後の日

 今日は、二十代最後の日であった。明日から、三十路である。二十代最後の日は、いつもどおり仕事をし、家の周りを走り、お好み焼き屋でひとりビールを飲みながら過ごした。特筆すべきことは無い。

 少し、センチメンタルな気分になっている。私が二十歳の頃、民研で合唱の学生指揮者になった。思い起こせば、それが二十歳の出発点であった。そして、卒業、就職、結婚、転勤等、色々な転機があった。また、ブータン、タイ、グァテマラ、青ヶ島など、色々なところに旅行した。思い出せば長い二十代であった。後悔することなど、無い。充実した時間を過ごしたなぁと感じる。

 と、ここまで書いて読み返せば、どうも重くるしい。当初、こんなことを書くつもりは全く無かった。もっと、面白おかしく二十代最後の日を書こうと思っていたのに、こんなことになってしまった。まあ、明日からも普通に暮らそう。


1月11日 クレヨンしんちゃんを見て

 会社の後輩に薦められて、クレヨンしんちゃんの映画「嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」を見た。もの凄く泣けるという。彼女は、少し落ち込んでいるときに見たらしく、DVDを借りて5回くらい繰り返し見て、「私もしんちゃんみたいに頑張らなければ」と、しんちゃんから元気をもらったらしい。

 私は、「『クレヨンしんちゃん』で泣けるはずがない」と反論した。「クレヨンしんちゃん」と言えば、母親を呼び捨てにするなどしてPTAから目を付けられている、問題のアニメのはずである。しかし彼女は、「しんちゃんが必死に走るんです!」と譲らない。私は、ツタヤで借りて見ることにした。


 映画を見て、私は声を張り上げて泣いた。凄い衝撃であった。その後、名シーンを3回ずつくらい見て、涙枯れ果てた後に、DVDを返しに行った。

 映画のテーマは、極めて抽象的である。エピソードや各シーンも象徴的で現実味に乏しく、不思議なナンセンスさがある。そして、映画は、「21世紀をいかに生きるか」というテーマに向けて凝縮しはじめ、しんちゃんの「走り」でその無言の結論が示される。この「走り」に過去、現在、未来をめぐる作者の、怒りともとれるほどの強い思いが込められている。これ以上、何も語る必要も無いほど、この「走り」には伝わってくるものがある。

 このシーンを見て、昔読んだ本のことを思い出した。以下、宮崎駿の著書「出発点」より引用。

 アニメーターになりたてのころ、先輩たちに人間の走りと歩きは、難しいと聞かされた。
  <中略>
 来る、行く、走ってる、といったふうに記号化した動きなら、自分たちがやってきた仕事にいくらでもあるけれど、表現となり得た走りや歩き、見ているだけで、その人物の喜びが伝わってくる爽快な走りや、足の下にたしかな大地があって、血のかよったキャラクターが歩いていく、その人物の心情まで伝わってきて、わずかな登り坂を歩くときの、あの土の感触まで表現されているような歩きなどになると、もう、だめである。
   <中略>
 元来、純粋に走ることが、人間にあったはずがない。スポーツが生まれてから、はじめて走りという機能が生活の中からひろい出されたに違いない。
 人間は、目的にはやく近づきたいために走り、害から逃れるために走った。
 一つ一つの走りが、その意味によって違うはずだ。転げるように走る、というのは、言葉だけの問題ではなく、本当にそのように感じられる走りがあるからだと思う。
 アニメーション映画の中の走りも、その人物が何をし、何を考えているか、そして映画として何かを表現したいためのものだとしたら、やむをえない基本形をふまえたとしても、実は演技として、無数の多様さを持つべきものだと思う。
   <後略>

 しんちゃんの走りは、血のかよったキャラクターによる、確かな表現としての走りであった。


 もうひとつ、「嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」も薦められた。こちらは、別の後輩が大晦日に友人とバカ騒ぎをしつつ、BGM的にこれを流していたところ、いつの間にか全員が映画に吸い込まれるように黙って見始め、全員が涙し、終わった後もう一度最初から全員で見たという。

 クレヨンしんちゃんだからと言って馬鹿にできないなぁと思った。

 
1月8日 祖父の話2

 新年最初の「つぶやき」として祖父の話を載せたところ、タイに住む妹の朋子からメールが来た。祖父の話の後日談がある、と言う。何故か文体が「つぶやき」に似ているが、血の繋がった兄妹だから仕方が無い。以下、メールを転載。



兄ちゃんへ

つぶやき読みました。
自慢のじいちゃんです。

後日談2として、こんな話も聞かなかった?

+++後日談2+++
発電所があるのはバンコク郊外、チャオプラヤ川を渡った西部のパパデンと呼ばれる小さな町。
発電所から再訪問の依頼を受けた祖父はバンコク市内からタクシーに乗り「パワーステーション、イン パパデン」とだけ運転手に伝えた。
タクシーで走ること小一時間、パパデンに着いたものの、「パワーステーション」の意味が伝わっていなかったらしい。
「ここから先どうやって行くのだ?」と運転手。
「パワーステーションだ」と祖父。
「それはどこの道を通って行く?」と運転手。
「ワシも知らん」と祖父。あたりは見渡す限りの農村風景。

そこで祖父は一枚の紙切れを取り出し、発電所の絵を描いた。確か近くに大きな木があったな・・・と。
これがパワーステーション=発電所だと。
あーそうかそうか!ローング ファイファーのことか!!

教訓:芸術心も持ちなさい

じいちゃんは相当上手い絵を描いたんだろうね。

(確か再訪問だったと思うけど。。。)

そして、40年後。
末孫朋子(当時19歳)はバックパックを背負いタイへ旅立った。祖父の技術が支えたタイの発電所をこの目で見るために。
朋子は覚えたてのタイ語で自分の身分を説明する手紙を書いていた。
「わたしのそふは、40ねんまえにこのはつでんしょにきました。みつびしのぎじゅつしゃです。
こしょうをなおしました。そふはいまにほんにいます。そふははつでんしょのはなしをよくします。
はつでんしょのしゃしんをとって、そふにみせてあげたいのです。」

40年後の発電所は立派なものだった。
応接室に通されお茶をだしてくれた女の子に、朋子は現地の言葉で感謝の気持ちを述べた。
その後、現地の技術者が発電所施設内を案内してくれた。
祖父の技術貢献は、この発電所が経てきた長い歴史の一幕に過ぎなかったかもしれない。
しかし、その一幕の重みを重ね重ね、タイは発展し、今のタイがあるのだろう。

日本に戻った朋子は祖父に写真を見せた。
そして、また初めから同じ話を繰り返し聞かせてくれた。
朋子にとって祖父は図書館である。

朋子


1月4日 祖父の話

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年の年末年始も博多、明石、神戸と実家めぐりをした。全て1泊ずつの慌しい旅であったが、それなりにのんびり出来たし、親戚の元気な姿を見ることが楽しく、大切なことだと思う。

 さて、この旅行の中でも色々な親類から色々な話を聞いたが、なかでも明石に住む祖父が語ってくれた話が最も面白く、含蓄がある話なのでここで述べたい。祖父は、戦後の日本を支えた技術者であった。この日、同じ話を5回くらい繰り返しつつ聞いたのだが、何度聞いても面白く、妻と食い入るように聞いた。以下、祖父の話。


 熱交換器の設計技術者であった祖父は、タイにいた。タイの発電所で使用している熱交換器の、冷却用に海水を取り込むチューブが腐食しているらしい。先方はかなり怒っているらしく、上司から「ちょっとタイに行って様子を見て来い」と言われたのである。父が高校生くらいの頃とのことであるから、今から40年くらい前の話である。

 祖父は、紳士であった。タイ語の挨拶言葉を事前に学び、お茶出しをしてくれる女の子にも現地の言葉で感謝の気持ちを述べた。当時、タイの発電事業は国を挙げてのものだったらしく、隣に通産大臣が座っていたが、祖父のこの対応は大層印象がよかったらしい。

 さて、祖父が現地の状況を聞いたところ、チューブの保護皮膜が冷却水中に含まれる砂により削られてしまったために、マザーメタルが剥き出しになり、そこをきっかけに選択的腐食をしているものと推察された。それを報告する際、一緒にいた商事会社のオッサンが通訳してくれると思ったら、全部丸投げされ、仕方なく祖父は、たどたどしい英語で報告を始めた。

 祖父は、英語が得意ではなかった。報告会のとき、「砂」を表すために「sand」と書くべきところを黒板に「sound」と書いた。祖父いわく、どういうわけか「『sand』では簡単すぎやしないか」と思ったらしい。あたりに「?」の雰囲気が出たとき、隣にいた商事会社のオッサンが

「砂やったら『sand』やろ」

と言った。祖父は「それやったらオッサンが通訳してくれたらええやんか」と思いつつ「sand」と書き直し、精一杯の英語で

「アイムソーリー マイ プアイングリッシュ」

 と言った。関西人たるもの、笑いをとることを忘れてはならない。あたりはどっと笑いに包まれた。お互い、英語は母国語ではない。必死の英語で意思の疎通を図っていることは、お互いさまなのである。そして、それまでの敵対的なムードが一転し、急に和やかな雰囲気になったと言う。


 ところで、上記の砂による保護皮膜の腐食が原因であるということは、祖父の推測である。本当に砂がチューブ内に混入しているかどうか、次の日に確かめようと言う話になり、報告会は終了した。もし砂が無ければ、祖父の推測は間違っていたことになり、形勢は不利となる。

 そして次の日、現地に赴き、そうそうたるメンバーがいる中、祖父はチューブの中を指でさらった。すると、確かに砂が存在していた。祖父は嬉しくなり現地のお偉方に砂を見せて、

 「ジス イズ サンド!」

と言った。何度も言ってやった、という。通産大臣にも言ってやったという。そして、これで日本に帰れると思った。


 ところが、現地人は「砂はどこから入ったのだ?」と聞いてくる。祖父は、熱交換器の技術者であり、砂がどこから入るかなどは本来関係なかった。しかし、これを解決せねば日本に帰れそうになかった。

 祖父は、その日寝ずに考え続けた。しかし、有益な答えは思いつかなかった。どうすれば日本に帰れるのか。そればかりを思いながら、発電所の横を流れる大河を呆然と眺めていた。

 すると、3千トンはあろうかという巨大な船が大河を通りかかった。その船は本当に大きく、船が巨大な波を作った。その波が発電所の取水口に達したとき、取水口の周りに取り付けられたフェンスが一度波に飲み込まれ、その反動で水面がいちじるしく低くなった。そのとき、取水口のフェンス内に大量の砂が盛り上がっているのを確認した。祖父は「これや!」と叫び、現地のお偉方を呼びに走った。

 祖父は、現地のお偉方と共に、大型船が通りかかるのを待った。そして、大型船が波を作り、取水口の砂を確認したとき、彼らに対し、

「ザット イズ サンド!」

と言った。これで日本に帰れると思った。ところが、お偉方は「この砂を取り除くにはどうすればよいのか?」と聞いてきた。祖父は、熱交換器の技術者であり、土木業者ではない。いい加減にして欲しいと思ったが、これを解決しない限りは日本に帰れそうになかった。


 祖父には、ひとつの情景が思い浮かんだ。祖父は、よく仕事をサボって高砂の埋立地へ行き、タバコを吸って休憩していた。そのとき、海水ごと砂を吸い込んで吐き出す「サンドポンプ」というものを見ていた。埋立地は、海水ごと砂を吸い込んだものを吐き出しつつ形成するものらしい。祖父は、休憩中にそれを見ていたことを思い出した。

 「サンドポンプを持って来い」と言った次の日には、現地人はその通りにして取水口の砂を取り除いていた。彼らの対応は感心するほど早かった、と言う。それからというもの、祖父はタイで神様のような扱いを受け、さまざまなものを見てはアドバイスをしてきたという。仕事をサボって高砂の埋立地にタバコを吸いに行ったことが、こんな風に役立つとは思わなかったと、祖父は言う。



 以上が祖父の話である。その後、私は風呂に入ってしまったのだが、この話には続きがあったらしい。妻が聞いたところによると、「これで日本に帰れる」と思ったら、会社から「インドネシアに様子を見に行ってくれ」と言われ、日本に帰ることなくインドネシアに飛んだらしい。あまりに腹が立ったので、仕事後バリ島に行き、会社の金でリゾートを満喫して帰国したらしいのだが、その話が滅茶苦茶面白かったらしい。次の日、父にこの話をすると、「あのとき、じいさんはタイに仕事にいったはずやのに、なぜかバリ島の土産を買ってきた」と言っていた。

 祖父の語り口は本当に爆笑するほど面白いのだが、私の文章力ではそこまでの再現は出来ない。しかし、この話には、技術者として、働く人としてのさまざまな含蓄があると思い、新年最初のつぶやきに書くこととした。偉大な祖父を見習わなければならないと思った。

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